https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_72.jsp【音を聞き、情景を見る】より
閑さや岩にしみ入蟬の声 芭蕉
山形の山寺(立石寺)での吟。「おくのほそ道」の名句の一つです。「蟬(せみ)の声」という音を詠んだ句ですが、この句を詠んだとき芭蕉はどうしていたのでしょうか。目をつぶって蟬の声だけを聞いていたのか。それとも蟬の声を聞きながら山寺の情景(たとえば「岩」)を見ていたのか。「岩にしみ入蟬の声」という表現のテンションの高さからすると、聴覚に意識を集中していたような感じがします。いっぽう、その場の清閑なたたずまいや岩がそそり立つ情景などは、主に視覚によって感得されるものです。
一般的に、音を詠んだ句であっても、句が成り立つ過程で聴覚以外の感覚が関与していることが多いと思われます。そんなことも考えながら、今回も音を詠んだ投稿句を見ていきましょう。
汽車の音は遠きになりて鳥帰る
春政さん(愛知県岡崎市、64歳)の作。走り去ってゆく汽車。汽笛だけでなく、蒸気機関車の機械音も「汽車の音」です。汽車の姿とともに音が遠ざかってゆく。ちょうどその頃、渡り鳥が遠い故郷に帰ってゆく。その姿もまた次第に遠ざかる。汽車や渡り鳥が遠ざかる光景は、おそらく10秒かそこらの出来事でしょう。しかし、この作品は広やかな時間と空間を感じさせます。
「遠きになり」は「遠くになり」あるいは「遠くなり」とほぼ同じ意味。この句の「遠き」は活用語の連体形を名詞のように用いた用例で、文語文法が正しく使われています。きっちり仕上がった作品です。とくに直すところはありません。ご参考までに、汽車と渡り鳥が同時並行的に遠ざかってゆく状況を強調するならば、次のような書き方もあります。
汽車の音は遠くなりつつ鳥帰る
情景を具体的に示す
その少女ひとりことこと新小豆
一寸雄町さん(茨城県つくば市、61歳)の作。新小豆(あずき)が秋の季語。「ことこと」は音の表現と解しました。収穫した小豆を棒で叩いて莢(さや)を取り除くのが「小豆打つ」。「小豆打つ向ふの婆は尚小さし 高野素十」という作例があります。農家のお婆さんたちが小豆を打つ作業をしている。小柄なお婆さんのその向うに、もっと小柄なお婆さんがいたのです。
「ひとりことこと新小豆」は、小豆を打つ音を「ことこと」と詠んだのかとも思いましたが、弱火で煮るときの「ことこと」かもしれません。「その少女」が「ひとりことこと」と行っている仕事が、豆の莢取りであっても面白いし、鍋で煮ていても面白い。どちらかはっきりわかるようにするには、次のように書けばよいと思います。
少女ひとりことことと煮る新小豆
少女ひとりことことと打つ新小豆
少女ひとりことこと叩く新小豆
文字数の制約のため「その」は消しましたが、「その少女」と書けば、そこにいるその少女だという気持ちが表れて句に深みが出ます。しかし、句意の分り易さの観点からは、小豆を「煮る」のか「打つ」のかを明示したほうがよいと思います。
「新小豆」という言葉からすると、すでに食品として流通している状態の豆かもしれません。しかし、あえて私の希望を申し上げるならば、農家の庭先で小学生くらいの女の子が、一人で黙々と小豆を叩いている情景を思い描いてみたいような気もするのです。
https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_73.jsp 【音ならぬ音を詠む】より
今回も「音」を詠んだ句に着目します。じっさいに耳に聞こえる音ばかりでなく、ときには、声ならぬ声、音ならぬ音を詠んだ作品があります。
我汗の流るゝ音の聞こゆなり 高濱虚子
「汗」は夏の季語。猛烈な暑さにじっと耐えている。汗がじわりと滲(にじ)み、たらたらと垂れる。その音が聞こえるかのようだ、というのです。
