https://portla-mag.com/post-5804/ 【【ブンガクの小窓】第二章「実存」】より
こんにちは、ケガニです。「ブンガクの小窓」、第二章。
前回編集長からだいぶハードルを上げられたのだけれども、かまわず平常運転で書いていくつもりである。どだい、専門家とかエキスパートとかいう肩書ほど信用ならねえものはないぜ、とつねづね思っている僕である。実際ブログなんてものは、面白いものを書くか、書かないかの勝負だ。もし面白くなければ、そっと、ブラウザの閉じるボタンを押してほしい。そして、僕と会ったらそんなことはおくびにも出さず、「連載、面白いね」と笑ってほしい。それが人情ってもんじゃあ、あるまいか。
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今回のブンガク語は「実存」(じつぞん)。
なんだそれ、と思われる読者もいらっしゃるだろうし、ははーん、とうなずく読者もいるはずだ。じつはこの言葉、ある時期を境に一気に広まり、そしてある時期を境に急速に衰退していった言葉だからだ。それだから、ある年代以上の人にはたいてい通じるし、そうでなければ首をひねるような言葉、それが「実存」なのだ。
だが、この言葉はあらゆる人々にかかわっている。どういうことだろうか。
実存とはなにか 初めにこの言葉の意味をざっくり述べてしまおう。
「実存」とは、「今、ここにいること」である。
もちろん、誰だってそれぞれ「今、ここにいる」だろうし、そんなことわざわざ言わなくても当たり前だ。ごもっともである。だが、実を言えば、その当たり前のことを「わざわざ」言わなければならなかった時代があったのである。
ある時代、それは第二次世界大戦のあと、1945年から60年代までのことだ。「実存主義」という言葉の下に、その時代の思想はひとまとめにされた。人々は「今、ここにいる」と声高に主張し、あるいは街角を占拠した。政治思想のようなものになりさえもした。それは大量殺戮の戦争によって奪われたものを取り返すためのスローガンだった。過去や伝統や秩序に飲み込まれてしまってはいけない、という主張を込めて、「実存主義」はスローガンとなったのだ。そしてそれはロックという音楽とともに、全世界に広がっていった。若者たちはみな口々に、「今、ここにいる」と叫び、もしくは歌った。単なるジャンルにすぎなかった「ロック」は「反抗」を意味するようになった。
いったい、実存とは何か。そして実存主義とは何だったのか。
「実存」という言葉の成り立ちを考えてみよう。
日本語に「実存」として翻訳される前、この言葉は、英語でいうexistence、つまり「存在すること」という言葉だった。だったらなおさら、「存在」という言葉でいいではないか。なぜいちいちブンガクっぽい新しい言葉を作るのか。それはこの語が示すのが、たんに「存在」することではなく、「現実に存在すること」だったからである。だから「実存」とは、「現実存在」の真ん中の二文字をとって作られた造語である。
「ペンが現実に存在する」と言ったとしよう。普通は、目の前にいわゆる「ペン」が「存在する」ということを意味するはずだ。
しかし、この目の前のペンは、本当に現実に存在しているのだろうか。
目の前にペンがある、ということを言うためには、そもそもこの「僕」が「ペン」を見ている、ということが必要なはずだ。「僕」が無ければペンも無い、というわけではない。もし世界から今僕が消えてしまったとしても、ペンは実際にはそこにあり続けるかもしれない。
だが、それを確認する誰かががいなければ、そこにペンがある、と言えない。言ったとしても、それは正しいとは言えない。
あらゆるものは、今ここにいる「僕」の存在によって存在を確かめられうる。
さらに言えば、「僕」という言葉すら実のところ代名詞なのだから、「僕」は正確には「今、ここにいること (もの)」ということになるはずだ。
「今、ここにいること」という存在のみがあらゆるものの存在を確かめうる唯一の現実存在である。
つまり、ここの、この、「実存」のみが、あらゆるものの存在を確かめうるのである。
実存主義の成立、そしてロック なぜか。それは戦争という危機の時代において、自分が存在することの意味を問う人々があふれたからだ。
既存の価値、制度、道徳、その何もかもを破壊しつくした戦争によって、アイデンティティさえも奪われた人々。こうした人々が「今、ここにあること」から全てが始まるんだぜ! と主張する思想に同調し、それを声高に主張した、というわけだ。
これが一般的に言う「実存主義」である。
