中今(なかいま)

磴道の脇に蔓蕎麦の白い花が健気に咲いているのを見つけた。決して目立つものではないが、可憐で美しい。その花言葉は「いつもそこに」らしい。時空を統べる「中今」の大切さをしみじみと思いながら家路についた。

 蔓蕎麦の咲く中今や初詣   五島高資


facebook髙橋 眞人さん投稿記事

こんばんは。【今日の名言】伊集院 静(作家)私は知っている、不運な人生などない。

幸せだけの人生などない。人は自分だけのために生きているのではない。

人生にも仕事にも、先が見えない時がある。目の前に闇しか広がっていないように映るものだ。でもそれは誰しも同じなのだ。

人間というのは哀しいかな、辛酸を味わう時に真の姿が見えることが多い。

己以外の、誰かの、何かのために懸命に、生き抜くことだ。そうすれば君に見えてくる。世の中が、人間の生が、いかに哀しみであふれていることか。それらの哀しみを平然と受けとめ、どんな時にも、君は、そこに、スクッとたっている人であって欲しい。

君には夢があるだろう。それにむかって進むのもいい。まだなければ夢を探す機会にすればいい。その決心に言っておきたいことがある。その夢は自分だけが幸せになろうとしていないか、お金を得ることにこだわってないか。そういうものは卑しいんだ

相手を思いやり、あなたが幸せであればそれだけで私はうれしいと感じることが恋愛だ。

今も作家面しているのは、ただ運が良かっただけ。大切な感情を最初に学べる場所が恋愛。

人生というのは、あっちでぶつかり、こっちでぶつかり、ちょっと涙したり、こっちでずるずると倒れたり、そういう遠回しになるような人生の方が豊かだ。

世の中の肌触りを覚えるには、理不尽と出逢うのがいい。

大人とは一人できちんと歩き、自分と自分以外の人にちゃんと目を向け、いつでも他人に手を差しのべられる力と愛情を持つ人だ。誰しもが辛い時間と遭遇しているのが人生だ。

前妻(夏目雅子)は27歳の若さでこの世を去りました。医師から「明日死んでもおかしくない」と言われ、209日間の入院でしたが、その間、私は仕事を休み、妻の傍らに寄り添いました。何で俺だけこんなふうになるんだろうなと思いました。

(夏目雅子さんの死後)それからの一年は飲むだけ飲んで、博打を打つだけ打った。

最悪の人を亡くして絶望の淵にいても、時間はいつかその気持ちを和らげ、新しい光さえ見せてくれる。いつまでも俺が不運だ。不幸だと思っていたら、死んでいった人の人生まで否定することになってしまう。人が生きるという営みを繰り返す中で、別離ほど切なく苦しいものはない。

逆境は、自分だけにあるものではないと思うことが大事。懸命に生きるという姿勢が素晴らしい。苦しみ、哀しみを体験した人たちの身体の中には、別離した人々がいつまでも生きていて、その人の人生の力になっています。だからこそ懸命に生きねばならないのです。私は今、さよならが与えてくれた力を信じています。

人生を懸命に生き、そこで経験した苦しみや悲惨なものは、たとえ学問や教育を受けておらずとも、家族が生き抜く哲学、歴史観を作る。この世の中に楽な仕事は何一つありません。

苦しいこと、切ないこと、辛いことを経験していなかったら、申し訳ないけど一人前になりませんよ。

この国に誇れるものがあるとすれば哀しみを抱いて歩き出す人々の慈愛、不屈の精神である。

金が儲かるなら何をしてもいいと嘯く輩がいる。金がすべてなら君達が子供の時に読んだり、聞いたりした絵本や、詩や、音楽は世の中にはいらなくなる。

大人って何だ?大人とは、一人できちんと歩き、自分と自分以外の人にちゃんと目を向け、いつでも他人に手を差しのべられる力と愛情を持つ人だ。

いつも何かを模索し、何かを求め、手を差し伸べておかないと運は降りてこない。

人生を懸命に生き、そこで経験した苦しみや悲惨なものは、たとえ学問や教育を受けておらずとも、家族が生き抜く哲学、歴史観を作る。

最愛の人を亡くして絶望の淵にいても、時間はいつかその気持ちを和らげ、新しい光さえ見せてくれる。

生きている限り、許せないものに出逢ってしまう、許せないものに出逢うのが生きること。

無念を抱いて生きている男女は大勢いる。

生きるということは必ず苦いものと悲しいものを伴う。

生きている限り、許せないものに出逢ってしまう。許せないものに出逢うのが生きること。許してあげられない自分を嫌いになる必要もない。

自分に消すことができない感情があることを個性だと捉えた方が人生にも仕事にも、先が見えない時がある。目の前に闇しか広がっていないように映るものだ。でもそれは誰しも同じなのだ。五感で目の前の世界を読み、判断し、何をすべきかを決定していくことだ。

