季語が蜻蛉の句

季語が蜻蛉の句 より

 赤とんぼ死近き人を囲み行く

                           永田耕衣

抒情的な作品とも読めるが、そうではないだろう。むしろ私には、不吉な幻想光景のように思える。「死近き人」とは必ずしも老人のことではなくて、幼い子供と読むことも可能だ。いずれにしても、作者はその人の死の間近さを直覚したのであり、その人はなにも知らずに赤とんぼの群れ飛ぶ道を歩いている。空は大きな夕焼けだ。つげ義春の漫画の一場面にでも出てきそうなコワーい句である。永田耕衣は今年96歳の現役俳人。阪神大震災で家が全壊するという不幸に見舞われた。最近作に「枯草や住居(すまい)無くんば命熱し」がある。『冷位』所収。(清水哲男)

 小坊主と酒買ニ行くとんぼ哉

                           中村掬斗

失われた情景。そして哀歓。いまでは、未成年者には酒を売ってくれない。作者は医を業とした「一茶十哲」のひとりである。といっても、「芭蕉十哲」はつとに有名であるが、「一茶十哲」とは、はてな。手元の栗山純夫編『一茶十哲句集』(信濃郷土誌出版社・昭和17年)によれば、村松春甫という人が「かの蕪村描くところの芭蕉十哲に擬して十人の肖像を描き、それに各自が賛をした」一幅があるのだそうな。ただ間抜けなことに、このなかには先生の一茶自身も含まれているという。たった八十ページのこの本は、いろいろな意味で面白い(昔から、千曲川をはさんで東西の人々は仲が悪いだとか……)が、こういう世界に素人がハマッてしまうと抜け出せなくなりそう。(清水哲男)

 ためらってまた矢のごとき蜻蛉かな

                           小沢信男

蜻蛉は「あきつ」と読ませる。そのほうが「矢」に照応するからである。この句、実に巧みに蜻蛉(とんぼ)の生態をとらえていて、しばし「うーむ」と唸ってしまった。こうした一瞬の蜻蛉の姿を誰それの人生になぞらえることもできそうだが、この場合には、私は素直にこのまま受け取るほうを選ぶ。小沢信男は作家にして、わが「余白句会」の宗匠的存在。俳風は軽妙洒脱、反骨精神旺盛である。俳号は「巷児」と、いかにも谷中の住人にふさわしい。(清水哲男)

 千編を一律に飛ぶ蜻蛉かな

                           河東碧梧桐

ちなみに「千篇一律」の原意は「多くの詩がどれも同じ調子で変化のない」こと。転じて、多くの物事がみな同じ調子なので面白みがない様子をさす(作者は「千編」と書いているが意味は同一)。なるほど、蜻蛉の飛ぶ様子はみな同じ調子で面白いとは言えない。飽かずに眺めるというものとは違う。碧梧桐は正岡子規の近代俳句革新運動の、より改革的な側面を担った。子規の提唱した視覚的写生を、より実験的に立体的に展開することに腐心した。後に門流からは「新傾向俳句」が勃興してくる。つまり、彼は俳句表現に常に新しさを求め続けた人である。その意味では、この句も当時にあっては相当に新しい手法で作られたものだ。機智に富んだ方法である。が、いま読んでみると、どこか物たりなさが感じられる。「言いえて妙」と膝を打つわけにはいかないのだ。はっきり言って、古い。それは「千篇一律」という古い言葉のせいではなくて、「千篇一律」をこのように使ってみせたセンスが古いのだ。多くの碧梧桐の句にはこの種の古さが感じられ、それは「新傾向俳句」にもつながる古さである。この人の句を読むたびに、時代の新しい表現とは何かを考えさせられる。新しさは「千篇一律」の温床でもある。『碧梧桐全句集』(1992)所収。(清水哲男)