蝶々のもの食ふ音の静かさよ 高濱虚子
蝶(ちょう)は音もなく花の蜜を吸うものですが、この句は想像力を働かせ、蝶が静かな音を立てて何かを食べている、と詠みました。蝶は春の季語。のどかな春の日の静かさを伝える作品です。
日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり 松瀬青々
蝶と蝶が触れ合う音が聞こえるはずはないのですが、光に満ちて森閑とした日盛りにもつれ合うように二頭の蝶が飛ぶ様子が想像されます。
さきほど蝶は春の季語だと申しましたが、この句の場合「日盛り」が夏の季語です。蝶は夏もみかけます(「夏の蝶」という季語もあります)。よって、この句の蝶は夏の蝶だということになります。一句の中に二つの季語がある場合、その句の季節を決めているのはどちらの季語だろうかと考えながら鑑賞すればよいのです。
蝶墜おちて大音響の結氷期 富澤赤黄男
蝶と蝶が触れ合ったり、蝶がものを食べたり。さきほどの二句は蝶の発するかすかな音を詠みました。ところがこの句は「大音響」です。「結氷期」は湖沼が氷に閉ざされる冬。そもそもそんな季節に蝶が飛んでいるはずはないし、仮に、冬の蝶が力尽きて舞い降りたとしても音がするはずはありません。すべては幻想の中の出来事です。このような作品を荒唐無稽と捨て去る人もいるかもしれませんが、がんばってイメージをふくらませてみましょう。湖沼の水面は硬く氷っている。その硬い氷の上に物が落ちて来たならば、それが蝶であっても大きな衝撃音を発するに違いない。私はそのように鑑賞します。ときには、この蝶が怪獣のモスラのようにも思えますが……。
さて、以下は投稿句から、音なき音、声なき声を詠んだ作を拾ってみましょう。
切字(きれじ)の効果を生かす
二階から家や鳴りのこゑの冬夜中ふゆよなか
文室淳さん(千葉県、50歳)の作。「家鳴り」は妖怪の一種。文字通り家が鳴るのです。気のせいかもしれないし、何かの物音かもしれません。切字「や」を使って「こゑ」を強調してはどうでしょうか。
二階から家鳴りのこゑや冬夜中
寒星や耳から離れぬ母の声
長谷川玲子さん(東京都、68歳)の作。母の声が耳から離れない。母のその声が、その言葉が、作者の心の中にずっとあり続けているのです。「寒星」は寒々とした冬の星。作者は「寒星」という季語に気持ちを託しました。中七の字余りを直しましょう。
寒星や耳を離れぬ母の声
軟らかい言葉を選ぶ
クリスマスおりんの余韻壁に染む
太田穣さん(男鹿市、57歳)の作。りんを鳴らすと、その音が壁に染みるように感じられるのです。「壁に染む」は、世間のクリスマスとは関係なく、しみじみとお仏壇を拝む心持ちを詠んだものと鑑賞しました。「余韻」という言葉が硬いので直してみましょう。
壁に染むおりんの音やクリスマス
さきほどの「家鳴りのこゑや」と同様ですが、「音」に切字の「や」をつけると、「音」が強調されます。
https://ainess-library.com/11574/ 【内的エコロジー | Internal Ecology】より
内的エコロジーとは、自身の内側の調和のこと。
「内的エコロジーチェック」として、自身の内側の〈信念・価値観と行動〉が調和しているかをチェックする言葉として活用されます。
エコロジーチェック:調和を確認するプロセスのこと
内的エコロジーチェック:自分の中の調和を確認すること
外的エコロジーチェック:自分の外の調和を確認すること
エコロジーの〈概要〉
エコロジーかどうかは、自分が起こす変化がより広い範囲(システム全体)にどのように影響するかを確認することで判断されます。ミクロの視点/ある一部分の視点から見ると「よい変化」のように見えることが、マクロの視点/他視点から見てみると「問題」となることがあります。
