実存と思想・ジャパン・スタイル

https://note.com/q_do/n/n1698ec7a3547 【知恵の本 1冊1P「日本文化の核心」松岡正剛】より        太田泉

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日本文化の核心は、倭人の文化をベースに、中国大陸から輸入された稲・鉄・漢字を活用して大和朝廷を築いた天皇家。それを「或るおおもと」として、その原型(面影)をまねび・学び、古今伝授されてきた。うつろいの文化なのだ。

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橋本師匠の師匠、つまり自分の祖師匠である松岡正剛氏の「日本文化の核心」を深読する。 一途で多様な故に一見わかりにくい日本文化を、独自のジャパンフィルターを通して、読み解く。

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第1章 柱を立てる ジャパンフィルターは「客神」 マレビトとして結界に降り立つ日本の神々。その依代である「柱」 原 これが古代日本の共同体の原点だと読み解く。この客神(マレビト)というコンセプトを知って、「稽古の思想」の「場」がガーンと理解出来た! 稽古場において、時に、場が特別な技を生むというのだが、これこそ、マレビトである神が場に降り立った瞬間なんだね。

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第2章 和漢の境をまたぐ ジャパンフィルターは「仮名」 中国大陸から流入した当時の黒船「稲・鉄・漢字」のうち漢字がその後、仮名にリミックスされ、オリジナルの漢から離れて、日本独自の文化に発展していく様を捉える。「和魂漢才」の歴史を見る。

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第4章 神と仏の習合 ジャパンフィルターは「神仏習合」古来の神道と大陸から入って来た仏教が「和光同塵(リミックス)」され、日本は多神多仏の国になった。元々の八百万の神を祀る日本人は、「説明しがたいものを憚る」宗教観を持っている。

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第5章 和する/荒ぶる 知識欲をそそるのが「国譲り」を巡る大和朝廷の誕生の解説。白村江の戦いに敗れた奈良大和に陣を張るアマテラス系天皇家が、出雲(根の国)に追放したスサノオ。ところがスサノオの出雲地方の開発が成功した。スサノオがデベロッパーとして成功した出雲国を、欲しがるアマテラス系と、辞するスサノオ系。そしてオオクニヌシの時代に「国譲り」が行われる(戦争・占領)。これを鎮撫してるのが出雲大社らしいが。 「和を以て貴しと為す」に秘めた真意。

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第6章 漂泊と辺境 ジャパンフィルターの核心に「移ろうもの」を置く本書。 「中心と辺境」の二元論ではなく、あえてオフセンターをカッコいいものとした日本文化を解き明かす。その真髄は「栄華は常ならず」の無常観にある。都の「みやび」に対して、都落ちして、辺境の「ひなび」へ向かう人を、あえて応援する心持ち、あえて負い目を許容する気遣い。 その「常ならぬ移ろい」に「惻隠の情」で慮ることこそ、日本人の気質である。 これは凄い達観ですね。

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第7章 型・間・拍子 ジャパンフィルター「古今伝承」 日本独自文化に「武道」を置き、相手を殺傷する技能だったものに、仁や義や礼が加わって「道」に達したとする。この道の伝承を「型」と「流儀」としたのが宮本武蔵。座とか間によって「移ろうもの」への「間の感覚」は、「以心伝心」として継承される。師匠から弟子に憑依する、一門から一門へ譲られる。 型そのものよりも、形が力を持つエージェント(代理物)を通して神の御技を伝えることも多い。「型代(かたしろ)」、「物実(ものざね)」、「憑座(よちまし)」など

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第8章 小さきもの ジャパンフィルター「小さき神」 竹取物語等に見られる日本の「小さきもの伝説」、その影響はポケモンにまで見られる。 その源流はオオクニヌシのコンサルとして出雲建国を支援した「スクナヒコ」である。小さなスクナヒコは航海術や土木などの技能者だったらしく、海の彼方から来て、出雲の国づくりに大きく貢献する。ここから小さい人でも成長して大きな社会貢献するという日本型の成功ストーリーが生まれる。これらが竹取物語や桃太郎、一寸法師の原型になっていく。

