https://shins2m.hatenablog.com/entry/2019/09/15/001442 【慈悲喜捨】より
仏教には、人々を救う四つの教えがある。それは、「慈」、「悲」、「喜」、「捨」の四無量観と呼ばれるものだ。「慈」とは、楽しみを与えること。「悲」とは、苦しみを取り除くこと。「喜」とは、他人の幸福を妬まないこと。「捨」とは、感情に流されないこと。
(『秘蔵記』)
https://note.com/bunbukuro/n/nb8eb7bed66c8 【そんな日のアーカイブ 玄侑宗久講演 「宮沢賢治における修羅と慈悲」】より
仏教において愛は良い言葉ではない。それは妄執である。仏教で愛に相当するのは慈悲である。
「宮沢賢治を論じるのは猛獣が入っている檻に入っていくようなものだ」と言われている。それほど賢治を愛する人は多く、「わたしの賢治」となっているから、迂闊なことはいえない。
しかし、賢治の父親の政次郎さんは賢治の死後たずねてきたひとには「賢治を知りたいなら仏教を勉強してください」と言っていた。(だから玄侑さんは大丈夫)
「春と修羅」という詩集がある。
仏教で「六道」というのは、こころがたどる六つの段階のことである。地獄・餓鬼・畜生を三途という。もともとは三塗と書いた。その上に修羅がある。人間同士が争っている世界である。その上のじんかん(人間)は人間関係の悩みであり、そのうえの天は人間関係が喜びである世界だ。
修羅は阿修羅ともいう。 興福寺の阿修羅像は美しい。阿修羅は、こうしたいけれどこうできない怒り、自分に対する怒りを感じている。そういう美しさを持っているのではないか。
賢治は誰とどのように争っていたのか。それは見えてこなくて自分に怒っていたのではないかと思われる。
父親との争いもあった。
それは自分の中学時代を思い起こさせる。お寺に生まれ、後を継いでくれるものという暗黙の期待を感じていた。遠くまで見えるレールを歩いていくのはいやだが、納得しようとして、勉強していた。しかし、お寺が生活の場になっているのが納得できなくなる。お布施で暮らしている。葬式があると、つまり人が死ぬと生活費が入るということが大きな悩みになった。
賢治が争ったのは父親の政次郎だった。政次郎は暁烏敏を呼んで仏教の勉強会を主催するような熱心な浄土真宗の信者だった。それに対して賢治は法華経に心酔していた。在家の法華経行者になろうという宗派に属していく。父親との信仰のちがいが軋轢になっていく。
家業の古着の質屋にも反発していた。お寺と同じで困っているひとが客なのだ。晩御飯というと口論になっていた。賢治は家出癖があり、新興宗教に出入りしていた。
玄侑さんも父親と口論していた。玄侑さんはかつおが大好きなので、掲示板にお布施にはかつおがほしいと書くべきだと言ったりした。
お釈迦さんは一生お布施で暮らした。食事をいただきものですました。それは食べたいものを食べられない暮らしだ。それをあえてやっていた。考えようによってはとてもつらい。それでもお釈迦さんはベジタリアンの弟子に時には肉を食べよと言ってたりする。お金はお釈迦さまの気持ちに反するのではないか、と思った。
賢治は父親との争いを後に振り返って書いている。死の床で清書した『文語詩稿・一百篇』にある題名のない詩だ。
「われのみみちにたゞしきと、 ちちのいかりをあざわらひ、 ははのなげきをさげすみて、
さこそは得つるやまひゆゑ、 こゑはむなしく息あへぎ、 春は來れども日に三たび、
あせうちながしのたうてば、 すがたばかりは録されし、 下品さんげのさまなせり」
「自分が信仰を考えると、自分が正しいと思って、父の怒りをあざ笑い、母の嘆きをさげすむ日々だった」
苦しみの話は修羅の内実で、体を悪くして後悔して書いている。
懺悔のしかたには三つある。上品(じょうぼん)懺悔は毛穴と目から血がでる。中品(ちゅうぼん)懺悔は発熱して目から血がでる。下品(げぼん)懺悔は発熱して目から涙がでる。賢治は発熱して涙を流している。その姿ばかりが似ている。
賢治は法華経でいこうと決意したのだった。仏の慈悲がいきわたっている状態を賢治は「春」と呼んでいるが、現実はなかなか修羅から抜け出せないでいた。
