https://www.gakushikai.or.jp/magazine/article/archives/archives_912/ 【東アジアと古代の日本】より
上田 正昭 (京都大学名誉教授・大阪女子大学名誉教授)
はじめに
まわりを海で囲まれている弧状の島国日本は、アジア大陸の東部に位置する東海の列島である。太平洋側を暖流の日本海流(黒潮)が北上し、黒潮は九州南方でわかれて対馬海流となり、日本海側をも北上する。そして北からは寒流の千島海流(親潮)が千島列島にそって南下し、三陸海岸沖から房総沖へ、日本海側をリマン海流が間宮海峡を南下し、対馬海峡におよぶ。
日本の古代史を島国のなかのみで論ずるわけにはいかない。海上の道によって朝鮮半島の国々や中国・渤海あるいは南の島々とのかかわりをもつ。東アジアの歴史や動向とけっして、無関係ではなかった。ここでは主として朝鮮半島の加耶かや・百済・新羅しらぎ・高句麗、そして唐・渤海の関係を中心に考察することにしよう。
友好の軌跡
古代日本は朝鮮半島の国々と友好的であり、朝鮮半島から渡来した人びとが高句麗系の高麗こま(狛)氏、新羅系の秦はた氏、百済・加耶系の漢あや氏であった。これらの渡来人たちが、いかに古代日本の発展に寄与したかは、たとえば飛鳥文化の内容をかえりみただけでもわかる。聖徳太子が四九歳で亡くなったのを悲しみ、橘 郎女たちばなのいらつめが天壽國への往生を念じて作らしめた「天壽國繍帳」の令者は秦久麻くまであり、画者は東やまとの(倭)漢末賢あやのまけん・高麗加西溢こまのかせい・漢奴加己利あやのぬかこりであった。
これらの人びとは新しい技術をもって渡来し、今来いまきの才伎てひととよばれたが、そもそも大和の飛鳥を開発したのは、これらの人たちである。縄文時代から飛鳥には人びとが住んでいたが、弥生時代後半に飛鳥川の大洪水によってムラは消滅、五世紀の後半に渡来した、今来の才伎らが再開発にとりくんだのである。陶部すえつくり・鞍部くらつくり・錦織にしごりなどの須恵器・馬具・織物技術者などであって、蝦夷征討で有名な坂上田村麻呂のもともとの出身地は明日香村の桧前ひのくまに住んだ東漢氏の居住地であった。
聖徳太子の仏教の師は高句麗の慧慈えじらであり、儒教の師は百済の覚哿かくかであった。崇峻天皇元年(五八八)蘇我馬子は初期仏教では最大規模の飛鳥寺の建立に着手した。そし同年百済僧慧聰らをはじめとする寺工・瓦博士・鑪盤ろばん博士・画工らが大和の飛鳥に入った。その伽藍配置は高句麗の清岩里廃寺(金剛寺)や定陵寺と同じタイプの一塔三金堂であり、その舎利容器は百済の最後の都(扶余)の王興寺の舎利容器ときわめて類似することが注目されている。そして高句麗の大興王(嬰陽王)が黄金三百両を飛鳥寺の建立のため贈ったと『日本書紀』にみえている(『元興寺縁起』では三百廿両)。
高句麗使の渡来は欽明天皇三一年(五七〇)のころからであり、高句麗使が持参した烏の羽根に書いた上表文を百済系の渡来人王辰爾おうじんにが解読したエピソードは、『日本書紀』の敏達天皇元年(五七二)五月の条にみえている。
推古天皇一八年(六一〇)の三月に高句麗から渡来した曇徴どんちょうは『易経』・『詩経』・『書経』・『春秋』・『礼記』の五経を熟知しており、絵具や紙や墨を作り、碾磑みずうす(水力を利用した臼)をしあげたという(『日本書紀』)。高句麗の高僧慧慈については前述したが、高句麗僧の恵便えびんに蘇我馬子は師事し、司馬達等の娘である嶋を得度させて善信尼とし、善信尼はわが国最初の女性留学生として百済におもむき、仏教を深く学んで帰国して活躍した。
