https://fuhgetsu.hatenablog.com/entry/2023/03/04/010915 【日光修験と星宮神社のイワサクとネサク】より
これまで星信仰といえば、各地にある妙見信仰で北極星や北斗七星を祀ったり、尾張の庄内川沿いにある星神社などで天津甕星や天香香背男を祀ることはだいぶ調べ歩いた時期があります。
しかし、尾張西部にある赤星明神=星の宮になぜかニギハヤヒが祀られていることが長らく謎でしたが、その関係で根裂神が単独で祀られていることを最近になって知りました。
そして美濃の八百津にある星宮神社に天香香背男が祀られてましたが、明治以前は虚空蔵菩薩で、それは日光修験から来ているらしいことがわかってきた。
日本全国にある星宮神社は、ほとんどが日光修験の栃木県に集中しており、その数は計り知れないほど。
その星宮神社には天香香背男ではなく、磐裂神と根裂神がペアで祀られているパターンが数多く見られます。
片方だけの場合もあったり、経津主神や建御雷神が並祭されたり、やはりこれがまたよくわからない。
こういうカミさま関係の調べものは、漢字や名前がごちゃごちゃしている上、神話そのものが複数存在し、調べれば調べるほど支離滅裂となって混乱する。
そこに整合性を求めず、すべてがヒントとなっていることを前提に、少しずつでも前に進めてみよう。
まずは、なぜイワサクとネサクが星信仰の神となったのか。
石拆神と根拆神(古事記)
磐裂神と根裂神(日本書紀)
記紀神話に出てくるこの二神が、まずはどんな神であるのか見てみよう。
カグツチを産んだイザナミのホトが焼かれ死んでしまったことに怒り狂ったイザナギが十拳剣=天之尾羽張でカグツチの首を斬り、殺された死体からは神々が生まれ、剣から滴り落ちる血からも神々が生まれました。
まず、剣の先についた血から石拆(いわさく)神と根拆(ねさく)神と石筒之男(いわつつお)神の三柱が生まれる。
次に、剣の鍔(つば)についた血から甕速日(みかはやひ)神と樋速日(ひはやひ)神と建御雷(たけみかづち)神=建布都(たけふつ)神の三柱が生まれる。
※ 古事記では、石拆神と根拆神と石筒之男神と甕速日神と樋速日神と建御雷之男神の六柱が生まれる。
日本書紀第五段では、磐裂神と根裂神と磐筒男神と磐筒女神と経津主神の五柱が生まれる。
また、日本書紀第九段では、天之尾羽張神の子が甕速日神で、その子が樋速日神で、またその子が建御雷神であると、並列ではなく親子四代で記されている。
そして最後に、剣の柄についた血から闇淤加美(くらおかみ)神と闇御津羽(くらみつは)神の二柱が生まれる。
こうして、記紀では十拳剣から神々が生まれたことになっており、農耕や製鉄に関わる神話であるなど様々な解釈がなされてきた。
通説では、いったい何処に星神話が隠されているのか路頭に迷ってしまう。
続いて、甕速日神と樋速日神を祭神とする神社を見てみよう。
佐肆布都(さつふと)神社(長崎県壱岐市芦辺町箱崎大左右触)
※建御雷神と甕速日神と樋速日神と経津主神ほか
斐伊神社(島根県雲南市木次町里方)
※伊都之尾羽張命のほか相殿には斐伊波夜比古=樋速夜比古=樋速日神と甕速日神とカグツチなどが祀られている
新田神社(鹿児島県薩摩川内市宮内町)
※ 境外末社の九樓(くろう)神社に甕速日神が守公(しゅこう)神社に饒速日神が祀られている
蜂前(はちさき)神社(静岡県浜松市北区細江町中川)
※樋速日神と甕速日神と建御雷神の三柱
八幡神社/一条八幡宮(山形県酒田市市条字水上)
※建御名方神と甕速日神と経津主神と建御雷神と樋速日神を合祀
これで何がわかるかというと、あまりピンとこないかもしれませんが、甕速日神と饒速日神を並列に祀る新田神社があります。
甕速日と饒速日のハヤヒ。
この速日とは何か。
甕(ミカ)がカメであるとか、饒(ニギ)は賑々しいとか、漢字の解釈に惑わされてはいけません。
単なる当て字です。
ミカという言葉、ニギという言葉に意味があり、ハヤヒという言葉に意味があります。
