Facebook藤井 隆英さん投稿記事
南直哉 老師 あぁ禅僧だなと思います。私は好きです。
本文より
「前向きになれと言われるけれど、『前向き』なんて、どっか胡散臭いんですよ。そもそも人間は自己決定で生まれてきたわけではないですから、パッシブ(受動的)なんですよ。アクティブにやれなんて無理でしょう。ネガティブを受け入れるところからはじめなければ」
「だいたい、自己責任でできるような決断にはね、大したことは、一つもないです。そうでしょう。頭の中で解決できる話は所詮、些事しかない。決定的な判断をせざるを得ないときには、違う力が働きます。自分とは別の、力。するのではなく、むしろ、決定させられる」
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6510983?fbclid=IwY2xjawEv2QlleHRuA2FlbQIxMQABHcH8kSMNORss6S64l8cu7MJvzCtP3pKVqdfRh-m_bTXKWFeV3nCUDYbaEg_aem_DOhoRI16dM5W-GqT_admnA 【無理に夢や希望を持つ必要はない、正解なんて出なくていい――恐山の禅僧が語る、「人生の重荷」との向き合い方 #今つらいあなたへ】より
8/17(土) 9:53配信
前向きに考えよう、やりがいを持とう、という“ポジティブが善”の風潮が強まる中で、ネガティブな感情を言葉にできない若者が増えているという。悩める人々との対話を重ねてきた恐山の禅僧、南直哉(66)は、「20代、30代の人たちは特に、『対話』の能力が退化しつつある。ネガティブな感情を閉じ込め続けると、必ず心や体に支障をきたす」と警鐘を鳴らし、「人間はそもそもネガティブ。無理に夢や希望を持つ必要はない」と断言する。幼少期から、極限まで「死」と向き合ってきた僧が説く、心の重荷を軽くし、人生を取り戻す方法とは。(取材・文:山野井春絵/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
撮影:殿村誠士
青森県下北半島の北部に位置する「恐山」。地獄を思わせる火山岩と、極楽のように澄んだカルデラ湖とが織りなす、独特の風景が広がっている。1000年以上昔から、人々はこの地で「あの世」に思いを馳せ、信仰してきた。「亡くなった人に会える場所」。夏に行われる「恐山大祭」には、イタコを名乗る女性たちが現れて、死者の言葉を伝える「口寄せ」を行うことで知られるが、近年は後継者が少なくなっているという。
2005年から恐山菩提寺で院代(住職代理)を務める禅僧、南直哉は、著述家としても活躍するが、その経歴は実にユニークだ。早稲田大学第一文学部で美術史を学び、大手百貨店に就職。2年勤めた後に出家、曹洞宗大本山永平寺で約20年の修行生活を送った。
出家を決めた当時はバブル目前。日本中が浮かれ気分のなか、なぜキャリアを捨て、出家をしたのか。その理由を、「自分自身の抜き差しならない問題に取り組むため」だったと南は語る。
「これは業のようなものです。私は幼いころ小児喘息をこじらせて、何度も絶息状態に陥りました。それは凄まじい体験。苦しくて、目の前が真っ赤になるんです。子ども心にも、何度か『次は死ぬのかな』と思いました。そこから常に『死』について考えるようになった。死とは何か。死んだらどうなるのか。大人に聞いても、まともに答えてくれない。小学生のとき祖父の死に際し、その亡骸を見たときに、なんとなくわかったんです。死とは、自分一人のもの。自分の死以外は、存在しない。そうか、だから誰も答えられなかったのか、と」
死への問いは、やがて南を縛りつける呪いになっていく。
「どうせ死ぬのに、なんで生きているんだろう。普通なら大人になるにつれて忘れてしまうようなことをずっと問い続け、それが思考の中心。就職したって、一応まじめには働いていたんですけど、稼ぐための効率なんて考えられない。どんどんズレていくんです、ふつうのラインから。これ以上はもうダメだ、自死してしまうかもしれないとも思いました。最後の手段と博打を打つような気持ちで、出家を決めたんです」
修行を重ね僧侶となり、数々の対話をすることで、表からは見えない苦しさ、生きづらさを抱える人たちが驚くほどたくさんいることを知った。現在南は、人々の苦しみの正体と向き合い、心を楽にして生きるための発言を続けている。
