https://www.youtube.com/watch?v=HfNiVkK6Qno
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/195231/ 【どうか無事に帰ってきて…!命がけの単身赴任に向かう防人たちの愛と別れ】より
この記事を書いた人 高橋 三保子
この記事に合いの手する人 先入観に支配された女、サッチー
「防人に行くのは誰の旦那さんなの?」なんてよく言うわ 勇ましい気持ちと、家族への心配。旅立ちに揺れる心 永遠の別れを覚悟して……つらい旅立ち 防人の本音「私を指名するなんて、悪い人だ!」防人歌を集めた大伴家持の本音は?
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家族が離れて暮らす単身赴任。
仕事のためにやむを得ないとはいえ、大切な人に会えない時間は切ないものです。
1300年前にも、命がけの単身赴任をしていた男たちがいました。
飛鳥〜奈良時代、東国(東海、信濃、関東地方)から北九州へ、国を守るために派遣された兵士「防人(さきもり)」です。兵士といっても、彼らの多くは農民。防人に選ばれるとふるさとに家族を残し、3年間の任務につかなければなりませんでした。
そんなに!?長い…!
先入観に支配された女、サッチー
『万葉集』には、防人やその家族が別れの悲しみ、恋しさをうたった和歌が数十首収められています。都の貴族が作る和歌とは違う、素朴で素直なしらべに耳をかたむけてみましょう。
「防人に行くのは誰の旦那さんなの?」なんてよく言うわ
防人という制度がはじまったのは663(天智2)年、白村江(はくすきのえ)の戦いがきっかけです。朝鮮半島情勢が混乱する中、倭(日本)は百済から救援の要請を受けて出兵したものの、大敗。敵である唐や新羅が攻め込んでくると考えた朝廷は、北九州の守りを固めることにしました。
集められたのは、東国の農村に住む働きざかりの男たち。もし防人に選ばれれば、病気などよほどの理由がないかぎり、断ることはできません。
潮舟の舳(へ)越そ白波にはしくも負ふせ給(たま)ほか思はへなくに
(潮舟の舳先を越える白波のように、突然、防人に指名なさったことだ。思いもよらなかったのに)
突然防人に指名されて、驚いている男性の歌です。現代に置き換えるなら、ある日、突然東京本社から北九州支社への辞令を受けとって、呆然とする会社員の気持ちに似ているかもしれません。ショックのあまり、頭の中で白波が砕け散る映像が見えた……そんな感じではないでしょうか。
こういう心情も和歌で残していることにまずはびっくり!現代のサラリーマン川柳みたい
先入観に支配された女、サッチー
わが妻も絵に描き取らむ暇(いづま)もが旅行く我(あれ)は見つつ偲(しの)はむ
(私の妻を、絵に描きとる時間がほしい。旅をして任地へ行く私は、その絵を見ながら妻を思うのだ)
当時は写真もない時代。何か相手を感じられるものは欲しくなるよね
先入観に支配された女、サッチー
旅立ちまでに、準備しなければならないことはたくさんあります。そんな中で、妻の絵を描きたいと男は思い立ちました。つらいとき、さみしいとき、大切な人の姿を見て心をなぐさめたいと考えるのは、1300年前も今も変わらぬ心情のようです。
家族にとっても、大切な家族であり、貴重な労働力である父や息子、夫を送り出すことは大きな負担でした。
夫が防人に選ばれた妻の、こんな歌が残っています。
防人に行くは誰が背(せ)と問ふ人を見るがともしさ物思ひもせず
(「防人に行くのは誰の旦那さんなの?」なんて遠慮なく聞く人を見ると、うらやましい。心配事などないのだから)
「人の気も知らないで、他人事みたいな顔してよく言うわ」という怒りと、「どうしてよりによってうちの夫なの?」と不運をなげく気持ちがストレートに伝わってきます。
勇ましい気持ちと、家族への心配。旅立ちに揺れる心
いよいよ旅立ちの日。悲しみをおさえて、妻は夫に裁縫道具と、思いをこめた和歌を手渡します。
草枕旅の丸寝の紐絶えば我(あ)が手と付けろこれの針(はる)持し
(旅先で、服を着たまま寝ているうちに、着物の紐が切れてしまったら、私の手だと思って付け直してくださいね、この針を持って)
当時の人びとにとって着物の「紐」は、契りを交わした男女が結びあう特別なものでした。万が一紐が切れてしまったら、そこに私の手があると思って縫いつけてね。という言葉には、夫を心配する気持ちと、「離れても私を忘れないで」という切ない思いが感じられるようです。
防人として出発する男の気持ちもまた、複雑です。同じ男性が詠んだ2首の歌を比べてみましょう。
難波津(なにわつ)にみ船下ろすゑ八十梶貫(やそかぬ)き今は漕ぎぬと妹(いも)に告げこそ
(難波の港に御船を新しく浮かべ、船腹にたくさんの楫(かじ)をつけて、いよいよ漕ぎ出していったと、妻に告げてくれ)
防人に立たむ騒きに家の妹(いも)が業(な)るべきことを言はず来ぬかも
(防人として出発するまでの慌ただしさに、妻に家の仕事の段取りを伝えることなく来てしまったよ)
1首目の歌からは、防人としての役割を果たそうとする勇ましい気概が、2首目からは「妻は明日から一人で大丈夫だろうか……」と心配する気持ちが伝わってきます。
このように、公的な決意と、私的な感情の両方をありのままに詠み分けるのが、万葉集に収められた防人歌の特徴です。
それにしてもこの男性、「仕事」と「プライベート」の使い分けが実に見事です。与えられた役割をてきぱきとこなしつつも、ふとした拍子に残してきた家族のことを思い出す細やかな心情が伝わってきます。現代なら、新幹線の中で妻にLINEを送る場面ですが、この時代は一度離れてしまったら、連絡をとることも簡単ではありません。さみしさや不安も、今よりずっと大きかったことでしょう。
