真我

Facebook石川 真樹夫さん投稿記事  アシュターヴァクラギータ

◎ 第一章「真我」

おお、師よ、どうすれば無執着、智恵、自由を見い出せるのでしょう。どうか教えて下さい!

我が子よ、もし自由になりたいのなら感覚のもたらす毒を避けなさい。

真理と愛と赦し、純粋さと至福の甘露を見いだしなさい。地、水、風、火、空 あなたはそれらではない。もし自由になりたいのならあなたはこれらすべてを観照する真我、覚醒のハートだということを知りなさい。身体のことは忘れ、あなた自身の気づきの内にとどまりなさい。

たちまち、あなたは幸せになるだろう、永遠に安らかに、永遠に自由に。

あなたにはどんな階級もない。どんな義務もあなたを束縛することはない。

あなたは形をもたず、自由で、感覚では捉えきれない、すべてのものごとの観照者だ。

だから幸せでありなさい!正や不正、喜びや悲しみ、これらはたんに心が生み出すもの。あなたはそれらではない。行為をしたり、喜んだりするのは、本当のあなたではない。

あなたは遍く存在し、永遠に自由だ。

あなたは永遠に自由なすべての物事を見守るただ一人の観照者。

だが、もし自分自身を分離した存在と見なすなら、その時、あなたは束縛されている。

「私はこれをする。私はあれをする」利己主義の黒い大蛇があなたに噛みついたのだ!

「私は何もしない」これこそが信頼の甘露。それを飲み干して幸せでありなさい!

あなたは一なるもの、純粋な気づきだ。それを知りなさい。

この確信の炎で、無知の森林を焼き尽くしなさい。悲しみからあなた自身を解き放ち、幸せでありなさい!幸せでありなさい!あなたは歓喜、限りない歓喜だ!

あなたは気づきそのもの。ロープを蛇と見間違うように、あなたは世界を見間違えたのだ。

もし自分は自由だと考えるなら、あなたは自由だ。

もし束縛されていると考えるなら、あなたは束縛されている。

なぜなら、いにしえの言葉にあるとおり、あなたは、自分が思うものになるからだ。

真我は世界のようにみえる、だが、それはただの幻。真我は遍く存在している。ひとつであり、静かで、自由で、完全だ。

行為も執着も欲望もなく、すべてのものごとを見守る観照者。気づきなのだ。

真我に瞑想しなさい。二のない、一なるもの、崇高な気づき。分離した自己という幻想を棄て去りなさい。私はあれやこれだ、内側や外側だという感覚を手放しなさい。

我が子よ自分は身体だと考えるためにあなたは長い間束縛されてきた。あなたは純粋な気づきだと知りなさい。この知識をあなたの剣として鎖を断ち切るのだ。そして幸せでありなさい!

行為もなく、欠点もなく、光り輝くあなたは、すでに自由だ。ただ瞑想を修練するために束縛されてしまうのだ。あなたの本性は純粋な気づき。あなたはすべての中に流れ、すべてがあなたの中に流れている。ただ気づきなさい、狭き心に!あなたは常に不変で、限りがなく、自由であり、穏やかで、かき乱されない、計り知ることが出来ない気づきだ。

ただ自己の気づきだけを求めなさい。何であれ形あるものは偽りだ、形ないものだけが在り続ける。この教えの真理をひとたび理解すれば、再び生まれ変わることはない。

身体の内側にも外側にも神は限りなく存在している。鏡のように、そして鏡に映るイメージのように。空気が遍く存在し壺のまわりを流れ、またそれを満たしているように、神は遍く存在しすべてを満たし、すべてを通して永遠に流れている。またそれを満たしているように、神は遍く存在しすべてを満たし、すべてを通して永遠に流れている。


Facebook『らいふさぽーと』Hideaki Ogasawara さん投稿記事

【 心屋 仁之助(心理カウンセラー)の ありのままの自分に⭕️をつけようver22 】

「身の丈に合う」という言葉があります。これは「衣服などが背丈、体の大きさにぴったり

合っている様など」を意味する言葉で、転じて「分相応」という意味でも用いられます。

「身の丈に合った生き方」と言うと、自分自身をよく知り、謙虚さもあり、わきまえた、その人にちょうど合った生き方、ということになり、いい生き方のような感じがしませんか?

確かに、悪い言葉ではありませんが、ちょっと物足りない感じ 今まで生きてきて、大体自分はこんな感じ、こんなもんだ、と決めてしまっている訳で、もしかしたら 昨日までの自分より、今日からの自分はもっと違うかもしれない。もっと大きなことができるかもしれないし、もっと元気かもしれないし、もっと輝いているかもしれない。

昨日までの自分を見て、「自分はこんなもんだ」と決めつけて「身の丈に合った生き方」をしていたら、これから上昇できるかもしれない可能性を、そこで止めてしまうかもしれないのです。「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉があります。

これは「欲を出して同時に二つのことをうまくやろうとすると、結局はどちらも失敗する」という例えで、「一つの物事に集中せずあちらこちらに気を取られることへの戒め」の意味で使われることも多いです。

確かに、悪い言葉ではありませんが、やっぱり何か物足りない

「一兎だけを追っても一兎も得ない」かもしれませんし、「二兎を追わねば一兎も得ない」かもしれません。「二兎を追って二兎とも得られる」かもしれませんし、「二兎を追ってたら三兎目も四兎目も得られる」かもしれませんよね。

「身の丈に合った」「二兎を追う者は一兎をも得ず」的な考え方が、全く悪い訳ではありませんが、もしかしたら自分の可能性を狭めていることもあり得る、と思います。

案外、自分が自身のことを一番わかっているつもりで、一番わかっていないかもしれません。そして、自分の脳が、自分の可能性を一番制限しているかもしれません。

自分の価値をディスカウントする必要などありません。身の丈に合ってなくても、身の程知らずでもいいんです。二兎も三兎も四兎も五兎も追ってもいいんですよ。


Facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事

おはようございます。『葡萄に種子があるように 私の胸に悲しみがある 青い葡萄が 酒になるように 私の胸の悲しみよ 喜びになれ』  高見 順

現代では「種無しぶどう」なるものあるけれど、今といえど「悲しみ無しの私」は作ることはできない。人間の理想や欲望に応える形で科学技術や衣料品が発展してきた。

にもかかわらず、科学や医療の発展は、必ずしも、悲しみをなくすものではなかった。

人間の理想や欲望に応える形で発展が叶えば、それに伴って、より多くの困難や破壊が待ち構えている。

その悲しみ、人間が生きることによって生まれる悲しみは、葡萄の種を無くすように消すことはできない。悲しみと喜びはまるで違うようだけど、同じ根っ子を持っている。

悲しみという根っ子があるからこそ、喜びが生まれる。

葡萄が酒になるように悲しみが喜びになるのだと思います。素敵な一日をお過ごしください。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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