「前向きになれと言われるけれど、『前向き』なんて、どっか胡散臭いんですよ。そもそも人間は自己決定で生まれてきたわけではないですから、パッシブ(受動的)なんですよ。アクティブにやれなんて無理でしょう。ネガティブを受け入れるところからはじめなければ」
ネガティブな思いを言葉にする力が萎えている若者たち
悩める人々と向き合ってきた南には、今、大きな懸念がある。それは特に30代、それ以下の若者たちが、自分の気持ちを言葉にできないことだという。
「つらいから私に会いたいと言ってやってくるのに、いざ対話をはじめようとすると、彼らから言葉が出てこない。例えば、30歳の男性。いい大学を出て、大会社に就職して、将来を嘱望されていたような人なんですが、会社に行けない。理由を聞いても、言わないんです。私はこれまでの経験から、『あなたが言いたいのは、こういうことじゃないですか』と言ってみる。すると相手は驚いて、『なぜわかるんですか、さすがお坊さん、神通力ですか』(笑)。違う、違う。私は言葉のサンプルを出しただけ。しかし、彼は言葉で自分の感情を表すことを知らないんです。彼らのような人たちが、実に増えています。自分が抱える悲しみや苦しみ、ネガティブな思いを言葉にする力が萎えている。言葉にすることだけではなく、何が切ないのか、つらいのか、感情すらわからなくなっているんです」
撮影:殿村誠士
感情は「液体」だと南は言う。液体は、器に入れてはじめて、色やにおい、重量がわかる。つまり、アウトプットしてみなければ、自分に起こっていることがわからないのだ。
「彼らは、親にも、友達にも、自分のネガティブな感情を出すことが苦手です。恐れているんだと思います。嫌われて、関係が壊れてしまうことを。そうやって言葉を使わずにいると、何が起こるか。肉体と同じで、使わない能力は、どんどん衰えていきます。でもネガティブは自分の中に溜まっていく。内向を続けて、学校や、会社に行けなくなる。やがて必ず、心と体の健康を害します」
SNSは「対話」ではない
SNSの時代だ。若者はいつでも、誰にともなく、自分の思いを語ることができているのではないか。現にネットには、自らの悲しみ、苦しみ、また他人への意見まで、赤裸々な言葉であふれている。
「言葉っていうのは、対話でしか成り立たないんです。相手が何を考えているのか、自分の言葉が通じているのか。やりとりの中で問題が明確になり、気づきがあるんです。SNSの問題は、思いを一方的に『吐くだけ』だということ。そこにフィードバックはない。これは麻薬のようなものです。吐き出す言葉の強度を上げていかないと、実感が湧かなくなっていく。こんなことを続けていると、感情は疲弊していく一方です。いやいやSNSにもコミュニケーションはある、対話している、と主張する人もいるかもしれない。しかし所詮は、誰だかわからない相手とのやりとりです。相手の本当の性別だって年齢だってわからない。これは言葉のキャッチボールとは言えない。壁に向かって球を投げているのと一緒です。『いいね』だって、反応じゃないんですよ。『あなたの話は商売になりますね』という意味に近い。対話ではないんです」
撮影:殿村誠士
「つらいなら、つらいと言えばいい。言葉を失っていく人たちを見るのは、とても切ない。対話ができない若者たちは、地位や名誉にも興味を示さない。かつての日本人が抱いていた夢や希望のようなものに疑いを抱いているから、意欲は失われるばかりです。こんなふうになってしまったのは、なぜかと考えてみると、やはり日本の社会に余裕がなくなったからだと思いますね。バブル以降、人口は持続的に縮小し、経済も低迷し続けていますが、日本という国は、こんな状況を経験したことがなかった。だから立ち位置に迷うわけです。そうすると、過剰に失敗を恐れる。集団においては、他人の評価を恐れるようになる。自己防衛からネガティブなものを出さなくなっていく。しかし、ネガティブこそが人間の基礎です。これを無視すれば、存在自体が揺らぐのは当たり前だと思いますね」
「弱音を吐いちゃいけない」っていう思いこみを解除するのには、とても時間がかかります
撮影:殿村誠士
さらに若い層、中高生たちの自殺・不登校・いじめの件数が増加している。コロナ禍でコミュニケーションの機会を奪われた子どもたちだ。感染予防とは別の理由でマスクをつけ続ける子どもたちはまだ多い。
言葉を失った若者たちを救う術はあるか。どうしたら、恐れずに「対話」ができるようになるのだろうか。たとえば、一番身近である家族にできることはあるのか。
撮影:殿村誠士