薬の効果で痛みは治ったけれど、副作用がひどい
その場には合わせたけど、本当の自身の信念に合っていなくて自己嫌悪になる
仕事だけ頑張って家族が崩壊
自分の利得が他者の損失になる
バタフライエフェクト
変化の際に、予想する領域が適切でなかったり、十分広域でない場合、それによって起こる問題は変化の副作用としてブーメランのように戻ってきます。私たちの人生は複雑で、1つの変化が大きな波紋を広げます。変化の中には他と比べて小さな影響のものもあれば、大きなものもあります。エコロジーかどうかは、そういったさまざまな影響を考慮し、より広い範囲において調和するか確認する大切なプロセスです。
〈内的エコロジー〉の概要
内的エコロジーとは自身の内側の調和のこと。自身の内側の調和とは、具体的には
アイデンティティ 信念・価値観 能力 行動 環境 が調和している状態のことです。
私たちは社会というシステムの一員として存在しています。それと同じように私たち自身の内側にもさまざまな要素が存在しています。それらは有機的なシステムとして1つが変化すると他にも影響を及ぼします。
例えば、自身が大切にしていること(価値観)に対してそれに即した行動が取れなかったとき、私たちは不一致を感じ、葛藤や混乱が引き起こされます。また自身が信じること(信念)に対して、能力が追いついていないとき私たちは不一致のサインとしてフラストレーションを感じます。
内的エコロジーチェックとは、自分の中での一致/不一致の感覚をチェックすることです。不一致を認識し「環境を変える」ことで一致に向かうこともあるかもしれません。不一致を認識することで「能力を高めよう」と行動の原動力となる場合もあるでしょう。
もっとも広範囲で見た時に「内的に調和しているか?」を自分自身に問う必要があります。そしてそれは一致/不一致の感覚によって示されます。そのため自身の感覚の鋭敏性を高めることは内的調和をはかる上でとても大切です。
〈内的エコロジー〉と健康
自身の内側の調和は2つの側面からみることができます。それは身体を通しての調和と、心を通しての調和です。いずれも一致/不一致の最初のサインはフィーリングから訪れます。そこで意識化されないと、現象(不調、出来事)になってあらわれます。
肉体的エコロジー:身体の健康。つまりは心と身体の調和のこと。
一致/不一致のサイン:フィーリング→身体の不調にあらわれる
精神的エコロジー:精神の健康。つまりは信念・価値観と行動の調和のこと。
一致/不一致のサイン:フィーリング→人間関係、出来事、身体や体調にあらわれる
〈内的エコロジー〉と精神的エコロジー
自身の内側の調和の〈精神的エコロジー〉を、より詳しく分解すると5つの階層に分けて考えることが可能です。この5つの階層が調和しているとき、私たちはとてもパワフルで、自分自身に一貫性があり、全身全霊で動くことができます。
反対にこの5つの階層のどこかに、内心気になること、引き留めるもの、疑念や不安、不信感があるとき、自分の中に不一致が生じているというサインです。すると100%の力で前進しようとするのを自らが阻止する働きが起こります。
〈内的エコロジー〉と質問
より広範に捉えた時、この行動はどう影響していくだろう?
この変化を選択すると、私は何を手に入れ、何を失うだろう?
私はさらに何をやらなければならないだろうか?それに価値はあるだろうか?
この変化を起こすことの代償は何だろう?私はそれを望んで支払うかな?
現在の状態の〈よい側面〉はなんだろう?望んでいる変化を起こしながら、それらの良い側面をどのように維持できるだろう?人生の信念・価値観と合っているかな?価値観の優先順位と合っているかな?
