宮沢賢治 ①

https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a141.html 【宮沢賢治】より

1 仏教的世界観を感覚的に置きかえる

 今日は宮沢賢治の『春と修羅』からはじまりまして、それから散文、童話のほうでは『グスコーブドリの伝記』と、それから『銀河鉄道の夜』についてお話するっていうことで、まず宮沢賢治の詩集である『春と修羅』からお話を申し上げたいと思います。

 で、『春と修羅』っていうのは第一集から第三集までまとまって出ておりますけれども、宮沢賢治が生前に出版したのは『春と修羅』第一集っていうことだけです。それからもちろん二集三集も自分なりに整理して準備しておったことはおったんですけど、それは生前には発表されていないと思います。で、この『春と修羅』の一、二、三集までを除きますと、あと自分の手元に置いて推敲を亡くなるころまでやっていた『文語詩』っていうのだけが残ることになります。で、『文語詩』のほうを詩として尊重するか、『春と修羅』のほうを本領と考えるかっていうことはそれぞれの人で全く違うわけですけども、どちらに重点があるっていうんじゃなくて、どういう推移のしかたで『文語詩』のほうへ行ったかっていうことは、ほぼ『春と修羅』の三集っていうのにまとめられてる詩集は見ますと、おおよその検討はつくような気がいたします。三集っていうのは詩自体が短くなっていますし、それから文語調って言いますか、文語とはいえないんですけど文語調の詩がかなり交じってきたりしています。ですから、三集の延長線、あるいはそれと重なるような意味で文語詩を考えれば、たぶんこの脈絡はつくんじゃないかっていうふうに思います。で、『春と修羅』の第一集、つまり生前に詩集としてまとめて発表しました第一集のところから、それぞれの特色などお話してみたいっていうふうに思います。

 で、『春と修羅』の第一集っていうのはひと口に申し上げますと、宮沢賢治がそれ以前にほとんど独立の被宗教家と言っていいほど法華経、あるいは日蓮宗に深入りした信者でありまして、また仏教の本質的な世界観って言いますか、それはきちっと自分の中、方法とか考え方の中に身につけていたっていうふうに思います。で、それを仏教の根本的な世界観っていうのは、これもまた人さまざまでの理解のしかたがあるでしょうけども、宮沢賢治にとってはなんだったかっていいますと、人間っていうもの、あるいは自我とか個性とかっていうものでもいいんですけど、人間っていうものをはじめ万物、存在するものっていうのは本当に存在しているわけじゃないんだ。だから本当に死ぬわけでもないんだ。で、もっと極端に感覚的な言い方をしますと、人間の存在っていうのは全部現象だっていうんです。で、個人個人っていうのもまた現象なんだって。で、だからいつでも現象として明滅しながら光と影を放射しているっていうことが生きることなんだっていう根本的なそういう認識があります。それはとても奇妙に思われるんですけど、宮沢賢治の中では非常に深くその考え方が入っています。それで、仏教は必ずしも感覚的ではありませんから、感覚的な理解のしかたで現象っていうことを理解するわけじゃないんですけれども、つまりそれは人間っていうのは死にもしないし、また生まれもしないんだ。あるいは生きているわけでもないし、また死んでいるわけでもないんだって。だからことさら死っていうのとか生っていうのをことさらに考えることはないんで、すべての存在はただ流転しているだけで、死にもしなければ生きもしないんだっていう考え方だと思いますけど。宮沢賢治の場合にはその考え方は感覚的に全部置き直しているっていうふうに考えますと、とても分かりやすいんじゃないかと思います。それから、それはまた『春と修羅』の第一集の根本的な理念っていうふうになると思います。で、これは『春と修羅』の有名な序があるんですけど、序の中に非常に明瞭に仏教の世界観を感覚的に受け取ってるっていう、受け取るんだっていう宮沢賢治の場所って言いますか、詩集の場所であり世界観の場所っていうのは非常に序の詩の中によく表れています。数行読んでみますと、例えばはじまりが、

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

っていうところからはじまりまして、今申し上げました仏教の本質的な世界観っていうのが縷縷、人間の心についても、それから感じ方についても、それから風景、物象っていうものに対する感じ方についても、それからもっと極端に言いまして、歴史とか知識とか考古学とか、そういう記録とか事実に対しても、やはりそういうものはあると思うからあるにすぎないので、本当にあるかどうかっていうふうになってくると、それはただの現象であって、人によって、人が違うところから見たら違うように見えてしまうっていうことはあり得るんだっていう、その極めて不安定といえば不安定なんですけど、たいへん特異で東洋流っていえば東洋流ですけども、東洋の考え方ですけども、それをかなり明瞭に自分のものにして、あるいは自分の方法にしてるっていうことが分かります。ですから、『春と修羅』の少なくとも第一集っていうのを見ますと、その人間、もしくは物象、風景も物象も全部仮定された現象にすぎないんだ。で、すと、ひとつの人間という現象が、例えば風景を見る場合には風景という現象を見ているんだって。そうすると風景も現象であり、自分のほうも現象にすぎない。で、それが一種見る、感覚的にそれをつかむっていうことは、要するにそれが交流するだけで、自分という現象が風景の中に溶け込んでしまうし、それを溶け込んでしまうと風景のほうも逆に自分のほうに、つまり自我のほうに溶け込んできてしまうと。そうするとそこでなんともいえない緻密なものって言いますか、親密なその風景とか事象と自分との関係が生まれてくる。その関係をスケッチする。関係を記録するっていうことが宮沢賢治にとっては詩であるっていうふうに考えられていたと思います。これは同時代の詩、例えば(萩原)朔太郎からはじまって同時代で宮沢賢治なんかをたいへん評価した、例えば中原中也みたいな詩人が居ますけども、そういう詩人は、もうこれは人間と人間との色濃い、ごてっとした関係っていうのが、関係の世界が詩の世界であり、また朔太郎にしてもそういう人間と人間との関係の世界を非常に感覚的なつかみ方をして表現するっていうのが朔太郎の詩の世界であって、それが言ってみれば日本の近代以降の詩の全部の起点になってる考え方ですけど、宮沢賢治の心象スケッチっていう考え方はそれに比べると全く異質だっていうふうに言うことができます。つまり宮沢賢治は心象スケッチ、つまり『春と修羅』っていう詩集はそういう意味では人間と人間との心の交流とか葛藤とか、そういうものが詩になるっていう考え方は少しもしていません。ただ、要するに人間っていう現象と風景という現象、あるいは事象というもの。それとの交流っていうのをスケッチすると、それはかろうじて宮沢賢治が考えている詩になるんだっていう、そういう特異な考え方をしていると思います。ですから、ある、つまり日本の近代史以降の詩の主流から考えると、宮沢賢治っていう詩人はどういった、ある意味でたいへん退屈な詩人だって。退屈なことを長々と書いてるっていう、そういう詩人だっていうふうになると思います。けれども、いったん宮沢賢治のそういう自分の自我っていうもの、あるいは人間っていうのも現象なんだって。で、あらゆる対象物は全部現象なんだ。そして、その現象と現象とが、つまり同じ次元で渡り合うって言いましょうか、同じ次元で関係し合い溶け合うっていうことを描写することが詩の世界なんだっていう、そういう宮沢賢治のひとつの世界観でもあり、感覚観でもあるわけですけど、そこへいったん入ってしまうとこれほど、なて言いますか、白熱して、つまり人間のことは自分の言葉と、つまり自我の言葉と、それから風景との間がこれほど緻密に、そして見事に入り交じって、しかも区別ができないっていう、そういう世界を展開してるっていう、そういう詩人っていうのは居ないわけで。これはもういったんその世界に入ってしまいますと、これほどの詩人っていうのはちょっと数えようがないんじゃないかっていう、そういうふうな観点に入っていくと思います。

 で、宮沢賢治の詩っていうのを考える場合に、いつでもそういう岐路に立たされるのであって、何を詩と考えるかっていうことについて、いわゆる本流の考え方、近代史以降の、ヨーロッパも含めて近代史以降の詩の考え方を持って来ますと、それはちょっと違うよっていうことに、宮沢賢治の世界はまるで違うよとか、まるで全然無駄なことをしてるよっていうようなことになるのかもしれません。それから、しかしそうじゃなくて、そういう仏教的な世界観っていうのを元にした、あらゆるものは現象にすぎないっていう、そういう現象と現象とが溶け合った世界っていうのをどうやってスケッチするかっていうことは、それが詩なんだっていう観点に達するとすれば、これほどの、どういったらいいんでしょう、天才的な世界を突き詰めていった詩人は居ないんだっていうことになっていくと思います。で、『春と修羅』という詩はまさにそういう自我の主観的な言葉と、それから風景の言葉、つまり風景を描写する言葉とが非常に緻密に交じり合って、それでこういった混然とした一体の世界を作っています。で、その世界っていうのは一種の色合いを持っているって。色調、色彩を持っていて、その色彩がたぶん宮沢賢治の心の世界だと思います。心の色合いなんだと思いますけど、その色合いはどう言ったらいいんでしょう、つまり鈍いブルーの色であったり、あるいは鋼色のブルーの世界な色合いだったりっていうふうに、宮沢賢治の詩の色合いはそういうふうになっています。そういうふうな全般的な色合いの中で、要するに自我の言葉とそれから風景の言葉とかも一緒になって、区別ができないっていうそういう世界を展開している。それは『春と修羅』のいちばん大きな特徴だっていうふうに考えられます。これはこういう考え方から行きますと風景がとてつもないところとつながったり、とてつもないところに流れていったりっていうようなことがしきりに詩の中で行われてしまいます。

2 「春」と「修羅」という主題

 で、『春と修羅』っていう詩集の題なんですけども、主題なんですけども、春っていうのは宮沢賢治がとても好きな季節である。これは東北の人はみなそうだと思いますけども。雪から開放された、その開放感が出てくる、そういう季節でありますし、また宮沢賢治っていう人は独身で通した人ですから、また性的な、つまりエロスとかリビドーとかっていう意味合いでも春っていう言葉の中にそういう意味合いも込められていると思います。そして、そういうことと、それから修羅っていうのは仏教でいう、悟りも開けないし思い悩んでばかりいて、それで暗い苦しみの世界ばっかりをさまよい歩いてる、そういうものを例えば修羅っていうふうに仏教で言うとすれば、宮沢賢治は修羅っていうのは自分だっていう、自分は修羅だっていうふうになぞらえているんだっていうふうに思います。で、だけどもこの試みに『春と修羅』っていう詩集の題になってる詩っていうのは、これいい詩ですけども、こういう非常に凝縮するとこういう詩の書き方になりますけども、ちょっと最初のところを読んでみます。うかうかしてるとリズムがいいもんですから、すーっと読み過ごして、ただ色合いだけが確かに伝わる、色合いが、つまり鋼色のブルー、暗いブルーっていうんでしょうか。そういうブルーであるとか灰色のブルーであるとかっていう色合いだけが伝わるんですけど、本当、意味をたどるとなかなか、これ面倒なことをしてるなっていうことになっていくと思います。ちょっと初めのところをあれしますと、心象の、心象のってメンタルなって意味でしょうか。

心象のはひいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の湿地

いちめんのいちめんの諂曲模様

諂曲っていうのは媚びてるようなっていう意味だと思いますけども、そういう模様って。そういうところからはじまり、つまりこれ、よく1字1字、1行1行確かめてみますって。心象のはひいろはがねからっていうのは本当を言うとなんの意味かたどれないわけです。たどれないけれども、色合いと感覚的な響きはたどれるわけです。だから、

心象のはひいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

っていうふうに見ますと、あけびのつるっていうのが下から生えて雲のほうまで、てっぺんまで届いているっていうイメージよりも、雲のほうからあけびのつるが下りてきてるってイメージに近くなります。つまり近く表現してあります。それで、それが要するに、ただメンタルなって言いますか、心の、つまり風景と同列にある心の世界のそこから見る、そこの次元で見ると、あるいはそこの場所で見ると、そうするとあけびのつるっていうのは天の雲から下りてきて、ここに目の前にあるっていうふうに見えたりするっていうことを言ってるんだと思います。で、それで野原のやぶが腐植土の湿地になっているっていうことで、それでそこらへんの色合いが全部だんだら、つまりまだらな色合いの模様になってるってこういうふうに言ってるんだと思います。それで、

いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾し はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

