facebook玉井 昭彦さん投稿記事
『人類が核で自滅しないように』
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百年 未来への歴史)核の呪縛 結成68年、核なき世界は
ノーベル平和賞の授賞式で、日本被団協を代表してスピーチした田中熙巳(てるみ)は、原稿に68年の活動の歩みを詳細に盛り込んだ。
1956年の結成以来、核兵器廃絶や被爆者援護を求め、陰に日なたに身を削ってきた人がいた。
田中はオスロ入りに先立ち、記者に語った。「運動を切り開いた人たちがいて、自分はあとを固めた役回りにすぎない。広島、長崎だけではなく、東北や四国など日本各地でがんばっている被爆者がいるのです」
その分も思いを語る場が、この日のスピーチだ。
被団協が果たした役割を、ノーベル委員会は平和賞の授賞理由でこうたたえた。
《日本被団協やその他の被爆者の代表者らによる並外れた努力は、核のタブーの確立に大きく貢献した》
だが、こうも続けた。
《だからこそ、この核兵器使用のタブーがいま、圧力の下にあることを憂慮する》
被爆者の献身的な訴えにもかかわらず核なき世界は遠く、核を恫喝に使う政治家すらいる。
授賞式前日の会見で、委員長のヨルゲン・ワトネ・フリドネスは核保有国へのメッセージとして言った。「被爆者の証言に耳を傾けろ」「被爆者の話を聞け」=敬称略
天声人語)原爆をつくる人々に
死の静けさに覆われた原爆投下後の長崎。黒焦げの人が銀行の礎石に座ったまま動かなくなっていた。死んでいる、と行き過ぎようとした23歳の福田須磨子さんは、かすかな声に驚く。「水を下さい」。空耳か。「水を……」。
黒焦げの手にコップを渡すと、スローモーションのように腕は動き、1~2滴が唇に触れたかという瞬間、その人はコップを落として、命燃え尽きた。「その事実だけを受け取る以外にない。(略)祈らずにはおれなかった」(『われなお生きてあり』)。
人間として死ぬことも人間らしく生きることも許さない、それが原爆だと日本被団協は訴えつづけてきた。会の精神は、68年前の結成宣言に凝縮されている。「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」。長年の活動に、きのうノーベル平和賞が贈られた。
ここ数日、代表団は高齢をおして、海外メディアとの会見などに応じてきた。映像を見ていると、心の奥底が痛む。この国は、いまも「核の傘」の下にいるからだ。
互いに核を持てばどちらも攻撃できないという核抑止論は、リーダーの判断は常に理性的だという仮定に支えられている。歴史と世界を見渡すとき、それが信じられるだろうか。
福田さんは多くの詩を書いた。その一つを、いま読み返す。〈原爆を作る人々よ!/今こそ ためらうことなく/手の中にある一切を放棄するのだ。/そこに始めて 真の平和が生まれ/人間は人間として蘇(よみがえ)ることが出来るのだ。〉
朝日新聞12月12日
https://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S16103387.html
「一瞬に焼き付いた人型の石」
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=74762 【[詩(うた)のゆくえ] 第4部 響け平和へ <1> 「原爆を許すまじ」作詞者 浅田石二さん】より
歌声に乗って 反核運動に伴走 被爆地と連帯
原爆や戦争にあらがう詩には、峠三吉、栗原貞子らの代表的な原爆詩のほかにも、曲に乗って広く人々の口に上った詩、家族の死にひそやかに向き合った詩など、さまざまな形がある。被爆・戦後72年の歳月のうちに生まれ、平和への願いと意志を込めた多様な「響き」に耳を傾ける。