命がけの単身赴任というのもとても不安です
先入観に支配された女、サッチー
永遠の別れを覚悟して……つらい旅立ち
飛行機も、新幹線もない時代。東国から九州への旅は危険な道のりでした。給料もなく、食糧は自給自足。途中で命を落とす人もいて、無事に帰ってこられるとは限らなかったのです。旅立つ男性も、送り出す家族も、永遠の別れになるかもしれないことを覚悟しました。
過酷な旅の途中、思い出されるのは、やはり家族のことです。
我(わ)ろ旅は旅と思(おめ)ほど家(いひ)にして子持(め)ち痩すらむ我が妻(み)かなしも
(私の旅は、旅とはこんなものだと思ってつらくても耐えるが、家にいて、子どもを抱え痩せているだろう妻のことを思うと、かわいそうだ)
韓衣裾(からころむすそ)に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして
(衣服の裾にしがみついて泣く子どもたちを残してきたのだ、母親もないというのに)
2首目の歌を詠んだ男性は、シングルファザーだったのかもしれません。男手ひとつで育てていた幼い子どもたちを残しての旅立ちは、体を引き裂かれるような思いだったことでしょう。
父母が頭(かしら)かき撫で幸(さく)あれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる
(両親が頭を撫でて「無事でね」と言ってくれた言葉が忘れられない)
この歌を詠んだのは、若い防人だったのではないでしょうか。苦労の多い旅の途中で両親のやさしさを思い出し、涙したかもしれません。
わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影(かご)さへ見えてよに忘られず
(妻は私を、ひどく恋い慕っているらしい。水を飲もうとすると、その水面にまで姿が映って見えるので、とても忘れることができない)
旅の途中、喉がかわいて井戸の水を飲もうとすると、そこに妻の顔が映る。まるで映画の一場面のようです。妻が恋しいから幻影が見えるのではなく、妻が私を思っているからその姿が見えるのだと歌うところがなんともいじらしく、夫婦の結びつきの強さをあらわしているようです。
現在の世界情勢とも重なって見える部分もあります
先入観に支配された女、サッチー
防人の本音「私を指名するなんて、悪い人だ!」
たくさんの犠牲と、防人や家族の悲しみの上に成り立っていた防人制度。命令を拒むことができない悲しみや、突然指名された怒りを率直に表現した歌も残されています。
障(さ)へなへぬ命(みこと)にあればかなし妹(いも)が手枕(たまくら)離れあやに悲しも
(拒むことのできないご命令なので、いとしい妻と離れて眠らなければならない。とても悲しい)
ふたほがみ悪(あ)しけ人なりあたゆまひ我がする時に防人に差(さ)す
(ふたほがみは悪い人だ。私の都合が悪くて苦しんでいるときに、防人に指名したのだから)
「ふたほがみ」が誰なのかはよくわかっていません。この歌を詠んだ人物は、急病にかかっていたと解釈する説もあります。指名されたら断ることができない国の制度でありながら、一方でこんなにはっきりと、防人に指名した人物を批判した歌が『万葉集』に掲載されているのは、ずいぶん大らかな感じがしませんか?
防人歌を集めた大伴家持の本音は?
後鳥羽院本(烏丸光広奥書本)三十六歌仙絵(模本)より、大伴家持 出典:ColBaseをもとに加工して作成
防人たちの歌を集めて万葉集に収めたのは、当時防人を交代させる業務を担当していた大伴家持。万葉集の編纂者としてその名を知られる人物です。
防人制度は白村江の戦い以降、さまざまな変遷がありながら約100年間にわたって続きました。けれど、貴重な労働力を奪われる人びとの負担があまりに大きかったこともあり、次第に制度そのものが揺らいでいきます。家持が防人の歌を集めた時期は、ちょうどそんな過渡期にあたります。
名門貴族の家に生まれた家持がなぜ、民衆である防人の歌を集め万葉集に収めたのか、詳しい経緯はわかりません。家持自身の発案だったのか、誰かから指示された可能性もあります。ただ、『万葉集』には、家持自身が防人になりきって詠んだ長歌や短歌が、防人たちの歌と並び複数収められています。
たくさんあるので全文は紹介しませんが、
「……母上は服の裾を引っ張り上げて私の頭を撫で、父上は白ひげの上に涙をしたたらせ、……せめて今日だけでも語り合おうと惜しみながら悲しんでおられる。そこへ妻や子どももやってきて、私を取り囲んで座り、声はむせび、袖は泣き濡らし、手もとにすがって別れたくないと引き留めようとする……」
といった調子で、防人と家族の別れの場面をドラマティックにつづっています。
生身の彼らと接し、悲しみにふれているうちに、家持は身分や立場の違いを超えて、防人の心に深い同情を寄せるようになっていたのではないでしょうか。
あるいは若い頃、家族を残して都から越中(現在の富山県)に単身赴任した自身の経験を、防人の境遇に重ね合わせていたかもしれません。
いずれにしても、家持の尽力によって、防人たちの歌は後世まで読み継がれることになりました。
1300年が経った今も、さまざまな事情から離れて暮らさなければならない家族が世界中にたくさんいます。
祖国を守りたい。けれど、家族との別れは身を切られるようにつらい。時を超えて私たちの胸に響いてくる、防人たちの飾らない言葉に、こんな時代だからこそ触れてみてはいかがでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=_WRfnupGq34
https://www.youtube.com/watch?v=IpMlpfCfrUs
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