4.鯨 ―日本の古式捕鯨と図説―

https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2011/kujira.html 【4.鯨 ―日本の古式捕鯨と図説―】より

 日本における鯨類の利用(食用・鯨骨製品)は、縄文時代から既にあったとされている。日本列島の各地でその痕跡が発掘され、考古学的にも定説化している。ただし捕鯨の始まりについては、諸説あり未だ定まってはいないといえる。

 古代から中世にかけては、死んで浜に打ち上げられた鯨や、座礁や湾内に迷い込んだ鯨を捕獲したり、小型の鯨類を弓矢や網、銛、銛に綱をつけた道具を使って狩猟していたと考えられている。  近世になると「突取捕鯨」(銛のみ使用)、それに続く「網掛突取捕鯨」(銛と網の併用)といった狩猟技術の進歩により、中型・大型の鯨類の捕獲が可能となってきた。それに伴い「刺手組」・「鯨組」といった捕鯨専門集団による組織的な捕鯨が、紀州太地浦に始まり、土佐室戸の津呂、肥前の大村へと伝播し、全国に普及していった。このため、〝産業〟としての捕鯨が成立した時期は、概ね16世紀から17世紀初め頃と考えられている。

 鯨や捕鯨に関する最初期の文書は、17世紀末の「見聞録」や「本草物」に断片的な記述を見ることができる。食物本草の『本朝食鑑』(小野必大 元禄八年(1695))や、日本の本草学の草分けとも云える貝原益軒の『大和本草』(宝永五年(1708))などに鯨に関する項目がみられる。異色なものでは、井原西鶴『日本永代蔵』(貞享五年(1688))の〝天狗は家名の風車〟に、紀の路大湊泰地の捕鯨の話があり、我が国初の工場制手工業といえる捕鯨産業の工程がほぼ正確に描写されている。

 18世紀に入る頃から鯨の専門書といえる文書が登場してくる。現在のところ最も古い専門書とされているのは、『西海鯨鯢記』(谷村友三 享保五年(1720))で、それに続くのが『鯨志』(楫取屋次右衛門 宝暦十年(1760))となっている。初めての捕鯨史といわれていた『鯨記』(明和元年(1764)頃?)は、『西海鯨鯢記』の写本であることが判明している。また仙台藩儒学者大槻清準による『鯨史稿』(文化五年(1808))は全六巻からなり、捕鯨百科全書ともいえる内容で江戸鯨学の集大成といわれている。

 鯨の専門書とともに図説も、捕鯨を見た者や鯨組主などの捕鯨に直接携わる者によって多く描かれた。唐津藩士木崎攸軒によって制作された『小児乃弄鯨一件の巻』(安永二年(1773))は、肥前小川島の鯨組の様子を操業の順を追って描いている。その構成は、漁場、鯨の発見と伝達、道具、組織、鯨取の場面、納屋場、鯨の種類・部位、捌き方、利用法、儀礼としての羽差踊といった内容で、以後の鯨図説構成の基本となった。

 さらに、肥前柏浦・黄島の鯨組主 生島仁左衛門の手による『鯨絵巻(鯨魚覧笑録)』(寛政八年(1796)頃)は、納屋場の詳しい作業風景や、捕鯨準備作業の様子が追加されている。この二つの絵巻をもとに様々な転写が繰り返され、捕鯨が盛んだった地域に残っている。現存する図説は、同名異本、異名同本と様々で、典拠記述もなく複雑である。江戸期における博物図譜の特徴である転写の連続は鯨図説にも顕著に表れている。

 捕鯨産業の絶頂期にあった天保三年(1832)に版行された『勇魚取絵詞』(上・下巻と「鯨肉調味方」の3冊1組)は、単に肥前生月島の捕鯨手引書にとどまらず、また出版にいたる経緯にも、江戸文化成熟期の様子が窺える。即ち情報の収集、提供は生月島の捕鯨を見学に訪れる文人たちと交流のあった鯨組主益富又左衛門が行い、文章は江戸の国学者小川與清が執筆、そして出版事業に並々ならぬ情熱を注いだ平戸藩主松浦熙が関与して江戸で刷られたというものである。  以後、鯨に関する資料は明治期の出版へと引き継がれていく。

 旧蔵者田中芳男氏の識語によれば、もとの一幅を二帖に分けた、木崎攸軒の『小児乃弄鯨一件の巻』と同物であるが〝序〟と〝羽差踊〟が巻末に移されている、柳南の補説があるといったことが記してある。