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この「うた」が生まれて、63年がたった。今も、日本被団協の総会など被爆者の集いで高らかに響き渡る。浅田石二さん作詞、故木下航二さん作曲「原爆を許すまじ」。原水爆禁止運動と伴走した歌でもある。
「今も歌われているのは、むしろ残念。核兵器廃絶が実現していない証しだから」。作詞者は、禁止条約にも加わろうとしない被爆国日本の政府を「恥ずかしい」と非難する。
ふるさとの街やかれ/身よりの骨うめし焼土(やけつち)に/今は白い花咲く/ああ許すまじ原爆を/三度(みたび)許すまじ原爆を/われらの街に(1番の歌詞)
叙情的な旋律と分かち難いこの詩が生まれたのは、広島でも長崎でもなく、大小の工場がひしめく東京の下町だった。「東京に住んでいても、被爆地はわがふるさと、殺されたのはわが身寄り。仲間と議論の末、そう思い定めたんです」。作詞当時、浅田さんは大田区下丸子などを拠点とした労働者のサークル「南部文化集団」に所属する若き詩人だった。
山梨県の高校を卒業し、上京。詩人として活動し始めたのは1950年代初頭だ。「定職にも就かず、何を食べていたか記憶がない」。仲間と詩の論議をすることで、腹の代わりに心を満たす日々だった。
広島では、峠や栗原らがやはりサークルをつくり、機関紙「われらの詩(うた)」を舞台に創作を重ねていた。朝鮮戦争が始まり、言論への締め付けが強まった時代だが、「原爆について、峠さんらの仕事を通じて少しずつ知るようになっていた」。各地のサークルは強い連帯感情で結ばれてもいた。
54年3月、太平洋ビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸事件を契機に、原水禁運動が野火のように広がる。これに前後して、東京で創作歌の運動をリードしていたのが、作曲者の木下さんだった。「今、求められているのは原爆反対の歌です」。木下さんのそんな呼び掛けに応え、書いたのが「原爆を許すまじ」である。
浅田さんがこの歌を初めて耳にするのは、同年8月に広島であった「国鉄のうたごえ」祭典に参加し、東京に帰る夜行列車の中だったという。「列車の中で、覚えのある詩句が歌になって聞こえてきた」
祭典の参加者が、できたての歌を車中で歌い交わしていたのだ。驚いて「それは僕が書いた詩だ」と言うと、感激した参加者に胴上げされたという。以来、この歌が何度歌われたか―。膨大すぎて想像もつかない。
昨年10月、浅田さんらの活動について詳述した本「下丸子文化集団とその時代」(みすず書房)が刊行された。49歳で早世した研究者、道場親信さんの遺著。サークル文化運動を通じて「工場街に詩があった」50年代の息吹を、今に伝える一冊だ。
仲間の一人、呉隆(くれ・たかし)さんの詩が同書に引用されている。
おれたちはものを言おう……/おれたちはものを書こう……//まともな人は/まともにしかものが言えないし/ひがんだものは/ひがんだようにしかものが言えない(中略)これは素晴しいことではないか!/おれたちはものを言おう……(「詩集下丸子」第2集から)
翻って現在。6月、「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法が成立した。50年代とは違った形で、表現の自由が萎縮しかねない時代。「ものを言う」詩の可能性について浅田さんに問うてみた。
「抵抗すべきものを見失っている時代に、詩は生まれない。最近、いいと思った詩は、沖縄慰霊の日(6月23日)に高校生が読み上げた詩くらいかな。軍事基地に囲まれた地で、子どもだからこそ書けた詩だ」
厳しいエールに違いない。(道面雅量)
あさだ・いしじ
1932年山梨県生まれ。高校の後輩だった江島寛らがつくった「下丸子文化集団」や後身の「南部文化集団」に参加。広告代理店、出版社勤務を経て独立し、今も編集者として活動している。東京都在住。