っていうふうに、ここはつまり自己規定なんですけど、自我のほうの言葉で言ってるわけです。それで自我のほうの言葉でそれを言ってみると、また次は風景の言葉になってみたりっていうことが非常に交互に交流しながら、全体の色合いは一種の鋼色って言いますか、ブルーの色合いをしてるっていうのが宮沢賢治の詩が非常に凝縮されたときに出てくる色調だっていうふうに言うことができます。この色調はつまり生涯を貫く色調なんですけれども。で、これが宮沢賢治の元にあるって言いますか、いちばん大元にある詩の色調だっていうふうに言うことができます。

で、この詩も終わりのところにこういうところがあります。たいへん不気味だっていえば不気味なんですけど。

草地の黄金をすぎてくるもの

ことなくひとのかたちのもの

けらをまとひおれを

けらっていうのはみのです。みのの東北語の、みのです。

けらをまとひおれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

まばゆい気圏の海のそこに

っていうふうになっていって、つまり向こうから、農夫が向こうからこっちを見てる。自分のほうを見てるように見えると。しかし、これ一種自分は見えてるはずがない。つまり風景と同列にもう溶けちゃっているから自分が見えるはずがないっていう気持ちがこっちにあってこの表現が出てきてるんだと思います。あるいはまた、よく、つまり瀕死体験っていうのを経た人が、初めに上のほうに目だけになった自分が居て、自分がベッドに横たわって、医者がいろいろ、医者や看護婦さんがせわしなくそこで治療でせわしなくそこを行き来してる、それを自分のほうは目だけになって上から、自分の体も一緒に見えちゃうっていうような、そういう体験っていうのをよく言いますけど、それとほとんど同じ体験で、自分のほうは見えてるはずがないって思うから、こっちを見てるお百姓さんが見てるんだけど、俺が本当に見えるのかっていうふうに言ってるんだって思います。つまりそういう言い方が出てくる根拠は、やっぱり自分がもう風景と一緒になって溶けちゃっていて、スケッチする目だけになってるっていう、そういう心象って言いますか、メンタルな状態が自分にあるからこういう表現が出てくるんだと思います。つまりこの表現もそうなんですけど、全般的に言うと宮沢賢治の凝縮された世界っていうのを見ますと、そこの全部が現象というふうに考えられているものですから、生きてる世界も死んでる世界も幻想の世界も現実の世界も、全部継ぎ目がなくなっちゃってる。それが凝縮されて、一種青いって言いますか、ブルーの色調だけが表へ出てくるって、たいへん不気味だっていえば不気味な世界ですし、ものすごく凝縮されたすごい世界だなっていうふうに思います。これほど大きな広い世界っていうのは、表現している作品っていうのはないっていうふうに思ったりします。それがたぶん、宮沢賢治の『春と修羅』の第一集のとても大きな特徴になるんじゃないかっていうふうに思われます。

3 宮沢賢治の価値観−宗教と恋愛

で、『春と修羅』の中でどういう作品がいちばん、どの作品がいちばんいいのかっていうふうに言いますと、これやっぱり人さまざまで。今挙げました『春と修羅』みたいな詩がいちばんいいっていうふうな観点を持つ人も居るでしょうし、また非常に長詩ですけど『小岩井農場』っていう長詩がありますけど、その『小岩井農場』みたいな長詩でもって風景を描写しながら自分の自我っていうものも風景の中に溶かしこんでいっちゃってる。そしてそれがしまいには一種の宮沢賢治特有の幻想って言いましょうか、幻想も生きてる幻想か死後の世界の幻想か分からないような幻想につながっていくっていう、『小岩井農場』みたいに長詩がありますけど、こういう詩がいいんだっていう観点に立つこともできると思います。つまり『春と修羅』みたいな詩が典型とすれば『小岩井農場』みたいな長詩は、これはまた別な意味の『春と修羅』の典型的な作品になると思います。これ、それからまた宮沢賢治が言う心象スケッチっていう考え方がいちばんよく表れてるよっていうことを言うとすれば『小岩井農場』のような作品がいいのかもしれません。つまり、これスケッチャーって言いますか、スケッチする人間としての目だけの存在が盛岡の停車場から途中の道を通りながら、小岩井農場へ行く風景をスケッチしていくわけです。そのスケッチのしかたは、今申し上げましたとおり、自分をスケッチしてんのか風景をスケッチしてんのか分かんないような、そういう非常に溶け合ってしまった世界として途中の道を描写しながら、その小岩井農場の入口のところへ来ると。そして小岩井農場の入口のところのスケッチをしながら、今度は小岩井農場の農場の中のスケッチをやっていくって。そしたら農場の中のスケッチをしていくうちに宮沢賢治がとても気にしているって言いますか、気になって致し方がない桜の木が4、5本あるところがあるんですけど、その桜の木がとても宮沢賢治は気になってしょうがないわけです。それで、その気になってしょうがない桜の木を見てるうちに自分は幻想、自分の幻想の世界って言いますか、空想の世界って言いますか、そういう中にひとりでに入っていっちゃうわけです。で、その空想の世界に入っていきますと、どういうあれが出てくるかっていうと、これは地質学的なって言いますか、大昔の地質時代の生物がそこらへんいっぱいに消えたり現れたりするっていうそういう幻想に今度は入っていってしまう。それで、いちばん終いのところになりますと、こういうふうな幻想、桜の木が4、5本あるっていうのを見ながらこういう幻想の中に入っていっちゃうっていうことはものすごく不健康なことなんだって。あるいはたいへん幻想が病的になって、自分は疲れているんだっていうふうに自我の言葉で内省する言葉が出てくるわけです。で、やっぱりこれは自分が疲れているせいでこういう世界が現れたりする。で、その疲れている世界っていうところから宮沢賢治の一種の世界観って言いますか、人間観みたいなものが描写されている。それで、この長い詩が終わっていくわけです。

 で、そこに表れている宮沢賢治の世界観みたいなものを具体的に表現どおりに申し上げてみますと、人間っていうのは自分以外の1人の人と、それからすべての、この世界にあるすべてのものと一緒にもって、至上の幸福なところへ行こうという願いっていうのが、言ってみれば宗教的な情操って言いますか、宗教的な考え方なんだ。で、その宗教的な考え方をたやすく遂げられないものだから、自分以外の1人の人間と一緒に、1人の人間を道連れにして、どっかへ、それだけでどっか幸せなところへ行こうっていうふうに変態的に人間が考えると。それが要するに恋愛なんだっていうふうに宮沢賢治が言ってます。そして、恋愛っていうのもまた遂げられない、そううまく遂げられないっていうので、1人の、自分以外の1人の人間を、言ってみればいざなうように、あるいは強制するようにしながら性欲、親密感をいきなりに成し遂げようみたいなふうに考えるのが性欲なんだっていうふうな宮沢賢治の、言ってみれば世界観っていうのは、そこの『小岩井農場』の最後のところで表現しています。こんなどぎつい表現をしているわけじゃなくて、非常にスムーズな表現でそれをやっています。けれども、言っていることはそういうことだと思います。それで、こういう宮沢賢治の一種の世界観って言いますか、人間観って言いますか、恋愛観って言いましょうか。それはたぶん本当にそう思っていたわけで。宮沢賢治っていう人はどういったらいいんでしょう。つまりたいへんな人だねっていうふうに、こういうふうにならなくてよかったねみたいなふうに僕らは考えるわけですけど(笑)。僕ら、考えるわけですけど、でも宮沢賢治はたぶん本気でそういうふうに考えてるんです。つまりあらゆる情操って言いますか、情操とか愛とかっていうふうに言われているもののうち、いちばん大切なのは自分と自分以外の人たちと、それからすべての、万象っていう言葉を使っていますけど、すべての現象、事象っていうものと一緒に至上の幸福のところへ行こうっていうのが、それが人間の情操としては最も根本的で最もいいもんなんだっていうふうに言ってると思います。つまり宗教的な情操と言いますか、情念と言いますか、それが人間にとって根本的なものなんだ。あるいは人間と人間の関係とか、人間と万物の関係の中でいちばん根本的なものなんだっていうふうに、ほんとに考えていたと思います。で、それがうまく遂げらんないものだからちょっと変態的になって、1人の、自分以外の1人の人間とそういう世界へ行こうというふうに、世界で2人だけでも至上の幸福のところへ行こうと思うと、それは恋愛感情になっちゃうんだっていうふうに、その恋愛感情っていうのはどう考えても2番目だっていうふうになりますし、また、それをまた早急に、ほんとに情念的に恋愛感情を遂げるっていうことが難しいもんだから、やはりそこに早急にそれを遂げようとすると性欲っていうのが全面に出てきちゃうと。これはまたもっともっと駄目な情念なんだっていうふうに宮沢賢治は考えていたと思います。この逆転した価値観って言いますか、逆転した価値観って言いますか、順序と言いますか、それは宮沢賢治のたいへん大きな特徴だと思います。これはつまり僕らはそうでなくてよかったなっていうふうに、こういう考えにならなくてよかったなっていうふうに誰でもそう思うわけですけども、一面ではやっぱりこういう人がどっかに居てくれるっていうことは自分を照らしだすって言いますか、あるいは一般に常識というとか世間といわれているものが照らしだす世界っていうものに対して、やっぱりこういう人が居てくれないと、それがどっかで間違っちゃったり、ほんとは健全そうに見えるけどそれは大勢で渡るから怖くないっていうだけのもんで、ほんとは健全でもなんでもないんだっていうようなことを内省させるって言いますか、翻って考えさせるにはどうしてもこういう天才的な詩で、また特異な考え方で、人間、一般的な人間の考え方、価値観をひっくり返すっていうことができているような人たちが、人がどっかに居るっていうことが、われわれの、僕らの救いであるっていうこともまた確かなことなんです。つまり人間っていうのは自分はできないんだけどそういう人が居てくれるととても救いになるんだとか、それがあるから人間の文化とか人間の文明とかっていうのは正しく見る見方っていうのはときどき生まれてきたり、内政力が出てきたりするんだっていうことがあり得ると思います。そういう意味合いでいいますと宮沢賢治っていう人はたいへん特異な、異常なって言いますか、異常で特異でひっくり返った価値観を持っていて、とてもとてもこの人のまねっていうのはとてもとてもできないよっていうふうに誰でもが思うわけですけども、誰でもがどっかで気にせざるを得ないっていうような、少なくとも文学とか文芸とか宗教とかに携わっている人たちにとっては、この人が存在するっていうことをどっかで考えに入ってて、そういう人が居てくれたらいいし、自分はなれないんだけどそういう距離感で居てくれたらいいっていう存在になっていることは確かだっていうふうに思います。

 もちろん具体的な生活、宮沢賢治の生活はとても普通の人というよりも普通の人以下のだらしないっていえばだらしない生活のしかたしかできなかった人で、言ってみれば生涯親がかりっていうことを逃れられなかった人です。つまり親の金銭的援助とか何くれとない援助っていうようなものなしには生涯を全うできなかった人だっていうふうに、そういう見方を、現実的な見方をすると、宮沢賢治の生き方っていうのは普通の人っていうのはつまりわれわれよりももっと以下の生き方しかできなかった人だっていうふうに言えば言えると思います。つまりそういうふうに、つまり人間っていうのはさまざまな場面から見ることができるっていうことの一例なんですけど、宮沢賢治はたいへん宗教的に近い感情で尊敬されている詩人ですけれども、またそれは一方から、逆のほうから見れば普通の人の生活っていうのさえ貫けなかったっていう。で、いつも途方もないことを考えて、途方もない大きなこと、夢想的なことを考えているんだけど、実際の生活を見ていると普通人よりもはるかに駄目な生活のしかたしかできなくて、いつでも親の世話になってたっていうように言っちゃえばもうそのとおりになるっていうふうに思います。で、だから人間の価値っていうのはとても分かりにくいところがありまして、それは宮沢賢治自身もとてもよく知っていて、詩や童話にそれをしきりに表現してると思います。内省的に表現してみたり、普通の人の生き方っていうのをたたえてみたりっていうようなことをしていると思います。それはやはり宮沢賢治の悲劇っていえば悲劇だったっていうふうに言えるんじゃないかっていうふうに思います。