夕食時の口論が続いた。父政次郎は「なにも喧嘩じゃないんだからそうムキになるなよ」と言っていた。
賢治は求道一本やりだったかといえば、あるべき「春」が頭ではわかっていても、うまくいかなくてガタガタしていた。賢治は生活の上でまったく自立したことがなく、親の金を使いまくっていた。玄侑さんがお寺の暮らしに納得できなくても、かつおを食べていたのと同じだ。
禁忌は好きだから禁じることに意味がある。禁じられたことでエネルギーを溜め込むことができるのはそうではない性(さが)があるからだ。
「ほおっておくとどこへいくがわからないので、わたしが手綱をつけていたのです」と政次郎さんは言う。
賢治は蓄音機を買い、クラシックレコードを買いまくり、英語を習いにいき、アインシュタインの本を読んでいた。色っぽい浮世絵もいっぱい持っていた。古着屋の親父が稼いだ金で買いまくっていた。
そうはいってもねー。レコードは聴きたいし、~はしたいしという思いが賢治のなかにあった。
なにしろずっと父親の金で暮らし、一生自立していないのだから、修羅は父親との争いというより、理想がはっきりありながらそうできない自分への怒りだった。
賢治は怒りをブルーという色で表すことが多いが、その怒りが不甲斐ない自分へ常にフィードバックされ、創作の意欲になっていた。
賢治の世界で、慈悲は「春」と表現された。慈悲というのはとてもやっかいである。
瞑想をするときに心がけるべき4つの方向性がある。
慈-サンクリット語でいうとマイトリー。あらゆる生き物にたいする友愛のこと。友情のようにすべてを愛すること。
悲-カルナー。他人の悲しみに同調すること。
喜-ミデター。他人がうれしいということをそのままうれしがれること。「ご同慶の至り」のこと。そこに嫉妬が入らない。(嫉妬はやっかいでおそろしいものである。能面は嫉妬が進むと変化する。その最上級は般若で、その下が泥顔である)
捨-ウデクシャー。どんなことがあっても極端に大げさな表現をしない。
その4つの方向に自分のこころを広げなさいとお釈迦さんは言った。しかしこの慈悲というのは、誰にでもできてかなうものとして想定されはいなかった。はるかに目指すべき仏のあり方とされていた。実現不可能ではあるが、はるかな目標は大事だと。
実現不可能なことを目指そうとすると美しくなる。人を美しくする効果がある。僧侶の修行では汁の椀が水平から曲げてはならない、箸は垂直から曲げてはならないと注意されるが、まあそんなことは絶対できないのだけれど、そういうことを気にしていると食べる姿が美しくなる。
慈悲喜捨は実現不可能である。
大乗仏教では、あらゆる命を殺さないためのプログラムであるお釈迦さんの教えにはみんなが混じれないとした。それでは生産活動ができないと。
お釈迦さんの教えには混じれないけれど、それでも仏教を学びたいひとのために大乗仏教ができた。そのなかに法華経もでてくる。
六道を越えたものに、声聞・縁覚・菩薩・仏がある。
声聞は羅漢さんの位で、耳の大きい人、人の話を聞くことに関して特段優れているひとは六道を越える。仏というはるかな目標を目指すひとに誰もがなれるという考え方になっていく。目指すことは誰でもできる。
菩薩というものは誰にでもなれる。日蓮上人は地湧の菩薩のさきがけだった。仏におさまっていなくて自分も苦しみながらみんなを助けていこうというのが菩薩である。お悟りをひらいた人が山から降りて人といっしょに暮らしていこうとすることだ。
自分たちも菩薩になれると考えるのが大乗仏教である。大乗仏教の教えは困ったことになってきた。自分が救われなくても人を救うことができるという考えになっていく。
しかし、子供が悩み苦しんでいるときにいっしょに悩み苦しむことは子供の役に立つのだろうか。
水の中で溺れかかっている子供を助けるにはかなり泳げないと助けられない。自分が泳げないのに助けに行ってしまうひとがいる。そういう「自分が渡っていないのにひとを渡してしまう」という考え方に賢治はかなりとりつかれていた。自分を犠牲にすることが慈悲ではないかと思い込んでしまったフシがある。