 赤とんぼとまつてゐるよ竿の先

                           三木露風

あれっ、どこかで見たような……。そうです。三木露風の有名な童謡「赤とんぼ」の一節です。しかし、これは童謡が書かれるずっと以前、露風が十三歳のときの独立した俳句作品なのです。そういう目で読むと、やはりどこか幼い句のようにも思えます。が、もはやこの句を童謡と切り離して読むことは、誰にも不可能でしょう。純粋に俳句として読もうとしても、いつしかかの有名なメロディーが頭の中で鳴りだしてしまうからです。露風ならずとも、このように子供の頃のモチーフを大人になってから繰り返して採用した事例は多く、その意味では子供時代の発想も馬鹿になりません。ところで、童謡「赤とんぼ」の初出は大正十年(1921)八月の童謡雑誌「樫の実」です。露風、三十二歳。現在うたわれているものとは歌詞が少しちがっていて、たとえば「夕焼、小焼の、/山の空、/負はれて見たのは、/まぼろしか」というものでした。この秋、露風が後半生を過ごした三鷹市で、大展覧会が開かれます。晩年に書いた風刺詩が初公開されるそうで、楽しみです。(清水哲男)

 対岸は輝きにけり鬼やんま

                           沼尻巳津子

対岸が輝いているのは、そちら側に夕日がさしているからだ。川岸に立つ作者の目の前を、ときおり大きな鬼やんまが凄いスピードで飛んでいく。吹く風も心地好い秋の夕暮れだ。心身ともにコンディションがよくないと、こうした句は生まれない。それにしても、「鬼やんま」とは懐しい。最近はめっきり少なくなったようで、最後に見かけたのはいつごろだったろうか。もう、四半世紀以上も見たことがないような気がする。昔の子供としては、当然「蜻蛉釣り」にうつつを抜かした時期があり、「鬼やんま」をつかまえるのが最も難しかった。なにしろ、飛ぶ速度が早い。尋常のスピードではない。だから、まず捕虫網などでは無理だった。太い糸の両端に小石を結びつけ、こいつを「鬼やんま」の進路に見当をつけて投げ上げる。うまくからみつけば、さしもの「鬼やんま」もばたりと落ちてくる寸法だ。熟練しないと、なかなかそうは問屋がおろさない。小さい子には無理な技であった。句が作られたのは、四半世紀ほど前のことらしい。東京の人だから、その当時の東京にも、いる所にはいたということだ。『華彌撒』(1983)所収。(清水哲男)

 とんぼ連れて味方あつまる山の国

                           阿部完市

敵味方に分かれての遊び。学校から戻ってくると、飽きもせずに毎日繰り返す。だが、子供にも事情というものはあるから、互いのメンバーがいっせいに揃うということはない。適当な人数が集まったところで、試合開始だ。敵味方は、いつも通りの組み合わせ。片方が少ないからといって、相手から戦力を借りるようなことはしない。それでは、気持ちが「戦い」にならない。非力劣勢はわかっていても、堂々と戦うのだ。男の子の侠気である。多勢に無勢、苦戦していると、遠くの方から一人、また一人と「味方」が駆けてきた。集まってきた。このときの嬉しさったら、ない。そんなに上手な子ではなくても、百万の「味方」を得たような気分になる。周辺に飛んでいる「とんぼ」までをも、その子が「味方」に連れてきたように感じたということ。「山の国」の日暮れは早い。さあ、ドンマイ、ドンマイ、挽回だ。私が子供だったころの子供の事情の多くは、宿題や勉強にはなかった。仕事だった。子守りや炊事に洗濯、水汲みに風呂わかし、家畜の世話など、農家の子供は仕事を終えてからでないと遊べなかった。農家に限らず、日本中で子供が働いていた時代が確かにあった。掲句は、そうした時代背景を知らないと、よく理解できないかもしれない。『絵本の空』所収。(清水哲男)