このことを主張した有名な講演がある。それは哲学者サルトル (1905-1980) によるものだ。
「実存主義はヒューマニズムである」というタイトルの講演は、当時フランスで相当な人気を博し、当時の若者たちにセンセーションを巻き起こした。
(日本では『実存主義とは何か』の中に訳されて出版されている)当時の状況を知るためにも、興味がある方は一読してみてはいかがだろうか。
さあ、この実存主義者の主張を、どこかで聞いたことがあるのではないか。そう、「ロック」である。ロックは「過去のもの、既存の価値観なんて関係ない!」「ここから全てが始まるんだぜ!」「社会にとらわれずに自分を貫こう!」、と歌った。
もちろんロックの成立根拠が哲学にあった、というわけではない。こうした哲学の流れと (思想的な意味での) ロックの成立とは、切っても切れない関係にあった、ということだ。
こうしてみれば、そもそも社会のルールにまだなじみがない若者たちが、実存主義を標榜したのにも共感できるのではないだろうか。ただし実は、ここにこそまさに実存主義の大問題がある。
実存主義への批判
「今、ここにあること」の実存に全ての存在が基づいている、というのが実存の思想であった。しかしそのことはただちに、「だから過去や社会なんてどうでもいい」ということにつながらない。いくら「実存」から全ての存在がスタートするとしても、そのことが「自分以外の全てに意味がない」ということにつながるわけではないからだ。
スタートは単なるスタートに過ぎない。たとえば、「「実存」というスタートに立たせてくれた過去に感謝すべきだ」、とか、「実存を与えてくれた絶対的な存在がいるはずだ」と考えたっておかしくないはずだからだ (それが実際に正しいかどうかは別にして)。
実存主義がある種の政治思想に変化して大流行したとき、「過去なんてぶっ壊せ!」という主張だ、と捉えた人が多くいる。だがそれは間違いなのだ。
こうして、戦後の鬱屈した空気の中、実存主義は誤解をはらんで火花のように広まっていった。そして一般的に理解されるにしたがって、誤解を生み、批判され、攻撃された。結果として「実存」という語自体が衰退するに至ったのである。
そして今となっては、「実存主義者」をそのまま名乗る人間はほとんどいない。
どうだろう、今回は「実存」というなんとも不愛想な言葉を扱ってみた。
いかにもブンガクという感じだ。わかったようなわからないような。
でも、だんだん寒くなる秋空の下で、こんなことをしかめっ面で考えてみてはいかがだろうか。サルトルのように、苦い苦いコーヒーでも飲みながら。
https://www.iwanamishinsho80.com/post/gabriel 【岡本裕一朗:マルクス・ガブリエルの「新実存主義」とは何か?】より
マルクス・ガブリエルと言えば、最近ではNHKのテレビでも特集がおこなわれ、「哲学界のロックスター」として、日本でも随分と知られるようになった。彼の名前を使った書物は売れ行きがよく、一般の読者層に広がっているように見える。たとえば、社会的な出来事について、インタビュー形式で発言したものがいろいろ出版されているが、これらは「分かりやすい」という声をよく聞く。
それに対して、彼の哲学的議論は、その意義も含め必ずしも検討されているとは言えない。しかし、そろそろジャーナリスティックな紹介だけでなく、彼の「哲学」について問題にしてもいいのではないだろうか。そこで手始めに、このたび岩波新書として出版された『新実存主義』を取り上げ、書評という形で彼の哲学的な議論を主題化したいと思う。
内容に入る前に、本書の成り立ちについて、簡単に確認しておこう。というのも、表紙を見るかぎり、マルクス・ガブリエルの単著だと思い込んでしまうが(原書表紙も同様)、じっさいには彼の哲学をめぐって、他4人と議論が交わされているからだ。出発点となったのは、2017年に開催された「講座・現実世界の哲学」国際会議で、マルクス・ガブリエルが開会講演として発表した論稿(第1章に当たる)である。これに対して、チャールズ・テイラー、ジョスラン・ブノア、アンドレーア・ケルンという3人の論者と、編者のジョスラン・マクリュールがコメントを提示し、最後に(第5章)マルクス・ガブリエルが答える、という体裁をとっている。
したがって、本書はマルクス・ガブリエルの単著ではないとしても、彼の哲学を明確にするために企画された書物であり(分量も彼の論文が大半を占める)、その意味で「マルクス・ガブリエルの『新実存主義』」と呼ぶことができるだろう。