「銀河鉄道の夜」ではジョバンニが、死んでしまったカムパネルラといっしょに電車に乗って死の国へ行く。「銀河鉄道の夜」は死んであの世へ旅に出る中陰の物語である。そしてカムパネルラは天国に一番近い駅で降りる。
カムパネルラの死んだ原因はおぼれかかった友人のザネリを助けたからだった。身を捧げて犠牲になったこの死はもっとも天国に近いというのである。
このようなことを書いた賢治の作品は多い。「二十六夜」というのは初期の動物小説で、フクロウの和尚が説教をする。フクロウたちのヒーローである疾翔大力はもとは南天竺の雀だった。
あるとき飢饉で、6歳の子とその母親が空腹で餓死しそうだった。それを見かねて疾翔大力(そのときは雀だった)は遠くの森へ木の実を取りに行った。木の実を10個見つけてその親子の下へ運んだ。一個でも自分が食べることに罪悪感を感じた。それで自分はなにも食べず、10個まるごと親子に運んだ。10個目を運ぶときふらふらになって地面に落ちた。そして自分も食べてもらおうと死んだふりをした。
その功徳により疾翔大力は仏に会い、次第に法力を身につけ「火の中に入れどもその毛一つも傷つかず、水に入れどもその羽一つぬれぬという」菩薩になった。
正倉院の玉虫の厨子に捨身飼虎図が描かれている。飢えたトラにわが身を食べさせるために崖から落ちたのである。これは仏教にはない。自己犠牲を目指すものではないのだ。自爆(テロではないが)して、良いところへいけると考えると危ない。厨子にあるのは、間違って落ちたひとがおっちょこちょいだけどいい人だったということからできた話だろう。
賢治は自己犠牲の物語にとりつかれていく。慈悲にとりつかれてしまう。他人に対して元気な波動を発散できるくらいに元気でないと慈悲にはならない。実際賢治は病気になっている。
金子みすずは仏教をよく学んでいる。
「すずと、 ことりと、それからわたし、みんな ちがって、みんな、いい」
表現者は極端を目指すので、そこでやめられずに
「わたしはすきになりたいな、 だれでもかれでもみいんな。
お医者さんでも、からすでも、 のこらずすきになりたいな。
世界のものはみィんな、 神さまがおつくりなったもの」
と表現する。それは難しいことだ。個人の幸福に先立って世界の幸福を願うのは順番がちがう。それは仏教ではない。
表現者は突出したものを目指す。表現するものの表現である。時にひとは言いすぎることがある。それで、金子みすずは夫さえ愛せない自分を許せなくなり、自殺に及ぶ。
小林一茶は30歳のとき、北陸に出向き、良寛の父親である橘以南に俳句の詠み比べを挑んだ。そのときのテーマが慈悲だった。一茶は詠んだ。「やれうつな ハエが手をする 足をする」それに対して70才の橘以南はこう詠んだ。「そこ踏むな 夕べ ホタルがいたところ」
一茶は思わず、参りましたと頭を下げた。しかしその以南の句では、どこも踏めないことになってしまって蟄居するしかない。表現が常に行き過ぎるいい例である。
(以南も京都桂川で入水自殺している)
「虫を踏むかもしれないから歩くな」とかなり無茶なことをお釈迦さんは言っている。「女性にも接するな」とも言っている。賢治はそれに習おうとした。童貞でベジタリアン。
生きとしいけるものすべてに慈しみを注ぐのが慈悲であり、それ以外悪循環を断ちこることはできないという考えだ。
しかし、童話「なめとこ山の熊」で、賢治は猟師が命がけで撃つのはちがうだろうと訴える。生きとしいけるものすべてに慈しみを注ぐというお釈迦さんの慈悲の教えにこだわったのは確かだが、それに対していろんなものを書いて考えようとした。
生命の連鎖の対して賢治はいろいろ書いているが、その連鎖にせつなさを感じている。やむをえないことだという童話も書いている。賢治はお釈迦さんへのこだわりがすごかった。
お釈迦さんは最期のときに百歳を越えたひとが弟子になりたいとやって来た。弟子たちはこんなときにと止めたがお釈迦さんは「会うから通してくれ」と言った。
賢治が最期を迎えるとき、肥料の相談にきたひとがいた。賢治は身内のひとを制して「いいから通してくれ」と言ったのだった。
https://www.enkan.jp/plus/seio-shima/01-jikakushatachi-no-geidou/page-15.php 【自覚者達の芸道 15】より