 赤とんぼまだ日の残る左中間

                           上谷昌憲

この季節の野球場。ナイト・ゲームは、午後六時開始。カクテル光線と沈みゆく夕日の光りとが入り交じったグラウンドの場景は、夢のように美しい。作者は、まだ残る「左中間」の自然光の明るさのなかに「赤とんぼ」を認めて、和田誠流に言えば「お楽しみはこれからだ」と、もう一度座り直したところだろうか。野球を素材にした俳句は数あれど、球場の心地よい雰囲気を詠んだ句には、はじめて出会った。神宮だろうか、横浜だろうか。いいなあ、行きたいなあと思ってしまう。エポック社の野球ゲーム盤みたいなドーム球場では、絶対に味わえない雰囲気だ。「赤とんぼ」も含めての野球なのである。その昔、ある雑誌の企画で川本三郎さんと「全国球場めぐり」をしたことがある。もったいなくもゲームはそっちのけで、あくまでも「球場」が取材対象だった。なかで印象深かったのは、広島球場と名古屋球場、それに西宮球場だ。広島では応援団の絶妙なユーモアに舌を巻き、名古屋では売られている食べ物の種類の豊富さに驚いた。西宮では、まさに掲句の感じ。思えば「阪急ブレーブス」(現在の「オリックス」)に、落日の兆しがほの見えていた頃である。あのころの球場には「赤とんぼ」も飛んでいたし、蝶も舞っていた。日本シリーズで、巨人・牧野三塁コーチャーに戯れるように舞っていた秋の蝶よ、後楽園球場よ。懐しい日々。「俳句界」(2000年9月号)所載。(清水哲男)

 赤とんぼじっとしたまま明日どうする

                           渥美 清

三木露風の童謡「赤とんぼ」を思い出す。三番の結び。「……、とまっているよ、竿の先」。掲句の作者も見ているように、よく赤とんぼ(だけではないけれど)は、秋の日に羽を光らせて「じっとしたまま」でいることがある。休息しているのだろうか。が、鳥のように羽をたたまずにピーンと張ったままなので、緊張して何か思案でもしいるような姿に写る。露風の詩はここまでで止めている(この詩が、露風十代の俳句を下敷きにしていることは以前に書いた)が、掲句はもう一歩踏みだしている。お前、明日はどうするんだい。そう言ってはナンだが、何かアテでもあるのかい。この優しい呼びかけは、もとより自身への呼びかけである。お互いに、風に吹かれて流れていく身なのだからさ。と、赤とんぼを相棒扱いにして呼びかけたところに、露風とはまた違う生活感のある人間臭い抒情味が出た。作者は、ご存知松竹映画「『男はつらいよ』シリーズ」で人気のあった寅さんだ。いや、寅さんを演じた役者だ。渥美清は、俳号を「風天」と称していた。「フーテンの寅」に発している。掲句は朝日新聞社発行の雑誌「アエラ」に縁のある人々の「アエラ句会」で披露された45句のうちの一句。熱心で、句会には皆勤に近かったと、亡くなった後の「アエラ」に出ている。このことを知ると、どうしても「寅さん」が詠んだ句だと映画に重ね合わせて読んでしまう。止むを得ないところだが、しかし、そういうことを離れて句は素晴らしい。「どうする」の口語調が、とりわけて利いている。この秋の赤とんぼの季節も、そろそろおしまいだ。「明日どうする」。どうしようか。「アエラ」(1996年8月19日号)所載。(清水哲男)