しかしながら、そもそも「新実存主義」というタイトルを、どう理解したらいいのだろうか。というのも、ベストセラーとなった『なぜ世界は存在しないのか』(2013)において、マルクス・ガブリエルは「新実在論」の立場を表明し、同じころ話題となっていた「思弁的実在論」とともに、「実在論」の一翼を担ってきたからだ。「実在」論と「実存」主義は、日本語では似ている(?)かもしれないが、歴史的にはまったく異なる系譜に属している。どうして、今回の本は「新実存主義」なのだろうか。
1.「新実存主義」への軽い疑問
疑問は「新実存主義」としてどんな思想家が想定されているかを見ると、氷解するどころか、いっそう膨らむことになる。たとえば、「新実存主義」の考えを説明するため、その系譜として、次のように語られている。
実存主義の伝統に連なる思想家として、カント、ヘーゲル、ニーチェ、キルケゴール、ハイデガー、サルトルがいる。彼らが共有する最小限の前提は、精神、つまり人間の心に制度をつくる能力があるという信念である。(70頁)
これとは少し文脈は違うが、カントの他に、「ヘーゲル、マルクス、ニーチェが属す」と言われることもある。そのため、彼の「新実存主義」の系列には、「カント、ヘーゲル、マルクス、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトル」が想定されている、と考えられる。
この中で、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトルは通常理解された「実存主義」と関係しているとはいえ、カント、ヘーゲル、マルクスは、いわゆる「実存主義」とは程遠いように見える。カントの普遍的理性、ヘーゲルの民族精神、マルクスの革命的なプロレタリアートは、今まで「実存主義」の対極に位置づけられてきたのではないだろうか。少なくとも、キルケゴールが「実存」概念を独自の意味として提示したとき、ヘーゲルの「精神」概念に対する批判が意図されていたのは間違いない。
だとすれば、「精神の伝統」に立つヘーゲルと、「決断主義」の典型であるサルトルを、ともに「実存主義」として一括りにするのは、かなり無理があるように思われる。そのため、論者の一人であるチャールズ・テイラーがやや婉曲的に次のように語るのは、不思議なことではない。「ガブリエルが自分の立場を指していう『新実存主義』という言葉の使い方をきちんと理解できたかは自信がない。」(87頁)
したがって、カント、ヘーゲル、マルクスを含めて「新実存主義」の系列に置くのであれば、従来の「実存主義」とは違う定義が必要になるだろう。ガブリエルが言っている「人間の心にある制度をつくる能力」から、カントやマルクスやヘーゲルの思想を「実存主義」としてくくってしまう立場は、哲学史的な観点から見てどうなのだろうか。
そもそも、「新実存主義」とは何だろうか。どうして、マルクス・ガブリエルは自分の立場をそう呼ぶのだろうか。
この問題を考えるために、「新実存主義」の主張をあらためて確認しておくことにしよう。彼はこんな風に語っている。
新実存主義とは、「心」という、突き詰めてみれば乱雑そのものというしかない包括的用語に対応する、一個の現象や実在などありはしないという見解である。(16頁)
あるいは、
新実存主義が掲げる根本の主張は次のようなものである。心的語彙は時代や場所によってさまざまなかたちをとるが、そうした語彙によって拾い上げられる一個の対象(entity)など、この世界には存在しない。(16-7頁)
だが、「新実存主義」のこうした主張も、じつを言えば、あまり分かりやすいものではない。ここで表明されているのは、「心」という言葉(term、vocabulary)が通時的にも、共時的にも多様な意味内容をもつことだ。具体的には、「明らかに物理的なものから現実には存在しない(non-existing)ものまで」、さまざまなスペクトルがあるとされる。そのため、この多様性を否定して、ただ一つの(single)ものに還元することは許されないわけである。
ところが、自然主義は「心」の多様性を認めず、むしろ「脳」というただ一つのもの、つまり「一つの自然種(a natural kind)」によって捉えようとした。しかしながら、「新実存主義」の主張によれば、「人間の心は一つの自然種ではない」と言わなくてはならない。
ここから分かるのは、マルクス・ガブリエルが「新実存主義」を標榜するとき、根本にあるのは「自然主義の批判」である。だが、それは当然なのかもしれない。というのも、表題論文「新実存主義」のサブタイトルが、「自然主義の失敗の後で、人間の心をどう考えるか」となっているからだ。
