http://taka.no.coocan.jp/a5/cgi-bin/dfrontpage/FUDEMAKASE1.htm#%E6%AD%B3%E6%99%82%E8%A8%98%E6%9C%9D%E6%97%A5【平成の歳時記はいかにあるべきか】より
「平成の歳時記はいかにあるべきか」という課題に、まず答えてほしいのは 有李定型を主流派とする社団法人俳人協合(会長、松崎鉄之介)であるが、 俳人協会は当協会の出発以來の唯一の出版物である「俳句選集」(のち「現 代俳句選集」となる)に「季題別」という冠をつけることで(これにも「季 語別」とすべきだとする意見もある。というが、こうしたさまつなことにと らわれるだけで)一向に歳時記編纂に取組む姿勢を見せない。
ところで創立五十周年を迎える現代俳句協会(会長、金子兜太)は俳句に 対する綜合的視野から『現代俳句歳時記』の刊行を企画中であると仄聞する。
この歳時記は、従来の歳時記に無季の項を設けて、いわゆる現代俳句アン ソロジーの編集になるようである。 そうすると「現代俳句歳時記の中 に無季俳句を含むということになり本来の歳時記とはその意図するところが 違ってしまう。
いまさら歳時記とは何ぞと問うまでもなく、四季折々の言葉(季語)の整 理が第一の要件であるから、これにあえて無季の整理をする必要は毛頭な い。ましてアンソロジーとは異なる意図をもっているのであり、俳句言葉の 辞典ならば夏石番矢に『現代俳句キーワード辞典』があり、他にも『俳句用 語辞典』のすぐれた著作物を見る今日、歳時記の基本に立ち帰って季語の 整理に全力投入をしてほしい。
現代俳句協会の企図する『現代俳句歳時記』は、すでにその雛型としての 現代書館版の『現代歳時記』(金子兜太、男山杏子他共編)があり、これに よると、今日の生活に合わせて十二ヶ月の月別を整理の中心に据えている。
それはそれでよいと思われるが、問題は歳時記編集の原点に立ち帰って日本 文化の総集約ともいうべき生活誌としての視点が求められておらず、今日の 生活誌としての季語の整理が不充分でかつての歳時記が京都中心、農事中心 であったものから、如何に今日の生活風土(都会生活)を主題としたものに 季語の整理が出来るかが最大の課題になるのではなかろうか。
なお、従来の歳時記のもつ問題点は各俳句総合誌で断片的に検討されてい るが、いずも断片的であり、歳時記(季語)についての基本線が通ってい ない点がみられる。
又、視点をかえるならば歳時記の編纂は今日、国際的な幅広い現代生活に 対応する国際性のある歳時記が求められる。それ以前に、まずわが国の文化 状況(生活誌)に対応するものを整理すべきで、一気に国際的な視野を求め ることは、今日の歳時記として相応しくないと思う。繰り返すが、まず、わ が国の文化的状況を配慮したところから緻密な検討を加えてほしい。
例えば季節の分類にしても、春夏秋冬という場合に、必ずその中心的季節 感がある。私案によれば
春 あたたか
夏(暑し)→涼し
秋 冷やか
冬 寒い
などの中心的季感語を発掘し、その周囲に季語を整理する。さらに夏を二分 し、梅雨(雨期)と乾燥期(乾期)に分つなどして、わが国の海洋性気候に 対応するなどにも心を配って欲しいのである。
こうした風土的条件から、自然と生活の季語を分類、整理し、われわれの 今日の生活誌との対応を季語によつて示して欲しいのである。
なお、「役に立つ」ということは携帯に便利なことではなく、もつと実作 者を軸に考えてもらいたいのである。それも今日的一般風潮である俳句普 及、大衆化のためではなく、日常生活に役立つものとなるよう工夫の方向を つけてもらいたいと思う。
https://tenki00.exblog.jp/3396430/ 【歳時記を買うの巻 第4回 無季の歳時記】より
前回取り上げた『現代俳句歳時記』(現代俳句協会編・1999)のもうひとつの特徴は「通季」および「無季」という不思議なカテゴリーが設けられ、頁が割かれている点だ。「通季」は「現代の生活の中で季節性が薄れ、どの季節と決め難くなっている季語」(金子兜太「序に代えて」以下同)で、例えば、シャボン玉、ブランコ、風車(かざぐるま)、相撲、鮨など。「無季」の項には、空、地球、ビル、人間、豆腐、牛など、かなりの数にのぼる語が収められているが、何を基準に無季語として登録されたのかは不明。「無季」を「歳時記」に含めた根拠については、金子兜太の一文を以下に引く。