島 青櫻
道元の『正法眼蔵』は、命の法に基づく修証のつとめを通して会得した仏道の思索の書、仏法論、ともいえる。同じく、世阿弥の『風姿花伝』を始めとする数々の伝書は、命の法に基づく稽古のつとめを通して会得した芸道の思索の書、能楽論、といえる。思索家としての世阿弥の一面がここにある。『正法眼蔵』は、専ら知における理想の追求であり、その眼目は真の探求にある。一方、『風姿花伝』は、専ら情における理想の追求であり、その眼目は美の探求にある。いずれの書も三位一体の知・情・意における命の法に基づく理想の追求であり、本質的には、意向的想いを根柢にする詩想の書、といってもよい。言い直せば、道元の知における意向的想いの片方には、情における意向的想いが即している、とみなければならない。「一方を証するときは、一方はくらし。………仏道もとより豊倹より跳出せる故に、生滅あり。迷悟あり。生仏あり。しかもかくのごとくなりといえども、華は愛惜に散り、艸は棄嫌におふるのみなり。」(「現成公案」)は、知による理想に潜む情の吐露、といってもよい。命の法に基づく思索は詩作であり、その辞は、本質的に、詩、といってもよい。
世阿弥の能楽論には、能楽に関する理論的な探究も歴史的な記述もあるが、その根本は、人間を究めることであり、人間としていかに生きるべきかの実践的探究である。能の稽古とは、生涯に亘り、全生活面に及ぶ「道」として、人間の主体的可能力――彼はこれを「位」と呼んでいる――を成立させ、発展させることであった。また、その稽古を土台として展開される演出・演技の「花」は、「時分の花」として咲く、その時限りの「声の花」「身の花」から、永遠性をもった「真(まこと)の花」を開かせるために、態(わざ)の稽古に伴う心の稽古としての工夫・公案を積むことが要請されている。
(西尾実『道元と世阿弥』)
『風姿花伝』『至花道』『花鏡』等の伝書は、命の法に基づく思索の書、といってもよい。命の法に基づく思索の営みは当為、また、思索の言明である詩作は、三位一体の知・情・意による三位一体の真・美・善の当為、言い直せば、思索は主体的命の正に為すべき道の営為であり、詩作としての伝書は主体的生命の正に在るべき道の営為、ともいえる。「この道を花智(かち)と顕はす秘伝」(『花鏡』)と世阿弥自らいうごとく、一連の伝書には花の文字が入っている。また、「風姿花伝第三 問答条々」の「能に花を知る」件には、「花は心、種はわざなるべし」とも述べている。命の法に基づく世阿弥の思索において、花は美の比喩、命の法における真・美・善三位一体の美を指す。この美は、知・情・意三位一体の情の顕れにほかならない。すなわち、『風姿花伝』を始めとする世阿弥の伝書は、命の法に基づく能楽の美の究明に主眼を置いた命運的自覚者の思索の書、「この道を花智(かち)と顕はす秘伝」の書、といえよう。
世阿弥は能楽の美を、花に譬えて語った。また、「花は心、種はわざなるべし」とも述べた。しからば、何故、「花は心」であり、また、何故、「種は態」なのか。われわれは、「やまと歌はひとの心をたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」という紀貫之の語句を知っている。字面通りの読み方をすれば、紀貫之にとって、心は種であり花は言葉(態)である、つまり、世阿弥と真逆の美的見識をもっていた、といえる。
世阿弥の「花は心、種はわざなるべし」というところの、心と呼ばれる花とは何か、また、種はわざと呼ばれる種とは何か。「古今和歌集の序に、紀貫之は、〈やまと歌はひとの心をたねとして、よろづのことのはとぞなれりける〉と書いている。つまり人間の心が種で、それが芽を出し茎を伸ばして、葉を開くのが和歌であるという。………貫之のこの考え方をもってすると、世阿弥は〈花は種、種は心なるべし〉と書くべきところである。………貫之流に考えれば、花は態、謡ったり舞ったりはたらいたりするわざ、これが能の舞台における花、舞台効果だと考えるのが当然である。そうして種は心、即ち、そういう演技を展開させる根底は心であるということになる。ところが、世阿弥は逆である。種は態、そういう花を開く種は演技、謡・舞・はたらき等いろいろな動作をする、その所作である。したがって、それを反復稽古することが根底になってできた心、〈花は心〉という、その花を開く心というものは、こういう次元の高い心である。」と西尾実は解明する。