『日本書紀』の推古天皇一ニ年九月の条に「黄書画師きぶみえし・山背やましろ画師を定む」とみえているが、黄書画師は高句麗からの渡来人であり、その子孫の貫書本実の画師グループが、キトラ古墳や高松塚古墳の壁画を描いた可能性がある。
天智天皇五年(六六六)の五月には玄武若光げんむじゃっこうらが渡来し、若光は武蔵むさし国(埼玉県)に住んで従五位下となり王姓を与えられた。埼玉県日高市の高麗神社は若光を主神としてまつり、靈亀二年(七一六)五月一六日には、高麗人一七九九人を武蔵国に移して高麗郡を設けた(『続日本紀』)。大阪府の八尾市の許麻神社はもと高麗王靈神をまつり、この地域にも高麗人が多く住んでいたことがわかる。
新羅系の秦氏は、漢氏や高麗氏が点的に分布したのに対して、北九州から秋田県まで面的に分布した(『渡来の古代史』角川学芸出版)。とくに京都太秦うずまさの秦河勝はたのかわかつは有名で、葛野秦寺(後の広隆寺)を創建し、国宝となっている弥勅像をまつり、秦都理はたのとりは京都市西京区の松尾大社を大宝元年(七〇一)に造營し(『本朝月令』所引『秦氏本系帳』)、伏見区深草の秦伊侶巨いろこ(具は誤り)は和銅四年(七一一)に伏見稲荷大社を建立した(『社司伝来記』)。
外交の激変
いまは善隣友好の歴史の若干をかえりみたにすぎないが、いつの世も外交関係の悪化によって友好の史脈は断たれる。唐の高宗は永徽二年(六五一)に新羅を援たすけてまず百済を征圧し、ついで高句麗を滅ぼすという政変をうちだす。事実上六六三年に百済は滅び、六六三年に高句麗は滅亡して、統一新羅の世へと移行する。
唐・新羅が百済の総攻撃を決行したのは六六〇年であった。百済は敗北して百済の義慈王・王族・貴族は唐へと連れ去られた。唐は熊津都督府をはじめ五つの都督府を設けたが、都督や各地行政各人は在地豪族を任命した。百済の遺民たちが百済の復興をめざすのには好都合であった。
舒明朝に「人質」として渡来していた義慈王の王子豊璋ほうしょうを国王とし、百済救援を名目とした天智朝は、倭国の水軍一七〇艘で豊璋を護衛し、六六二年の五月に豊璋は即位した。そして一万七〇〇人の軍勢で新羅を攻撃した。六六三年の八月二七日、唐の水軍一七〇艘が白村江(錦江)の河口のあたりで倭の水軍を待ちうけて戦ったが、一時退却して戦機をうかがい、二八日再び会戦、唐の水軍が倭の水軍を狭み撃ちにして、倭国の軍勢は大敗、死者多数、四〇〇艘が焼失した。この両日がいわゆる白村江の戦いである。敗北するや国王豊璋は高句麗へ逃亡、百済は最終的に滅亡した。
ところが六六七年のころから唐と新羅の関係はついに対唐戦争となった。倭国は六六九年(第六回)から七〇二(第七回)までの間遣唐使の派遣を中止し、六七一年唐は倭国が新羅を攻撃するよう要求してきた。新羅は倭国と唐が結託することを阻止しようとして、六七一年から七〇〇年までの間に二五回も新羅使を派遣し、日本への低姿勢の「朝貢」を示した。しかし六八六年のころから新羅と唐の関係が修復して良好になると、「朝貢」の姿勢を見直し、「亢礼こうれい」(対等)の関係をうちだしてくる。
天平一〇年(七三八)のころに書かれた『大宝令』の注釈書である『古記』(『令集解』)に「隣国は大唐、蕃(藩)国は新羅なり」とある。「日本版中華思想」については別に詳述したが(『古代学とは何か』藤原書店)、こうした新羅を「伐うつべし」とする論が朝廷内に高まり、天平宝字五年(七六一)には実際に征討軍の陣容がととのえられたこともあった。