〈内的エコロジー〉と一致/不一致
内的エコロジーには一致と不一致の状態があります。
一致と不一致は白か黒かで判定するものではなく、グラデーションです。私たちが完全に一致している状態というのはほとんどありません。また不一致が「悪い」わけでもありません。不一致は一致の状態に気づくことと同じように、とても重要なサインであり、価値のある情報です。
https://www.amorc.jp/emerson-and-transcendentalism/ 【エマーソンと超越主義(transcendentalism)-活力に満ちた人生観】より
ジェフ・コティス(Jeff Cottis)
『自然について』の冒頭で、エマーソンは自然を真に観察し、そこから学ぶために必要な態度について論じている
ラルフ・ウォルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803-1882)は哲学者、作家、詩人、講演家、神秘家であり、19世紀半ばに出現したアメリカの新しい思想の代表者とも言える人物でした。彼が語りかけたのは、明らかに同時代の人たちに向けてですが、彼の言葉は、現代の私たちの心にもはっきりと響きます。彼の時代からは激しく変化した現在の世界でも、彼の考え方や見解は当時と同じように重要です。エマーソンは、20世紀を通じてアメリカ人の中で最も頻繁に著作を引用された人物のひとりであり、彼の本は多くの言語に翻訳されています。彼の哲学は広く尊敬を集め、彼の考え方は今もなお、世界中で常に議論される人気のテーマになっています。
エマーソンは、ニューイングランド(米国北東部)の超越主義(transcendentalism)を代表する人物でした。この思想が特に強調しているのは、万物の根底にある統一性、人間が生来持っている善良さ、経験を超越した深遠な真実に達するための直観と、そして人間個人の心の奥にある可能性です。超越主義は、ヨーロッパと東洋の哲学の両方の考え方を取り入れていますが、その発祥地は、勤勉なことで知られるアメリカのニューイングランド地域であり、ここには、伝統的な思想からの脱却を試みる同世代の知識人が数多く集まっていました。
超越主義の人生観は、特にアメリカらしいものだと言えます。実用的で、開放的で、楽観的で、活力に満ちているからです。また多くの人を勇気づけて、疑問を抱き、自分自身のために考え、健全な個性を追求することを促していました。エマーソンの精神の一部は、「簡素な暮らしと高度な思索」という言葉で把握することができるかもしれません。ヘンリー・ソロー、ウォルト・ホイットマン、ナサニエル・ホーソーン、マーガレット・フラー、ブロンソン・オルコット、セオドア・パーカーは、超越主義の運動に参加していたか、あるいは超越主義の人たちと密接な交流がありました。
エマーソンは個人の可能性を深く信頼していました。彼は、著作や講演を通してこの考えを強調しています。個人の可能性という観念の中心にあったのは、彼が「オーバーソウル」(Over-Soul:大霊もしくは普遍的な魂)と呼んでいた概念で、すべての人がその一部分である神的な存在のことです。このオーバーソウルという観点から見ると、社会的な区別や階級などといったものは存在しなくなります。なぜならすべての人は、偉大で平等なこの魂を共有しているからです。すべての人は人生という同じ道を歩んでいる兄弟姉妹であり、すべての人が偉大な可能性を共有しています。自己の最も高貴な働きである直観、すなわち「まだ小さな内なる声」は、オーバーソウルという偉大な魂の働きです。そしてそれぞれの人は、自分自身の中に存在するオーバーソウルとの調和した共感関係を築くことによって、自己と宇宙の高度な理解に達することができるようになります。
しかし人間は、疑問に思ったり深く考えたりすることなく、他人の考えを受け入れてしまうことで心を制限され、そのために進歩を阻まれてしまいます。内なる声に耳を傾ける代わりに、自分が持つ表面的な気質に振り回され、自分自身を押さえつけ、何を考えどのように生きるかということについて、他人の意見に従ってしまうことがあまりにも多いのです。エマーソンは、この世界で唯一価値のあるものは、自発的な魂であると考えていました。彼は、内なる存在との共感関係(rapport)を築き、自分自身で考えることを勧めています。エマーソンの言葉を直接引用してみましょう。