4 「心象スケッチ」−独特の記号の使い方

 で、『春と修羅』第一集でもって、もうひとつこれは詩の方法的なことが主体になるわけですが、どうしても言っておいたほうがいいんだ、あるいは考えておいたほうがいいんだと思えることがあるんですけど、それは心象スケッチって、つまり心のスケッチだっていう、心のスケッチが詩なんだっていう宮沢賢治の考え方に由来するわけですけども。一種の宮沢賢治の詩の表現のしかたの中で、記号の使い方っていうのがあります。記号の使い方っていうのが、これはぜひとも触れておかなくてはいけないんじゃないかなっていうふうに僕には思います。で、どうしてかっていいますと、この記号の使い方は後になるにしたがって複雑になっていくわけです。で、普通の人、あるいは普通の詩を書く人、あるいは普通の詩を書く意識状態から言いますと、こういうことはしないほうがいいんじゃないかと思われるようなことを宮沢賢治は平気でやっています。それもただ平気でやってるっていうだけじゃなくて、それを平気でやってるやり方をどんどん複雑にしていったり、推し進めたりしています。ですからこれはどうしても宮沢賢治の心象スケッチっていうところから当然出てくる特徴でありますし、またもし宮沢賢治が心象スケッチっていうのを自分の詩なんだっていうふうに考えていたとすれば、宮沢賢治の詩の考え方っていうのは普通の近代史、現代史の詩の考え方とちょっと違ってきたんじゃないかなっていうふうに言えるところがあります。そのことのためにも、どうしても

記号の使い方っていうことを申し上げておいたほうがよろしいんじゃないかっていうふうに思います。

 で、それはいくつかあるわけですけど、ひとつは詩の表現の中で突然、例えば普通だったらば詩の表現っていうのは最初の1行が決まっていきますと、そこをあと次々に、ある行を書いてるときに次の行がふっと出てくるって。で、出てくる言葉を書き付けていくうちに次の言葉が出てくるって。それは一種の意識の流れっていうものが自分なりのリズムに入ったときに詩の表現が成り立つわけですけども、それを一般的に詩の表現、あるいは詩の書き方みたいなふうに考えているわけですけども、宮沢賢治の場合には少し違いまして、その意識の流れがあるところまで続いたと思うと、突然その流れを切ってしまうわけで。意識的に断ち切ってしまうわけです。どういうふうに断ち切るかっていいますと、記号でいいますと、いっとう初めのとき、算数でいう小かっこですけど。つまり小かっこの中に言葉が出てくる言葉でもって、今まで書いてきた意識のリズムの表現っていうのに対して一種の解釈って言いますか、注釈を加えちゃうわけなんです。して、普通、詩っていうものの概念からいえば、そんなことしないほうが詩としてはいい詩になるんじゃないかっていうふうに考えるのが普通なんですけど、宮沢賢治の場合にはそういうふうに考えていないわけです。

 で、ある意識の流れで、ある表現が次々に成り立って、次々に次の行が出てきてっていうふうになってきたときに、あるところでひょっと今まで表現されてきた意識の次元とちょっと違った次元から言葉がひょっと出てきちゃうと、それが小かっこの中に入れて挟まれてしまうわけです。そうすると挟まれたところで詩は断ち切られてしまいます。つまり詩の流れは断ち切られてしまいます。でもかっこの中の言葉は同じ次元の言葉ではなくて、ちょっと違う、今まで流れてきた意識の流れとは違う次元の言葉が出てきて、それがかっこの中に入れられて、それで意識の続き具合、リズムが断ち切られます。それからまた元のリズムに帰っていくって。それでまたどっかへ行きますと、またその流れが断ち切られて全然違う出どころから一種の注釈、今まで書いてきた行の注釈みたいな言葉が挟まれてしまうわけなんです。で、これはちょっとそういうふうにやられますと詩がせっかくいい感じで、いい感じといいリズムで意識が流れてきた、それなのに読むほうでもあっと思う間にそれが断ち切られてしまうっていうような、そういう妨げられるような感じっていうのを持ちます。それで、また元へ戻ってまた少し行ったかと思うとまたそういうのが出てきて、それでまた流れが断ち切られちゃう。で、少しも気分がよくないっていうことになってしまいます。ですからいわゆる詩として読みますと、たいへん気分が断ち切られるっていうことが平気でやられてるもんですから、気分が少しもよくない。で、詩としてはかえって悪くしてるっていうような観点になってくると思います。

 しかしそれは宮沢賢治がやっぱり日本の近代以降の詩の流れっていうものとおんなじ流れにあることを詩と考えているっていうことを前提としている前提として考える必要があるわけで、宮沢賢治が詩っていうのはそういうもんじゃないって思っていたとしたらそんなことは別にどうってことはないんだっていうことになると思います。で、僕らがやっぱりどうも宮沢賢治っていう人は詩っていうものを普通われわれが詩っていうふうに考えているものと違うように考えてたんじゃないかなっていうふうに思えるところがあります。もちろん普通考えてる詩っていうふうなものも『春と修羅』の中にないことはありません。しかし大部分はそうじゃありません。大部分は、どうも普通僕らが詩っていうふうに考えてるもんとは違うもんだっていうふうに考えてた。だからぶつぶつって詩の意識の流れとかリズムとかを途中で切っちゃって、ひょんなところから出てくる言葉っていうのをそこに挟み込んじゃう。しかもかっこして挟み込んじゃうっていうようなことは、宮沢賢治にとってはごく当たり前のことで、自分はただ心象をスケッチして、心象がそういうふうに動いたからそう書いたんだっていうだけなのかもしれません。ですからそういうものを詩と考えていたかもしれませんから、そう考えれば当然なんですけど、もし宮沢賢治もやはり普通詩人が詩って考えているものを自分も詩と考えてるんだっていうふうに思ったら、ちょっと考えが違ってきてしまうっていうふうに思います。つまりそういうところをどうしても触れておかないと、宮沢賢治の詩はとても読みにくいっていうふうに思います。つまり宮沢賢治の詩をいいもんだっていうふうに読むためには、どうしても宮沢賢治的な詩の考え方、詩の概念って言いましょうか。詩というものはこういうもんなんだっていう考え方を、いわば前提とすることがいるんじゃないかっていうふうに思われます。で、そういう断ち切り方って言いますか、記号の使い方っていうのはもう少し『春と修羅』第一集の中にもあります。

5 意識の異なった段階を包括した世界の表現

 例えば、『小岩井農場』っちゅうようなさっき言いました長い詩の中のパート3なんですけど、パート3のところのいっとう初めのところに、例えばちょうど盛岡への駅から小岩井農場の入口のところへ差し掛かったところの描写になるわけですけど、

もう入口だ〔小岩井農場〕

っていうふうな、これが算数でいう中がっこって言いますか、中がっこで小岩井農場って。

もう入口だ〔小岩井農場〕

っていうふうに書いてあります。するとその中がっこで書いてあるこの小岩井農場っていうのは、たぶん看板って言いますか、要するに札だと思います。つまり農場にある農場の名前を書いたそういう札だと思います。それを表現を中がっこでしてあります。で、

もう入口だ〔小岩井農場〕

それから今度は小がっこになります。ですからこれは注釈ないしは独り言みたいなことになりますけども、今度は小がっこで、

(いつものとほりだ)

それからまた中がっこになってきます。で、

〔もの売りきのことりお断り申し候〕

っていうのが中がっこに入ってます。して、その次また小がっこが来ます。

(いつものとほりだ ぢき医院もある)

それからまた中がっこになって、

〔禁猟区〕

っていうふうに中がっこであります。猟を禁ずるって意味ですね。それもたぶん札だと思います。注意書きだと思います。で、

〔禁猟区〕

それで、

ふん いつものとほりだ

っていうようなところからパートスリーっていうのははじまるわけ。ものすごいいい、流して読んでみますと、

もう入口だ〔小岩井農場〕

 (いつものとほりだ)

〔もの売りきのことりお断り申し候〕

 (いつものとほりだ ぢき医院もある)

それから、

〔禁猟区〕 ふん いつものとほりだ

って。

「ふん いつものとほりだ」っていうのは要するに普通の行です。で、その前の「いつものとほりだ」はかっこの中の「いつものとほり」、ですからこれは独り言みたいなことになると思います。独り言みたいなものを小がっこで挟んだんだと思います。だから「いつものとほりだ ぢき医院もある」っていうのは自分の独り言で、そういうふうに思ったっていうのを小がっこでやっていると思います。それで、禁猟区っていう札が出てて、で、その次の「ふん いつものとほりだ」っていうのは、これは要するにスケッチの表現です。ですからかっこは全然ありません。つまりこの4、5行の間で宮沢賢治は記号の使い方を二つやっています。つまり札みたいなものに対しては中かっこ、それから自分の注釈とか、それから独り言みたいなものは小がっこ。それからいわゆるスケッチの、スケッチの流れっていうのはかっこなしっていうふうに、その区別のしかたをこの4、5行の中にやっています。で、これは宮沢賢治の記号の使い方のひとつのまた進化した、ただ小がっこだけじゃないっていう場合のひとつの例です。

 で、たぶんもうひとつあるんです。宮沢賢治はもうひとつやってんです。それは例えばパート9のところの取ってくるとしますと、点線で書いたものの間に言葉を入れるっていうようなことをしています。して、これはまた違う区別のしかたなんですけど、これもまた独り言であったり、いわゆる内語って言いますか、音にはならないんだけど心の中でそう思ったっていう言葉のときに、やっぱりテンテンテンとテンテンテンの間に言葉を入れるっていうことをやっています。するとそれはまた少し独り言なんですけど小がっこの独り言とはちょっと違う次元のところから言葉がひゅって出てきたっていうことを意味すると思います。少なくとも宮沢賢治の生前に出版しました『春と修羅』第一集の中で、少なくとも記号の使い方って言いましょうか、表現記号の使い方っていうのは、スケッチの、なんにもかっこもなんにもないスケッチの言葉、それから小がっこで言う注釈とか独り言とかの次元の言葉、それからテンテンテンで言うもう少し違ったところから、つまり言葉なき言葉みたいなところから出てくるそういう表現を点々と点々の間に入れるっていうのは、少なくとも宮沢賢治はこの3種類の表現を第一集の中でもやっています。そうすると、つまりどういうことになるかっていいますと、少なくとも言葉の出どころを少なくても宮沢賢治は心象スケッチの中で、今言いましただけでも三つ区別しています。つまり三つ、人間の心があって、それでその心で言葉が出てくるところっていうのは少なくても三つ違うところから出てくるっていうことがあり得るんだよっていうことをここで言っていると思います。ここで考えてると思います。

 そうすると宮沢賢治の詩の概念の中では、言葉っていうのは意識の持続をずっと流していって、それが一種のリズムを取れて完結したらばそれは詩なんだっていう考え方よりも、つまり言葉の出どころが違うところ、違う意識のところから言葉は出どころが幾種類かあると。その出どころを全部間違いなく区別しながら記述するって言いましょうか、言い表すっていうことが詩なんだっていう、詩に対する全く違う考え方が宮沢賢治にあったと考えたほうがとても考えやすいわけです。1カ所から詩の言葉は出てくるんだって、初めそれが決まったら終わりまで貫徹されてしまうっていう、これは近代史以降の詩の概念なんですけども、それだけだっていうふうに考えると宮沢賢治の詩は詩でないっていうふうに言われてしまうかもしれません。やはり宮沢賢治が自分で言っているように、これはスケッチなんだ、ただのスケッチだっていうふうに言われてしまうかもしれません。でも僕らが詩っていう概念、近代史以降の詩っていう概念を非常に大きく取りたいっていうならば、宮沢賢治が考えてる、言葉っていうのは必ずしも同じ次元からの言葉っていうのだけから出てくるんじゃないと。つまり違う次元のところの意識からも言葉っていうのは出てくる余地があるんだよっていう、そういうことを間違いなく区別しながら同じ詩の中に含めていくっていう、それが詩なんだっていうふうに、それもまた詩なんだっていう、つまり言葉となって表現される意識にある段階、区別を設けること。そのこと自体が詩なんだよっていう、そういうふうに詩の解釈を、詩っていうものの解釈をいたしますと宮沢賢治の詩っていうのは心象スケッチっていうのを詩の概念の中に入ってくるんだと思います。そしてまたそういうふうに考えると宮沢賢治の詩の特徴、あるいは心象スケッチの特徴を捉えることができるんじゃないかっていうふうに思われます。

 で、この記号の分け方による意識の段階の分け方、区分けのしかた。それは宮沢賢治にとってはたいへん本質的、かつ重要なことで、宮沢賢治が宗教的な世界観というふうに考えたものは、たぶんこういう記号の区別で区別される人間の意識の段階の違い方っていうのを全部包括したって言いますか、全部包んだ世界を宮沢賢治は宗教的な世界観っていうふうに考えていたんじゃないかっていうふうに言えないことはないって思います。それはやっぱり宮沢賢治、詩人宮沢賢治を理解する場合にとても重要なことに思われますので、これは単なる形式、あるいは記号にすぎないんですけど、やはり注意して見ていたらとても詩の見方が違ってくるんじゃないかっていう感じがいたします。