唐と渤海
古代の東アジアを論ずる時に、唐そして中国の東北地区東南部から沿海州にまで勢力を伸張した渤海を忘れるわけにはいかない。舒明天皇二年(六三〇)から承和五年(八三八)まで遣唐使の派遣は一五回(迎入唐使一回、送唐客使二回を含む)であり、その時代を遣唐使時代とよぶ学者は少なくない。しかし唐使はわずか九回(正式は八回)であった。
ところが遣渤海使は神亀五年(七二八)から弘仁二年(八一一)まで(送渤海使を含む)一五回、渤海使は神亀四年(七二七)から延喜一九年(九一九)までなんと三四回に及ぶ。遣唐使がわが国の歴史や文化に与えた影響はきわめて大きいが、渤海使の来日の回数をみただけでも、遣唐使のみを重視する史観をそのままに支持するわけにはいかない。
もとより遣唐使・遺渤海使といっても時期により、その目的と性格を異にするのであって遣唐使についていえば第六回(六六九年)までとそれ以後では前期と後期の違いがあり、前期の遣唐使船が二隻ないし一隻で北路であったのに、後期はおよそ四隻(一隻1、二隻1)で南路であった(渤海路1)。そして前期では六五三年・六五四年・六五九年・六六五年・六六九年とあいついで派遣されており、唐の朝鮮三国に対する政策のなかで倭国の勢力を保持しようとした外交姿勢があった。
渤海使についてもそれぞれの検討が必要である。初期の目的は政治的・軍事的提携であったが、やがて交易を中心とする経済使節へと変化していったことに注目する必要がある(上田雄『渤海使の研究』明石書店)。
そして遣唐使によって、日本は「鎖国」のような状態になったと錯覚している人もいるが、「大唐商買人」との交易はその後も実際に行われており、唐の商人らの来日は継続して、文物の輸出入は行われていた(『扶桑略記』・『日本紀略』)。
日韓・日中関係が悪化している日本の現状のなかで、古代日本と東アジアのつながりを改めて想起する必要がある
(京都大学名誉教授・大阪女子大学名誉教授・京大・文・昭25)
https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12300575041.html 【秦氏と漢氏の出自について(4)】より
今日は、荒井由実の「卒業写真」を聞いている。
高寛敏の「古代の朝鮮と倭国(日本)(雄山閣)」(以下「高論文①」という)は、穢族の移住について、以下のようにいう。
「「三国志」・「後漢書」によれば、穢族は狩猟と獣皮の交易、養蚕・農業を営んだだけでなく、畜産や武器製作など癸の手工業も活発に行い、鉄の交易をめぐっては、弁辰地方へも進出していた」
「穢族はもと高句麗の支配下にあり、かつ農地も狭小であったので、その朝鮮半島申南部への移住は盛んであった」
「「三国志」韓伝に、「桓・霊之末、韓・穢強盛。郡県不能制、民皆流入韓国。建安中、公孫康分屯有県以南荒地、為帯方郡。遣公孫模・張敞等、収集遺民、輿兵韓・穢。旧民梢出」とあるが」、この「韓・穢強盛」・「與兵韓・穢」から、「穢族は単に江原道あたりの住民だけを指しているのではない」と考えられる。
穢族は比較的自由に活動範囲を広げ、そのなかでも小国分立状態にあった弁韓への移住は最も容易であ」り、「流移民である穢族は、農耕民としてよりは、漁榜・狩猟・牧畜・手工業・商業分野に従事する者が多かった」と考えられる。
そして、高論文①が指摘するような「流移民である穢族」の中には倭に移住するものがいた、と考えられる。
高論文①は、以下のように、5世紀の倭の移住する穢族がいたという。