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=74880 【[詩(うた)のゆくえ] 第4部 響け平和へ <2> 「ヒロシマを伝える」著者 永田浩三さん】より
筆に込めた反戦 占領下での志 次世代に勇気
四国五郎(1924~2014年)は、広島市を拠点に反戦平和の願いを筆に込めた画家として知られる。死後、回顧展が各地で開かれる中で「再発見」されたのが、その詩人としての側面だ。今春には、40編余りの詩を収めた70年刊の詩画集「母子像」が復刻された。
永田浩三さんが昨年7月に著した「ヒロシマを伝える」(WAVE出版)は、「詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち」を副題とする、四国の評伝だ。その詩作について「技巧を凝らすより、耳で聴いても分かりやすいシンプルな詩を目指した」とみる。
画業でも、平和のメッセージを分かりやすく伝えることに徹し、自己表現が後回しになるのもいとわなかった四国。詩作でも、その姿勢を貫いた。
日本がまだ連合国軍占領下の51年、京都市の百貨店で開かれた原爆展では、丸木位里・俊夫妻による「原爆の図」などと共に、四国の詩「心に喰い込め」がパネルで紹介された。
この黒い土の上で/くらい原子雲の下で/死んで行った人々よ/弟よ/何をかんがえる//―この黒い土がいつまでも黒いように/ひとびとの戦争を憎む気持をかえさせまい/いつまでもかえさせまい―
広島で被爆死した弟に言及した詩は、四国の姿勢がタイトルにもにじむ。「芸術は書斎や画廊の中だけでなく、町中の、行き交う人々と接する所に存在すると考えた人だった」。四国たちは占領下、危険を冒してでもそうした芸術を実践した。
永田さんが四国の生涯を追い始めたのは2014年。広島市の「清掃員画家」ガタロさんの絵画展を東京で企画した際、ガタロさんがしきりに「四国先生」と言うのを聞いた。権威主義とは縁遠いガタロさんの、四国への深い敬意に興味が湧いた。
資料を調べるうち、「占領期の広島の若い文学者や画家たちが格闘した姿に心を揺さぶられた」という。「その中心に四国さんがいた」
44年に徴兵され、戦地に赴いた四国は原爆を経験していない。絵と言葉で、原爆や戦争の体験者と非体験者の懸け橋となった原動力は何だったのか。永田さんは、「母子像」に収まる詩「弟への鎮魂歌」の痛切な響きに、その答えを探す。
きみの逃れたみちを逆に/またひろしまの都心へと人々が行進する/もちろんきみも一緒に歩いてゆく/あらゆるスローガンをなみうたせて/血の沸騰したぬくもりが/靴底からはいあがる広島の舗道を/敷きつめられた二十万の背すじをたどり/ひとつの流れになって結集するとき//弟よ/笑みをみせてこちらに合図をしてくれ
「弟よ/きみの命日が来る」で始まるこの詩は、「弟の死を無駄にしないため、広島の悲劇が二度と起きないように歩んでいくという宣言だと思う」。
「母子像」の最初に掲載された詩も、自らを追い込むかのように人生の使命を定めている。
おまえは/見なかったとはいわさぬ/消え去ったふるさとを/かしいで骨をさらしたドームを//五郎よ/おまえは/きかなかったとはいわさぬ/根こそぎ消え去った人々の名を/弟と恋人の断末を/老いた母の嗚咽を(「五郎よ」から)
戦争の記憶が生々しかった四国の世代から、時代は移り変わった。しかし、彼らが占領下にあっても振るった筆の志を思うとき、「私たちが安易に政権の意向を忖度(そんたく)し、表現を自粛するわけにはいかない」。残された詩が勇気をくれる。(鈴木大介)
ながた・こうぞう
1954年大阪府生まれ。NHKでディレクターやプロデューサーとして、主にドキュメンタリーの制作に携わる。2009年に退職後、武蔵大教授。東京都在住。
(2017年8月5日朝刊掲載)
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=75208 【[詩(うた)のゆくえ] 第4部 響け平和へ <3> 被爆詩人米田栄作の長男 米田勁草さん】より