6 妹の死と銀河鉄道−「青森挽歌」

 それから、もうひとつ宮沢賢治の『春と修羅』第一集の特徴を申し上げるとすれば、『銀河鉄道の夜』っていうみなさんもよくご存じだと思いますけれども、童話がありますけども、その童話で出てくる銀河のほとりを走ってる鉄道の中の客車に自分が乗っかってるとか、その客車が外から走って行くのが見えるとか。で、窓の中は明るくて窓の外は暗いんだっていう、そういうイメージっていうのは『銀河鉄道の夜』の一貫したイメージなんですけども、そのイメージの原型っていうのはすでに『春と修羅』第一集の中に表れているっていうことがとても重要だといえば重要だと思います。つまり『銀河鉄道の夜』っていうのはいい作品で、ある意味で宮沢賢治の童話の完成品のひとつなんですけれども、そこまでに至るイメージとして銀河鉄道が走っているっていう、そういうイメージの原型はすでに『春と修羅』第一集のところに表れています。で、どういうところに表れてるかっていうと、いちばん著しく表れているのは『青森挽歌』っていう『春と修羅』第一集の中でやっぱりこれ優れた作品のひとつ、つまり代表作のひとつと言っていいと思います。つまり『春と修羅』という詩、それから『小岩井農場』という詩、それから『青森挽歌』という詩っていうくらいに典型的にいい作品だと思いますけども、そこの中に、これは妹の死を悼みながら書いてる詩なんですけど、そこの中に銀河鉄道の原型のイメージがすでに出てきます。そこの短い初めのところを読んでみます。『青森挽歌』です。

こんなやみよののはらのなかをゆくときは

客車のまどはみんな水族館の窓になる

これ、小がっこがあります。

   (乾いたでんしんばしらの列が

    せはしく遷つてゐるらしい

    きしやは銀河系の玲瓏レンズ

    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)

かっこです。から、

りんごのなかをはしつてゐる

けれどもここはいつたいどこの停車場だ

枕木を焼いてこさへた柵が立ち

またかっこです。

   (八月の よるのしじまの 寒天凝膠)

かっこです。から、

支手のあるいちれつの柱は

なつかしい陰影だけでできてゐる

黄いろなラムプがふたつ点き

せいたかくあをじろい駅長の

真鍮棒もみえなければ

じつは駅長のかげもないのだ

それで、かっこがありますけどそこを飛ばして、そこがまたあれですから。

わたくしの汽車は北へ走つてゐるはずなのに

ここではみなみへかけてゐる

焼杭の柵はあちこち倒れ

はるかに黄いろの地平線

それはビーアの澱をよどませ

あやしいよるの 陽炎と

さびしい心意の明滅にまぎれ

水いろ川の水いろ駅

かっこして、

  (おそろしいあの水いろの空虚なのだ)

って。『青森挽歌』っていうのはここからはじまっていくわけですけど、ここで原型的に言いますとこの四角い客車の列車の箱がありまして、それは現実的にいえば岩手の軽便鉄道っていうのが走ってる、それがいつでもちょっと高いところから見ていると。夜だとそこの内側に電気が付いてて、で、それが平野の中を走っていくっていう、そういうのは現実によく見てた、宮沢賢治がよく見てたんだと思います。つまりそこから要するに幻想の銀河鉄道ができあがっていくわけですけど、その場合に原型になるのはやっぱりひとつの箱があって、それは外側から見て箱があって、それが宙を浮いて動いていって移動していくと。それで、その内側には明かりが灯っていて、その中には旅人たちが乗客たちが座っているのが見えると。しかし外からそれを見ると、それはただ四角い暗い箱が暗い空間の中をずっと浮かんでいくっていう、そういうのが原型的なイメージだと思います。で、このイメージが始めて出てくるのがこの『青森挽歌』という作品だと思います。その後に『冬と銀河ステーション』っていう詩がありますけど、これはやや銀河鉄道っていう考え方が宮沢賢治の中で少しも考えが進んできて、一種の童話の構想として見ればだいたい『銀河鉄道の夜』の最初のイメージがだんだん作られていった過程でできた作品だと思いますけど、『冬と銀河ステーション』っていう詩がありますけども、それが少し進んでいるので、その前の初めての出てきたあれは『青森挽歌』だと思います。つまり、それでこの挽歌で外は暗い箱でもって、内側に旅人たちが乗っていて、それでそこでりんごを食べたり笑ったり話したりしているっていう、そういうイメージがどこか空間、暗い空間を飛んでって、それでどっかとてつもないところ、宮沢賢治でいえば死後の世界なんでしょうけども、そういうとてつもないところへ飛んでっちゃうっていう、そういうイメージが最初に妹が死んで、で、妹を悼む詩を書いたところで最初に出てきたっていうことも、たぶんそんなに偶然じゃないので。つまり宗教的な信仰もありまして、それで妹が死んでしまった。しかし死んでしまって仏教の世界観からいえば明らかに死後の世界っていうものがあって、その死後の世界に妹は渡っていったに違いないと。して、その死後の世界っていうのは自分もやりようによってはその死後の世界と交流することができるんじゃないかっていうふうに宮沢賢治はやっぱり本気で考えていたと思います。つまりそれが本気で考えてないとすれば、宗教の、つまり、ことに日蓮宗のって言いますか、法華経の信仰にはならないですから、たぶんそれは本気でそう考えていたんだと思います。

7 科学者としての認識と信仰者の世界観

 つまり本気で考えていたんですけども、科学者ですからそれをほんとかねっていう疑問はいつでもあるわけで。つまりたぶん宮沢賢治が宗教と科学っていうことで考えてたことは、その疑問と、それから肯定との間を行き来してる自分の世界観のひとつの揺れっていうのがそうなってるんだと思いますけども。その揺れが出てくるときに初めて四角い箱の中の内側が明るく灯っていて、それが暗い空間をずっと飛んでいくっていうか走っていくっていう、そういうイメージが出てきたっていうのは偶然ではないような気がいたします。で、これは事実としての妹の死っていうのと関わらせて言えば、宮沢賢治の『春と修羅』の第一集の理念って言いましょうか思想って言いましょうか、それはこのイメージに集約されるんだっていうふうに思います。まだ『銀河鉄道の夜』までいかないんですけど、岩手軽便鉄道でしょっちゅう見慣れているその風景を少しファンタジックにしまして、それでそれはこの世界も走ってるんだけどこの世界から次の世界にも、死後の世界にもこのまんま走っていけるんだっていう、そういう四角い箱で、中が明るくて外は暗いっていう、そういうイメージを考えますと、そのイメージの中に『春と修羅』第一集の宮沢賢治の世界観っていうのが集約されているっていうふうに考えることができると思います。

 そして、『春と修羅』第一集の間のいちばんの出来事っていうのは何かといえば妹の死だっていうふうに思います。それでこの妹っていうのは宮沢家の家族の中で宮沢賢治の法華経への信仰も理解するし、それから宮沢賢治の詩も理解するし、宮沢賢治の世界観も理解するしっていうことで、たいへんよく理解の行き届いた妹で、それでこの妹トシ子の死っていうのは少なくとも『春と修羅』の詩の後半は全部この妹トシ子の死の影が全部覆っているっていうふうに言っていいくらいです。

 で、この『青森挽歌』っていうのもそういうふうに旅行して汽車の中に乗っていながら、それで妹トシ子は死んでから臨終を迎えてから自分たちには分からない、違った空間に行ってまだ生きてて、それはどっかにさまよってって言いますか、どっかをまた歩いているに違いないって言うんです。で、それは歩いているっていうことは自分がもし能力があれば、そういう妹と交信することができるに違いないっていうふうに宮沢賢治は考えまして、一生懸命考えまして、妹トシ子の霊と言いましょうか、霊魂と言いましょうか、そういうものと交信したいっていうようなこともやっぱりこの旅行のひとつのモチーフになっていたくらいなんです。これは宮沢賢治のやむを得ざる信仰って言いましょうか、そういう信仰から来るどうしても宮沢賢治にとっては譲ることのできない世界観だと思います。つまり明らかに仏教ですから死したる後死後の世界があって、霊魂っていうのはそこへ行くんだっていう考え方っていうのはあったと思います。失わなかったと思います。

 で、失わなかったんですけども先ほど言いましたように宮沢賢治は科学者ですから、本当にそうかなっていうふうに、ほんとにそんなことあり得るのかなっていうことをまた一種の疑いって言いますか、懐疑っていうのであって、それでこの自分の科学者としてのそういう懐疑、疑いっていうものと、それから信仰者としての自分のそういう世界観とをなんとかして一致させたいって言いましょうか、なんとかして折り合いを付けたいっていうのが、例えば宮沢賢治の生涯の悪戦苦闘のしどころだったっていうふうに思います。それでこの悪戦苦闘のしかたっていうのは痛ましいっていえば痛ましいので死後の世界なんていうのはそんなものないと考えたらいっぺんで溶けてしまうものなんですけど、宮沢賢治はそういうふうに考えることをできなかったと思います。それで、できなかったんだけれども、しかし科学者としては精一杯それに対して疑いを持ち、疑問は自分で解き明かしっていうことをしなきゃいけないって。それをやっていけばどっかで宗教とそういう科学的認識とがどっかで一致させられるんだっていうふうに宮沢賢治は一生懸命考えたんだと思います。

 だから『青森挽歌』でも死んだ妹の霊を求めて、そしてそれを求めて交信すればできるはずだっていうふうに考えたりします。それから一方ではまたそういう疑いって言いますか、懐疑って言いましょうか。疑いや疑念もあって、例えば、

それともおれたちの声を聴かないのち

暗紅色の深くもわるいがらん洞と

意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声

亜硫酸や笑気のにほひ

これらをそこに見るならば

あいつはその中にまつ青になつて立ち

立つてゐるともよろめいてゐるともわからず

頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち

っていうのは、そういう行が『青森挽歌』の終わりのほうにありますけど、ここいらへんは科学者としての宮沢賢治の疑いであって、つまり肉体を作っているたんぱく質とかそういうのは腐敗してみんな崩れて窒素化合物の気体になってどっかなくなっちゃうっていう、そういうことをここで言ってるんだと思います。つまりそういう疑いも一方で持って、それでしかしやっぱり一方では妹は死んだ後自分たちにはなかなか見えないんだけど違う空間で生きて、それでどっかまださまよってるかもしれないっていう、そういうことを歌い上げて終わりにしています。で、これあたりが宮沢賢治の『春と修羅』第一集の時期の最も大きな現実的な出来事であり、それからまた宮沢賢治の『春と修羅』の世界観の中に具体的な根拠付けっていうのがあるとすればこのへんの、つまり妹トシ子に対する挽歌っていうものの中に宮沢賢治の仏教的世界観を感覚的に置き直すっていう、そういう考え方がいちばんよく表れているんじゃないかっていうふうに思います。ここいらあたりが、『春と修羅』第一集の持っている理念と言いましょうか、思想と言いましょうか、そういうもんだっていうふうに思います。

 つまりここいらへんから見ますと、宮沢賢治の世界観の表れが分かりますし、また詩としての特色っていうのも分かりますし、それから記号の使い方っていうようなものの中に込めている宮沢賢治の詩に対する特異な考え方っていうのも非常にはっきりしてくるんじゃないかっていうふうに思われます。これが宮沢賢治が生前に自分で自費出版ですけど出すことができました、『春と修羅』第一集の大きな特徴だっていうふうに見ることができると思います。

 もちろん少数の詩人たちはこれに気が付く、この詩集に気が付いて盛んに賞賛の声を上げたわけですけども、大部分はそういうことが分からず、極端にひどい場合にはせっかく送ってやった人から「『春と収容』ありがとうございました」っていうふうなお礼状が来たりして(笑)。全然がっかりするみたいな、そういうことがありましたけれども少数の詩人たち、例えば先ほど言いました中原中也とか高村光太郎とか、そういう少数の、草野心平とか、そういう少数の詩人たちはこの詩集のすごさっていうのに気が付きまして盛んに賞賛の声を上げたっていうことはあったけど、概して言えば反応はほとんどなかったっっていう、それが生前の唯一の詩集だったっていうことになると思います。

