下野の坂上田村麻呂・藤原利仁伝承と星信仰

https://www7b.biglobe.ne.jp/~houisen/simotuke_tamuramaro.htm#tamrarijin_hohi 【下野の坂上田村麻呂・藤原利仁伝承と星信仰】より

 剣ヶ峰・将軍塚・三和神社の西北30度線を延長すると、宿魂石がある。宿魂石の伝承も先住民征討の話であるとすれば、先住民・賊の征討・討伐の方位線として、宿魂石も含めることができるわけである。なお、宿魂石は高原山の釈迦ヶ岳や鶏頂山のほうが正確な方位線となっている。

  宿魂石付近―三和神社(E1.347km、1.44度)―将軍塚227m標高点(E0.980km、0.84度) ―剣ヶ峰(E1.291km、0.85度) の西北30度線

  宿魂石付近―釈迦ヶ岳(W0.059km、0.04度)―鶏頂山(W0.630km、0.41度)の西北30度線

 宿魂石が星神香々背男と結び付けられたのは水戸光圀等によるもので、ただそれ以前から建葉槌命によって宿魂石が蹴破られてその破片は各地に飛んだという伝承はあったかもしれない、というのが大和岩雄氏の説であった。下野の田村麻呂・藤原利仁・藤原房前の伝承地と宿魂石の破片が飛んで落下したという伝承地の間にも方位線関係がみられる。将軍塚と常北町石塚の風隼神社が西北45度線をつくる。その方位線上に桂村の鹿島神社があるということになるわけである。将軍塚と木幡神社が東北30度線をつくり、宿魂石と東海村石神外宿中堂の石神社が東北30度線をつくっていたが、木幡神社と石神社も西北30度線をつくる。木幡神社は笠間市石井の石井神社とも西北60度線をつくり、石井神社は関白神社と西北45度線をつくる。残る内原町田島の手子后神社と御根磯であるが、このうち手子后神社が三和神社と西北60度線をつくる。三和神社は建葉槌命を祭神とする静神社と西北45度線をつくっている。また、烏山町落合星宮神社も静神社と東北30度線をつくっている。残る御根磯であるが、これは宿魂石と同じく剣ヶ峰の西北30度線上にあるともいえる。宿魂石と同様、釈迦ヶ岳と最も正確な方位線をつくる。

 風隼神社―桂村鹿島神社(E0.025km、0.79度)―将軍塚(E1.716km、1.91度)の西北45度線

  石神社― 木幡神社(E0.505km、0.43度)の西北30度線

  木幡神社―石井神社(E1.465km、1.57度)の西北60度線

  石井神社―関白神社(E0.953km、1.17度)の西北45度線

  三和神社―内原町田島の手子后神社(W0.250km、0.30度)の西北60度線

  三和神社―静神社(E0.703km、0.99度)の西北45度線

  烏山町落合星宮神社―静神社(E0.715km、1.35度)の西北30度線

  御根磯―剣ヶ峰(E1.515km、0.97度)―釈迦ヶ岳(E0.169km、0.10度)―鶏頂山(W0.406km、0.25度)の西北30度線

 将軍塚は天之可可背男を祭神とする友部市中市原の星宮神社とも西北60度線をつくる。また、将軍塚は烏山町落合の星宮神社と西北60度線をつくるとしたが、烏山町落合の星宮神社と友部の星宮神社も方向線ではあるが西北60度線をつくり、将軍塚・烏山町落合の星宮神社・友部市中市原の星宮神社が一つの西北60度線上に並んでいる。風隼神社と内原町田島の手子后神社が南北線、手子后神社と友部市中市原の星宮神社が東北60度線をつくっていたということで、将軍塚・風隼神社・手子后神社・友部の星宮神社・烏山町落合の星宮神社が方位線で結ばれた環を作っていることにもなるわけである。関白神社は友部市中市原の星宮神社と西北45度線をつくる。