ミカは、天津甕星や建御雷神=武甕槌神のミカとも共通します。
そして、ハヤヒは流星の可能性があります。
ニギハヤヒを太陽神とするより、隕石に関する星信仰の神であることも頭の片隅に置いておかないといけません。
その隕鉄で古代の剣がつくられたことでしょう。
石上神宮の主祭神は布都御魂(ふつみたま)という剣に宿る神です。
日本書紀のフツミタマ剣は、経津主神と建御雷神が葦原中国の征服に用いた剣で、初代神武天皇が熊野山中で窮地を脱する時に使われました。
そのフツミタマ剣を神宝とする鹿島神宮には建御雷神が、香取神宮には経津主神が祀られている。
それぞれにある要石は本当に地震を抑えているのか、それとも何か別の目的があるのではないか。
かなり長文となったわりには、答えなど見つからず終わりそうですが、ここには書ききれないけど何か光のようなものが見えはじめてます。
理路整然と言葉でまとめる前に、まだまだあちこちに星神がたくさんおられますので、近隣の気になる土地に出かけては、このまま星巡りを続けようと思ってます。
http://www.komainu.org/gifu/gujyosi/hosimiya_minami/hosimiya.html 【星宮神社】より
郡上市美並町高砂1252(平成20年11月23日)
東経136度54分54.77秒、北緯35度39分55.91秒に鎮座。
この神社は、高賀六社の一社で、名古屋の北50km程の辺り、長良川鉄道・赤池駅の西4km程の辺りに鎮座しております。神社ですが、御本尊を虚空蔵菩薩とする、神仏習合の信仰形態を今も守っている貴重な神社です。多くの星宮神社が御祭神を天御中主とする神社とされ、仏像や経巻は焼かれ、仏教色を除かれたところが殆どです。ここ高賀地区では廃仏毀釈の嵐は吹かなかったのでしょうか。隣に元別当寺の粥川寺が移築保存されており、大般若経や多くの懸仏が残るこの地で、古くから伝わる虚空蔵菩薩信仰を何時までも守り伝えて欲しいと思います。
由緒
天暦のはじめ(947年頃)西の岳に妖鬼が住み、人々を悩ましたので都の帝に申し上げると、藤原高光を妖鬼退治に遣わされた。高光は大岳に登りこれを退治して都に帰った。しかし妖鬼の亡魂が山頂に留り、人々を苦しめたので重ねて都へ申し上げると、再び高光を遣わされた。しかし妖鬼の亡魂はあちこちを飛びまわるので退治することができない。高光は虚空蔵菩薩に亡魂退治を祈るとお告げがあり、南の岳でおそいかかる大鳥を蕪矢で射落とすことができた。
高光は大鳥の首を雁俣の矢でかき切り、死がいを焼いたのでその場所を骨原というようになった。
山を福部岳と名付け、虚空蔵菩薩をおまつりした星宮神社に弓を納め、矢を滝に納めたので矢納め滝といい、渕を矢納が渕というようになった。
山岳信仰と修験道
1.古代の人は祖霊のこもる山としてダケ(瓢が岳)に対する信仰があり後に山の神に対する信仰となった。平安時代のはじめ粥川のオヅガ洞には役行者をまつった雄角明神があった。また、星宮神社には天暦七年(953)の奥書がある大般若経やその残簡が多く残されている。こうしたことから平安時代のはじめ頃星宮神社を中心に原始修験道があったことがわかる。
2.原始修験道では、金、銀、水銀、水晶等は薬物であり、これを服用すると永遠の生命が得られるとされた。従ってこうした鉱物が採取される場所を神聖視し、みだりに人の出入りを禁じた。瓢が岳周辺には廃坑が多くこれを裏付けている。そして鉱物を掘り出す人々(オニ)即ち鉱山師、修験者などは、その守り神として蔵王権現、虚空蔵菩薩をまつったのである。
虚空蔵信仰と修験の里・粥川
虚空蔵菩薩は、幸福や知恵を授け、人々の願いをかなえてくれる菩薩である。この信仰は白山を開いた泰澄大師が虚空蔵菩薩求聞持法を修したことによるもので、石微白(いとしろ)・中居(ちゅうきょ)神社の信仰が広がり、平安時代末期虚空蔵菩薩を本地仏としてまつるようになった。そして虚空蔵菩薩を明星天子としてまつることから星宮と称するようになり、その別当寺が粥川寺であった。その最盛期は鎌倉時代で、多くの懸仏が奉納され、浄財による仏像の造顕、大般若経の写経が盛んに行われた。