8 生活の影

 それで、その『春と修羅』の第二集っていうことになっていくわけです。するとこの『春と修羅』の第二集は自分で原稿をまとめてありましたけれども、これは生前には出されることはなかったんだと思います。で、この『春と修羅』の第二集も、これも簡単にって言いますか要約的に特色を申し上げてしまったほうがいいんですけれども、これはどういうことになってきますかと言うと、『春と修羅』第一集みたいに世界観、仏教世界観を感覚的に捕まえ直しまして、そしてすべての人間も含めてすべてのものはただの現象にすぎないんだって、ただ現象として光と影をこさえてるだけだ。で、光と影を他人に放射してるだけなんだっていう、そういうちょっと不気味ともいえるし、また膨大ともいえる、そういう奇妙なって言いますか、特異な世界観は第二集では失われてしまいます。で、第二集では何が出てくるのかっていうとやっぱり生活っていうのが全面に出てきます。これは宮沢賢治の青春の喪失なのかもしれませんし、あるいは宮沢賢治がもう否応なしに生活の現実にぶつからざるを得なかったんだっていうふうに言えるのかもしれません。それはさまざまな理解ができるかと思います。しかし結果的に言いますと『春と修羅』第二集は第一集に比べたら生活の影っていうのが色濃く出てきます。色濃く出てくると同時に、いわばファンタジーって言いましょうか、幻想の野放図さって言いますか、途方もない広がりっていうのはなくなって、いつも生活の影っていうもんに境目を限定された、そういう心象スケッチっていうところに第二集は移ってしまっています。ですからそこでそれはやっぱり詩としては食い足りなくなっちゃったんじゃないかっていう観点からすれば、確かに第二集は第一集に比べてそういう野放図さって言いますか、あるいはちょっと不気味な恐ろしさって言いましょうか、膨大さって言いましょうか。あるいは人間すべてとか、ものっていうのは全部幽霊のようなただの現象に見えてしまうっていうのは、そういう非常に特異な世界観の、そういう世界をファンタジーの世界が全部なくなっていって、一種の生活感情と言いましょうか、生活意識と言いましょうか、そういうものに彩られた心象スケッチっていうところに移ってしまうので、なんとなく要するに空想が遠くまで行けなくなっちゃってるっていうふうに言えば言えると思います。それをやはり宮沢賢治の青春は終わったか、とか宮沢賢治の生活など問題にしなくて一種の膨大な仏教の世界観の中に自分を入れ込んじゃうっていう、そういうことがもうできなくなって、いわば現実に目覚めさせられちゃったみたいなことになってしまったのかっていうふうに考えれば全くそういうことになってしまったんだっていうふうに言えると思います。

 ところで、問題なのはどういうことかっていいますと、それだけでこの『春と修羅』第二集を解釈しちゃっていいのかなっていうふうに考えると、ほんの少しですけど、いやちょっと違うぜっていうふうに『春と修羅』について言えるところがあると思います。そこだけをちょっと特色として申し上げてみますと、だいたい1924年の7月ごろですから今ごろですけれども、今ごろから以降に書かれた詩っていうのの中で、やはり宮沢賢治はいわば生活の一種の色合い、雰囲気っていうのが自分の心象スケッチっていうのに対して入り込んできたっていう、その入り込んできた場合に心象スケッチっていうのはどういうふうに変わらなくちゃいけないんだろうかっていうことをなんとなく1924年ですから大正13年ころだと思いますけれども、13年か4年だと思いますけど、そのころの夏ごろにちょっと気が付いたって言いましょうか、ちょっと会得したんじゃないかなっていうふうに思われるところがあるんです。

 で、作品の例でいいますと、これはもちろん生前には誰も見てないわけですけども、例えば『ほほじろは鼓のかたちにひるがへるし』っていう仮の題名、第1行目を題名にした詩とか『北上川は榮気をながし』っていうような題名、それから『薤露青』、薤露ブルーですけど、創世記でいえば薤露行っていう玉ねぎとか、そういうにんにくとか、そういう種類の植物にある露のことだと思います。たまる露のことだと思いますけども。『薤露ブルー』っていう詩とか。そういう詩の中になんとなく『春と修羅』第二集で初めてちょっと生活の影と言いますか感覚と言いますか、それが心象スケッチの中に入り込んできたとき、どういうやり方をすればいいのかっていうのは会得したんじゃないかなって思えるのと、いい作品を27年7月(24年の誤り?)以降の作品で生んでいると思います。

 で、これが特色だと思います。で、この特色はどういうことかっていいますと、初めは、第二集の初めは生活意識っていうのがやむを得ず入り込んできちゃったためにそれをどういうふうに処理していいか。つまりただ空想って言いますか、ファンタジー、幻想を妨げちゃうもの。あるいは足を引っ張って現実に引き戻しちゃうもんっていうふうにしか、どうも自分で考えられないで心象スケッチをやってたんだけれども、そういうふうに考えないでいいんじゃないかなっていって、どう考えるかっていうと生活の意識とか生活の感覚っていうのは、いわば潜在意識の中に入れ込んじゃえばいいんじゃないか。入れ込んじゃって心象スケッチをやればそれでいいんじゃないかって。いいんじゃないかっていうことになんとなく1924年の7月ごろから、つまり夏ごろからそれに気が付いたんじゃないのかなって。それに気が付いてそういう方法を取るっていうことをやりだしたんじゃないかなっていうふうに後から考えると、つまり僕らが考えるとそういうふうに思えるわけです。で、このところから以降の詩がやはり『春と修羅』第二集の詩としていい詩だっていうふうに思います。で、もちろんこれは生前には出されなかったんですけど、やはり第一集と同じように序文はあります。その序文はやはり第二集の特色を非常によく表していると思いますので何行か読んでみたいと思います。序文です。『春と修羅』第二集の序文として書いたものです。で、途中です。途中っていうか終わりのほうです。

わたくしはどこまでも孤独を愛し

熱く湿った感情を嫌ひますので

もし万一にもわたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は

同人になれと云ったり

原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり

わたくしを苦しませぬやうおねがひしたいと存じます

けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが

自分の畑も耕せば

冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして

おれたちは大いにやらう約束しようなどといふことよりは

も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから

さう申したとて別に何でもありませぬ

北上川が一ぺん氾濫しますると

百万疋の鼠が死ぬのでございますが

その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を

生きてるうちは毎日いたして居りまするのでございます

っていうのが、この『春と修羅』第二集の序の終わりのところの文です。で、お聞きになれば分かりますように生活意識の色が色濃いわけです。これは先ほど読みました『春と修羅』第一集の序文と比べてご覧になれば、ファンタジーの性質が全く違うっていうことがこれだけ読んだだけでも分かると思います。これは生活っていうことを非常に大きく考え始めたっていうことを意味するわけです。

 ただ要するに『春と修羅』第二集の主作品自体は、まだこの肥料の設計事務所を作ってるとか自分は畑を耕してるとかっていうふうにやってなくて、学校、花巻農学校の先生をしてた、4年間してたわけですけど、先生をしてた時代の詩なんです。だけれども序文を書いて、それでこれをひとまとめにしてすぐ出版できるようなかたちにしたときにはもう学校の先生をやめていまして、それで自分が畑仕事をしまして、1人で小屋に住みまして、それで畑仕事をしながら、で、肥料の設計所を開設して、それを周辺の人たちに広めたりみたいなことを始めた時期が序文を書いてこれを出そうとした時期であるわけ。ですけども、この中身は、書いた詩の中身は要するにまだ学校の先生をしてたときの時代の詩なわけです。だからそこいらへんの入り交じったところが第二集の特色なんだっていうふうに思います。それで、なかなか、これはきっと聞いたところではちょっとどういう特色になってるかっていうのが分かりにくいと思いますけど『薤露ブルー』っていうのが『薤露青』っていうのの詩のいっとう初めのところ数行を読んでみます。

みをつくしの列をなつかしくうかべ

薤露青の聖らかな空明のなかを

たえずさびしく湧き鳴りながら

よもすがら南十字へながれる水よ

岸のまっくろなくるみばやしのなかでは

いま膨大なわかちがたい夜の呼吸から

銀の分子が析出される

それからチョンチョンチョンチョンの間です。

  ……みをつくしの影はうつくしく水にうつり

    プリオシンコーストに反射して崩れてくる波は

    ときどきかすかな燐光をなげる……

チョンチョンチョンです。つまりこれを見ますとやっぱり心象スケッチの一種のファンタジーなわけです。ところがよくこれを聞いただけで、僕の読み方の下手なのもあって(笑)分かりにくいでしょうけど、これ第一集のときの野放図で饒舌なって言いますか、野放図で饒舌で転換がめまぐるしい、そういうファンタジーの表現とはちょっと違う表現で、つまり全体が抑え気味のファンタジーになっています。けれどもなかなかいいファンタジーにできています。つまりこのいいファンタジーっていうのは第二集全体にあるわけじゃなくて、今申し上げましたように24年7月以降の詩がそういうふうになってると思います。ですから全部じゃないんですけど、でもこのファンタジーは一種の落ち着きっていったらおかしいんですけれども、一種の重さっていうのがあります。これは第一集の饒舌で軽いけれどもめまぐるしい野放図なファンタジーっていうのとは違う性質のもんで、なぜ重さっていうのがこのファンタジーに出てきているかっていえば、僕は生活意識っていうのを潜在的に持っていて、しかもそれを潜在的に表へ出さないでいるっていうところからこのファンタジーの重さっていうのが出てきてるっていうふうに、僕はそういう理解のしかたをします。で、これはこの詩以前の、つまり24年7月以前の詩ですと、生のまま生活の意識とかあれが出てきちゃって、そうすると得体のしれないって言いますか、つまりこういう詩なら誰でも同時代の詩人は誰でも作ってたよっていうふうに言えなくもないような詩になってしまっています。しかしそれは一種の戸惑いなんだって。で、この24年以降に宮沢賢治はある気付き方をしてると思います。詩の書き方の気付き方をしてると思います。それに気付きかけた以降の詩は、やはりこれは宮沢賢治じゃなければ出てこないファンタジーで、しかも生活っていう意識みたいなもの、あるいは生活感覚みたいなものはどこかへ押し込めてかたちのないところへ押し込めちゃっていて、ただそれは一種のファンタジーのある重さって言いましょうか、落ち着きって言いましょうか、そういうものになって表れてきてるっていうのがこの24年7月以降の詩の特色であり、同時に『春と修羅』第二集を最高のところで理解するとすれば、このあたりがいちばん大きな第二集の特色なんじゃないかっていうふうに思えるんです。

9 生活自体が芸術という考え方

 で、それじゃあ『春と修羅』第二集の思想というか、理念というか、そりゃあ一体なんなんだろうかっていうのを強いて取り出してみたらどういうことになるかっていいますと、それは今読みました序文のところによく表れているっていうふうに言えば言えると思います。要するに、あんたたちは要するに文学、そういう言い方をしてないんですけども(笑)、率直に言やあそういうことです。つまりあんたたちは文学、詩を作るとか作んないとか、いい詩ができたできないとかそんなことがあんた目的かもしれないけど、俺はそんなことは言っちゃいらんねえんだって。もっと大切、大切とは言ってないんですけど、俺は百姓仕事もしてるし、要するに肥料の設計事務所もやったりしてもっと下等な仕事してんだと。で、それは冗談じゃねえんだっていうふうに言えば言えるっていう。それで、だからそんな一切その誘いとかそんなことやんないでくれっていうことを言ってるんだと思います。それでどういうふうに聞こえるか分かんないけど、要するに北上川のほとりで穴掘って生きてるネズミだって、だからお百姓さんのことを暗喩してメタファーしてるんだと、暗喩してるんだと思いますけど、例えてるんだと思いますけど、百万匹のネズミが百万匹も居るんだけど、そういうネズミだってそれで北上川氾濫すればいっぺんで死んじゃうんだって。それで、つまりお百姓さんもそうで、飢饉とか干ばつとか冷夏とかそういうのがあればみんな食いもんがなくなって困っちゃうって。そういうのがたくさん居るんだけど、そういう人間だってやっぱり生きてるうちは自分とおんなじような生き方を毎日してんだっていうふうに言っているんだと思います。して、つまりこの言い方は宮沢賢治の言ってみれば後期の、中期以降の宮沢賢治の思想の特徴をとってもよく表していると思います。いいにつけ悪いにつけ特徴を表してると思います。それで、悪いにつけっていうところで言いますと、割合に東北人、東北的ですよね。闇を言うなって、そういう闇の言い方言うなっていうふうに言いたいことがあるわけですけど、そういう宮沢賢治にもその特徴はあります。これはやっぱりそういう、悪い言い方をするとそういうことになります。いい言い方をすれば冗談じゃねえんだって。お前ら詩作ってればいい詩がいい気持ちになってるかもしんねえけど、俺はそんなことはいい気持ちになってるなんて、もっと重要なことを俺は考えて思ってるんだって思ってやってんだっていうことを言ってるので、ごもっともですと言いますか本当ですっていうふうに言えるもんだと思いますし、また宮沢賢治にはそういう資格があるような気がします。つまりそういう言い方をする資格が、その生涯が語っているようにあるように思います。ですから、それが宮沢賢治、そこで宮沢賢治の特色が表れてると言えば言えるんですけど、もっと詩的な、きれいな言い方で言ってる、第二集で言ってる箇所を取ります。例えば『告別』っていう自分の生徒に、学校の先生してた時代の生徒に言ってる詩があります。その一部分を数行読んでみますと、それがたぶん宮沢賢治『春と修羅』第二集の宮沢賢治の思想って言いますか、考え方の集約点だと思います。