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第9章まねび/まなび ジャパンフィルターとして「まねび」を据えて、読み書きそろばんという日本の学習観から明治以降の西洋知の席巻を経て、日本人の学びはどうあるべきかを問う。 この章、自分のテーマなので深掘りする。

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第9章まねび/まなび 日本人の学びはどうあるべきかという問いに松岡正剛は、世阿弥が説く「物学(ものまね)」、手習い・うつしの教育を本質に据えるべきと言う。 「真に近づく為のまねび」こそ日本的な学習スタイルだと。松岡正剛は、今後の日本人の学習スタイルとして、先達の手本をそのナリフリや文脈のニュアンスごと「うつし」、「まなぶ」という、知と芸を「姿」に関連させて学習するスタイルを提唱する。 それはヴィゴツキーの「模倣と共同」に通じる。

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まねびスタイルの学習に加えて、日本人の弱点であるロジカルシンキングの克服も忘れてはならない。武家の道理、民の義理と人情ではグローバル社会では通じない。論理性とエビデンス証明は万国共通の学びになるだろう。それは逆に日本的な道理を、いかにバージョンアップするかという、自分の求道学のメインテーマにつながる。捨てるべきモノ、残すべきモノを仕分け、学びの円環を回す。

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第10章 或るおおもと ジャパンフィルターは「家」。 日本人に宿る「お家大事」のコンセプトを読み解く。おおもとは聖徳太子の十七条憲法にある「百姓有礼、国家自治」。 これが天皇を巡る群臣=皇族が「国家」を為していく。皇族はブランドとしての「公家」になり、天皇家を頂点に抱くヒエラルキーが「国の家」になっていく。 皇族はそれぞれに「家職」や「家学」というライセンスを世襲していくことでブランド化していった。

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第10章 或るおおもと 家職の中に武芸を専門にする「兵の家」が「武家」の棟梁になっていく。 承久の乱を経て、公家と武家が対立、遂に源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命され「幕府」を開く。家臣は「御家人」となる。松岡正剛はこの時代の朝廷と幕府には相対性が成立していたとして、その中核を担った役職として「武家伝奏」を挙げる。いわゆるパイプ役だ。これは幕末まで続く。

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第10章 或るおおもと 「家元」を考える。 家元は「座」によってスキルを守り縦横のネットワークによって「お家大事」と日本文化のクラブ財を維持継承する仕組み。 型の継承、流派と流儀の維持、一家相伝、一座建立、お稽古。「家元」を考える。 家元は「宗家」として、型を伝えて、流派を継承、それをライセンス化して、経済的に成立させる事で、お家大事のもとに集まるメンバー間に擬似家族を形成していく。

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第11講 かぶいて候 ジャパンフィルターは「かぶき」 日本文化を多様に彩る「傾く(かぶく)」。大元は出雲の阿国で、大袈裟、過剰、異様な振る舞いが「風流」となる価値観。この破壊的なパワーが日本に元気を与える。安全志向のアポロン的思考ばかりだと、本当の中道が見えなくなる、破壊的なディオニソスの思考もMIXしてこそ日本的という、松岡の指摘が、コンプライアンスでがんじがらめの現代日本に生きる。

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第12講 市と庭 これまた内容豊富な講です。ジャパンフィルターの「米」と「幣」を使って、日本古来の経済観念を読み解きます。 はじまりは日本の庭概念の3区分、「神庭」、「斎庭」、「市庭」。経済は市の場から始まります。日本の経済は物々交換が主体で、お祓い、お清めが大事だという話。「市庭」の成り立ちは、交通の要衝の里に歌垣が出来、人が集まり、地方の産物を物々交換し始める。その行為を浄める為に、聖なる山の寄神が集まる神庭からマジカルな力をもらい、潔斎として正義を正す斎庭からもお清めの力をいただく。