こうして、「新実存主義」の主張がサルトルのような「決断主義的な実存主義」というより、むしろ「自然主義の批判」にあることが明らかになる。とはいえ、どうして「自然主義の批判」が必要なのだろうか。
これを理解するには、『なぜ世界は存在しないのか』で宣言された「新実在論」がどんな立場なのか、あらためて確認しなくてはならない。というのも、マルクス・ガブリエルにとって、「新実存主義」の主張は「新実在論」から導出されるからだ。そこで、「新実在論」に立ち返って、「自然主義批判」の射程を理解することにしよう。
2.新実在論から新実存主義へ
「新実在論」の主張から、どのようにして「新実存主義」は導出されるのだろうか。この問題を考えるために、彼が「構築主義」と呼ぶものをあらかじめ見ておかなくてはならない。というのも、「新実在論」はポストモダンに帰結するような「構築主義」に対抗するために構想されたからだ。
周知のことであるが、「構築主義」それ自体は、社会学で「社会構築主義」が一般に論じられているように、取り立てて特別な考えではない。問題は、マルクス・ガブリエルがそれをどう規定したかにある。『なぜ世界は存在しないのか』では、次のように述べられている。
構築主義とは、次のような想定に基づくものです。およそ事実それ自体など存在しない。むしろわたしたちが、わたしたち自身の重層的な言説ないし科学的な方法を通じて、いっさいの事実を構築しているのだと、と。このような思想の伝統の最も重要な証言者が、イマヌエル・カントです。カントが主張したのは、それ自体として存在しているような世界は、わたしたちには認識できない、ということでした。(11頁)
こうしたカントに淵源する構築主義を排して、「私たちが物および事実それ自体を認識することができる」とする立場が、「新実在論」の主張である。しかし、このポイントは、メダルの一面であり、「新」実在論の新しさはむしろ、もう一つの論点にある。これにかかわるのが、「世界は存在しない」という本のタイトルにもなったテーゼである。それを彼は、次のように説明している。
この哲学の出発点となる基本思想は、ごく単純なものです。すなわち世界は存在しない、ということです。(…)いくつかの例を挙げてみるだけでも、わたしたちの住む惑星、私の見るさまざまな夢、進化、水洗トイレ、脱毛症、さまざまな希望、素粒子、それに月面に棲む一角獣さえもが存在しています。世界は存在しないという原則には、それ以外のすべてのものが存在しているということが含意されているわけです。(8頁)
やや単純化して言えば、「世界」は「あらゆる物や事実」がその中で現われてくる最も大きな領域と考えられている。この規定で念頭に置かれているのは、自然科学で想定される「宇宙」よりも、「世界」の方が大きいことだ。「宇宙」はむしろ、「世界」のうちのたんなる一つの対象領域(あるいは意味の場)にすぎないわけである。「世界」には、自然科学で規定される物理的な物や事実だけでなく、多種多様の「意味の場」が属している。それをややパロディー的に表現したのが、「水洗トイレ(のジャーという流れ)」とか、「ユニコーン」のような空想上の生き物である。「世界」には、多様な意味の場が存在し、どれか一つだけの「種」が存在するのではない。
こうした「新実在論」が意図しているのは、「世界」を「宇宙」へと還元してしまうような「自然主義」を拒否することであろう。ここで「自然主義」というのは、「自然だけが存在する。その自然とは自然科学の対象領域、すなわち宇宙にほかならない」とする主張である。「新実在論」にとっては、多様な対象領域が可能であり、空想でさえも存在するのに対して、「自然主義」は存在するものをすべて自然科学によって探究できる物理的な対象だけに限定する。
このように、『なぜ世界は存在しないのか』で宣言された「新実在論」を、「自然主義の批判」として理解すれば、そこから『新実存主義』が提唱される理由も明らかになるだろう。「自然主義の批判」として、人間の「心」を捉えるために、「新実在論」は「新実存主義」へと具体化されるのだ。
以上の議論を明示的にするため、図式化しておくことにしよう。とくに説明は不要だろうが、マルクス・ガブリエルの新実在論から新実存主義への展開には、自然主義批判という基本思想が貫かれている。そのため、彼の哲学の輪郭を描くとすれば、「自然主義批判の哲学」として捉えるのが、内実に沿っているのではないだろうか。
3.反自然主義はどこまで可能か?
