日本文化論

https://news.yahoo.co.jp/articles/851cf0f701b0558e340ae38d8edcc3cc021f2473 【「神様は柱である」…日本人なら知っておくべき「柱の文化」という日本独特の考え方】より

「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか?

昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。

2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。

※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。

柱の国づくり

こうして「稲・鉄・漢字」の到来は日本社会を一変させました。

古墳時代に向かって豪族たちが君臨する社会を用意し、やがてそのなかから大和朝廷を確立する一族を選択します。天皇家です。天皇家のほうも各地の統治に向かいました。

大和朝廷の統轄によって日本は古代社会をつくりあげます。都をつくり、租庸調などの税のしくみをつくり、律令制を敷き、さまざまな祭祀をとりおこない、仏教も採り入れた。それは一言でいえば「柱の国」づくりでした。

日本中世史の研究者である林屋辰三郎は、1791年の著書『日本の古代文化』(岩波現代文庫)の中で、「日本の古代は柱の文化であり、中世は間の文化であった」という主旨のことを述べています。

「柱の文化」から「間の文化」へ。林屋はそこに日本の歴史文化のコンセプトの基本的な流れと移行を読みとりました。

いったい「柱の文化」とは何のことでしょうか。

古代ギリシア神殿の円柱のようなもの、また古代ローマの列柱のようなものをイメージするかもしれませんが、ここでいう「柱の文化」とは、たんに建物の柱に日本が表象されているというだけのことではありません。

日本人はもっと深いもの、高いものを「柱」にこめた。

「柱そのもの」が神々

わかりやすい例を言いますが、注目してほしいのは日本人が神さまを「御柱」と呼んだり、神さまの数を「柱」で数えたりしてきたということです。

神々が柱であり、柱が神々だったのです。

これはアポロンの神殿とはまったくちがいます。古代ギリシアやローマの神殿にはすばらしい石の列柱が組み立てられていますが、その柱は神々ではない。ゼウスもアポロンも、神殿の奥や前庭に鎮座しています。

ところが日本の神社では、柱そのものが神々でした。伊勢神宮や出雲大社その他の神社では、真柱そのものが神々です。柱がコンセプトとしての神だったのです。

多くのお祭りで巡行する山車や山鉾でも、その中心を柱が担う。各地の正月の行事に登場する「どんど焼き」や「ぼんてんさま」も高い柱になっている。のみならず、かつての日本家屋では(とくに農家では)、必ず大黒柱が中心にありました。

また床の間は中世以降に出現するのですが、そこにも「床柱」が登場しました。

林屋はこうしたことをふまえて、日本の古代は「柱の文化」で成り立っていたと言ったのです。

さらに連載記事<>では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。ぜひご覧ください。


https://gendai.media/articles/-/144389?imp=0 【日本人なのに「日本文化」を知らなすぎる…「知の巨人」松岡正剛が最期に伝えたかった「日本とは何か」】より

「ジャパン・スタイル」を読み解く 松岡 正剛

「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか?

昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。

2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。

※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。

「わかりにくさ」こそ日本文化

日本文化はワビとかサビとかばかり言って、どうもむつかしいというふうに言われてきました。だからわかりやすく説明してほしいとよく頼まれます。

しかし、この要望に応える気はありません。断言しますが、日本文化はハイコンテキストで、一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂があるのです。

わかりやすさを求めればいいというものではありません。空海の書、定家の和歌、道元の禅、世阿弥の能、長次郎の茶碗、芭蕉の俳諧、近松の人形浄瑠璃、応挙の絵、宣長の国学、鴎外の小説、劉生の少女像に何か感じるものがあるというなら、わかりやすくしようなどとは思わないことです。

かれらが放った「間架結構」「有心」「朕兆未萌」「時分の花」「面影」「さび」「もどき」「古意」「簡浄」「美体」などというコンセプトそのままに、日本文化を会得していくべきです。

それがあまりにもむつかしいというなら、では聞きますが、プラトンのイデア、ラファエロの天使、スピノザのエチカ、カントの理性批判、ドストエフスキーの大審問、プルーストの時、デュシャンの芸術係数、サルトルの実存、コルトレーンのジャズ、ウォーホルのポップアートは何によって「わかった」と言えたのでしょうか。

私はそれらが「わかる」のであれば、日本の哲学や美も「わかる」というふうになるはずだと思います。

多少の手がかりは必要です。私はそれをジャパン・フィルターというふうに名付けました。なかでも客神フィルター、米フィルター、神仏習合フィルター、仮名フィルター、家フィルター、かぶきフィルター、数寄フィルター、面影フィルター、まねびフィルター、経世済民フィルターなどが有効です。本書で点検してみてください。

「おもかげ」「うつろい」こそジャパン・スタイル

日本文化の正体は必ずや「変化するもの」にあります。神や仏にあるわけでも、和歌や国学にあるわけでもありません。

神や仏が、和歌や国学が、常磐津や歌舞伎が、日本画や昭和歌謡が、セーラー服やアニメが「変化するところ」に、日本文化の正体があらわれるのです。

それはたいてい「おもかげ」や「うつろい」を通してやってくる。これがジャパン・スタイルです。

しかし、このことが見えてくるには、いったんは日本神話や昭和歌謡や劇画などについて目を凝らし、そこに浸って日本の歴史文化の「変化の境目」に詳しくなる必要があります。