「隅田八幡神社人物画像鏡」の鏡銘は、「癸未年に乎(男)弟王が意柴沙加宮に在る時、斯麻が長く奉えんことを念じて、開中費直穢人今洲流の二人を遣わしてこの鏡を作った、の意ととれる」
「この鏡は倭鏡であり、変遷年代からすると「癸未年」の釈文が正しいなら、それは五〇三年以外には考えられ」ず、その「製作人は、開中費直穢人と今洲流なのか、開中費直と穢人今洲流なのかが問われるが、「費直」が一種の称号と判断されるから、今洲流にも何らかの所属や社会的地位を表示する語が付されていたとみてよく、「穢人今洲流」の釈読が合理的であ」る。
「倭地での穢人の存在は、これによって確証されようが、今洲流の背後には数多くの穢人を想定することが可能である」
高論文①が指摘するように、「隅田八幡神社人物画像鏡」の鏡銘に書かれた「開中費直穢人今洲流」の「穢人今洲流」は日本に移住した穢人であり、そうした穢人は他にも数多くいた、と考えられる。
なお、以前「三輪山祭祀再論(6)」や「スサノヲと紀氏について(8)」などで述べたように、石和田秀幸によれば、「隅田八幡神社人物画像鏡」の鏡銘の「開中」の「中」は、一音節の地名が漢文の申で紛れてしまうことを防ぐために付される不読文字であり」、「開中」の「開」は「帰=紀=貴=咋=クイ」のことであり、「開中費直」は「クイ(紀)のコホリチカ(費直)」である、という。
石和田秀幸の指摘から、「開中費直」は紀氏に係わる人物、紀氏の首長層の一人であったと考えられる。
「隅田八幡神社人物画像鏡」のある隅田八幡神社は、紀伊国伊都郡(現和歌山県橋本郡隅田町)にある神社であり、「開中費直」が紀氏の首長層の一人であったことから、「隅田八幡神社人物画像鏡」は紀氏の首長の一人が製作させたもので、様々な経過を経て紀伊国で保管された後に、貞観元年(八五九)に創建されたという隅田八幡神社に奉納されたものであったと考えられる。
そして、「穢人今洲流」は、実際に鏡を製作した工人であった、と考えられる。
高論文①は、以下のように、穢人は「アヤ」人と呼ばれたという。
「銘鏡の「穢人」がどう読まれたかは確答できないが、三品彰英氏は「アヤ人」と訓読し」ており、「「アヤ」が「穢」から導き出されたとはいえる」ので、「実際上、穢人集団を除外して、アヤ氏の出自を他に求めることは困難と思われる」
「日本列島の住民は「倭人」と呼ばれたことからみても、「穢人」、「韓人」は少なくとも五世紀の段階では音読されたと考えられる」
「「穢人」が「アヤ人」となるのは、有力な穢人集団が飛鳥一帯に集住し、「穢」から導いた「アヤ」をウジ名とした時に始まり、各地の穢族がアヤ氏によって組織されて完了するのである」
加藤謙吉の「大和の豪族と渡来人(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー144)」(以下「加藤論文」という)によれば、漢氏については、おおむね以下のとおりである。
「「書紀」によれば、応神二十年にその祖の阿知使主と子の都加使主が十七県の党類を率いて来朝したとあるが、この氏は大和国高市郡の檜前(現奈良県高市郡明日香村檜前)とその周辺の地を拠点として、五世紀後半~末ごろに、後のこの氏の基礎となる氏族組織を成立させ、王権の支配下に入り、伴造として職務奉仕するようにな」った。
「東漢氏とは単一の氏族名ではなく、文氏(書氏・東文氏)・民氏・坂上氏・谷氏・内蔵氏・長氏など多くの枝氏(支族)によって構成される集合体を表す総称であり、枝氏の数は史料的に確認できるものだけでも、七世紀末までに一八氏を数える」