「詩人とか賢者の世界の輝きよりも、内なる心を通してきらめく光の輝きを見いだして注目することを、人は習得すべきである。にもかかわらず、自分の思考が自分のものであるがゆえに、人はそれを無視する。天才たちの功績のすべてに、我々は、自分が無視して破棄した思考を見いだすことができる。我々が破棄したものは、自分のものではなくなった威厳とともに、我々のところへ戻ってくる。このことこそが、偉大な芸術が与えてくれる、最も感動的な教えである。このことは、自然にわき上がってくる内なる声に従うことを我々に教える。内なる声に反対する声が大きければ大きいほど、なおさら聞き入れるべきだ。さもなければ、自分が常に思考し感じていたことを、明日には見知らぬ人が良き知恵として巧みに我々に語るであろう。そして我々は、自分自身の意見を、恥かしさとともに他人から受け取ることを強いられるであろう。」(*1)
エマーソンは生涯を通して、深遠な真実をより完璧に理解することを探究しました。超越主義を代表する哲学者であるエマーソンは、人間が生来持っている善良さ、心の奥にある潜在能力、自己と宇宙に関する高度な真実を探究する自発的な魂を深く信頼していました。人間の本質は、肉体の中にある魂であるとエマーソンは考え、個々の人が内なる自己、つまり自身の心の深奥にある性質とより深く同調することを勧めました。深遠な英知は、自身の内なる自己(魂)との交流を通じてもたらされます。自己と宇宙を理解する探究において、自然界は偉大な教師であり、私たち一人一人の内なる自己を目覚めさせてくれ、人生と自身の可能性と魂のたどる命運について教えてくれるとエマーソンは考えていました。ほとんどの人が外面的な世界だけで生きることを選んでおり、自分の考えが及ぶ世界だけで生きているため、自己と宇宙を理解しようとすることは孤独な探究です。
当時の保守的な宗教思想に異議を唱えた『自然について』(Nature、1836年)という小さな作品の中で、エマーソンは、自然界が人間に与えるさまざまなレベルの指示についての個人的な経験と理解を、抒情的な散文で表現しています。エマーソンのその後の著作のほとんどは、この小さな作品に書かれた基本的な考え方を反映しています。
『自然について』の冒頭で、エマーソンは自然を真に観察し、そこから学ぶために必要な態度について論じています。
「太陽は大人の場合にはただ目を照らすだけだが、子どもの場合には目と心の中に輝く。自然を愛する人とは、内的な感覚と外的な感覚が今もなお互いに真に調和している人であり、幼いころの精神を大人になっても持ち続けている人である。彼が天や地と行う交流は日々の糧の一部になり、悲しいできごとがあっても、自然の前では、生き生きとした喜びが全身を駆け巡る。」(*2)
自然によって私たちは観察することを促されます。私たちは観察しているとき、推論、思索、夢想、創造という能力を用いています。
「理性という高いレベルの働きが介在するようになるまでは、動物の目は、素晴らしい正確さで、くっきりとした輪郭や色のついた物の表面を見ていた。理性という目が開くと、輪郭と表面に美しさと表情が加わる。これらは想像力と愛情から生じる。(中略)より熱心に観察するように理性が刺激されると、輪郭と表面は透明になり、もはや見えなくなり、原因や本質が透けて見えるようになる。人生の最高の瞬間は、このような高度な能力が心地よく目覚めるときであり、畏敬の念とともに自然が、その創造者を前にして姿を控えるときである。」(*2)
人間は思考によって自分自身の世界を創造すると、エマーソンは考えていました。私たちは自然を観察することによって教えられ導かれていますが、私たちが自分の心の中で創造する世界が、私たちが住んでいる世界です。一人一人が創造的な心を通して、「美しい顔、温かい心、思慮分別のある言葉、英雄的な行為」を引き寄せます。美しさと真実というより良い世界を求めて、人間は形あるものと形なきものを創造しています。芸術家は美を探求し、哲学者は真実を探求します。しかし、その目的はまったく同じです。
「真の哲学者と真の詩人は一体である。そして、真実である美と美である真実が、両者の目的である。」(*2)
エマーソンは人々に最高の理想を目指すことを勧めました。「自然の目的に向かって」と彼は説明していました。
「あらゆる精霊は自ら家を建て、その家の向こうに世界を築き、その世界の向こうに天国を作る。それゆえ、世界はあなたのために存在していることを知りなさい。あなたにとって、すべての現象は完璧である。それゆえ、あなた自身の世界を築きなさい。できるだけ早く、あなたの心の中にある純粋な考えに、あなたの人生を従わせなさい。そうすれば、あなたの人生の偉大な調和が開花する。その開花に相応する革命がものごとに生じ、聖霊の流入がそれに伴う。」(*2)
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