 恋遠しきりりと白き帯とんぼ

                           的野 雄

季語は「とんぼ(蜻蛉)」で秋だが、実際の「とんぼ」ではなくて、絽などの帯に織り込まれたそれだと思う。白地に、かすかにとんぼの姿が浮き出ていて、どちらかといえば夏用の帯だろう。つまり、秋の涼しさを先取りした図柄ということに。もっとも、これは二十代の終りの頃、生活のために手伝った『和装小辞典』(池田書店)のためのニワカ勉強で得た知識からの類推なので、アテにはなりません。句の眼目は、そんな詮索にあるのではなく、「きりりと」の措辞にある。遠い恋、淡い恋。句集で作者の年代を見ると、私より七歳年長だ。そうすると、敗戦時には中学生か。となれば、戦後の和装どころではない時代に「とんぼ」の帯を見たのではなく、もう少し低年齢での思い出ということにならざるを得ない。「恋」というよりも、甘美なあこがれに近い心情の世界だ。近所の友だちのお姉さんか誰か、いずれにしても対象は身近な年上のひとだ。とんぼの帯を「きりりと」締めていた様子が忘れられなくて、いつもこの季節になると、切なくも甘酸っぱく思い返されるのである。「きりりと」とは、近寄りがたい雰囲気をあらわしていながら、だからこそ逆に近寄りたいという気持ちを誘発させられる。思春期のトバ口にあった頃の男の子の想いは、掲句のようにいつまでも残ってしまう。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)

 帰郷われに拳をあづけ芋掘る父

                           栗林千津

季語は「芋」で秋。俳句では馬鈴薯や甘藷ではなく、里芋のことを言う。句の眼目は「拳あづけて」にあり、実際に拳をあずけて(手をつないで)芋を掘れるわけはないから、「拳」は比喩だ。子供のころにいたずらをしたときなど、すぐに飛んできた父の拳骨。本当に恐かった拳骨。いまにして思えば、それは父の若さの象徴であり、一家を支える活力の源のようなものであった。その若かったときの力をいま、老いた父は作者にあずけるようにして、うずくまり黙々と芋を掘っている。たぶん夕食にでも、娘に食べさせるためなのだろう。久しぶりに帰郷してなんとなく若やいだ気分になっていた作者は、そんな父の姿を認めることで、経てきた歳月の長さを思い知らされているのだ。情け容赦なく、現実の時間は過ぎてゆく……。同じ作者の同じ句集に「鬼やんま父の脾腹を食はんとす」もある。まことに「鬼やんま」は、人に突っかかるように凄いスピードで飛んでくる。父をめがけるようにして飛んできた瞬間に、作者は「あっ、食われる」と直感的に反応したのだった。「脾腹(ひばら)」はわき腹のこと。わき腹が無防備に見えるということもまた、その人の老いをよく示しているだろう。若ければ、わき腹など造作なくガードできるからだ。この句は鬼やんまの獰猛とも言える生態を借りながら、実は老いたる父の弱ってきた様子を一えぐりに提出している。『湖心』(1993)所収。(清水哲男)

 鬼やんまとんぼ返りをして去りぬ

                           田代青山

季語は「やんま」で秋。「蜻蛉(とんぼ)」に分類。蜻蛉のなかでも、近年とくに見かけなくなったのが「(鬼)やんま」だ。全国的な都市化、環境破壊のせいである。たまに見かけると、「おっ」ではなく「おおっ」と思う。掲句にはまた別の意味で「おおっ」と思った。「とんぼ返り」といえば歌舞伎でのそれを指したり、「♪とんぼ返りで今年も暮れた」などと用いる。むろん誰もがこの言葉が蜻蛉の生態から来ていることは知っていようが、普通にはこれら比喩的な表現のほうが主となっていて、もはや本家のほうは忘れられているに等しい。「とんぼ返り」と聞いて、蜻蛉の姿を思い浮かべることはないのである。ところが作者はこれを逆手に取って、蜻蛉(鬼やんま)そのものにとんぼ返りをさせている。つまり、言葉の本義をそっくり元通りに再現してみせたわけだ。当たり前じゃないか、などと鼻白むなかれ。当たり前は当たり前だとしても、実際にこうして本物のとんぼ返りを確認したときに、ふっと湧いてくる新鮮な心持ちのほうに入り込んで読むべきだろう。そしてまた、当たり前が見事に当たり前であるときに感じる可笑しさのほうにも……。あっけらかんとした詠みぶりも良い。鬼やんまの生態に、ぴしゃりと適っている。『人魚』(1998)所収。(清水哲男)