許せないものをわざわざ目の前に引っ張り出して凝視しないこと。

苦しみ、哀しみを体験した人たちの身体の中には、別離した人々が、いつまでも生きていて、その人の人生の力になっています。だからこそ懸命に生きねばならないのです。私は今、さよならが与えてくれた力を信じています。人間は別れることで何かを得る生き物なのかもしれない。

お金で買えないものは山ほどある。お金で買えないものほど貴重なものはない。

今日は必ず自分にとって大事な1日になるぞということを、あえて思うようにしている。

人から笑われてる人の背中を叩いてあげる気持ちが大事。

信条や志が欠落した人間は、いざというときに踏ん張れない。

受験は合格できても、失業や病気、家庭の問題、大事な人との別れといった様々な苦難に耐えられなくなる。

おかしいと思わないか。哀しみと歩くために私たちは生まれてきたのではないはずだ。どうして人をいじめたり、平気で苦しめたりする者がいるのか。それはボクたちの身体の中に何ものにもかえられない素晴らしいものがあるのを忘れているからだ。

金というものも、その時は少し目を丸くするが過ぎてしまえば何ということはない。飯が食えて、酒が少し飲めて、雨漏りしないところで寝てられりゃ、それでいい。

価値ある生き方をしている大人はいるのか。誇るべき生き方はあるのか。私は断言する。そういう生き方をしている大人はいるし、生き方はある。今の君たちの目に見えないだけだ。その人たちも、君と同じ年頃、見えない明日を懸命に探り、一人で歩いていたんだ。

愉しみなさい。人生はアッという間に過ぎてしまうから。でも焦っちゃダメだ。ゆっくりと急げばいい。

若い夫婦が子供を連れ、プラットホームに降り立つ。彼等に歩み寄る老夫婦の笑顔には、人間の至福の表情がある。親は無条件で己のことよりも子供の幸せを考える。そのことが子供の頃、私にはわからなかった。自分以外の人、生きているものの痛みを分かる子どもにすれば、教育の半分はできたと考えなさい。人から受けた恩は、その人には返せないのが世の中の常らしい。親孝行ひとつを取ってみてもそれはわかる。

親の最後の最大の教えは、親が亡くなることで子どもが人生を学ぶことでもあるという。

どう生きるかはどう死ぬかと重ならざるを得ない。

※伊集院静さんは昨年11月24日、管内胆管がんのため73歳で死去しました。


https://note.com/elamajp/n/n1ceda85f2d82 【「いまここ」を意識する、「中今(なかいま)」とは。日常にあふれる色とりどりの時間を大切にしてみよう】より

こんにちは、あいすかです。

4月がスタートしましたね。春は別れと出会いの季節。寂しくなったり、ワクワクしたり、そんな感情が入り乱れるので、心は知らず知らずのうちにエネルギーを消耗してしまう季節でもあります。

さらに、世界もまだまだ混沌としています。善い悪いではなく、出来事ひとつひとつの掛け合わせ、タイミングが現在に至っているのです。いま私ができることを行動に移していこうと思います。

さて、先日、友人と久しぶりにカフェでお茶をしました。その時に彼女から「中今(なかいま)」という神道由来の素敵な言葉を教えてもらいました。

その日に起きた出来事と、そこから私が学んだことを少しシェアさせてください。

ほっこりすること、まちがいなしです!!

「中今(なかいま)」とは贅沢な余白時間

「そうそう、なかいま、って言葉、知ってる?夫が教えてくれたんだけど…」コーヒーを飲みながら、友人は突然言いました。「え?知らないな、何?」私は、すぐにスマホで調べてみました。

「中今(なかいま)」とは、

・神道における歴史観の一。時間の永遠の流れのうちに中心点として存在する今。単なる時間的な現在ではなく、神代を継承している今。(デジタル大辞泉より)

・過去と未来の中間にある今。今の世。すぐれた世として、当世を賛美していう語。(精選版日本国語大辞典より)

友人の話に戻ります。

彼女はとても一所懸命に生きている女性です。子育てに家事に、地域に関わる様々な仕事に関わっている、とても忙しいワーキングマザーです。

平日は家にいる時も頭の中はフル回転。次にすることを頭の中で考えながら、時間をみながら行動しているときに、ふと横から在宅勤務中の夫が話しかけてきたそうです。

もちろん彼女は夫の話も聞いてはいたのですが、彼女の上の空のように見える態度に、彼は「中今」について話をしてくれたそうです。ひとつひとつのことに集中するように、というアドバイスだったようです。