  友部市中市原の星宮神社―烏山町落合の星宮神社(E1.200km、2.13度)―将軍塚227m標高点(E0.218km、0.22度)の西北60度線

  関白神社―友部市中市原の星宮神社(E1.694km、1.90度)の西北45度線

 また、直接香々背男とは関係ないのかもしれないが、星信仰と結びつき、宿魂石や下野の香々背男を祭神とする神社とも方位線をつくる加波山も、関白神社と西北60度線をつくり、関白神社は桂村の三枝祇神社と方向線であるが西北30度線をつくる。加波山はやはり方向線ではあるが烏山町落合星宮神社とも南北線をつくる。

  関白神社―加波山(W1.511km、1.74度)の西北60度線

  関白神社―三枝祇神社(E1.885km、2.38度)の西北30度線

  加波山―烏山町落合星宮神社(W1.386km、2.15度)の南北線

 田村麻呂・藤原利仁の伝承地はまた下野の香々背男を祭神とする神社とも方位線で結ばれている。将軍塚と関白神社の東北60度線を延長すると、岩舟町下津原の三鴨神社と藤岡町大和田の三毳神社の東北60度線に重なる。関白神社と宇都宮二荒山神社は南北線をつくっていたが、関白神社と宇都宮二荒山神社の南北線も結城市の八幡神社・星宮熊野神社の南北線と重なる。結城市の八幡神社・星宮熊野神社は烏山町落合の星宮神社の東北60度線上に位置しており、烏山町落合の星宮神社の東北45度線は小山市上国府塚の星宮神社と小山市押切の星宮神社の東北45度線に重なる。

  将軍塚227m標高点―岩舟町下津原の三鴨神社(E0.997km、0.89度)―藤岡町大和田の三毳神社(E0.917km、0.79度)の東北60度線

  関白神社―岩舟町下津原の三鴨神社(E1.396km、1.70度)―藤岡町大和田の三毳神社(E1.315km、1.52度)の東北60度線

  関白神社―結城市結城八幡神社(W0.623km、0.81度)―結城市上山川星宮熊野神社(W0.673km、0.82度)の南北線

烏山町落合星宮神社―結城市結城八幡神社(W0.441km、0.56度)―結城市上山川星宮熊野神社(E0.989km、1.19度)の東北60度線

  烏山町落合星宮神社―小山市市上国府塚の星宮神社(E0.901km、1.08度) ―小山市押切の星宮神社(E0.952km、1.04度)の東北45度線

 香々背男と田村麻呂・利仁との間には時代的な開きがあり、直接的な物語は考えられない。これらの方位線に物語を見ようとすれば、下野の田村麻呂・利仁伝承地は香々背男ともともとなんらかの関係のあった場所ということにしなければならないであろう。そのうちの一部が田村麻呂や利仁と結び付くようになったとすれば、もともとは大和朝廷と先住民との抗争に結び付く方位線であり、先住民の信仰が香々背男を祭神とする星信仰だった可能性もあるわけである。もしそうなら、先住民の香々背男信仰・星信仰が弾圧されたということでもある。しかし同時に、現に香々背男を祭神とする神社が在るということは、それらの信仰が完全に圧殺されたわけでもないということも示している。あるいは、現在香々背男信仰が残っている場所は、激しい弾圧にも関わらず、その信仰を保ち続けた、下野・常陸でも香々背男信仰の盛んな場所だったということなのかもしれない。

 先住民の香々背男信仰・星信仰は縄文時代にまで遡るかもしれない。宿魂石の西北30度線上に剣ヶ峰があり、宿魂石の東北30度線上に吾国山があったが、剣ヶ峰と吾国山も西北60度線をつくる。剣ヶ峰のように縄文時代に遡る遺跡として、栃木県小山市の寺野東遺跡がある。寺野東遺跡は旧石器時代から縄文・平安時代にかけての遺跡で、その中には縄文時代後・晩期につくられた直径165mの環状盛土遺構などがあり、居住跡ともいわれるが、盛り土の中に焼けた土や焼けた骨が多量に出てきたり,おまじないの道具である土偶や,石剣,シャーマンがつける土面などが出土していることから、火を使ったお祭りや,儀式が行なわれていたことも想像されている。寺野東遺跡は単なる居住跡ではなく、祭祀場としての性格もあったとも考えられるわけであるが、寺野東遺跡と吾国山も東西線をつくる。これら吾国山と剣ヶ峰・寺野東遺跡との方位線関係は、吾国山の信仰も縄文時代にまだ遡るということなのかもしれないし、その場合、現在に残る吾国山の祭神からいえば、香々背男が祀られていたということもありえるわけである。