しかし、こうして図式化してみると、思わぬことに気づくのだ。『なぜ世界は存在しないのか』で、新実在論に対立するものとして「構築主義」を批判するとき、カントに淵源することが強調されていた。このとき、名前は挙がっていないが、もうひとり典型的な思想家としてニーチェを出すことも可能だったろう。というのも、「道徳的事実は存在しない。道徳的解釈のみがある。」というテーゼは、ニーチェの考えとして有名だからである。
とすれば、カントやニーチェが「構築主義」の代表といっても過言ではない。ところが、「新実存主義」の系譜には、なんとカントやニーチェが鎮座しているのである。たしかに、「自然主義批判」の文脈では、カントやニーチェは重要な思想家であるかもしれない。しかし、彼らは「構築主義」の思想家でもある。こうした事態をどう考えたらいいのだろうか。
一つの方向は、カントやニーチェの哲学を、構築主義的な側面と自然主義批判の側面とに分けることだろう。構築主義的な側面では批判すべきだとしても、自然主義批判の側面では評価する、という具合に。しかし、そうした形でそれぞれの哲学を分解できるかどうか、今は判断を控えたい。それをどう判断するかは別にして、こうした緊張関係のうちで、「新実存主義」が構想されているのは間違いないだろう。
もともと、マルクス・ガブリエルの「自然主義批判」についていえば、かなり極端な「自然主義」が想定されているように見える。つまり、「心」を「脳」に還元するような、消去的唯物論が批判の対象になっている。しかしながら、自然主義者の多くは、いわゆる「両立説」を取っていて、「脳」還元論ではなく、むしろ「心」と「脳」の関係をどう詳細に規定するのかを問題にしている。そのため、彼の「自然主義批判」は、ともすると「藁人形論法」のように見えてくる。この点は、編者であるジョスラン・マクリュールの次のコメントが、的を射ているではないだろうか。
第1章(マルクス・ガブリエルの論稿)の批判は、自然主義ではなく還元論が真の標的だったとも読める。たしかに自然主義者は、心が「自然の秩序」に「収まる」と考える。だが、存在するものはすべてが自然種へと還元可能だとする一元論的存在論に与する必要はないし、心にまつわる概念はみな科学の進歩にともなって次第に消え去っていくだろうと考える必要もない。(…)私が正しければ、新実存主義をさらに詳しく展開するには、分析系の心の哲学が提供する有力な――と私には思える――選択肢を正面から取り上げ、それに継続して取り組むことが不可欠である。(7-8頁)
還元論的自然主義は排斥したとしても、「穏健な自然主義」を組み込むべきではないか――こう、マクリュールは提案している。このコメントに対して、マルクス・ガブリエルが最終章で答えることはなかったように思われる。
しかし、あらためて彼の議論を見ると、「穏健な自然主義」を容認しているようにも見える。たとえば、彼が次のように語っている箇所である。
(…)次の点は強調しておきたい。自然主義を支える幅広い事実は尊重しなければならないし、おしなべて、自然主義を批判する多くの論者もそれをないがしろにはしてこなかったという点だ。まず、人間が動物であること、したがって進化理論が明確にしたパラメータによって人間が部分的に左右されることは否定しない。また、アリストテレス自然学が大失敗に終わったことも否定するつもりはない。人間の心については、あるタイプの脳が人間の心の――十分条件でこそないものの――自然な必要条件だと考えるという意味で、私は生物学的自然主義者だといっていい。(32頁)
こうした文章を読むかぎり、マルクス・ガブリエルが狭隘な「反自然主義者」でないことは明らかである。マクリュールの表現をもじって言えば、彼は「穏健な反自然主義者」と呼んでもいいだろう。しかし、そうだとすれば、問題なのは、「穏健な自然主義」と「穏健な反自然主義」がどう違うかであろう。それを考えるために、マルクス・ガブリエルが提出した「自転車―サイクリング」モデルに目を向けることにしよう。
4.「自転車―サイクリング」モデルは有効なのか?