われわれのうつし・・・(移し・遷し・映し・写し)の概念に基づく見識をもっていえば、世阿弥の花は、有量の命の裡に働く情態の形(外見・姿勢)へのうつし・・・であり、また、世阿弥の種は、有量の命の裡に働く情態の曲(変化・面白み)へのうつし・・・、ともいえる。いずれも、命の法に基づく心情の空間性における美の顕れ、といってもよい。言い直せば、花は心、すなわち有量の命の心情の姿への開現であり、また、種はわざ、すなわち有量の命の心情の運び(舞としての動作、謡としての声曲)への開現、といってもよい。この場合、花と種とは、花即是種∞種即是花の関係、つまり形式と行為とが一如の間柄にある。端的にいえば、世阿弥のいう花は、心をうつし・・・たもの、心の差異としての物、而して、その心は憧憬(アクガル)であり、その本質は狂に他ならない。一方、貫之のいう種は、言の葉(花)を開現させる基の作用としての意識的働き(心)、いわゆる唯識哲学がいうところの種子(しゅうじ)エネルギー、いわば、深層意識に匂付け(薫習)された遺伝子情報を指している、といってもよい。
しからば、仏法即ち命の法の間における機能であるうつし・・・とは、実際、如何様な働きを指すのか。仏法(色即是空∞空即是色)のダイナミズム(可能態)は、色と空との矛盾的自己同一における往還的生成の働き、ともいえる。この場合、命の側面からみれば、色から空へ推移する往行過程は、有量の命を無量の命へ移す働きであり、また、空から色へ推移する還行過程は、無量の命を有量の命へ移す働き、といえる。すなわち、命の法のダイナミズムの機能の本質は、移す作用、といってもよい。この場合、色から空への移しは隠(かく)しであり、空から色への移しは現(うつ)し乃至顕(あらわ)し、ともいえる。
命の法の間は、一元性の間、矛盾的自己同一の境界、有量の命と無量の命とが相即する二つの対極的命の場所、根本においては一つである命の差異の間柄にある命、といえる。この場合、無量の命から有量の命への移しである現し乃至顕しは、いうなれば、鏡に映した、若しくは写した無量の命の姿、写影、ともいえる。また、憧憬(アクガル)出でる有量の命、すなわち現しにおける命(生霊)の無量の命の間への移しは遷し、といってもよい。或は、また、夢中に入りくる隠しにおける命(死霊)の無量の命から有量の命への移しも遷し、といえよう。
写の意は、元の事物をまねてつくる、すなわち、模写や転写、或は、摸造や模倣、若しくは描写、といった行為を指すのであれば、写したものと写されたものとは、同一ではない。言い直せば、見るものと見られるものが分離したところ(二元性の境界)の写す行為は、主観、若しくは客観による把握であって、写したものは写されたものの偽物であって、写されたものそのもの、本物ではない。写したものが本物であるのは、見るものと見られるものとが相即したところ(一元性の境界)の写す行為、すなわち、内在的直観による把握、つまり自覚の事態にあるときだけに限る。
世阿弥の能は、仏法すなわち命の法に基づくうつし・・・の機能による芸事、ともいえる。そのうつし・・・は、様々な局面における作用(移す・遷す・現す・映す・写す)、といえる。しかし、命の法は詩作即是思索∞思索即是詩作の、命としての言語の創造の法理と読み替えて捉えるならば、うつし・・・の様々な作用は、移しと映しの働きに分けることができる。
詩作作用としての移しは、事態をある所から他の所へ移動させる作用、命の法の往還構造における機能、すなわち詩作的局面における働き、ともいえる。また、思索作用としての映しは、思惟するもの(ノエシス)が思惟されるもの(ノエマ)としての対象面に物の光や影などをあらわす作用、命の法の対話構造における機能、すなわち思索的局面における働き、ともいえる。