白村江の戦いや承久の乱や日清戦争は、その「変化の境目」がどのようなものであるかを雄弁に語ります。そこは見逃さないほうがいい。それはアン女王戦争がわからなければピューリタニズムがわからないことや、スペイン継承戦争がわからなくてはバロックが見えてこないことと同じです。

ところがいつのまにか日本文化というと「わび・さび・フジヤマ・巨人の星・スーパーマリオ」に寄りかかってしまったのです。それでもかまいませんが、それなら村田珠光の『心の文』や九鬼周造の『「いき」の構造』や柳宗悦の『民芸とは何か』や岡潔の 『春宵十話』はどうしても必読です。せめて山本兼一の『利休にたずねよ』や岩下尚史の『芸者論』や中村昇の『落語哲学』はちゃんと読んだほうがいい。

日本は一途で多様な文化をつくってきました。しかし、何が一途なのか、どこが多様なのかを見究める必要があります。日本人はディープな日本に降りないで日本を語れると思いすぎたのです。これはムリです。

安易な日本論ほど日本をミスリードしていきます。本書がその歯止めの一助になればと思っています。


https://gendai.media/articles/-/144386 【「知の巨人」松岡正剛が最期に日本人に伝えたかった「日本文化の核心」】より

「日本はダメになるかもしれない」

1970年代のおわりのころだと思いますが、渋谷の「壁の穴」という小さなお店で「たらこスパゲッティ」を初めて食べたとき、いたく感動してしまいました。

バターとたらこでくるめたパスタに極細切りの海苔がふわふわと生きもののように躍っている。それをフォークではなく箸で食べる。なにより刻み海苔がすばらしい。よしよし、これで日本はなんとかなる、そう確信したものです。そのうち各地の小さなラーメン屋が独特ラーメンを次々につくりだした。

まもなくコム・デ・ギャルソンやイッセイやヨウジがすばらしいモードを提供しはじめました。世界中にないものでした。また井上陽水や忌野清志郎や桑田佳祐が独特の日本語の組み合わせと曲想にのってポップスを唄いはじめた。大友克洋の「AKIRA」の連載も頼もしい。よしよしいいぞ、これで日本はなんとかなる。そう感じました。

私はといえば工作舎でオブジェマガジン「遊」の第3期を了え、講談社に頼まれた「アート・ジャパネスク」全18巻を編集制作していたころです。横須賀功光や十文字美信に国宝級の美術品を新たなセンスで撮ってもらい、まったく新しい切り口の日本美術文化の全集をつくっていた時期です。

それから10年後、ふと気がつくと日本はがっくり低迷していました。民営化とグローバル資本主義が金科玉条になり、ビジネスマンはMBAをめざし、お笑い芸人がテレビを占めて選挙に立候補するようになり、寄るとさわると何でもやたらに「かわいい」になっていた。司馬遼太郎が「文藝春秋」に『この国のかたち』を連載しながら、日本はダメになるかもしれないと呟いていた。

「ディープな日本」を理解するために

また10年後、ベルリンの壁がなくなった反面、湾岸戦争が新たな大矛盾をもたらしていたなか、日本はバブルが崩壊したままに「かわいい」文化を蔓延させていました。

それでもインターネットが登場して、これなら日本は独自の編集文化力をふたたび発揮するだろうと期待をしたのですが、電子日本はアメリカン・テクノロジーの追随に走るばかり、そこへもってきて上っすべりの和風テイストばかりが横行するようになっていました。

たらこスパゲッティや独特ラーメンがなくなったわけではありません。むしろ和食はさらに工夫を磨き、アニメは日本の少年少女の幻想と哀切を描き、日本語のラップが登場し、オシムは「日本らしいサッカー」に徹するべきだと言いだしていた。

けれどもそうしたものが何を語ろうとしているか、小泉・竹中劇場の新自由主義の邁進や、グローバル資本主義に席巻されるマネー主義は、そうした試みを軽々と蹂躙していったのです。

日本の哲学が浮上するということはなかなかおこりません。Jポップや日本アニメや日本現代アートに何がひそんでいるのか、そこをあきらかにするための日本文化や哲学はほとんど解説されはしなかったのです。これはいったん『愚管抄』や『五輪書』や『茶の本』や『夜明け前』に戻るしかないだろうと思えました。

こうして私もいろいろ書いたり語ったりするようになったのですが、本書はそれらの反省と忸怩たる思いを払拭するためにも、日本文化の真骨頂というか、日本文化の正体というか核心というか、ずばりディープな日本の特色がどこにあったのかについて、新しい切り口で解説してみようと試みたものです。

お米のこと、柱の文化について、客神の意味、仮名の役割、神仏習合の秘密、間拍子と邦楽器、「すさび」や「粋」の感覚のこと、お祓いと支払いの関係、「まねび」と日本の教育、公家と武家の日本のガバナンスのありか、二項同体思考やデュアルスタンダードの可能性などを採り上げ、それぞれを相互に関連させながら手短かに解読してみました。日本文化案内としてはかなりユニークな視点を組み合わせたつもりです。



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