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第12講 市と庭 物々交換のお清め、お祓いを米で収めたのが「散米」で、神々への供物として供えられたものを束ねる紐が「幣」となり、後の神社の飾りになる。みんなが捧げたものが神主の玉串になる訳。「幣」は「まい」、「まいわい」、「ぬさ」、「みてぐら」、「へい」と読む。後の世に「お金」が流通すると、このお清めのパワーを宿すという意味で、「貨幣」や「紙幣」に内包されていく。日本人にとって、「支払い」は「お祓い」なのだ。

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#小松和彦  の「#信貴山縁起モデル」が抜群に面白い。 都が市を立てるち里山の産物が物々交換されて潤う。里山は感謝として長者が山に喜捨する。山の神・寺社が祈祷によって、都の天皇に健康長寿をもたらす。 祟りとかの因縁がよくわかるし、この力で寺社が発展した理由もわかる。

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第12講の2 市と庭 日本の貨幣経済の目覚めは室町時代。元寇による中断から再開した明との中国貿易で幕府の経済力が発達して、朝廷や商業特権を握る寺社を上回る。年貢も米だけでなく、代替銭を許すと貨幣経済が本格化した。幕府による貨幣経済への移行は物々交換から貨幣交換への移行を促進。やっとその交換性が理解され、運送、倉庫、金融などの業者が活躍する流通の時代に。 後に、楽市楽座などを企む戦国大名と既得権を持つ寺社との争いになる。織田信長の延暦寺焼き討ちや豊臣秀吉の検地や刀狩りは、寺社への経済戦争だったのだ。

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第十三講 ナリフリかまう 西洋的な合理主義に収まりきらない、日本独自の非合理性に着目する。根回し、埒をあけるの言葉が力を持つ言霊主義に始まり、最後は自分も大好きな九鬼周造「いきの構造」に言及する。日本人は誰が、いつ、なにを、どのように言ったり、やったりするか、その「様(さま)」を重視してきたとして、ナリフリをジャパンフィルターにあげる。 生業のナリと、所作動作のフリが大事で、それを極める事がジャパニズムの本質だという。

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ナリフリが最低な状態を「粗相」といい、「場違い」と恥じる。 様がなってない状態を「野暮」、「地味」、「下品」、「甘味」とし、対極に「意気」、「派手」、「上品」、「渋味」を置いた。これが九鬼周造の「いきの構造」粋とは、江戸情緒の真髄である遊女との関係において、恋に囚われるのではなくて、恋と戯れる「様」であり、ナリフリ。 執着を断つ「諦め」、溺れない自分に対する「意気地」、異性に対する「付かず離れずの美学」の三位一体の構造体である。 スゴいね、九鬼のこの日本独自の分析。

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第十三講 ナリフリかまう この講で重要な文化に対する分析スキームが示される。通常は2つ 1.通時的アプローチとして、日本を「方法」として捉える方法。 2.アナロジカルな編集の視点で、表出されてきた「芸術や芸能」で捉える方法。本書はその2つの方法とは別に、日本文化独自のキーワードを分析するコンセプチュアルなアプローチであるとする。それが「ジャパンフィルター」というキーワード群である。

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第十四講 ニュースとお笑い 情報文化はフォーマットを持って世に出るとして、ニュースとお笑いは、「事件を伝えるフォーマットで見れば同根だ」と喝破する。正剛、カッコいい。人が届ける事件か、人が演じる事件か。その上で日本の情報伝達フォーマットはすこぶるヘッドライン的だと指摘する。即時性が強調され、伝達による劣化を考えると、短文的で、ショッキングになりがち。 逆に完全性を求められたのが天皇の言葉、「詔(みことのり)」だった。

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西洋では事件を伝えるニュースは王の独占だった。王の目・王の耳と呼ばれる情報将校が事件情報をな伝馬した。インテリジェンスなニュースの起源。 いかに速く、いかに正確に伝達できるかが求められた。民衆に対する情報フォーマットは、人が演じる形で発展した。 事件は、悲劇か喜劇かに演出され、時事と風刺が渾然一体となって伝えられた。 後にそれは演じるから、綴られるにフォーマット変換され、「寓話」という形態に転ずる。日本でも人が演じる情報伝達フォーマットの歴史がある。 天岩戸伝説の踊り子アメノウズメが起源と考えられる。