霊的命の空相から色相への移しは現し(顕し)、すなわち、世阿弥のいう花は、霊的命の現しの移し、といってもよい。また、霊的命の色相から空相への移しは隠し、すなわち、世阿弥のいう幽玄は、霊的命の色相から空相への隠しの移し、といってもよい。
「遊楽の道は一切物まねなりといへども、申楽とは神楽なれば、舞歌二曲をもつて本風と申すべし。」(「世子六十以降申楽談儀」)と世阿弥がいうごとく、能楽の本意は物まねにある。世阿弥のいう物まねは、演じられる霊的命の姿・形・仕業を演技者が映し(写し)、といってもよい。物まねは演技者の映しの働きによる仕業、その演技は移しの働きによる仕業、といってもよい。すなわち、物まねは、詩作即是思索∞思索即是詩作の所業に他ならない。「物まねに似せぬ位あるべし。物まねを窮めて、その物にまことになり入りぬれば、似せんと思ふ心なし。」(花伝第七 別紙口伝)にいう似せぬ位の物まねは、我執を離れ、命の法の間に帰依した自覚的芸道者の仕業、すなわち、真似られるものと真似するものとが相即したところの映し移す所業、「これを心から出で来る能ともいひ、無心の能とも、また無文の能とも申すなり。」(「花鏡」 批判之事)の舞歌のこと、といってもよい。
われわれは、先の「茶における利休」の章節で、侘びと寂びという、心法における二つの美的理念の究明に時を割いてきている。そこで聞き得た見識の要旨を述べれば、色即是空∞空即是色の仏法を美の法理と見做す時、侘びは色、有量の命の身体的美、つまり空間性の美(景色の美)であり、また、寂びは空、無量の命の心的美、つまり時間性の美(背景の美)、とみてきている。すなわち、空間性の美である侘びは、佇まいの美、有量の命の身際が醸し出す美、といえる。一方、時間性の美である寂びは、有量の命が依拠する余白(有量の命相互が形成する透き間)、及び余韻(有量の命凡てを包摂する無量の命の透き間)が醸し出す美、といえる。然して、空間性の美である侘びと時間性の美である寂びとは、仏法すなわち命の法に基づく美、根柢においては一様であるものの二様の美、すなわち相即する美であることを明らかにしてきた。
更に、仏法を論拠とする侘び・寂びの解明に伴い、日本文学論・歌論の美的理念である幽玄の一般的考察も併せて行ってきている。その結論をいえば、「優艶を基調として、言外に深い情趣・余情のあること。その表現を通して見られる気分・情緒的内容」(『広辞苑』)といわれる幽玄とは、有量の命の身の回りに観取される有相即是無相∞無相即是有相の気配、或は、命から滲み出る融通無碍の雰囲気、すなわち、本質的に、寂びの美的理念に当たる。畢竟するに、幽玄は余情の美、憧憬(アクガル)出でた有量の命相互が形成する余白と、それを包み込む無量の命の余韻とが一如である意向的想いの美(光景の美)であることを明らかにしてきた。
花と幽玄は、世阿弥の伝書に通底する美的理念、といってもよい。世阿弥は能の美学の神髄を語るに、時に花といい、時に幽玄と呼ぶ。結論からいえば、世阿弥のいう花は、命の法における有量の命が構成する美、有相の美、流行の美、風情の美、風景の美、侘びに当たる美的理念、といってもよい。また、世阿弥のいう幽玄は、命の法における無量の命が構成する美、無相の美、不易の美、風流の美、背景の美、寂びに当たる美的理念、といってもよい。
態(相)という観点から花と幽玄をいえば、花は事態、形ある姿の美、いわば、命の意向的想いの空間的顕れ、といえる。一方、幽玄は情態、形なき姿の美、いわば、命の意向的想いの時間的顕れ、といえる。いずれの美も、一つの命(法身)を基とする正位にある命の構え、といってもよい。端的にいえば、花と幽玄とは、不二の心情の二様の顕現、といえよう。
また、懸かりという観点から花と幽玄をいえば、形ある姿の花は、幽玄という形なき姿の妙所にひっかかり、それに支えられている命の態、(風姿・風体)ともいえよう。