「東漢氏は大和政権の軍事・財政分野で手腕を発揮し、頭角をあらわすが、さらにこの氏の下には、今来才伎をはじめとして、しだいに多種多様な渡来系の技術者・有識者集団が所属するようにな」った。
「東漢氏は、漢人」「と呼ばれたこれらトモの集団を率いて王権に奉仕し、漢人が分掌する大和政権の生産組織や行政組織の運営に影響力を及ぼし、中央政界に隠然たる勢力を保持するに至」り、「政権の中枢にある権力者と結び、政治的陰謀や政変に荷担することも多かった」
「東漢氏には本来族長が存在せず、坂上氏が政治的に優勢となる八世紀半ばまでは、互いに対等な数個の有力枝氏によって、東漢氏の氏族組織が維持されていた」
「本宗と支族の区別が明確でないこのようなウジのあり方は、東漢氏という氏族組織が、分裂ではなく、相互に血縁関係のない渡来系小集団の統合によって成立した可能性を示唆する」
「つまりほぼ対等な条件、もしくは集団間に勢力差があったとしても、絶対的な優劣の差がないような条件の下で統合がなされた場合には、東漢氏内部における諸集団の立場は基本的に対等であり、並立的な状況を呈するとみられるのである」
「では統合をうながした要因とは、いったい何であろうか」
「ウジの成立が、王権への隷属を前提とする以上、東漢氏の氏族組織成立の背景に、渡来系の職務分掌組織の編成を急務とした王権側の強い働きかけが存したことは容易に想像がつく」
「ただこのような外的な理由とあわせて、内的な要因として、①地縁、②出自の両面を考慮する必要があろう」
「坂上「系図」逸文や「続紀」の坂上苅田麻呂の奏言によれば、阿知使主は大和国高市郡檜前郷(檜前村)に居所を賜わり、仁徳朝に今来郡(後に高市郡と改名)を建てたという」が、「高市郡内は東漢氏の一族(檜前忌寸)とその配下の渡来人が「地に満ち」て居り、他姓の者は十のうち一、二にすぎないあり様であったという」
「統合を促した要因のうち、①の地縁は、檜前・今来の地で形成されたものであ」り、「本来、個々に独立した存在であった集団同士が、新たに与えられた未知の生活空間のなかで共存を余儀なくされ、さらには土地開発や王権への職務奉仕の必要性から、単なる共存にとどまらず、積極的な連携・紐帯の方向を選ばざるを得なくなった状況が想像され」る。
ここまでの加藤論文の論述には異論はない。
加藤論文は、東漢氏の「統合を促した要因」のうち、②出自について以下のようにいう。
「②は渡来前の故地・故国の一致、すなわち民族的な連帯に根差したものであ」り、「渡来の時期や事情は個々に異なるものの、彼らは同じ国、同じ地域の出身者であり、その連帯意識が統合を支える絆となっていた」
加藤論文はこのようにいい、漢氏の出身地を安羅国とするが、それに根拠はないことは前述したとおりである。
加藤論文のいう「連帯意識」「民族的な連帯」として、最もふさわしいのは、高論文①がいう、穢蔟という「民族的な連帯」であった、と考えられる。
高論文①は、「アヤ氏」が「漢氏」となった時期を、以下のようにいう。
アヤ氏が漢氏となりハダ氏が秦氏となったのは、「「元興寺縁起」所収の「法興寺塔露盤銘」に「山東漢大費直」、「天寿国繍帳銘」に「東漢末賢」・「漢奴加己利」・「椋部秦久麻」の名がみえることから、その時期を六世紀末から七世紀初とし、その理由については、秦氏も漢氏も基本は加耶系であるが、加耶諸国が六世紀後葉までに滅亡したこと」によって、「アヤ氏やハタ氏は出自を中国系に改変し、「漢」・「秦」の氏名を用いるようになったと考えられる」