犠牲者悼み 創作再開した父 思い絵筆で継ぐ
「原爆で失ったわが子の鎮魂、広島の復興…。父の詩には、切なる祈りが流れている」。あの日から72年目の夏。ヒロシマを詩にうたい続けた父、米田栄作(1908~2002年)の代表詩「川よ とわに美しく」の一節をかみしめる。
ふたたび すばやく美しく甦(よみがえ)ったもの/それは三角州(でるた)をつらぬく川だった//日を趁(お)うて 水脈(みお)は/色濃く冴(さ)えてきた//その色のなかで 私の子は/随分大きくなっただろう
「私の子」は、被爆当時2歳だった哲郎さん。勁草さんの6歳下の弟だった。「穏やかな詩だが、多くの命を奪った原爆や戦争への怒りが込められていると思う」
幼い哲郎さんは、爆心地に近い広島市左官町(現中区)の祖父母宅に預けられていた。父の栄作は建物疎開後に移り住んだ段原新町(南区)で被爆。来る日も来る日も哲郎さんを捜したが、見つからなかったという。
勁草さんは、学童疎開先の安野村(広島県安芸太田町)にいた。原爆投下の1カ月後、焼け野原の広島市へ。翠町(南区)の借家で暮らし始めて間もなく、市近郊で病気療養中の母が亡くなった。度重なる悲しみの中、「父は戦中の沈黙を破り、詩作を再開した」
栄作が詩に熱中したのは13歳の頃から。仲間と詩誌を編み、画家山路商ら前衛の芸術家と交流した。「詩で食べていこう」と18歳の時に上京したものの断念する。実家の建材店で働きながら詩を書き、1937年に第1詩集「鳩(はと)の夜」を刊行。だが、これを境に詩作から遠ざかった。
同年の日中戦争から太平洋戦争へ。「戦火は私に詩を書かせなかった」―。戦後、栄作は自身の詩集にそうつづっている。軍国主義に迎合しない、静かな抵抗だったのだろうか。
原爆に打ちのめされながらも、生きる力と、詩への情熱をかき立てたのは、息吹を取り戻していくデルタの川だった。48年、峠三吉らと広島詩人協会を結成し、詩誌「地核」を発行。「川よ―」「川の鎮魂歌」「星の歌」などを発表し、51年から詩集も刊行していく。
ただ、その詩は、「ちちをかえせ ははをかえせ」で知られる峠のような強い訴えとは作風を異にする。犠牲者を悼み、平和の祈りが静かにあふれ出すような詩。「原爆詩人と呼ばれるのを嫌がり、政治色もなかった」と勁草さん。一方で、「今書かなければという思いは詩に注いだようだ」と振り返る。
61年刊行の詩集「八月六日の奏鳴」にある一編。
きょうもまた、水爆実験が告げられるとき/最大振幅〇・五ミリバールの/異常微気圧振動/揺さぶられ通しだ/<崩れてはならない>広島の砂よ/<眠ってはならない>眼を開くのだ(「火を噴く砂」から)
91年の湾岸戦争では、こう問い掛けた。
繰り返させてはならぬことが繰り返されている/繰り返させぬために/ヒロシマよ われらは何を為(な)すべきか(「碑銘余話」から)
「川よ―」など一部の詩は、作曲家三枝成彰さんたちが合唱曲にし、歌い継がれている。勁草さんも市職員を定年後、絵を習い、父の詩をモチーフに絵筆を振るってきた。2001年から開いた個展は4回を数える。
「手探りだが、僕なりにヒロシマのメッセージを表現できれば」。言葉をろ過するように書かれた父の詩の、ひそやかだが独自の響きとともに、次代へ手渡したいと願う。(林淳一郎)
よねだ・けいそう
1937年広島市中区生まれ。61年に同市職員となり、82年から4年間、現在の原爆資料館東館(中区)にあった旧平和記念館長を務めた。97年に退職後、画業に励む。南区在住。
(2017年8月8日朝刊掲載)
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=75317 【「詩(うた)のゆくえ] 第4部 響け平和へ <4> 文化人類学者・現代美術家 小田マサノリさん】より
民の中から 湧き上がる言葉 時超え伝わる