世阿弥は、「住する所なきを、まづ花と知るべし」(『風姿花伝』)ともいう。住するとは、一っ所に留まり居る意。命の法における有量の命は、常に変化と生死を繰り返し、更なる命の生成発展を遂げる止むところなきもの、すなわち、不住の命、ともいっている。 また、世阿弥は、「そもそも花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑに、もてあそぶなり。申楽も、人の心に珍しきと知るところ、すなわち面白き心なり。花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」(『風姿花伝』)、ともいっている。すなわち、年々去来するものは、常に珍しく、面白く、花がある、ともいっている。珍しく、面白く、花がある根拠は、不住の命であることにある。世阿弥のいう花は、不住の命の佇まい、言い換えれば、不易の命である無量の命の時空間に開く、流行の命である有量の命の美を指している、といってもよい。
有量の命は流行の命、無量の命は不易の命、命の法における有量の命相互の関係、及び、有量の命と無量の命との関係は、美的理念の側面からみるならば、花と幽玄との関係にある。すなわち、有量の命自体が構成する美は花、また、事事無碍界における有量の命相互が構成する美は余白としての幽玄、及び、理事無碍界における有量の命と無量の命とが構成する美は余韻としての幽玄、といえる。花と幽玄の美を様相の観点からいえば、花は有相、幽玄は無相、といえる。また、花と幽玄の美を一如の能所の観点からいえば、花は有為、所業における美であり、幽玄は無為、能業における美、世阿弥の口吻でいえば、「せぬところ」の美、といってもよい。「まづ二曲〔舞・歌〕をはじめとして、立はたらき・物まねの色々、ことごとく皆、身になす態(わざ)なり。せぬところと申すは、その隙なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見るところ、これは、油断なく心をつなぐ性根なり。舞を舞ひやむ隙、音曲を謡ひやむところ、そのほか言葉・物まね、あらゆる品々の隙隙に心を捨てずして、用心を持つ内心なり。この内心の感、外に匂ひて面白きなり。」(『花鏡』〔 〕内は筆者記入)、と世阿弥はいう。言い直せば、「せぬところ」とは、花や種を包む余白の間即余韻の間、つまり幽玄の間、といってもよい。更にいえば、有量の命の心情が事事無碍の間、及び理事無碍の間に匂いとなって憧憬(アクガル)出でる間、形のない姿の在所、世阿弥のいう妙所、といってもよい。簡単にいえば、「せぬところ」とは、有量の命の融通無碍の心情が余情(におい・うつり・ひびき)として、身の裡より発ち出でる間合、といってもよい。
[世阿弥が老境に至って到達した]名人の境域が、彼のいわゆる「闌けたる位」と却来花である。………[闌けたる位、すなわち]蘭位は、………茶道で云えば、侘びに相当する境域と考えられる。………却来花というのも、要するに、この悟りの境地から出た作風で、………この境地に達すると、一切の形態から脱却して、しかも無に帰したかのように、渾然無礙の世界が展開される。却来花は、この一切の形態を脱却した心境であろうと思われる。………[世阿弥が希求し、そして達成した芸道は]歌道における定家や西行、連歌における宗祇も正徹、茶道における紹鴎や利休、俳諧道における芭蕉や蕪村と、時代を隔てて、しかも一貫するところがあったのだ。(注記:[ ]内は筆者記入)
(桑田忠親『世阿弥と利休』)
世阿弥のいう「闌けたる位」とは、命の法における有量の命が到達した究極の心境を指示している、といってもよい。その境位は、侘びを侘びつくした芭蕉の晩年の佇まい、一笠一杖の身ひとつの風狂の心境と一脈通ずる想念、といえよう。したがって、世阿弥が杉の木に譬えた却来花とは、命の法における有量の命が到達した果ての身なり、侘びの極北の佇まいの美、ともいえる。「却来」の一般的意味は「ある境地に達した後、またもとの境地にたちかえること」(『広辞苑』)、つまり、到達点が同時に出発点である時局における往還的反転を指す。自然現象的にいえば、却来は、年々去来する時節の転換の局面、すなわち、冬至に極まった命が、ふたたび、春に向けて始動する時の極み、ともいえる。そこからいえば、却来花は、年々歳々、繰り返し訪れる四季折々に開花する有量の命の究極の美を指している、と聞かねばならない。
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