なお、「ハダ氏が先に秦氏になった」ので、「ハダ氏と併称されるアヤ氏が漢氏となるのは、自然な趨勢であ」り、「アヤ氏の「漢」字の使用は秦氏に追随した結果といえる」
高論文①の指摘から、6世紀末から7世紀初めにかけて、まず、ハダ氏が秦氏を名乗り、それに少し遅れてアヤ氏が漢氏を名乗った、と考えられる。
渡来時期はハダ氏が4世紀末から5世紀初め、アヤ氏が5世紀後半で、氏族の形成時期は、ハダ氏が6世紀半ば、アヤ氏が5世紀後半から末と考えらる。
これは、倭王武=雄略大王による王権組織の整備のために、5世紀後半から末にかけて、まず「今来」の渡来人たちがアヤ氏として組織され、その後、欽明大王による屯倉・部制支配体制の整備のために、6世紀半ばに、「古渡」の渡来人たちがハダ氏として組織された、という経過であったと考えられる。
「今来」の新しい技術や文化を持った渡来人たちがアヤ氏に組織されたのだが、そうした新しい技術や文化をもって日本に移住していたのは、流移する「商賈集団」であった穢蔟であった。
ハダ氏は「秦」氏となる前は波多氏と表記されていたと考えられるが、アヤ氏は「漢」氏となる前に、何と表記されていたのだろうか?
加藤論文によると、「東漢氏や西漢氏の「濃」の字は「アヤ」とは読めず、借字にすぎ」ず、「「阿野」・「綾」・「穴」などと記す場合もあるから、アヤの氏名がまずあり、これに種々の漢字を当て、後に「漢」の表記に落ち着いたと見ることができる」という。
ここで加藤論文がいっている、「「阿野」・「綾」・「穴」など」が、「漢」字が選択される前の「アヤ」氏の漢字表記であった、と考えられる。
高論文①は、秦氏と漢氏の関係について、以下のようにいう。
「ハダ氏とアヤ氏が秦氏・漢氏と併称されたのは、この両氏が加耶系住民を代表する存在であったからであ」り、「その二大区分とは結論を先にいうと、韓族と機族である」
「そのなかでも祖国が滅亡した条件のもとで、韓族が「後漢書」の「秦韓」に注目し、秦=韓という意味をもこめて「秦」字を用いたと推測され」、「アヤ氏の「漢」字の使用は秦氏に追随した結果といえる」
このように、高論文①は、「漢氏」と「秦氏」は、緒戦半島の二大種族である「穢蔟」と「韓族」に由来する、という。
秦氏については、大和岩雄の「秦氏の研究(大和書房)」「続秦氏の研究(大和書房)」などの論述から、朝鮮半島南部の金官国付近の洛東江沿岸から渡来してきたと考えられているが、高論文①の指摘は、漢氏の場合と同じように、秦氏の場合も、渡来してきた故国・故地によるものではなく、種族によるものであり、渡来前の秦氏の居住地は金官国に限定されず、朝鮮半島中南部に広がる、ということを意味している。
確かに、漢氏が安羅国出身者だけであったとすると漢氏の氏族集団の量と釣り合わないのと同じように、秦氏が金官国の出身者だけであったとすると、漢氏の場合以上に秦氏の氏族集団の量と釣り合わないことは事実である。
高論文①の主張は、こうした点を説明するものである。
また、秦の民を率いてきた「弓月君」が百済出身とされたのも、こうした事情からであったと考えられる。
高論文①は、「「穢人」がアヤ氏になった経蹄は以上のようなものと思われるが、「韓人」がハダ氏となった理由は、少し事情が異なる」といい、その経過について論述しているが、それについては後述する。
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