けれどもいまごろちゃうど

おまへの年ごろで

おまへの素質と力をもってゐるものは

町と村との一万人のなかになら

おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも

五年のあひだにそれを大抵無くすのだ

生活のためにけづられたり

自分でそれをなくすのだ

すべての才や力や材といふものは

ひとにとゞまるものでない

ひとさへひとにとゞまらぬ

云はなかったが、

おれは四月はもう学校に居ないのだ

恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

これは、だから学校をやめる直前に書かれた詩だと思います。

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり

きれいな音の正しい調子とその明るさを失って

ふたたび回復できないならば

おれはおまへをもう見ない

なぜならおれは

すこしぐらゐの仕事ができて

そいつに腰をかけてるやうな

そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが

よくきいてくれ

ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき

おまへに無数の影と光の像があらはれる

おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり

一日あそんでゐるときに

おまへはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の

それらを噛んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら

いゝかおまへはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり

そらいっぱいの

光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

っていうのがあります。つまりここいらあたりが『春と修羅』第二集、それから現実的にいえば農学校の先生をして、先生をやめて自分で決心して百姓をやりながら肥料の設計なんかして、市の農家の人に少しでも役に立とうみたいに思い始めたころの宮沢賢治の思想って言いますか、理念っていうのはいちばんよくここに表れていると思います。で、この表れ方っていうのは宮沢賢治のやむを得ない生涯のコウシツ(?)だって言えばコウシツ(?)ですし、また悲劇だって言えば悲劇なわけです。つまり野次馬的に申しますと、つまりある、これ「音にするんだ」って言うから、これたぶん音楽的才能のある弟子を対象にして言ってるんだと思いますけども、つまり音楽的才能って、音っていうものは別に百姓仕事をしようがしまいが、寝転んでいようが、そんなことは関係ないわけですよ。つまり客観的に言ってしまえばそんなことは関係ないので、生活の意識が色濃くあればいい音が作れるかどうかっていうことは全く関係のないことなわけです。それはたぶん芸術と実生活と言いますか、生活との間の関係についての妥当な考え方だっていうふうに思います。

 この妥当な考え方からすると、宮沢賢治がここで言ってる考え方、あるいは理念っていうものは、それは違うんじゃないかっていうふうに思います。それからもっと違うところでもそういうことを言っています。例えばテニスをしながら鼻歌交じりに教えてる学校の先生から教わる勉強よりも、お前が百姓仕事をしながら肉体に刻んだそういう勉強のほうが本当に役立ついい勉強なんだっていう言い方をしているところもあります。つまりそれは概して言えばうそなわけで、要するに誰が教えようと、つまり誰がどういうばかな先生が教えようと、教えたことを受け取る受け取り方っていうのはおんなじなわけですよ。それで、どんな苦心して勉強しようと、また楽に勉強しようと習い覚えたことは変わりないっていうことになるのが、まず妥当な考え方だっていうふうに思いますけれども、宮沢賢治っていう人はそういうところでは非常に一種の、やっぱり応援団ですからね、応援する対象っていうのは当時でいう農民なわけですけども、応援する対象っていうのは居るわけです。それで、その応援する対象っていうのをなぜ応援するかっていうことを宮沢賢治は一生懸命理念付けるわけです。

 理念付けて、それでどういうふうに考えるかっていうと、このパイプオルガンっていう例もそうなんですけど、要するに芸術とは何かっていうことについてまた違う考え方、あるいは人は何かでも音楽は何かでもいいんですけど、それを違う考え方をすればいいんだって。それはどういう考え方かっていえば、極端にいえばどんな人間でも要するに生活それ自体において、リズムっていうものが保てるならば、それはその人が芸術をやってるんだ。つまり音楽を作ってるとおんなじことなんだって。あるいは詩でもおんなじなんですけれども、日常生活をやってて、それでそこで出てくるその人の言葉の中にリズムがあり、人に伝えかけるものがありっていうものが実現できてたら、それはその人のいちばん至上の芸術であるし、それは芸術としていちばんどんなものに比べてもいい芸術なんだっていう、そういう考え方っていうのをしています。つまり生活自体がそれが芸術なんで、あと生活をしながら芸術をするとか、生活はそっちのけにして芸術の専門的にやるとかっていうことが必ずしも芸術じゃないんだっていって、芸術っていうのはそういうふうに生活それ自体が芸術だっていうふうに言うことができるので、それはそれぞれ人が持ってる至上、最も高い芸術なんだっていう言い方をしています。それはたぶん宮沢賢治が自分の理念っていうもの、あるいは自分が応援する、何を応援するかっていう、その応援するものの対象も含めた芸術の観念っていうものを作り上げたくて、それでそういう考え方を取るようになったっていうふうに言うことができると思います。で、このあたりが『春と修羅』のいわば思想的と言いましょうか、理念的な中心だっていうふうに考えることができると思います。

10 言葉の出所の違い自体が詩になる

 それで、もうひとつ『春と修羅』第二集で注目すべきことがあるとすれば、それは先ほど言いました1924年7月以降の詩なんですけども、詩に出てきたわけですけども、先ほどから言いました記号による言葉の分け方っていうのがあります。つまり記号によって意識の、自分の、人間の意識の土の部分から言葉が出てきてるかっていう、それを区分けする、分けるっていう、そういう分け方っていうのを記号によってやってると申し上げましたけど、それも第二集で一段と先へ進めています。それがどういうあれかっていいますと、本当は読むことで伝えることは難しいんです。これは記号的、非常に錯綜した使い方をしているのですけど、詩の題でいいますと『風と杉』っていう24年9月、1924年の9月に作った詩がありますので、もし時間、暇がありましたらそれを読んでくださればとてもよく分かると思います。

 で、どういうことをしてるかっていいますと、まず先ほど、つまり独り言の中でまた特別なやつをテンテンテンテンとテンテンテンテンっていう中に言葉を書くっていう言い方をしましたけれども、今度はその言葉をテンテンテンで書かれた言葉、縦にテンテンテンで書かれた言葉っていうのもありますし、それからこういう小がっこで、小さなかっこで独り言を書いたり、それから注釈を付けたりっていうような、そういうやり方をしてると申し上げました。それもありますし、それからもうひとつあるんです。それは横にテンテンテンテンって言ってるわけです。それはどういう意味を持つかって言いますと、全部縦のテンテンテンの言葉と、それから小かっこの言葉、全体を要するにこういうふうに球状でひっくり返せば、全体をまたテンテンテンの中に入れたんであって、それはただのスケッチとは違いますよっていうことを言ってるんだと思います。つまりそういう複雑怪奇な記号による分け方をしている箇所が『風と杉』の中にあります。それはちょっと読んではなかなか通じないと思いますけど言ってみますと、まず横のテンテンテンがあって、で、すぐに小さなかっこが二つあります。で、

      (ブレンカア)

      (こいづ葡萄だな)

「こいづ」っていうのは「こいつ」っていうことです。つまり東北弁の濁音です。で、これはだから会話の言葉、独り言的にしゃべってることを言ってると思います。で、まずいきなりテンテンテンが横にあって、それで全体が要するにこういうなんかの中に入るんだよっていうことを、つまり全体が半独り言の中に入るんだよっていうことをまず表しといて、で、小がっこがあります。これで注釈、ないしは会話の言葉がそこにあって。それで、その次に縦のテンテンテンが来まして、

  ……うす赤や黄金……

っていうふうにあって、これが縦の点々になってる。で、また次にすぐ小さなかっこがきて、

      (おい仕事わたせ

       おれの仕事わたせ)

っていう会話が、言葉が小さな言葉で入ってきて、また最後に横のテンテンテンがあって、で、全体が要するに一種のテンテンテンの中に入ってる。その全体のテンテンテンの中に小さなかっこと、それから縦のテンテンテンと両方が入ってますよっていうふうに区別してると思います。ですから実に複雑怪奇な、複雑な区別のしかたっていうのをしてると思います。

 で、これは第二集の24年7月以降の詩の中に初めて表れまして、またこの表れ方がたぶん宮沢賢治の記号の使い方で言葉の出てくる次元の違いを表してるいちばん複雑なかたちだと思います。つまり、これは第二集で初めて出てきています。つまりここである意味でいえば宮沢賢治の詩の心象スケッチと言いましょうか、それのやり方がここで完成されたっていうことを、第二集で完成されたっていうことを意味すると思います。それで、だいたい記号的にここで極まってると思います。で、こういうことはたぶん普通のって言いますか、近代の日本の詩以降の詩の概念ではこういうことをやるっていうことは全く誰も実際にやっていないし、またそういう考え方自体がだいたい存在しないっていうふうに思います。せいぜいかっこでっていうようなことは時にはあるわけですけど、かぎかっことか小がっことか、それはあるわけですけれども、こういう複雑怪奇な言葉の記号の使い方っていうのをしてる詩人も、またしようとした詩人もないと思います。そのことは宮沢賢治っていう人が詩っていうものをどう考えてたかっていうことのひとつの重要な証拠になると思います。

 つまり宮沢賢治の詩っていう概念の中には、要するに人間の言葉っていうのはたくさんの層の言葉っていうのがあって、たくさんの層の言葉のある層から出てくる言葉の表現もあるし、また違う層から出てくる言葉の表現もあると。ただ描写しただけの表現の言葉もあると。そういうふうに考えると、たくさんの言葉の層が積み重なって人間の表現ができてると。で、積み重なりの段落っていうのを、段落っていうものをもしわれわれは言葉の意味ではなくて段落を段落として受け取るっていうことがもしわれわれ読むほうにできるならば、それを感受性としてそれができるならば、それはやっぱり詩として感ずることができるんだよっていうことを言っているんだと思います。

 残念ながら僕らの常識ではこういう記号の分け方をされると、理屈でもってさまざまに分析してこういうふうに言うことができますけど、これをすぐにすらっと読んで、すらっとこれ、ここでこの段落の複雑な違いっていうのを頭の中で受け取る、その意識の感受性の違いとしてより分けてこれを読むっていうことは、残念ですけど僕らの常識ではできないわけです。しかたなしにこれ、いろいろ分析したり分けたりして、これを読んだりしているわけですけど、宮沢賢治のほうでは本当はこういうのは段落はこう分けて、これは全体を言ってるんだよとか、これはまたこの中に入るんだよとかっていうことはただ黙っててすーっと入ってきてほしいわけで、またこの段落の分け方で分けられてる言葉の出どころの違いっていうのを、違い自体が詩なんだよっていう、そういう読み方をたぶんしてもらいたいんだと思います。でもわれわれにはそれはできないけれども、本当に宮沢賢治の『春と修羅』っていう詩集を本当に読むっていうところまでもし理解が行き届くことができるならば、やはりそこまで読んでほしいっていうのが宮沢賢治のたぶん願いじゃないかっていうふうに思います。それで、現在僕らのあれではそういうふうに読むことが、すらすらっと読むことができないので、ただこれが何を意味してんのかって。なぜこんなことを宮沢賢治は複雑にやってるのかっていうのは、なんとなく分析的には分かるような気がします。ですから、それは分かるような気がするんですけど、本当は「気がする」じゃなくてそういうふうにすらすらっと、やっぱりそこへ来たら意識の、読むほうの感受性の段落をうんと付けてっていうふうにそれを読んで、それでまた地の文のところへ行くって、そういうふうに本当は読めなければうそなんだと思いますけれども、今の段階では僕らにはそれはまだできないっていうふうになってると思います。これはやはりみなさんのほうでそういうふうにひとりでにすっすすっすできちゃうっていうようなふうなところにゆかれることがとてもいいことなんじゃないかなと思います。つまりそこが第二集あたりで宮沢賢治が表してる非常に大きな特色だっていうふうにいうことができます。で、第三集がもうひとつ残っていますのでそこまで一気にやってしまいたいと思います。