彼女も私も、神道の教えからのその言葉に惹かれつつも、当世を賛美するところまでには至らず、カフェを後にしました。日常生活のなかで、先を考えずに行動することは皆無に等しい母親だからです。

「中今」とはざっくりいうと、雑に生きるな、ということなのだろう、とその時の私は解釈しました。

過去から未来までつながっている流れの中で、今という一瞬を無心に生きること。それが人間として美しい生き方である、と神道は説いているのだと。

私と彼女は、この言葉について無心に語りつくし、ともに過ごした約1時間のカフェタイムを、贅沢な余白時間として過ごすことができたのでした。

原点に戻りたくなった時とは「中今」を感じたい時だったのかもしれない

彼女とのカフェタイムを満喫し、次の予定まで少し時間があったので一度帰宅しました。

そして、すぐに手にしたのがこの本でした。

「ちいさなあなたへ」

アリスン・マギー (著), ピーター・レイノルズ (イラスト), なかがわ ちひろ(翻訳)

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1人目を出産後に通っていた産後ヨガの先生が、あるレッスン後のリラックスタイムで読み聞かせをしてくださった絵本です。初めて聞いた日、涙が止まらなくなるほど胸を揺さぶられたこと、今でも覚えています。

ストーリーはひとりの女性が子どもを出産し、その子どもが成長して、さらに子どもができて、自分は老いていく。人生の流れ、情景が本当に美しい物語です。日本語に訳された、なかがわちひろさんの文章がまた秀逸で、その短く訳された文章が頭にも心にも残り、まるで行間に光が差してくるように感じる。本当に素晴らしい訳文なのです。そして、その日、私はこの作品のさらなる魅力に気づいてしまったのです。

言葉と挿絵、1ページ1ページ、その瞬間を切り取った時間軸のなかにあり、「中今」を感じられる構成となっていることに。

原作の英題は「someday」=いつか。

いつかは、未来にむけて使うこともあれば、過去の記憶の中にも実存している言葉です。

邦題だけみると、出産した女性にむけられた絵本として受け取られがちですが、実はそうではないのかもしれません。この世に産まれてきたすべての人にむけて、いつか、を伝える絵本だったのではないでしょうか。

私はこれまで、何かあったとき(主に子育てで疲れたときですが)この本を読んで原点に立ち返ろうとしていました。

でも、「中今」を知って、そばに置いていた大切な絵本の見方もかわってしまいました。

原点に立ち返るのもいいけど、今を味わう。

辛いことがあっても、楽しいことがあっても。

でも、そう思えるようになるには、私もまだまだです。はい、そこにも、ちゃんと気づいています。(笑)

自慢げな息子から教わった「中今」

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その日は、本当に目から鱗な出来事が続きました。

夕方、4歳になったばかりの息子が幼稚園から帰宅した後、自慢げに私のほうに駆け寄ってきて、こう言いました。

「おかーか(おかあさん)!くつ、きれいに並べたよ!!見といて!」と。

元気いっぱいのわんぱく坊主くんですが、几帳面なところもあり、靴を並べてくれることはこれまでも度々ありました。だから私は驚きもせず、玄関へ行きました。

すると(上記写真)、まぁ、見事に剣山のような靴が並んでいるではありませんか。

本人は、全く動じず、傑作品を作り上げたかのように自慢げな顔をして仁王立ちしています。私は感心しました。よく思いつくなぁと。「くつを並べる=くつを揃えて置く」は当たり前のように頭の中で認識されていますから。

ただ、ここで私が伝えたいことは、自分の息子の発想が面白いということではないのです。

いま、この一瞬、無心に靴を並べた時間、2022年4月、この日は最初で最後。もう二度と同じ日は来ない、ということ。この先、この写真のように並べられた靴たちを見ることは、もうないのだろうと思ったのです。(何度も同じことをされたら、いい加減やめてくれと言うでしょう。)

そう思ったら、面白いこと、辛いことも、ほんの一瞬なんだなぁって、心から思えたのでした。

さいごに

現代の私たちは、時間軸に翻弄されながら生きていると思います。

世の中で今起こっていることも、「過去はこうだったから、今こうなっているのだ」とか「これからの未来にむけて、今こうあるべきだ」など、いろんな情報や知見にあふれています。

同時に、今という一瞬を味わうこともできず、苦しい思いをして生きている人たちがいることも私たちは知っています。

前述したとおり、精選版日本国語大辞典によると「中今」は、すぐれた世として、当世を賛美していう語、とあります。

私たちは、今がすぐれた世であると言えるでしょうか。

どこにいても、誰にとっても、日々の生活の中で、今が感じられる日常であってほしい。そのために自分ができることを考えながら、中今を頭のすみに置いておいてください。そこから行動していきましょう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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