  剣ヶ峰―吾国山(W0.994km、0.75度)の西北60度線

  吾国山―寺野東遺跡(N0.468km、0.92度)の東西線

 寺野東遺跡から見た冬至の日の出は、筑波山山頂から太陽一個分南から昇るという計算もある(http://www.geocities.jp/whhxj855/terano2.htm)。寺野東遺跡は筑波山と西北30度をつくるということである。そうすると、寺野東遺跡と筑波山の西北30度線の延長線と吾国山からの西北45度線が交わる場所が鹿島いうことになる。なお、鹿島神宮の西北45度線上に宇都宮の二荒山神社があった。鹿島神宮・吾国山・宇都宮の二荒山神社が方位線上に並ぶわけであるが、関白神社と宇都宮の二荒山神社の南北線上に寺野東遺跡がある。ただ、結城市の八幡神社と星宮熊野神社は寺野東遺跡と南北線をつくるとはいえない。

  

  寺野東遺跡―筑波山男体峰(E0.060km、0.15度)の西北30度線

  吾国山―宇都宮二荒山神社(W1.018km、1.47度)の西北45度線

  関白神社(E0.271km、0.39度)―宇都宮二荒山神社(E0.344km、0.75度)―寺野東遺跡―結城市八幡神社(W0.351km、4.86度)―結城市星宮熊野神社(W0.401km、3.26度)の南北線

 山田安彦『古代の方位信仰と地域計画』によれば、常陸国府の南北中央線の北方への延長上約400メートルのやや西寄りに星の宮が鎮座し、これは国府内国衙の正北方にあたり、国府の北に星の宮を勧請したということは、太一思想に基づく北辰信仰と、さらに密教の影響による妙見菩薩信仰と大いに関係があると考えられるとする。常陸における星の宮を北辰信仰や妙見信仰に結びつけることには疑問もあるが、もしその星の宮が常陸の国庁を造るにあたって勧請されたものであるとすれば、常陸の先住民の星信仰が当時においても無視できないものであったことを示しているのではないだろうか。また、下野の国府について山田安彦氏は同書で、下野国府擬定地の北に下野総社の大神神社があり、擬定地の北西の字大塚と南東の字大光寺に「星の宮」が鎮座し、この「星の宮」については下野国府と直ちに関連があるというのではないが、存在だけは記しておきたいと述べている。

 常陸国庁は石岡小学校の場所にあったとされ、そうすると大神神社と常陸国庁は西北30度線をつくり、大神神社の南に国府があったとすると、下野国府と常陸国府も西北30度線で結ばれるていた可能性がある。もっとも、下野国府については1950年代の情報をもとにしているようであり、1970年代の発掘により、栃木市田村町の宮野辺神社の敷地を正殿とする国庁跡が明らかになった。南門からは幅9メートルの朱雀大路が延びて、その左右に官衙や国司館が立ち並んでいたが、京のように整然とした碁盤目状の街路は認められていない。下野国庁は8世紀前半から10世紀前半の間に、4期の変遷が認められるようであり、藤原利仁が高座山の賊を退治したとされる頃までは国庁として機能していたようである。

  栃木市惣社の大神神社―石岡小学校・常陸国庁(E1.036km、1.17度)の西北30度線

 山田安彦のいう字大光寺の「星の宮」は栃木市田村の星の宮神社と考えられるが、宮野辺神社付近に国庁を考えると、常陸国府と同じようにほぼその正北近くに位置することになる。常陸国府北の星の宮と下野国府北の星の宮が国庁設置に伴って勧請されたのか、それ以前から鎮座していたのかはわからないが、田村の星の宮に関しては三鴨神社と東北30度線をつくる。それに対して、常陸国府の北の星の宮は地図では確認できなかったが、詳細地図では国分尼寺跡の東、石岡第二高校の北、若松3町目5番地あたりに星の宮マンション・ハイツ星の宮が並んでおり、そのあたりに在ったか、あるいは現在も小祠として残っているのであろう。星の宮がそのあたりとすると、護摩壇石と東北30度線、御根磯と東北45度線をつくる場所にあたる。