11 宮沢賢治の生活の場所−「〔同心町の夜あけがた〕」

 で、『春と修羅』第三集と申しますのは、今の言い方をしますと第二集よりももっと生活の影が色濃くなってしまって、ファンタジーっていうものも生活の意識と折り合いが付ける限りでのファンタジーしかもうここにはなくなっちゃってるっていうふうに言っていいと思います。ですから、それがやっぱり駄目になっちゃったって言いますか、詩として駄目になっちゃったっていうふうに、もし言うんならば、やっぱり駄目になっちゃったって言いますか、宮沢賢治の詩っていうのも完全にファンタジーのなんともいえない大きな世界っていうのを失ってしまったなっていうふうに言えば言えると思います。しかしこんなことはやはり、つまり宮沢賢治の言い方じゃないですけど、ファンタジーといえども1人の人間の中に長くとどまっているものではないのだって。1人の人間はまた生涯をふるにしたがって、次第にいろいろなかたちで世界を変えていくっていう、あるいは感覚を変えていくっていうふうになっていきます。ですからそれも、それはやむを得ないんだっていえばやむを得ないわけですし、また、いやそうじゃない、これは特色なんだ。つまり初めは遊び心って言いますか、遊びでもってファンタジーの世界を精一杯羽を広げて表現していればそれですんだけれども、だんだん生活、それから農民たちの生活も含めて自分の生活の周辺が息苦しくつらくなってきてしまっている。それを甘受すればどうしてもこうならざるを得ないんだっていうふうに考えれば、全く第三集のほうの生活の意識と折り合いが付ける範囲でのファンタジーだけしかそこにもう存在しなくなったっていう、一種の、極端にいえば生活の詩なんですけども、生活の詩になってしまったっていうこと自体も決してマイナスの要素だけっていうふうに理解するわけにはいかないんだっていうふうに言えると思います。

 それじゃあ宮沢賢治の『春と修羅』第三集の特色を、それじゃあ生活の意識と折り合いが付ける限りでのファンタジーっていうふうに考えると、それじゃあどういうところで生活っていうのを宮沢賢治は捉えてるかっていうふうに考えてみますと、いくつかあります。で、いくつか言うことができます。で、ひとつは宮沢賢治っていうのはなんといっても街で、街住まいの者であって、で、学校出たインテリであって、うちはお金持ちだっていう地方の豪家の出であってっていうふうに見られているので、で、お百姓をしようと、つまり農家の仕事を畑仕事をしながら肥料の設計をやったりなんかして教えに行くっていうようなことをしていても、あいつはどうせ街もんで自分のわがままでしたいことしたい放題でこういうことをやってんだって。で、いずれにしてこんなの本気じゃないんだっていうふうに本当の農家の人からいつでもそういうふうに思われていただろうっていうことはひとつあるわけです。それは宮沢賢治がたいへんよく感じているわけで、宮沢賢治はそれを一種の詩の表現でいえば、そういうのもやっぱり要するに農家の人たちの自分に対して感じる嫉妬なのかもしれないって。で、その嫉妬っていうのを起こさせないって言いますか、受け取らないように自分はうんと気を付けなきゃいけないっていう詩を例えば『〔同心町の夜あけがた〕』っていうような詩の中でとてもよく表現しています。

われわれ学校を出て来たもの

われわれ町に育ったもの

われわれ月給をとったことのあるもの

それ全体への疑ひや

漠然とした反感ならば

容易にこれは抜き得ない

っていうような詩を『〔同心町の夜あけがた〕』の中で書いています。で、自分がヒヤシンスかなんかを栽培して、それでそれをリヤカーに乗せて売りに行くと。それで農家の人と出会うと、あの野郎遊び半分に花を作って、で、それを売りに行ってるっていうような、そういう見方で見られてしまうとしたら、自分はこういうことをやめるようにしなきゃいけないっていうような詩をいっぱいこの詩の中で、『〔同心町の夜あけがた〕』の中で書いています。で、この種の反感っていうのはたぶんいろんなところから宮沢賢治がいつでも一生懸命になればなるほど、その人たちを応援しようと思って主観的に努めれば努めるほど、しかし相手のほうでは必ずしもそうは思ってくれないっていうことには、もう頻繁に当面しただろうっていうことはたやすく想像することができます。それは宮沢賢治の一種の生活の場所であって、それで自分のほうが主観的に奉仕するとか、そのためになろうみたいなことが入ってくればくるほど相手のほうでは反感を覚えるっていうのは、そういう人間関係の場所の中に宮沢賢治は自分でいつでも、一種の針のむしろとおんなじなんですけどそういうところに居て、で、やっぱりそれを逃げることはできないっていう。だけれど逃げることはできないし文句を言うこともできないと。ただ要するに、どうやったらそれが消せるかっていうことを考える以外に方法はないんだっていうようなところで、晩年の生活を過ごしただろうっていうことはたやすく、こういう詩からも想像できるわけです。これが『春と修羅』の生活意識の受け取っているひとつの大きな場所です。

12 宮沢賢治の泣きどころ

−「寮友」「〔あす この田はねえ〕」

 それからもうひとつ、もう少し考えてみますと、こういうのもあります。つまりせっかくって言いますか、自分は決心して農学校の先生の適当な月給をもらって適当な授業をやれば自分は充分生活していって、街ものの生活をしていけると。そういう境涯を自分でもって、好んで捨ててしまって畑仕事をやるようにして農家の肥料の設計なんかをやってっていうのは、そういうところに自分から進んで行ったわけなんですけど、でもあまりの肉体的な疲労のひどさと、その割にはあんまり報いられないって言いますか、相手が、つまりそれを認めてくれるっていうようなところになかなか行かないみたいな、そういうことも含めて疲労困憊に達しちゃって、それで自分の農学校の同僚たちを訪ねて行くっていう詩があります。

 それは要するに言ってみれば、一種懐かしさと憩いって言いましょうか、憩いを求めて、それで昔の楽だった勤めのところへ顔を出してみたっていう、そういう弱気の表現なんだと思いますけど、こういう表現も『寮友』っていう詩の中に述べています。言っていることは誰でもが体験することだから、覚えがあることだから、まただから優れているっていうことも言えるわけですけど、分かりやすいんですけど、行ってみるとそこでは同僚たちは自分が主観的に思ってたことほど自分を歓迎してくれるような様子もなくてって。ただ非常にごく当たり前に自分が訪ねてきたことをごく当たり前に受け取って当たり前な反応を示してくれるだけなんだって、そういうことから自分はやっぱり弱気でこういうところに来たっていうのは、自分を駄目なんだっていうふうに思うんだっていう、そういう詩だと思いますし、それはものすごくわれわれは誰でも体験することで、弱気になって疲れて参ったよっていうようなところで、楽だった境涯のところにふっと目が向いたりしていくんだけど、そこはあんまり自分が思い入れているほど自分を迎えてくれるわけでもない、みたいなそういう体験っていうのは誰にでもあるわけなんですけど、宮沢賢治は見事にそれを『寮友』という詩の中とか、童話でいえば『猫の事務所』っていう童話がありますけど、それはものすごくよくそういう心理状態って言いますか、心理状態とちぐはぐさっていうのをとてもよく表現しています。こういうことができるっていうことは、宮沢賢治の心理主義じゃないんですけど、心理を一種の倫理に置き換えるっていうのが宮沢賢治の特徴なんですけど、それは非常によく表現されています。で、ちょっとそこを数行読んでみますと、

わたくしがかつてあなたがたと

この方室に卓を並べてゐましたころ、

たとへば今日のやうな明るくしづかなひるすぎに

   ……窓にはゆらぐアカシヤの枝……

これはチョンチョンの中です。

ちがった思想や

ちがったなりで

誰かが訪ねて来ましたときは

わたくしどもはたゞ何げなく眼をも見合せ

またあるかなし何ともしらず表情し合ひもしたのでしたが

今日わたくしが疲れて弱く

荒れた耕地やけはしいみんなの瞳を避けて

おろかにもまたおろかにも

昨日の安易な住所を慕ひ、

この方室にたどって来れば、

まことにあなたがたのことばやおももちは

そのとおりだったっていうことを書いてるわけです。で、これとてもよく分かるし誰もが体験する、一種の普遍的な体験なんですけども、それをよく詩にしています。これはたぶん『春と修羅』第三集の生活の持ってる位置をひとつよく表現したものだっていうふうに思います。で、もうひとつ二つあれしてみますと、先ほど言いましたテニスをしながら商売の先生から。読んでみますと、

これからの本当の勉強はねえ

テニスをしながら商売の先生から

義理で教はることでないんだ

きみのやうにさ

吹雪やわづかの仕事のひまで

泣きながら

からだに刻んで行く勉強が

まもなくぐんぐん強い芽を噴いて

どこまでのびるかわからない

それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ

っていうような詩です。つまりこれはやっぱり先ほどの弟子に言ったとおんなじ、やっぱり農学校出てそういう農家をやってる、そういう子どもに言った、宛てたっていう詩です。で、この言い方は先ほど言いましたように宮沢賢治の生活の場所、受け取った場所っていうことをよく表現しているわけです。で、その受け取った場所での表現っていうことに、先ほどの問題がやっぱりあるんだっていうふうに僕には思います。つまり、テニスをしながら商売の先生から教わったって、どういうふうに、吹雪やわずかの仕事の合間に自分でこうやって勉強したって、要するに身につくか身につかないか、どっちが身につくかっていうことにはなんの関係もないわけです。つまりなんの関係もないっていうのは妥当な心理であるっていうふうに僕には思います。で、だけど宮沢賢治はそういうんじゃなくて、テニスをやりながら商売でやってる先生から教わる勉強なんか駄目だよって。で、お前が体に刻んであれする勉強が本当の勉強でこれから伸びんだよっていうふうに言わざるを得ないっていうことは、宮沢賢治のそれが思想のひとつの特徴でありますから、これは端からなんとか言うべきことに属さないといえばもう属さないわけで、宮沢賢治っていう人はそういう人なんだっていうふうに思う以外にないわけです。

 しかしもしこういう問題に対して心理っていう基準が、心理命題と言いましょうか、それがあるとするならば、どちらが心理命題に近寄ってる考え方なのかっていう観点はやっぱり取ってみる必要が、一度は取ってみる必要があるっていうふうに思います。これが宮沢賢治の、言ってみれば泣き所って言いますか、泣き所であるように思いますし、また逆な意味でいえば宮沢賢治の特徴であるように思います。で、概して僕らが今考えている考え方のところでいえば、だいたいこういう言い方をするとだいたい受け入れられやすいと、あるひとつのテーマに、主題に対して、つまり勉強をするかしないかとか、何が勉強になるかどうかっていう主題があるとして、それに対してどちらが心理に近いことを言ってんのかっていう、そういう問題が出てきましたときにはこういう言い方をすると好まれやすいっていう言い方をするのは、概していえば駄目だと考えたほうが僕はいいように思います。で、宮沢賢治はこの場合にはこういう言い方をするとだいたい同情、つまりシンパシーを受けやすい言い方をしてると思います。でもそれはちょっと心理の命題に対してはちょっと疑問なんであって、こういうときには一見すると受け入れられにくい考え方をするほうが心理に近付きやすいんじゃないかなっていうのは、概していえば僕なんかが持ってる考え方です。それは宮沢賢治に対する、僕なんかから見る、一種の僕のほうから見る一種の批判的に見える箇所でありますし、また同時に逆な見方からすると、俺には到底できねえよなっていうあれと、それからやっぱりこの人は特別な人だ、つまり超人的な人だよなって思えるところとは、おんなじところなんですけど、そういう箇所はこういうところによく出ていて、これはやっぱり『春と修羅』第三集の生活の場所として非常によく宮沢賢治に考えられた場所だと思います。