歳時記に何故「無季」語が入るのかと疑念を持つ向きは、歳時記の成り立ちを承知していないのではなかろうか。歳時記の名称は、もともと中国の行事暦や生活暦に関する書を指している。これを季によって整理するようになるのは、連歌の発生普及による。(…略…)広義に受け取って歳時記とは「歳事にかかわる語の集成」とすることが歴史的も正しいのであって、これを単なる季語集とするのは狭い。歳事とは一年中の出来事であり、仕事の謂である。近代から現代へと私たちの生活は、海外からのさまざまな文化・文明を受容し消化しながら、拡大し複雑化してきた。それに伴って言葉も多様化し、季によって整理される語が増加する一方では無季の語も増えている。季語を増加させながら、無季語をも収録していく。それは自然な行為であって、歳時記のあるべき姿なのだ。
金子兜太の文章は勢いがあって、いい。勢いがあるから、信じてしまいそうだが、内容はかなり怪しい。
前半の「歳時記」の本来の意味はたしかにそうだろう。しかし。この本は「俳句歳時記」なのだ。また、話の本筋ではないが、「原則論は、実用主義には勝てない」という事態も、この『現代俳句歳時記』の立場を微妙なものにする。例えば、パソコンは情報処理の機械であるといくら謳っても、買う人の多くは「インターネットが見たいから」「年賀ハガキが自分でつくれるから」という理由で買う。圧倒的多数の俳人は、「歳事にかかわる語の集成」が読みたくて俳句歳時記を手にとるのではない。句を捻るため、あるいは他人の句を読むときの助けに頁をめくるのだ。
後半は、意味不明。「私たちの生活の拡大・複雑化」「それに伴って言葉も多様化」というあたりの雑駁さ(拡大・複雑化する以前の近代の生活って何? だいたいが生活の単純・複雑って何? 多様化する以前の言葉って何?)は大目に見るとしても、「無季語」収録が歳時記の「あるべき姿」であるとする論旨に説得性はない。
きっと、順序が逆なのだ。無季句が存在する(江戸期から現在まで)。これはたしかにそうである。「季語」によって整理される(従来の)俳句歳時記には、無季句は収録されない。当たり前だ。そこで、無季句を収録するために「無季」という不思議なカテゴリーが作られた。そう考えざるを得ない。例えば、「空」という「無季」語の項に挙げられた例句「君もさぞ空をどこらを此夕」(鬼貫)で、「空」を「無季」語として抽出し、「君」や「夕」を「無季」語として抽出しない、その根拠は見つからない。
もう一度言うが、金子兜太の散文は、いい。少なくとも私は好きだ。『一茶句集』とかいう本など、おもしろいぜー。素晴らしくがさつな文章なのだ。でも、「序に代えて」のこの部分はいただけない。
この『現代俳句歳時記』は、拠って立つところに説得力がないので、おのずと全体に「力」のない書物になっている。季語の解説はハンパだし、例句の部分は、現代俳句協会の「会員の作品集でもある」(金子兜太・同前)という有り難い代物で、バラツキは相当なものだ。例句の掲載された会員に買わせる「紳士録商法」は、他の多くの歳時記と同様。「おいおい!」と言いたくなる句の含有率は、ざっと見たところ、他のどの歳時記にも引けをとらない(抜群かもしれない)。
また、例えば、缶ジュースの缶に「露」がついているという句が、「露」(秋)の項の例句として収められているところなど、りっぱにトンデモ本の資格があると思うが、現代俳人にとっては、草葉だろうが缶ジュースだろうがコンクリート家屋だろうが、そこにある露は露、秋の季語、ということなのだろう。(露木茂は秋の季語? いや茂だから夏? いやいや無季語か? それとも「二季」というカテゴリーを新設するか)
そういえば、これを底本に、学研文庫版「現代俳句歳時記」が刊行になっているらしい。
いずれにせよ、ひとつ言えるのは、本はまじめに作んなきゃあね、ということ。
念のために言っておくと、「まじめ」というのは「手間や時間をかけること」と同じではない(このへん誤解が多い)。この「現代俳句歳時記」も手間と時間はかかっていそうだ。誠にご愁傷様である。
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