https://ameblo.jp/yujyaku/entry-12496069210.html【吊花や時には弾けてみるもよし】より
( つりばなや ときにははじけて みるもよし )
いつも通る散歩道沿いに、吊花(つりばな)という花木が植えてある。今その実が薬玉(くすだま)のように割れ、オレンジ色の種子がいくつも飛び出ている。
本日の掲句は、その様子を見て、「時には、こんな風に思い切って弾けてみるのも良いだろう」と詠んだもの。ここでは「弾ける」を、感情をあらわにする、感情の赴くまま行動するというニューアンスで使った。尚、「吊花」は季語にはなっていないが、この句では秋の季語に準じて使用した。
ところで、吊花については数年前に知ったが、ここ以外では、まだ見たことがない。あまり植えられていないようだ。だから知らない人も、結構多いのではないかと思う。
吊花という名は、掲載の写真の如く、実が割れた状態が、吊るされた花のように見えることからついたそうだ。本当の花は、緑白色や緑紫色の小さな花で、5月から6月頃に咲くが、ほとんど目立たない。実の方が花らしく見れるというのも何ともおかしな話ではある。
因みに、この吊花については、過去に以下の句を詠んでいる。
【関連句】
① 吊花や薬玉爆ぜし如く垂れ
② 吊花や爆ぜたる音は聞かざりし
①は、吊花の実が、まるで薬玉(くすだま)が割れたような感じで生っている様子を詠んだもの。爆ぜる(はぜる)とは、草木の実などが熟しきって裂けること、弾けることをいう。②は、吊花がいつの間にか爆ぜていて、音を聞くことを失念したと詠んだもの。もっとも実際のところ音はしないようだが。
「吊花」は、ニシキギ科ニシキギ属の落葉低木。原産地は、日本、朝鮮、中国など。先にも少し触れたが、花期は5月~6月頃で、緑白色や緑紫色の5弁の小花が、長い柄につり下がるように咲く。実は9月~10月頃に結び、5裂してオレンジ色の種子がぶら下がる。
同科同属の真弓(まゆみ)の実に似ているが、それよりも一回り大きい。
Facebook魂へと届く言葉上嶋和彦 さん投稿記事
人間関係が上手い人は許すことが出来る。考えが違うのは自然なこと。嫌な所があるのは自然なこと。怒りたくなるのは自然なこと。自然なことだからしょうがない。許した方が楽になる。
Facebook加藤隆行さん投稿記事【自分を罪深き人と裁いている人へ】
メンタルで悩んでいる人の多くは自分のことを最低な人間で最悪な人間で腹の中に黒ーいものがドロドロしてる「罪深き人」「悪人」などと思っていたりします。
その理由は怒りで人をしょっちゅう傷つけてしまったり、嘘をついて人を欺いてしまったり、
物事や人間関係をいつも途中で投げ出して逃げてしまったり激しい嫉妬で相手を攻撃してしまったりそんな「行動」をしてしまうことがあるから。
自分の中には悪魔が巣食っている。キツネや悪霊に取り憑かれている。みたく感じている人もいる。
自分のことがコントールできないからそう思っちゃうのもしょうがないかもしれないね。
で、ですよ。自分をそんなふうに「悪い人」と思ってる人へ。
まずひとつめ。「本当に悪い人」は自分のことを「私は悪い人だ」などと自分を責めたりしません。
自分を責めたり罰したりしている時点でアナタは十分に「いい人」なのです。
「行動」はどうあれ「自分のこの行動を改善したい」と思い、一所懸命に自分を変えよう、
変えたいと祈っている「いい人」なのです。(で、それが上手くいかないから 本質が「悪」なのではないかと 疑っているワケでもあるのですが)
そんでね、ここからよく聴いてね。アナタは「悪い」のでなく「ズルい」のではなく「ヒドい」のではなく「腹黒い」のではくて「怖い」のです。
「怖い」から怒ってしまったり嘘をついちゃったり投げ出してしまったり嫉妬しちゃったりするのです。「怖い」とどうしても自分を守らなきゃいけないから【自己防衛】や【自己保身】のための行動をしてしまう。
「怖い」からチカラを示して【強がったり】もうコレ以上は無理ですと【弱がったり】をしてしまうのです。
で、怖い怖いって何が怖いのか?と言うと、怖いのは「人から嫌われるのが怖い」「人にわかってもらえないのが怖い」「人から認めてもらえないのが怖い」「人に見捨てられるのが怖い」「仲間に入れてもらえないのが怖い」全部ひっくるめて「人から愛されないのが怖い」のです。