  栃木市田村の星の宮―三鴨神社(E0.212km、0.80度)の東北30度線

  星の宮マンション・ハイツ星の宮付近―護摩壇石(W0.362km、0.56度)の東北30度線

  星の宮マンション・ハイツ星の宮付近―御根磯(kW0.176m、0.21度)の東北45度線

 宮野辺神社すなわち下野国庁正殿は三毳山上の三毳神社と東北30度線をつくる。宮野辺神社は宮延神社あるいは宮目(みやのめ)神社とも記される。木下良『国府』によれば、寛喜二年(1230)の小山朝政の譲状にあげられる守護領のなかに「宮目社」があるという。武蔵府中の大国魂神社境内摂社の宮之咩神社も嘉慶二年(1388)の願文に「宮目」とされており、上野国庁は前橋市の元総社地区内に求める説が有力になってきているが、元総社集落の北部中央に宮鍋(みやなべ)様と称される小祠を中心とする一画があり、総社の旧地といわれているが、平安時代に宮中や貴族の邸宅で正月と十二月の初午に行われた宮之咩祭(みやのめのまつり)は「みやなべのまつり」ともいっていることから、宮目と宮鍋が同一であることは疑いがないという。そして、国府跡にある宮目神社は自分の知るかぎり武蔵・上野・下野だけであるが、本来国庁の一隅に存在していたものか、国庁の廃絶後にその故地に祀られたものかはわからないが、国庁跡を求める手掛かりとしては重視すべきであろうとする。

 そうすると、宮目神社は国府ができた後あるいはその廃絶後に創建されたとも考えられるが、田村の星の宮が三鴨神社と東北30度線をつくるのに対して、宮目神社と三毳神社が東北30度線をつくるという関係になってることから、もともと国庁以前から神社が鎮座していた可能性もあるのではないだろうか。もしそうだとすると、その神社は星信仰と関係する神社だったのかもしれないし、香々背男を祀っていた可能性も考えられる。田村の星の宮は結城市の星宮熊野神社とも西北60度線をつくり、宮野辺神社は押切の星宮神社と東北60度線をつくる。田村の星の宮についても、現在の祭神は磐裂であるが、もともとは香々背男だった可能性もあるのではないだろうか。田村の星の宮は笠間の石井神社と東西線をつくる。それに対し宮野辺神社は友部の星宮神社と東西線をつくる。

  宮野辺神社―三毳山上三毳神社(E0.334km、1.13度)の東北30度線

  栃木市田村の星の宮―結城市星宮熊野神社(E0.174km、0.60度)の西北60度線

  宮野辺神社―押切の星宮神社(E0.241km、1.28度)の東北60度線

  栃木市田村の星の宮―笠間の石井神社(S0.208km、0.29度)の東西線

  宮野辺神社―友部の星宮神社(S0.222km、0.27度)の東西線

 宮野辺神社は筑波山とも西北30度線をつくる。山田安彦『古代の方位信仰と地域計画』によれば、常陸国府は冬至の日の出方向に鹿島神宮の明石の浜、その反対の夏至の日没方向に筑波山、夏至の日の出方向に大洗・酒列の磯前神社、反対の冬至の日没方向に富士山があり、太陽運行の神秘性と古代人が信仰上意識した自然の摂理との関係に、古代人は畏敬の念を抱き、天の理=神の意に沿わなければ、天の咎をうけるのではないかという観念から、国府の平安鎮護・息災ならびに繁栄隆盛のために、自然的摂理に適うように国府の位置を選定したのではないかという。宮野辺神社の場所が下野国庁正殿の跡であるとすると、冬至の太陽が筑波山から昇り、三毳山に沈む地が選ばれたということなのであろうか。もっとも、国府のすぐ南を東山道が通っていたと推定されているから、東山道のすぐ傍で、筑波山周辺から冬至の朝日が昇る場所が国府として選ばれただけなのかもしれない。

