天井を雲居としてや城の春 高資
五島・富江藩陣屋跡
— 場所: 富江
富江陣屋は長崎県五島市富江町富江(旧・肥前国松浦郡富江)にあった富江藩(高家・表御礼衆、日本最西端の交代寄合領)の政庁です。
明暦元年(1655年)、五島盛清が、宗家である五島・福江藩より3,000石を分知し(富江領)、富江を城下として、青方、魚目、北魚目、宇久島神浦、飯良、久賀島田ノ浦、樺島(現・椛島)などを領有しました。寛文2年(1662年)富江(現・五島市富江町)に陣屋が築かれ、江戸永田町(現在、衆議院第二議員会館敷地)に上屋敷が置かれました。富江五島家は、表高家・交代寄合(大名格)として8代続き、明治に至りました。陣屋跡地には、石塁、石蔵、濠などの遺構が残っています。また、大手門は実相寺の山門として移築され現存しています。
肥前 富江陣屋
富江陣屋は、富江港を見下ろす小高い丘に築かれていた。 現在の富江中学校グランドとなっている地が陣屋跡だ。 陣屋の案内板が、富江中学校の校舎とグランドの間にある道路の校舎側、富江小学校のグランド北西隅にそれぞれ設けられている。
陣屋の遺構は、富江五島氏全盛期に築かれた石蔵が中学校グランド北側フェンスの外側に残されている。 屋根の部分は取り除かれているが、石造りの堅牢な蔵で、火薬・穀物倉庫として使用されていたとか。 また、近くにある実相寺山門は、陣屋の門を移築された門と云われている。
歴 史
富江陣屋は、寛文5年に五島盛清よって築かれた。 盛清は、本家福江城主五島盛勝が家督を相続した時、盛勝が幼少であったため、叔父盛清が後見役を務めた。
盛清は、寛文5年に3千石を本家盛勝から分地され、交代寄合に列し、富江に陣屋を構えた。
富江五島氏は、盛清以後8代続いて明治を迎えるが、6代連龍の時に全盛期を迎え、連龍は大番頭を務めている。 現在残る石蔵はこの連龍と代に築かれたもの。
http://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/tomie-jinya/ 【肥前・富江陣屋】より
歴史
寛文2年(1662年)五島盛清によって築かれた。 盛清は福江藩二代五島盛利の三男で、兄の三代藩主盛次が病弱であったことからその政務を代行し、没後は幼小で家督を継いだ盛勝の後見人として活躍、その功績によって三千石を分与され旗本交代寄合となった。
富江領は初代盛清から代々続いたが八代盛明のとき、朝廷より福江藩に合併して蔵米三千国を新たに支給するとの指示が降った。これに反発した領民たちが一揆を起こすなどの富江騒動が勃発、その結果、五島盛明は謹慎の後、禄百三十石の只の士族となり、富江藩は消滅した。
説明
富江陣屋は現在の富江中学校の北にある運動場の辺りに築かれていた。 陣屋の大手は東側にあり、大手門は現在の実相寺に移築されたが、部材は新調されたようである。陣屋石蔵が北側の民家の裏側に残っており、これが現存する唯一の遺構のようである。
西にある実相寺に大手門が移築され、その西にある瑞雲寺が富江藩五島家の菩提寺で累代の墓が残されている。
城主
五島盛清,五島盛朗,五島盛尚,五島盛峯,五島盛恭,五島運龍,五島盛貫,五島盛明
案内
富江中学校の校門脇に案内板が設置されている。
陣屋跡には生活空間は残されていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B1%9F%E9%99%A3%E5%B1%8B 【富江陣屋(とみえじんや)は、長崎県五島市富江町富江(旧・肥前国松浦郡富江)にあった陣屋(富江藩の政庁)。】より
概要
富江陣屋大手門
富江陣屋略図
五島列島福江島の富江半島一帯は、かつて戸の島(殿浦)と呼ばれていたが、寛永15年(1638年)に富江と改称された。 明暦元年(1655年)、五島盛清が、宗家である福江藩の五島家より3,000石を分知し(富江領)、富江を城下として、青方、魚目、北魚目、宇久島神浦、飯良、久賀島田ノ浦、樺島(現・椛島)などを領有した。寛文2年(1662年)富江(現・五島市富江町)に陣屋が築かれ、江戸永田町(現在、衆議院第二議員会館敷地)に上屋敷が置かれた。富江五島家は、表高家・交代寄合(大名格)として8代続き、明治に至った。陣屋跡地には、石塁や堀跡、米などを蓄えた石蔵などの遺構が残っている。また、陣屋大手門は、浄土宗明月山実相寺の山門として移築され現存する。なお、富江五島家累代の墓所は、東京都文京区本駒込の曹洞宗諏訪山吉祥寺と五島市富江町の曹洞宗洞明山瑞雲寺にある。
https://ameblo.jp/ionia06/entry-12859663775.html 【五島福江島城巡り④】より
五島列島福江島城めぐり 福江島市街地より南へ走っていきます。
鬼岳にも行きたかったですが時間の都合上今回はパス。
向かったのは 富江陣屋 長崎県五島市富江町富江 富江藩の藩庁で五島盛清によって築かれました。
富江中学校前のグラウンドが跡地で中学校前に陣屋跡略図があります。グラウンド横の路地を進むと貯蔵庫の石蔵が残っています。
陣屋跡 石蔵 次は 勘次ケ城(山崎の石塁) 長崎県五島市富江町岳
江戸時代末期に勘次という元船大工が居城したので勘次ケ城と呼ばれたそうです。作業中に行方不明になり正気を失って見つかり次第に離れのこのあたりに住んだとかカッパと一緒に建てたとかかたりとか話があるようです。中世には倭寇の活動拠点とか江戸時代の荷抜き(密貿易)の拠点だったとも。
案内板の他駐車場、トイレもありました
この裏手に石塁があります。意外にしっかりした石塁でした。
道路沿いには倭寇の像も 次に向かいましたのは 玉之浦城 長崎県五島市玉之浦町玉之浦
宇久氏の一族玉之浦氏の居城。玉之浦納は宇久覚の娘を娶りますが義理の兄宇久囲を辰ノ口城に攻め福江島を支配します。後松浦に逃れた宇久囲の息子宇久盛定が松浦氏の支援で上陸し玉之浦納を攻め福江島奪還に成功。
現在の金毘羅神社が出城になりその裏山が主郭になります。
郵便局を進み電気屋横の道を山手に行くと右手の山が金毘羅神社へ行けます。階段を登って行くと出城だった神社です。
ここを登ります この裏を登って行くと石塁が 石塁が綺麗に残っていますね。
この日はこの城でお終い。
後は大瀬崎灯台を見に展望台へ行きましたがこの日は朝から山肌に雲がずっとかかっていていつにわか雨がきてもおかしくないくらい蒸し暑かった。なので下から霧状のガスが立ち上り灯台全然見えなかった
予定より少し早くなりましたが本日の行程は終了。晩御飯は地元スーパーでアジの刺身とトビウオのタタキにお寿司でした トビウオが美味かった
初めての福江島、やはり一日では足りない💦が目当ての城行けたし堪能できました。
翌日は長崎に行き大阪へ。
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