だからね、「私は罪深い人だ」「私は悪い人だ」と思っている人がいたら目をつぶって胸に手を当てて「ああ、私は怖かったんだ」「ああ、私は怖いんだ」つぶやいてみてください
そして「怖いね」「怖かったね」「怖くて当然」「怖いもんは怖いよね」「気づかなくてごめんね」「怖くても大丈夫」「一緒にいるよ」と自分に伝えてあげてください。
「悪い」のではなくて「怖い」怖くて過剰に守ってしまう自分をゆるしてあげて。
したら、アナタの罪はすべてなくなるから。
ボクは「怖がりな」ボクをゆるしてから、世界が平穏になりました。
だから「怖がりなアナタ」のこともゆるすよ(^ω^)
☆心理学とスピリチュアルの本質は「ゆるし」にあります。
【善いとか悪いとか同じ穴のムジナ】
先日「悪い」のではなく「怖い」という記事を書きました。反響が大きく、もっと詳しくとメールをいただいたので、今日はその補足です。「性悪説」と「性善説」というコトバがありますね。人は生まれながらにしてそのベースが「悪」なのか「善」なのかってハナシです。
中国の思想家・孟子が唱えたのが「性善説」でそれに対して荀子が唱えたのが「性悪説」。
人は「善」なのか「悪」なのか。これ昔からボクもよく考えてた。
てか、こんなこと考えてる子どもって(笑)でね、この考え方自体が今ならナンセンスなのがわかります。「善」も「悪」も人間が作り出した「妄想」。
何が善いとか、何が悪いとか人間が勝手に作ったストーリー。
どんな行いが「善」なのか「悪」なのかそんなものは時代と状況によって変わる。
戦国時代なら敵をたくさん殺したらそれは「善」です。
でも今の日本なら、そこにどんな「正義」「大義」があったとしも、人殺しは「悪」で罰せられます。
でも他国間での戦争なら人殺しOK!なんじゃそりゃ。「善」や「悪」というのは人間の「価値観フィルター」を通して決められるもの。
だから時と場合と教育によって変わるし「善」と「悪」は観る方向でひっくりかえる。
でも、我々はどこまで行っても結局は「動物」なのです。そこにいるネコには「善」も「悪」もない。ただ、自分が攻撃されれば「怒り」を出すし食べるものがなければ他者のものを「奪う」こともするだろう。
自分が安全で満たされていれば仲間を慈しむだろうし、食べ物を分け与えもする。「善悪」なんて、そこにはない。彼らはただ「生きている」。「危険」な環境下で「不安や恐れ」にとらわれていれば自分を守るために、他者を攻撃したり、保身的なこともする。
「安全」な環境にいて「安心」した気持ちでいられれば自分を守る必要がなく他者に親切にしたり、貢献的なこともする。
これはただのアナタを「生かすエネルギー」がどちらを向いているのか、「安心」に注目しているのか「不安」に注目しているのかというだけのハナシ。みんなただ「生きたい」だけ。
いま「不安」「恐れ」の中にいる人は、そんな自分の行動を「悪い」と罰し続ける限り、
「安心」を手に入れることはできない。
つまり「不安・恐れ」⇒「安心・安全が欲しいがための 自己保身的な善くない行動」
⇒「悪いと自分を罰する」⇒「不安・恐れ」⇒「安心・安全が欲しいがための 自己保身的な善くない行動」⇒「悪いと自分を罰する」これが続く。
だから自分が自分を「悪い」と罰するのをやめて自分で自分に安心を与えてあげないとこのバッドループは終わらない。
だから「悪い」のではなく「怖かったんだね」。「でも本当はそんなことしたくなかったよね」「怖かったからしょうがなかったよね」「でももしないよね」と、「ゆるし」が必要なんです。
これが『「悪い」のではなく「怖い」』ということ。
自分のこと、もうそろそろゆるしてやってください。
Facebook相田 公弘さん投稿記事
「自分を不当に扱った人を許す」というお話です。
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成功と幸福を手に入れるうえで、自分を不当に扱った人を許すことが重要である。
なぜ自分を不当に扱った人を許す必要があるのか?その答えは、それが自分に恩恵をもたらすからだ。あなたはそれを相手のためではなく自分のためにすべきなのである。
それが正しいか間違っているかという問題ではない。自分を不当に扱った人を許すことは、心の平和につながる。一方、怒りと恨みは莫大なエネルギーの浪費につながる。
憎しみを心の中で何度も再現することは何の利益にもならない。そのために安眠できないのは誰か?怒りに満ちているために、現在を楽しんでいないのは誰か?あなたか相手か?