  宮野辺神社―筑波山女体峰(W0.512km、0.86度)の西北30度線

 宮野辺神社が三毳山上の三毳神社と、田村の星の宮が三鴨神社と東北30度線をつくるのに対して、総社の大神神社と大平山がやはり東北30度線をつくる。これは、大神神社も星信仰と関係がある神社だったということなのかもしれない。また、方位線で結ばれた三毳神社・三鴨神社・大平山に強い結びつきがあったとすれば、宮野辺神社・田村の星の宮・大神神社にもなんらかの強い結びつきがあったということかもしれない。大神神社は大平山と南北線をつくり、やはり香々背男を祀る都賀町大柿の星の宮浅間神社とも西北30度線をつくる。太平山神社の旧号も「大神社」であり、ともに式内社大神神社の論社であるが、どちらから式内社であるかどうかというよりも、栃木市惣社の大神神社と太平山が深い関係があったことを考えなければならないのかもしれない。

  栃木市惣社の大神神社―大平山341m(W0.176km、1.05度)の東北30度線

  栃木市惣社の大神神社―都賀町の星の宮浅間神社(E0.30km、1.68度)の西北30度線

 栃木市惣社の大神神社は崇神天皇四十八年、豊城入彦命が大和三輪の大物主神を勧請したと伝えられる。そうすると、国府以前から鎮座していたことになる。東北60度線方向に豊城入彦を祭神とする宇都宮二荒山神社があるから、この伝承にも無視できないものがある。太平山神社の旧号も「大神社」であり、垂仁天皇の時に鎮座したという伝承もあり、崇神天皇の時代の創建という大神神社より後ということになるが、垂仁も豊城入彦命も崇神天皇の子であるから同時代といってもいいであろう。太平山については、榎本出雲・近江雅和『消された星信仰』では、弥生時代にまで遡る信仰の山ではないかとしている。また、民俗学者の中山太郎氏が「八朔に大平山でお籠りする風習は歌垣の遺風である」と指摘していることなどから、筑波の歌垣と同じく歌垣の行われた庶民の信仰の山でもあったという。豊城入彦命が大和の三輪山から勧請したという伝承についても、三鴨神社の祭神が香香背男命の他に事代主命・建御名方命であることなどを考えると、下野における出雲神族との関係も考えなければならないのではないだろうか。

  栃木市惣社の大神神社―宇都宮二荒山神社(W0.728km、2.07度)の東北60度線

 惣社の大神神社と大平山の東北30度線上に栃木市大宮町印役の高天ヶ原御釜神社というのがあり、ホームページ上のグークルマップから、その緯度・経度を取得できるものがあった(http://beccan.blog56.fc2.com/blog-entry-2062.html)。印役神社の近くの道端の小さな祠で、祠の脇の立て札には「この地は昔から、高天ヶ原(たかまがはら)と呼ばれている天御祖の神(おめのみおやのかみ)と呼ばれる天地創造の神、万物生成の神が息吹された時大きな洞穴ができ、そこに空風火水地出来たという伝承があり、大きなうつろ(釜)を尊崇する古代人の信仰によって生まれてきたものといわれている。今の私たちにはとても信じられないことではあるが、古代伝承がこの地に残っているのも大変珍しいことである。」とあるという(http://cc9.easymyweb.jp/member/mukasi-tochigi/default.asp?c_id=39813)。出雲神族の伝承にも高天原がでてくるが、この高天原も出雲神族と関係があるのではないだろうか。高天ヶ原御釜神社と鹿島神宮近くの高天原が西北30度線をつくっている。この方位線上に筑波山があるともいえるが、筑波山にも高天原があった。

  栃木市惣社の大神神社(E0.062km、1.53度)―高天ヶ原御釜神社―大平山341m(W0.115km、0.91度)の東北30度線

高天ヶ原御釜神社―鹿島高天原鬼塚付近(W0.108km、0.07度)の西北30度線 (以下略)

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