東京都内などの大学で教える学生は千人近い。傍らで、社会を風刺する現代アートを手掛け、反戦や反原発運動をけん引してきたアクティビスト(活動家)でもある。気鋭の行動派学者が心を砕くのは、「誰にも響く言葉や表現の発信」だ。
原点の一つが、旧制松江高で学び、戦後に雑誌「暮しの手帖」を創刊した編集者花森安治(1911~78年)の言葉という。70年に同誌へ載った400行を超す詩「見よぼくら一銭五厘の旗」もそう。「昭和20年8月15日」の敗戦を振り返り、25年たった戦後民主主義の揺らぎを自戒しながら問う。公害など新たな問題にも直面した頃だ。
さて ぼくらは もう一度/倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から/おしまげられたり ねじれたりして/錆(さ)びついている<民主々義>を 探しだしてきて 錆びをおとし 部品を集め しっかり 組みたてる/民主々義の<民>は 庶民の民だ/ぼくらの暮しを なによりも第一にするということだ
花森はさらに続ける。
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ/ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ/それが ほんとうの<民主々義>だ
「誰に対しても忖度(そんたく)しない、自分の内面から湧き上がってきた言葉。だからこそ、読み手に響く」と小田さん。戦中、花森は大政翼賛会の宣伝部にいた。「戦後はプロパガンダの使い方を百八十度変えた。『見よ―』も中立的とはいえないが、そもそも詩をはじめとする文学って、自由で縛られないものだと思う」
花森の詩を思い起こしたのは、2003年のイラク戦争の時だった。各地で反戦運動が起き、被爆地広島でも約6千人が「NO WAR(戦争) NO DU(劣化ウラン弾)!」の人文字をつくって抗議の意思を示した。
小田さんも、友人の美術家やミュージシャンと都内でデモを展開した。トラックから音楽を流して練り歩く、斬新なサウンドデモ。自身もドラムを打ち鳴らして加わった。
掲げる旗やプラカードに描いたのは「殺すな」のロゴだ。ベトナム戦争さなかの67年、画家岡本太郎がデザインし、米紙ワシントン・ポストに反戦の意見広告として掲載された。
「自分の反戦意識の源泉を考えた時、過去のものになりかけていた花森や岡本の言葉にたどり着いた」という。「デモは怒りや心の痛みを可視化させ、同じ思いの人がいることを確認できる場。今起きていることに対して、リアルタイムで自分の考えをどう発信していくか。言葉や現代アートには、時代を捉え、人を動かす力がある」
11年の福島第1原発事故後も国会や首相官邸前のデモに参加してきた。「世代交代が必要」と2年前に一線から退き、今は大学の講義に熱意を注ぐ。文化人類学をはじめ、芸術、メディア論など内容は幅広い。
講義の一つ「メディアと現代社会」では、これからの表現が「文字や言葉よりも、映像になっていく」と説く。被爆地広島、長崎でも、バーチャルリアリティー(VR)や拡張現実(AR)の技術を活用し、「あの日」を追体験する取り組みが進みつつある。
「言葉がどう並走していけるか。映像にはできなくて、言葉にしかできないものは何か。その逆も含めて見極め、原爆や戦争の体験伝承も考えていかなければ」
今、どの国の政治も「独裁っぽくて、危うい」と感じる。「でも、『ぽい』ものは見破られ、変わっていく。僕はそれを見届けたい」。花森の詩のような、時を超えて響く言葉を物差しにして。(林淳一郎)
おだ・まさのり
1966年福岡県生まれ。89~96年にアフリカで文化人類学の調査に従事。現代美術家として「横浜トリエンナーレ2001」などに出品し、「イルコモンズ」名義でも活動する。東京外国語大などの非常勤講師。東京都在住。
(2017年8月9日朝刊掲載)
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