自分のために怒り、恨み、憎しみを捨てよう。
記者がダライ・ラマ14世に「中国によるチベット占領に怒りを感じるか?」と尋ねたところ、「とんでもない。私は愛をこめて中国を許している。中国に怒りを抱いても何の得にもならない。そんなことをしたところで中国政府は態度を変えないし、私は潰瘍を患いかねないから、中国の利益になるだけだ」と答えた。
自分を不当に扱った人に対するダライ・ラマ14世の姿勢を見習おう。
習慣を変えれば人生が変わる マーク・レクラウ 著 弓場隆 訳 ディスカヴァー
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たとえば、前を走る車がノロノロ運転で、腹が立ったとします。
この時、その腹が立っていることによって一番の被害を受けるのは「自分」です。
周りの人に「すぐにイライラする人」というレッテルを張られ、自分自身もイライラすることによって判断が悪くなったり、セロトニンの分泌量が減って制御できなくなるかもしれません。
では、ノロノロ運転していた人はどうでしょう?
おそらく、後ろの車の人がイライラしていても、まったく問題ありません(笑)
自分のためにも、他人を許すことが大切ですね。
「ゆるす」ことについては、お釈迦様の最期のお話をご紹介いたします。
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お釈迦様(ブッダ)の最期、永遠の眠りにつく時のお話しです。
ブッダが80歳のとき、弟子のアーナンダを連れて、クシナガルという北インドの地を旅していました。
クシナーラを通るとき、鍛冶屋のチュンダは貧しいながらも熱心な仏教徒で、ブッダが来るということを知ると、とても喜び、ぜひとも食事をもてなしたいとブッダに願い出ました。
ブッダは喜んでもてなしを受けるんですが、食べた後、激しい腹痛に襲われます。
食中毒をおこしたのです。
それでも、ブッダと弟子は旅を続けるために出発しました。
その苦しみの中で、ブッダは弟子のアーナンダに言いました。
「私が死んだあとに、チュンダのことを悪く言う人がでてくるでしょう。
はっきりさせておきますが、それは違います。
チュンダの料理を食べたからこそ、私はついに涅槃に至ることができるのです。
スジャータの乳粥(以前スジャータという名の少女から施された乳粥を食べ、救われている)と、チュンダの料理は、私にとって最上の食事でした。
私のことでチュンダを恨む人間がいたら、このことをよく説いてやってください」
さらに、鍛冶屋のチュンダにはこう言います。
「あなたは私に大変よいことをしてくれました。あなたは最期の食事を与えるために選ばれた人間です。なかなか選ばれるものではありません。
大変な高徳です。だから、悲しまないでください。生ずるものは必ず滅するのです。」
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お釈迦様が最期に教えたかった事、それは、許すということかもしれません・・・
死の原因となった事でさえ、相手を許し、優しい言葉をかける。自分に厳しい人ほど、他人を許すことが難しかったりします。でもそれはもしかしたら、「愛」の裏返しかもしれません。
自分のためにも他人のためにも「ゆるす」ことをしていきましょう。
※魂が震える話よりシェア
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