下野薬師寺跡

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【奈良時代の有名な僧侶(鑑真・行基・道鏡)について整理する】より

奈良時代を勉強していると僧侶が出てくることに気が付くでしょう。奈良時代の有名な僧侶で覚えておくべきは鑑真・行基・道鏡の3名です。それぞれどのような事をして有名になったのかをしっかりと整理して把握しておくことが大切です。

でも、どうして、奈良時代になるとここまで有名な僧侶が現れるようになったのでしょうか!?それは、奈良時代の歴史的な背景や天皇の考え方を理解することがポイントになってきます。

奈良時代には7代の天皇がいましたが、なかでも重要なのが聖武天皇です。聖武天皇は非常に仏教を重んじた天皇ということを思い出してほしいのです。日本の歴史を勉強していると奈良時代くらいから次第に僧侶が出てくるようになります。それくらい歴史を学ぶ上で重要な人物と言えるからでしょう。

ここでは、奈良時代の代表的な僧侶である鑑真・行基・道鏡の3名についてしっかりと違いを意識しながら整理して覚えるようにしましょう。そして、次第に僧侶の社会的な地位が高くなっているということを敏感に感じ取ってください。

鑑真は唐からわたってきた外来の僧侶です。唐招提寺でも有名です

まず知っておきたいのが鑑真です。鑑真はもともとは日本の僧侶ではありません。中国の唐から日本に渡ってきた僧侶であるということを整理しておきましょう。753年に日本に来たとされており、日本には律宗を伝えています。

鑑真が建てた有名な寺院が唐招提寺です。新田部親王の旧宅跡を譲り受けて、そこに建てた寺院と言われています。鑑真は、鑑真和上としても名が通っている僧侶です。

行基は、民衆へ仏教の布教活動をした日本の僧侶です

行基は、日本の僧侶です。行基が行った功績として有名なのが、民衆へ仏教を普及する活動を積極的に行ったということです。奈良時代を境に日本の歴史上で仏教は切り離すことが出来ません。当時に民衆へ仏教を広めることはその後の日本の歴史にも大きな影響を与えたのではないかと考えられます。

この行基のことを学ぶ上で忘れていけないことと言えば、聖武天皇に東大寺大仏の建立の責任者に抜擢されたということです。

道鏡は天皇の地位も狙った僧侶です。和気清麻呂により阻まれました

道鏡は当時の僧侶としては珍しく政界にも影響力を持つほどの僧侶だったということを理解しましょう。いかにこの時代に入ってから僧侶の地位が高くなっていったのかを感じ取ってください。

道鏡は、大乗大臣禅師となっています。天皇の地位までも狙っていたとされています。しかし、和気清麻呂により夢を阻まれ失脚することになったのです。


https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=27&r=127 【下野薬師寺跡】より

下野薬師寺はどのように栄えてきたか

(下野市教育委員会提供)

奈良時代(ならじだい)、聖武天皇(しょうむてんのう)は、正しい仏教の教えを広めるために唐から鑑真(がんじん)をまねきました。

鑑真は、僧としての正しい教え(戒律)を授けるための施設〔戒壇(かいだん)〕を東大寺(とうだいじ)(奈良県)に造りました。

これにより、厳しい修行を積み、戒壇で「受戒(じゅかい)」という儀式を行ってはじめて僧になるための資格がもらえるようなしくみが整えられました。

その後、同じような施設が、筑紫観世音寺(つくしかんぜおんじ)〔福岡県(ふくおかけん)〕と下野薬師寺にも造られました。

それからは、「天下の三戒壇」と呼ばれ、下野薬師寺は、僧になりたい者が大勢訪れる格式の高い寺院になりました。

また、下野薬師寺は、奈良時代の終わりごろ法王として思うままに国の政治を行っていた道鏡(どうきょう)が、力を失ったあとに流されてきた寺としても有名です。

近くには道鏡の墓と言われる「道鏡塚」や道鏡の伝説などがたくさん残されています。

記録に「七大寺(しちだいじ)〔東大寺、法隆寺(ほうりゅうじ)など〕のごとし」と書かれましたように、平城京(へいじょうきょう)の大寺院に負けないくらいに大きく立派な寺となり、その敷地は、たて250m×横330mくらいだったと想像されています。


https://iippe-tochigi.com/archives/1038 【「下野薬師寺」の歴史】より

「下野薬師寺」の歴史

病気平癒を祈願する薬師寺

薬師寺といえば、ほとんどの人が奈良の薬師寺を思い浮かべるだろう。奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ。1998(平成10)年には「古都奈良の文化財」の構成要素の一つとして世界文化遺産に登録された。天武天皇が、皇后で後の持統天皇となる鵜野讃良(うののさらら)の病気平癒を祈願して建立したもので、幾多の戦火や災禍を免れた東塔は、奈良時代の建築様式を現在に伝えている。

仏教文化を象徴する名刹、下野薬師寺

これとほぼ同時期、下野国(現在の栃木県)にも薬師寺が創建された。下野薬師寺である。自治医科大学の一帯には現在も「薬師寺」という地名が残る。

下野薬師寺の縁起によれば、白鳳8年卯年(679)に沙門祚連(それん)が天武天皇の后である持統天皇の病気平癒を願って、この地に堂宇を建立し、薬師如来を安置した。広く知られるようになるのは、天平宝字5(761)年に鑑真和上によって戒壇院(かいだんいん)が建てられてからである。戒壇とは戒律を授けるための場所であり、僧侶となる者が修行する場をいう。東国で唯一設置されたのが下野薬師寺で、奈良の東大寺、筑紫(現在の福岡県)の観世音寺とともに天下三戒壇と称された。

復原された下野薬師寺戒壇堂

下野薬師寺の変遷

下野薬師寺からは日光山を開山した勝道をはじめとする数々の高僧が輩出され、また孝謙天皇の寵愛を受け、後に失脚した道鏡(700?-772)が下向した地としても知られている。

嘉祥元(848)年の『続日本後紀』には、「体制巍々(ぎぎ)として、あたかも七大寺(東大寺や法隆寺など奈良にある七つの大きな寺)のごとし」と記されており、日本屈指の大寺院に発展していたことがわかる。平安時代に一時衰退したが、鎌倉時代に再興を果たし、南北朝時代には足利尊氏によって安國寺と改称された。

その後の度重なる火災や戦乱によって、伽藍の多くが失われたが、昭和41(1966)年より発掘調査が行われ、その全貌があきらかになりつつある。

下野薬師寺跡

栃木県立博物館で特別企画展を開催

栃木県立博物館では、9月17日から10月30日まで開館40周年特別企画展として「鑑真和上と下野薬師寺~天下三戒壇でつながる信仰の場~」を開催する。

唐招提寺や下野薬師寺が所蔵する国宝・重要文化財を含む約150点の資料から古代の下野を紹介する。東の辺境の地であった栃木に大寺院が建立され、仏教文化が栄えていたことは興味深い。古代のロマンに思いを馳せて、展覧会をご覧いただきたい。

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