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第十五講 経世済民 この章の指摘が一番ズシンと来た。 なぜ戦後日本がエコノミックアニマルと化したか。つまりは「日本は主権国家として、国益(ナショナルインタレスト)を明確にするシステムを持たない」からなのだ。松岡正剛が「日本の政治的な貧しさ」の背景に挙げたのが、日本独特の「キーコンセプト忘れ」だとして、「経世済民」と「格物致知」を指摘する。 つまり出元を忘れた「経済」と「修身」重視のせいだという。

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「経済」の出元は「荘子」の「経世」と「書経」の「済民」を合わせた春秋広羊学の「経世済民」であり、「世を治め、民を済う」勿論、国益を語る事だった。Political economyの訳語としていく家政学を当てていたが、次第に制産学となり、経済学に置き換わった。その時に原義の民を済う部分が欠落した。悲しいかな現在では、「経済」は利益重視の活動を指す言葉に成り下がった。ここに、国益を明確に出来ないシステムの一因があるとする。

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第十五講 経世済民 「日本は主権国家としての国益(ナショナル・インタレスト)を明確に出来ない」というウォルフレンの指摘は、戦後日本の構造欠陥を突いている。今の日本は「権力が行方不明の国」なのだ。これこそが日本らしさ。戦後のアメリカ統治以来の属国日本と、世界的経済大国の「二項同体」こそ、日本らしさなのだ。「権力中枢の不在を前提とし、それを補うシステム」こそ、象徴天皇を抱く日本らしさなのだ。西洋的価値観との差。

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第十六講 面影を編集する 本書のまとめ。日本文化の核心を「或るおおもと」を守り、そのおおもとを学び、伝え、日本文化の「面影」として共通に理解する事だとする。面影はうつろうが人々は「そこにないのに、あるもの」を感じる。そこにないのに、あるものを感じる「面影の美学」こそ、「一途で多様な日本文化の核心」であり、日本人の編集文化の核心だ。「日本という国が面影を求めて移ろって来たと捉えたのです。そしてそのプロセスにさまざまな日本文化が結晶してきたと捉えたのです」

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松岡正剛「日本文化の核心」総まとめ これは大作でした!一枚にまとめるの無理かと悩みましたが、最終講の「面影の編集」を読んだら構想が見えました。 通時的アプローチでもなく、芸術・文化論アプローチでもないジャパンフィルターによる編集方法


https://gendai.media/articles/-/144428 【「日本の神さま」は「招かれるお客さま」だった…日本人でも知らない「驚きの真実」「ジャパン・スタイル」を読み解く】より

松岡 正剛

「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか?

昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。

※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。

「客神」としての日本の神々

さて、これで「柱の文化」が大切な土地に「柱を立てる」という行為をともなっていたことがあきらかになったと思います。

古代の日本人にとって「柱を立てる」ことは、1つの小さな村の「村立て」から大和政権の「国づくり」にいたるまで、何らかの共同体を始めるにあたって不可欠なことでした。それが地鎮祭として今日につながっていたのです。

このようにその場所を新たなスタートの儀式で示すことを、「結界する」とも言います。まず「そこ」をつくりたいと思う場所に1本の柱を立てるか、ないしは目印になる立派な木を決め(クス・シイ・ブナ・ケヤキ・イチョウなど)、まわりに4本の柱を立て、そこに注連縄などを回すことで結界しました。

結界することによってその中に神を呼びこもう(招こう)と考えたのです。地鎮祭はこのモデルを借りているのです。

日本では柱は四方四界を区切るためのものとして立てたのです。同じことがシテ柱や目付柱をもつ能舞台などにも適用されました。そこには結界があるばかりで、ほかには何もない。そして、何もないからこそ、そこに神々が降臨したり、シテやワキが登場してくるのです。

このことは、とても重大なことを告げています。それは「日本の神々は客神であった」ということです。

「マレビト」としての神

客神とはゲストの神ということです。ユダヤ・キリスト教の神は唯一神であるとともにホストの神です。だから「主よ」と祈る。

日本人は神さまには「主よ」とは祈らない。なぜなら、日本の神々は常世から「やってくる神」であって、そのあとさっさと「帰っていく神」だからです。「迎える神」であって「送られる神」であるからです。だから日本の神々はゲストの神、客なる神、つまり客神なのです。