13 「第三芸術」

 もうひとつあります。これでもうたぶん最後の生活の場所なんですけど、それは詩でいいますと『第三芸術』っていう詩があります。で、『第三芸術』っていう詩、どういうことを第三芸術っていっているかっていいますと、これは先ほども申し上げましたけれども、詩でいいますと宮沢賢治がカブをまこうとして、カブの種をまこうとして、それで畝をこういうふうにこさえているわけですね。そしたらば、誰かいつの間にか後ろに白髪の小さな人が立っていて、それで、これは何をまくのかって聞くわけです。それで赤カブをまくつもりなんだっていうふうに言うと、その人は赤カブをまくんだとすれば畝の盛り上げ方っていうのはこういうふうにやったほうがいいんですって言って、鍬か鋤かを自分から受け取ってすっすっとこういうふうにやったっていうんですね。そしてすっすって直したっていうんです。そしてそれを見ててびっくりして、そのすっすって直したっていうのはやっぱり専門の、例えば彫刻家がムーブメント作るっていうような、そういうあれよりもやっぱりこのすっすっていう直し方っていうののほうがいい芸術なんじゃないかっていうふうに思ったっていう詩なんです。で、それを宮沢賢治は第三芸術っていうふうに呼んでいるんだと思います。つまり、後ろに立っていた白髪の小さな人、お年寄りは自分の、農家の人でしょうけども、生活それ自体においてすでに芸術をつくってるんだ、彫刻を作っているんだっていうとおんなじなんだって。それは自分の素人じみた畝の作り方に対して、ひょっひょっていうようにすっと盛り上げ方をちょっとすって変えたっていう。で、それだけなんだけどものすごくびっくりして感心して、それでこれが芸術だっていうふうに思ったっていうふうな詩が、この『第三芸術』っていう詩です。

 で、だいたいこのいくつかを挙げますと宮沢賢治が『春と修羅』第三集の中で表現してる中心的な生活の場所っていうのがだいたいこんな場所だったんだって。いい悪いじゃなくてこういう場所だったんだっていうことが浮き立ってくるんじゃないかっていうふうに思われます。このあたりがたぶん理念って言いましょうか、思想と言いましょうか、そういうところでいえば宮沢賢治の、言ってみれば頂点の思想だっていうふうに思います。

 で、詩としては第三集と第一集を比べたらどうだって言えば、僕は第一集っていう詩集のほうが優れているっていうふうに思えますけれども、ただこの中の思想っていうもの、つまり長く1人の人にとどまっているんじゃないんだっていう、そういう思想っていうので言えば第一集の思想と第三集の思想とはどっちがいいんだっていうことはなかなか決められないと思います。偉大さっていうこと、偉大さ、普遍性っていうことでいえば第一集に存在し、それを咀嚼した宮沢賢治の思想のほうが膨大な、偉大な思想なんで、いってみれば仏教の世界的な思想なんで、偉大な思想、人類の遺産になる偉大な思想であるかもしれませんし、それに比べれば畑の畝の盛り立て方がちょっと違うんだっていう、その盛り立て方の違いに表れた生活芸術の思想っていうのはそんなに偉大でないのかもしれません。つまり偉大であるかもしれませんけれども普遍的ではないのかもしれません。だからそれをどちらがどちだっていうふうに決めることはできないですし、宮沢賢治が第一集の思想から第三集の思想までを全部足として引きずってきて、それで第三集、これは最終、文語詩を除いた最終の宮沢賢治の思想といってもいいんですけども、そこへ宮沢賢治は到達してるっていうふうに思います。これが第三集に表れた特色だっていうふうに思います。

 で、ここでは記号の進化はすでに、記号の問題ではもう進化はないわけです。ただもしつながり具合をいうんだったら、第三集の詩は概していえば短くなっています。つまり20行から20行以下、10行くらいの、つまり短い詩っていうのが多くなっています。そして、それとともに言葉遣いが一種の文語調に近い言葉遣いが多くなっています。ですからこれは一面でいえば息の長い、長い詩を書くエネルギーとか息遣いがもうなくて、いい加減の年齢とか病気っていうようなことも含めてそういうあれがなくなったからこういう短い呼吸の詩になったんだっていう言い方もたぶんできると思います。とにかく概していえば短くなって、そして文語調に近い詩になっています。ですからこれが最終の、『春と修羅』の最終の詩集ですけども、別の意味でいえばここから文語詩の世界っていうのにはある脈絡って言いますか、つながりを取ることができると思います。 で、文語詩の世界は特色ある世界ですけれども、やっぱり詩らしい詩っていう、それもいわゆる七五調に近い詩らしい詩だって言えば言えると思います。

 つまりそこへ行くわけで、『春と修羅』として一応ここのところで宮沢賢治は自分の考えの頂点、それから別な意味でいえば生活意識。それからマイナスな意味でいえば衰えって言いましょうか、そういうものの限界のところまで歩いていたっていうことになるのだと思います。これがだいたいにおいて宮沢賢治の詩の仕事っていうものの全体が持っている姿だっていうふうに思います。少しお休みにしまして、あと童話のことをちょっとお話したいと思います。

14 グスコーブドリの森の生活

 だいぶ前半の時間が超過したみたいで、なんとか急ぎ足でやっていきます。して、あと童話の作品が残っているわけですけど、童話の作品のうちに今日のテーマになっている『グスコーブドリの伝記』という童話と、それから『銀河鉄道の夜』という童話と、その二つが残っているわけです。で、この二つについて申し上げますけど、『グスコーブドリの伝記』のほうを先におしゃべりしていきたいと思いますけども。

 『グスコーブドリの伝記』っていうのはいくつかの特色があります。それは、ひとつはこれが日本の童話、それから文学作品の中で森の生活って言いましょうか、それを描いてるとても珍しい作品だっていうことだと思います。で、森の生活って、例えばこれはブドリっていう子どもとその妹が主人公なわけですけれども、2人のおやじさんが森の木こり、名高い森の木こりなわけです。それで、子どものとき森の中で遊ぶっていうんですけど、森の中で遊ぶってどんな遊びのしかたをするかっていうのがとてもよく書いてあります。それはいくつかありまして、例えばヒカゲカズラを編んで冠を作るとか、キイチゴを実を取ってそれで食べたりして遊ぶとか、あるいはヤマバトの鳴きまねをして、それで鳥たちを呼び寄せて、それで鳥たちと遊ぶって言いますか、交流すると言いますか、そういう遊び方をしたり、それからブドリのお母さんっていうのは畑仕事をやってるんですけど、畑のそばで、森のそばの畑のところでカッコウ鳥がここを通っちゃいけないみたいな立て札を2人で作って、それでそれを立てて、それでそこらへんの周りで遊んだりっていうような、そういうたいへん珍しい遊び方の描写っていうのがあります。これは外国の童話にはよく出てくるんですけど日本の童話ではとても珍しい、森の子どもの遊び方って言いますか、生活とかそういうのが描かれていると思います。

 それで、ブドリの伝記ですから伝記的な事実をひと通り申し上げますと、ブドリの父親は木こりなんですけれども、飢饉っていっても冷夏なんですけど、冷たい夏があって、それで森、普段は森の薪、木を切って薪にして、それを街に売りに行ってとか、森の樹木を切ってそれでそれを街に運んで、それで生活してるっていうような生活をしてるんですけども、冷夏で飢饉になっていって、まきや木材を運んで行ってもなかなか売れなくなっちゃう。それで、だからいきおい食べるものが街から得られなくなってくるっていうようなことになるわけです。そしてとうとうそれが極まって父親は森の中で何か食べ物を探してくるっていうふうに、ある日言ったまんま森の中へ行って帰ってこないっていうふうになっちゃうわけです。して、おふくろさんが戸棚の中に粉があるから、これを少しずつ食べていなって言って、それで自分はやっぱりお父さんを探しに行くからって言って、で、翌日母親もまた出て行ってそのまま帰ってこないわけです。それでそのまた次にブドリとその妹っていうのはネリっていう名前になってますけど、妹とが母親を探しに森の中をさまようんですけど見付からない。それで小屋に帰ってきて20日間ぐらいは母親が言った粉を練って少しずつ食べながら20日間ぐらいは過ごしているんですけど、とうとうその生活も極まってしまうと。そのときに森を買い占めた男がやってきて、それでネリは街へ連れて行かれてしまう。それでブドリのほうは、お前はこの森でテグスを飼う、ヤマカイコだと思いますけども、テグスを飼う仕事をやるからそれをお前は手伝え。手伝うならばここに居させてそれで食べさしてやるってこういうふうに言われて、妹のほうは街へ行って暮らすようにしろって言って街へ連れて行かれて、それで別れ別れになる。そこから伝記がはじまるわけです。

 で、ここでもし何か特色を言おうとするんならば、つまりグリムの童話でもアンデルセンの童話でもそうですけど、概していうとここにこういうふうにしてやってくる男たちっていうのはだいたい悪い人だっていう類型になるわけです。つまり悪人だっていうような類型になるんですけど、宮沢賢治の場合にはどうもこれは悪人だっていうふうに見えそうなのにっていうか、見えるのにそういうふうには描かれてないっていうのがたいへん大きな特徴です。それで、それからもうひとつ、僕は連想したんですけど、この『グスコーブドリの伝記』の最初の部分っていうのは柳田國男の『山の人生』っていうのを連想したんです。で、『山の人生』では木こりのやっぱり父親が食べるものがなくなって、街へ行ってもあれができなくてって、交換ができなくてって。して、そしてそのときには子どものほうが要するにあまり父親が気の毒なもんだから、要するにおのかなんかを研いで、それで父親が帰ってきたときに小屋の敷居のところに妹と一緒に首を並べて、それで自分たちを殺してくれって言うわけです。それで、もうそんなに苦労して自分たちに食べ物なんかくれなくていいからもう殺してくれって言うんです。で、その父親がつい、やっぱり殺しちゃって自分も死のうと思うんですけど、殺しちゃってから自分が死にきれないで警察へ自首して来てって。で、その自首してきた記録を柳田國男は法務省に勤めててそれを読むわけです。読んで、それで情状酌量っていうんですか、減刑っていうか、それの対象を選ぶのでそれを読むわけですけど、それを読んで柳田國男は感動するわけですね。それで、これは偉大な、人間性の偉大な記録なんだっていうふうに柳田國男は書いてますけども、つまりこの柳田國男の挿話を思い出したんですけど、関係があるかどうかは分かりません。つまり宮沢賢治はそれの影響を受けたかどうかは分かりません。柳田國男については本当は触れていいはずなんですけども、一言も触れていません。それで、だから影響を受けたのかどうか分かりませんけど、宮沢賢治のグスコーブドリの場合には、もう殺してくれっていうんじゃなくて、父親のほうがいわば森の中へ入っていって自殺してしまう。それで母親もその後を追って自殺してしまうっていうことだと思います。それで兄妹だけが残った。

 で、それでその森を買い占めた男がやってきて、それでお前はここで俺たちの手伝いをしろって言われて、妹は街へ連れて行く。それで妹のほうは街へ連れて行かれて、で、街でやっぱり牧場の片隅に放り出されて、それでその牧場主に拾われて、それで大きくなって、牧場で働きながら大きくなって、その牧場の息子と結婚して幸福になるみたいになるわけです。それでブドリのほうは、要するにそこでテグスを作る手伝いを森の中でやるんですけど、それも駄目になって、それでその男が逃げ出しちゃうんです。それでお前は勝手にしろって。自由にしていいから勝手にしろって。その代わり食う世話はしないって言ってどっかへ行っちゃうわけ。それでブドリは街へ出てくるわけです。で、街へ出てきてなんとかして働きながら勉強したいっていうふうに思うわけです。それで農業の山師みたいな人のところに雇われて農業やって、山師の言うとおりのやり方をするんだけどうまくいかないんですね。それでこの山師っていうのも悪く、つまりヨーロッパの童話だとだいたい悪党だっていうふうに類型付けられるんですけど、そうはなってないんですね。で、その山師が、どうも俺の知識じゃ駄目だから、農業の知識じゃ駄目だから、お前は自由にしていいから、それで世話をすることもできないから自由にしていいから、お前は勉強しながら、働きながら勉強して今に立派な農業ができるような、そういう勉強をしろって言って放してくれるわけです。

 それでブドリはイーハトーヴっていうふうになってるわけですけど、街へ行って、それで学校へ入って勉強しようって。働きながら勉強しようと思う。そこでクーボー博士がやってる学校をやってるっていうことを知って、そこへ行くわけです。それはたぶん自分が晩年にやった羅須地人協会っていう、要するに肥料の設計をしながら自分も畑仕事をしてっていうような、そういう自分がやった羅須地人協会っていうのがモデルになってるんだと思いますけども、そこへ行くわけです。で、そしてクーボー博士に自分は働きながら勉強したいんだっていうふうに言うわけです。そうすると、それじゃあ俺が働くところを紹介してやろうって言って、クーボー博士っていうのが自分の友達のイーハトーヴの火山局に勤めてる技師を、ペンネンっていうんですけど、ペンネンナームっていうんですけど、それを紹介してくれるわけです。で、そこへ行って働けって。それで勉強しろっていうふうに言うわけ。それでそこへ行って、それで火山局に勤めながら火山の様子を知るように、イーハトーヴ地方の火山の様子を知るようになるわけですけども、それが伝記的な部分なんで、ブドリの伝記的な部分なんですけど。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000