「昔は大家族で、隣近所の人たちとも交流がありました。今は違いますよね。私は人間関係の問題はほとんどが家族にあると考えているんですが、やっぱり、いまの家族は閉鎖されすぎているんですよ。開口部がなくて、数も少ない。密度が高いからすぐに行き詰まっちゃう。先にも言った通り、人間は好きで生まれてきたわけではない。存在を押しつけられたんです。だから、『私はあなたの存在を全面的に肯定する』と言ってくれる人が必要なの。本来なら親の役目。でも親にそれができないなら、別の人でもいい」
「淡い関係」が結べる人を確保したほうがいい、と南は言う。
淡い関係とは何か。
「家族や友人ほど親しくなくていい。年上で、信用できて、ちょっと距離のある人。学校や習い事の先生でもいいし、遠い親戚とか、会社の先輩とか。『かかりつけのお坊さん』って言ってますけど、もちろんお坊さんじゃなくてもいい。安心して話せる相手を見つけておく。ネガティブなことも、うんうんって聞いてもらうだけでいい。そうやって、弱音を吐く練習をすべきです。なるべく早い段階がいい。『弱音を吐いちゃいけない』っていう思いこみを解除するのには、とても時間がかかりますから」
正解なんて出なくていい
撮影:殿村誠士
人間関係にはしばしば思いがけない裏切りや別離が訪れる。恋愛、友情、結婚。家族の間にも亀裂が入ることはある。その悲しみから、人間不信に陥り、心身を病んでしまう人もいる。人間関係をどう捉えたら、もっと楽に生きられるだろうか。
「『この人と付き合う』と覚悟を決めたら、『裏切られたって構わない』と思うことですね。それが、その人への信頼だと思います。そもそも、他人は裏切る可能性があると思っておいたほうがいい。よくペットを飼う人が、『ペットはいい、裏切らないから』といいますよね。ペットは、自分の思い通りになる所有物だからです。支配できる。でも、人と人との付き合いは違う。仏教には、愛の上に『敬う』という考え方があります。その存在を丸ごと認めること、敬うことが、愛よりも重要なんですよ」
今、南は、世の中に強くて速い流れのようなものを感じる、と言う。
「老いも若きも、みんなが方向性の決まった強い流れに、流されて茫然としている感じがあるんですよ。ポジティブにならねば、とか、なんでも自分で解決しなければ、とか、そういう流れに乗らないと生きていけないというような強迫観念がある。私は、このまま流れていくのは危険だと思いますね。どこかでフックをかける、自分は本当は何をしたいのか、何をすべきなのか考えたほうがいい。人や自分のありようというものを、ちょっと冷めた目で見る余裕がないといけないと思います。だいたい、大きい問題を自分で解決できるなんて思わないほうがいいですよ。正解があるという考え方自体を解除する。正解なんて出なくていい。折り合い切れない時は、受け流せばいい。そういう営みを続けていれば、必ずわかってくれる人も出てくる。少なくとも、孤独ではない。自分は一人ではないとわかることが、救済です。それがあれば、人は生きられると思います」
これはたぶん、思い当たる人はたくさんいるのではないか、と前置きをしながら、南は続けた。
撮影:殿村誠士
「だいたい、自己責任でできるような決断にはね、大したことは、一つもないです。そうでしょう。頭の中で解決できる話は所詮、些事しかない。決定的な判断をせざるを得ないときには、違う力が働きます。自分とは別の、力。するのではなく、むしろ、決定させられる」
違う力とは、何か。
運命……?
「わかりません。われわれはそれを、『縁』といいます」
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南直哉(みなみ・じきさい)
1958年、長野県生まれ。禅僧。恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。早稲田大学第一文学部を卒業後、大手百貨店勤務を経て、1984年、曹洞宗で出家得度。曹洞宗大本山永平寺での修行生活を経て、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』で小林秀雄賞受賞。著書に『老師と少年』『恐山 死者のいる場所』『正法眼蔵 全 新講』ほか。近著に『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮社)。
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