このことは、大事なスタートのために結界をつくってそこに柱を立て、その柱を神に見立てるという、考えてみればたいへん摩訶不思議な認知の仕方を説明してくれます。なぜこんな不可知なやり方をしているかといえば、日本の神々は定位置にいる神でも常在する神でもなく、迎えられ、送られる神だったからなのです。

このことについては、本書のいろいろなところで再三説明しますので、ここではこの程度にしておきます。なお折口信夫は客神のことを「マレビト」とも言いました。「稀にやってくる」のでマレビトなのです。

さらに連載記事<日本人なのに「日本文化」を知らなすぎる…「知の巨人」松岡正剛が最期に伝えたかった「日本とは何か」>では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。ぜひご覧ください。


https://gendai.media/articles/-/144514 【「国粋主義」の温床にも…日本文化の根っこにある「あまりに独特な思想」「ジャパン・スタイル」を読み解く】より

近代日本の柱

以上の「柱を立てる」ということを、日本がふたたび強く意識したタイミングが明治維新でした。

明治維新は当初「王政復古」と呼ばれたように、古代の王権を現在に復活させる試みでもありましたが、一方でその担い手たちは古代の何を近代にふたたび立てるべきなのか悩みました。

最初のうちは江戸末期の国学思想を参考にしたのですが、やがて古代的な柱とはちがった近代的な価値観としての帝国や憲法や議会、あるいは企業や家庭を近代国家の柱に据えるべきだというふうになり、さまざまな候補が挙がっていきました。

その過程で「立身」「立国」「立志」、あるいは「立憲」などの言葉が生まれたのです。

福沢諭吉は『学問のすすめ』で「一身独立して一国独立する事」と書きました。まさに国民一人一人が立ち、総じて一国が立つべしと捉えたのです。

しかし、このような方針は「西洋に追随したものにすぎない」という考え方をとる者たちもあらわれてきます。もっと復古型の神道の立場に戻るべきだ、『古事記』が語っていた神々の政体をとりもどすべきだという声も上がってきた。

近代日本を宣言するためのイデオロギーに復活型の神道を持ち出すなんて、ずいぶんなアナクロですが、明治維新はそういう「柱」を据えようとしたのです。

国粋主義の温床にも……

とはいえ、はたしてどんな王政復古が近代日本にふさわしいのか、誰もその有力なアジェンダが示せません。なかで候補となったのは、江戸末期の佐藤信淵の『天柱記』や平田篤胤の『霊能真柱』です。

2つとも「柱」を謳っています。いずれも日本神話の最初の造化三神の心に戻れというものですが、けれども、そんな空漠たるものが近代国家の礎になるとは思えません。だいたい造化三神は出現して、あとを後塵の神々(国づくりの神々)に任せて隠れてしまうのです。

一方、日蓮宗の僧侶であった田中智学は明治17年(1884)の立正安国会を母体に、大正に入って「国柱会」なるものを結成して、全国の神社の祭神を皇租神に統一していくべきだという具体案を示しました。国の柱を神社からつくりなおすという試案です。

これはたしかに古代的な柱を明治の世に残し続けるというプランではあったのですが、その思想はたちまち右傾化して、のちの国体思想の浄化につながり、石原莞爾の満州国の構想などに採り入れられていきます。

なお、田中智学の国柱会には若き日の宮沢賢治も憧れて門を叩いています。賢治がシュールな詩人や童話作家になっていくのは、国柱会から入門を断られてからのことでした。

このように「柱を立てる」という思想は近代日本においては、国粋主義や八紘一宇の思想の温床ともなったのです。

さらに連載記事<日本人なのに「日本文化」を知らなすぎる…「知の巨人」松岡正剛が最期に伝えたかった「日本とは何か」>では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。ぜひご覧ください。



コズミックホリステック医療・現代靈氣

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