 おそらく氏が巻子を上・下2巻の折本に製本し直したと思われる。たしかに、木崎攸軒の捕鯨図と比べると、序文と羽差踊の場面は巻末に移動しており、他に〝男鯨〟〝女鯨〟の「開ノ元」の場面が欠落している。

 編者柳南自身が補遺として加えている鯨群の絵と解説の、原本は不明である。  世美、長須などの鯨のほかに、シャチ、イルカ、サメ、エイなども描かれていることから、おそらくは紀州の捕鯨図と思われる。

 本書には以下の添書き(旧蔵者田中芳男氏によるものか)が付されている。  「紀州熊野浦漁師太地角右衛門所蔵の原本へ享保二十年大原重株が寫したるもの熊野浦で捕獲される鯨群を記している」

 太地家は、「網掛突取捕鯨」技術の創案によって太地浦の捕鯨発展に大きく貢献した和田頼治が興した家である(井原西鶴『日本永代蔵』〝天狗は家名の風車〟で紹介された天狗源内も、彼がモデルと言われている)。頼治が使用した通称「角右衛門」はその後代々襲名されており、本書も幾代かの角右衛門によって所蔵されたのであろう。資料には捕鯨具3種と、11種の鯨が解説と共に描かれている。

 本書は、一帖の中に内容・紙質が異なる三種の資料が見られる。また資料の継ぎ目には、それぞれ旧蔵者田中芳男氏の筆とみられる付箋があることから、恐らく巻子などの体裁で別々に存在した以下1~3の資料を氏が合冊し折本として製本したものと思われるが、資料相互の関係性は不明である。

1.末尾に「享保八年卯年御尋に付紀州熊野浦二分口役所において吟味之上書指上げ候魚之図 干時享保十五歳戌初夏写之」との識語があるため、これが折本の題箋が指す『紀州熊野浦諸鯨之圖』に相当すると思われる。資料には鯨のほか、サメ、イルカ、マンボウまで紹介されている。このように魚の種類が多岐にわたるのは、江戸期の紀州の捕鯨図にみられる特徴でもあるようだ。

2.「以下は製装の際、加ふるものなり。明治十五年十二月」という氏の付箋に続き、エイが2点描かれている。末尾には「文政元年初秋三日伊嶋漁夫網海獲之」と読める識語が見える。

3.「以下捕鯨 無記名の一巻なりし」との付箋に続き、捕鯨の様子が描かれている。巨大な鯨と対峙する漁夫達の姿は勇壮である。

参考文献(4.鯨)

・福本和夫著『日本捕鯨史話』法政大学出版局 1960

・森田勝昭著『鯨と捕鯨の文化史』名古屋大学出版会 1994

・中園成生、安永浩著『鯨取り絵物語』弦書房 2009

・森弘子、宮崎克則著「文化5年、大槻清準『鯨志稿』成立の政治的背景」(『西南学院大学国際文化論集』25(2)、53-82 西南学院大学学術研究所 2011)

・森弘子、宮崎克則著「天保3年『勇魚取絵詞』版行の背景」(『九州大学総合研究博物館研究報告』No.8 1-16 2010)

・人見必大著、島田勇雄訳注『本朝食鑑』(東洋文庫)平凡社 1976-1981

・貝原益軒著、益軒会編『益軒全集』巻之6 益軒全集刊行部 1910-1911

・『西海鯨鯢記』(平戸市の文化財 11)平戸市教育委員会 1980

・『農業・製造業・漁業』(日本科学古典全書/三枝博音編;復刻 6)朝日新聞社 1978[山瀬春政著『鯨志』所収]

・[井原西鶴著]谷脇理史、神保五彌、暉峻康隆校注・訳、『日本永代蔵;万の文反古;世間胸算用;西鶴置土産』(新編日本古典文学全集68 井原西鶴集3)小学館 1996

・大槻清準[著]『鯨史稿』(江戸科学古典叢書2)恒和出版 1976

・宮本常一、原口虎雄、長谷川健一編『農山漁民生活』(日本庶民生活史料集成 第10巻)三一書房 1970 [『勇魚取絵詞』、『肥前州物産圖考(小児乃弄鯨一件の巻)』所収]

・山田慶兒編『東アジアの本草と博物学の世界』上・下 思文閣出版 1995

・朝日新聞社編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社 1994

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