このモデルは、「心と脳の関係」を理解するために、マルクス・ガブリエルが提示したものである。このモデルを見ると、彼の「反自然主義」の特徴がよく分かるのではないだろうか。その説明は、次のようなものだ。
新実存主義は形而上学的に見て極端な見解ではないのか。不本意ながらもデカルト的二元論を継承してさえいるのではないか――。そうした疑問が浮かぶかもしれない。これは哲学者が自然主義に反対するときに決まって向けられた疑念だ。私の新見解がそうした反応を招くことはないだろうが、その理由を理解するために、自転車とサイクリングの関係について考えてみよう。この関係は、新実存主義の存在論のコンパクトなモデルを提供してくれる。(73頁)
このモデルについて、一方で「自転車は、サイクリングのために必要な物質的条件である」(同-74頁)と語られる。それと同時に、「自転車はサイクリングの原因ではない。自転車はサイクリングと同一ではない。サイクリングは理論的、存在論的に自転車に還元できない。」(同頁)とも強調される。こうして、脳は心にとって必要条件であって、十分条件ではないと評定される。
このモデルは、具体的で分かりやすいように見えるが、少しミスリーディングではないだろうか。このモデルは、脳を自転車に見立てることによって、「自転車」だけでは不十分な印象をもたせているが、その場合、「脳」は働いていない「脳」、すなわち死んだ「脳」も同然である。「自転車」モデルで考えるとき、モノとしての自転車だけがイメージされそうだが、じっさいに考えるべきは「身体をもったヒトが、一定の場所で、自転車を動かしている」ことではないだろうか。このときには、「サイクリング」とどこが違うのだろうか。物体的な「自転車」と運動する「サイクリング」があるわけではない。そうだとすれば、心と脳の関係は、あらためて考え直す必要があるのではないだろうか(この点については論者のジョスラン・ブノワも疑問を呈している。97頁以下参照)。
数年前、マルクス・ガブリエルがすい星のように登場したとき、新進気鋭の若手の思想家(「天才哲学者」)として立ち現れた。しかし、今回の『新実存主義』を見ると、すでに哲学者として確固とした地位を築き、きわめて伝統的な哲学のスタンスから、自然主義を批判しているようだ。この「自然主義批判」がどこまで成功しているかは別にして、彼が「自然主義」と正面から取り組んでいるのは、現代の代表的な哲学者であることを示している。なぜなら、「自然主義」は失敗したというよりも、まさに現在進行中の最も重要な哲学だからである。
*引用については、以下のものからおこなっている。
マルクス・ガブリエル『新実存主義』廣瀬覚訳、岩波新書、2020年
同上『なぜ世界は存在しないのか』清水一浩訳、講談社選書メチエ、2018年
Markus Gabriel. Neo-Existentialism: How to Conceive of the Human Mind after Naturalism’s Failure, (Edited by Jocelyn Maclure, With contributions by Jocelyn Benoist, Andrea Kern, and Charles Taylor) Polity, 2018
岡本裕一朗(おかもと・ゆういちろう)
1954年福岡県生まれ。玉川大学文学部名誉教授。九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了。博士(文学)。九州大学助手、玉川大学文学部教授を経て、2019年より現職。西洋の近現代哲学を専門とするが興味関心は幅広く、哲学とテクノロジーの領域横断的な研究をしている。近著に『哲学の世界へようこそ。――答えのない時代を生きるための思考法』(ポプラ社)、『世界を知るための哲学的思考実験』(朝日新聞出版)など。
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