こうした信仰を支えるものが修験集団の活動であり酷しい修行の中心地が瓢ヶ岳、大谷川(粥川)や粥川寺であった。
信仰が盛んになるにつれ、その周辺もその働きを支える仕組みとなっていった。谷戸、半僧、平僧、入道、金剛堂、坊切などの地名に残り、鰻の禁忌が今なお固く守られていることなど粥川郷全体が修験の里であったことを示すものである。
星宮神社・粥川寺
鎌倉時代から南北朝時代、高賀修験集団の中心地としてその最盛期を迎えた。一山の中心に本殿、拝殿、護摩堂、三重塔、宝蔵、鐘楼等があり、これに奉仕する不動院、大日院等十二院があり、輪番で本坊を勤めた。
社領は粥川村、高原村等九箇村に及んでいた。粥川寺は真言宗無本寺である。江戸時代には、供僧山伏が四十人住む寺で粥川社ともいった。星宮神社は昭和五十七年金幣社となり、粥川寺は昭和五十九年伝承館横に移築された。
天然記念物「粥川の鰻」と「左鎌奉納」
藤原高光が妖鬼退治のため山に分け入り道に迷った時、鰻の道案内で山頂に着く事ができた。高光は鰻を矢納が渕に放ち、神のお使いだから大切にするよう命じた。以来今日までこれを守り続け、大正十三年国の天然記念物に指定された。「左鎌奉納」虚空蔵菩薩に祈願をかけたり、そのお礼のために古くから左鎌が奉納されている。鎌の柄に願い事、住所、氏名、年令を書くが、病気平癒特にぜん息が多く、県内外から多数の人が奉納している。
境内由緒書より。全文はこちら。
神社遠景
神社入り口と社号標
境内
参道の狛犬。隣の滋賀県で見かける顔でしょうか。
(昭和2年(1927)1月建立)
平成13年造営の拝殿と、拝殿正面に張ってある虚空蔵菩薩の真言。合掌し真言を唱えれば、神前と言うより仏前といった気分に浸れます。ここでは祝詞は唱えないのでしょうか。
拝殿内部。扁額に「本尊 虚空蔵菩薩」と書かれています。
本殿の門
木鼻の狛犬
本殿
円空が寛文3年に得度し、此処を本寺として全国に遊行した粥川寺の跡地に建つ「美並ふるさと館」。左手の部分が嘗ての粥川寺のようです。由緒書には移築とあるが、ふるさと館とは中でつながっており、恐らく再建と思われます。美並ふるさと館はこちら。
不動堂
宝蔵殿
名木お魂スギと粥川の流れ
途中の高光橋の欄干にいる藤原高光(多分)。流石円空のふるさとです。妖怪さるとらへびを退治した古今無双の豪傑、藤原高光もなにやら円空仏風であります。
鰻の天国かも知れません。決して生きながら裂かれ、蒲焼にされることはなさそうです。浜名湖の鰻に是非教えてあげたい。
ここ以外でも星宮神社の氏子は鰻を食べないと言う所がある。
茨城県龍ケ崎市・星宮神社
栃木県下都賀郡野木町潤島・星宮神社
栃木県下都賀郡野木町丸林・星宮神社
ここでは藤原高光の道案内をしたから、と言われているが、虚空蔵菩薩を本尊とするお寺でも鰻を食べないようです。鰻は虚空蔵菩薩のお使いとか。
虚空蔵菩薩を信仰した、古今亭志ん朝師匠も鰻を断って芸に精進されたそうです。
由緒書の「左鎌奉納」用の絵馬。鎌は描かれているのではなく、鉄で作られた鎌(刃は無い)が釘で打ちつけられています。
左鎌の奉納が行なわれている。これは双生児の場合は一方が左遣いとされており、双生児の大碓命と小碓命のうち大碓命が左遣いであったことに由来する(大碓命は美濃国を開拓したと伝えられている)。所願の成就を祈る時に左鎌を奉納していた。かつては鎌を板壁に突き刺していたが、現在は左鎌が描かれた絵馬になっている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
ふるさと館・館長さんは「左利きの虚空蔵菩薩さんだから」とおっしゃておりますが、どうも虚空蔵菩薩信仰以前の習慣を伝えているようです。
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