 姫君の鎧の胸に銀やんま

                           佐藤博重

語は「やんま」、代表格が「銀やんま」で海上を飛ぶ性質を持つ。秋の「蜻蛉」に分類。現存する女性用の「鎧(よろい)」といえば、瀬戸内海の中央に浮かぶ大三島の大山祇神社に保存されているのが唯一のものだ。見られるように、胸の辺りがふっくらとしていてウエストは細い。掲句は、この鎧を実見した際のものである。鎧を着用していたのは、瀬戸内のジャンヌダルクと称される鶴姫だ。時は16世紀室町期。周防の大内義隆の水軍が、大三島神社の宗教的権威を手に入れようと攻め込んできた。迎え撃った三島水軍の大将大祝安房は、激戦の果てに討ち死にしてしまう。そこで安房の妹である鶴姫が、兄に代わって三島水軍を率いることに。当時十六歳の彼女は勇猛果敢に戦い、二度にわたって敵を打ち破った。だが、三度目の戦いで恋人である城代の越智安成が戦死。その悲しい知らせを受けた鶴姫は、ひとり夜の海へと船を漕ぎだしていき、二度と島に帰ることはなかったという。作者はこの伝説と鎧から実際に鶴姫の勇姿を連想し、胸元についと銀やんまをかすめさせた。このときに銀やんまは光の矢であるから、鶴姫の女性性はいやが上にも強調され、にもかかわらず男に伍して一歩も退かない凛とした姿も浮かび上がってくるのだ。ただ句とは無関係だが、たいていの伝説の主人公がそうであるように、どうやら鶴姫は創作上の人物らしい。だとしたら、鎧の本当の持ち主は誰だったのだろう。『初蝶』(2005)所収。(清水哲男)

 赤とんぼ洗濯物の空がある

                           岡田順子

蜻蛉には澄んだ空が似合う。糸蜻蛉、蜻蛉生る、などは夏季だが、赤蜻蛉も含めて、ただ蜻蛉といえば秋の季題となっている。ベランダで洗濯物を干していると、赤とんぼがつつととんでいる。東京では、流れるように群れ飛ぶことはあまり無い、ほんの数匹。空は晴れ上がり、風が気持よく、あら、赤とんぼ、と句ができる。「洗濯物の空がある」は、赤とんぼから生まれてこその、力の抜けた実感であり、白い洗濯物、青い空、赤とんぼが、ひとつの風景となって鮮やかに見える。爽やかな印象だが、爽やかや、では、洗濯物はただぶら下がっているばかりだろう。句には一文が添えられており、故郷鳥取で続けてきた句会の様子が語られている。農家の人達が、忙しい農事の合間に、公民館で月一回行っていた句会は、作者が東京に移り住んだ今も続いているという。歳時記の原点は農暦(のうごよみ)であり、俳句は鉛筆一本紙一枚あればだれでもいつでもどこでもできる。「その野良着のポケットに忍ばせた紙と鉛筆が生き甲斐の証であり、生み出す一句一句には土に生きる人達の喜怒哀楽があった」。作ることが生き甲斐であり喜びである。郷愁を誘う赤とんぼ、洗濯物は今の都会の日常生活、そしてこの空は遠いふるさとにつながっている、のかもしれないけれど、作者と一緒にただ秋晴の空を仰ぎたい。同人誌『YUKI』(2006年秋号)所載。(今井肖子)

 鬼やんま湿原の水たたきけり

                           酒井 京

蜻蛉捕りは夏休みの思い出だけれど、たまたま訪れた八月の校庭に赤とんぼが群れているのを見て、ああもう秋なんだ、ともの寂しくなった記憶がある。鬼やんまは、一直線に猛スピードで飛んでいて、捕虫網で捕ることなど到底無理だったが、窓から突然すごい勢いで家の中に飛び込んで来ることがあった。部屋の中でもその勢いは止まらず、壁にぶつからんばかりに飛び続けてはUターンする。祐森彌香の〈現世の音消してゐる鬼やんま〉という句を、先日人伝に聞き、飛ぶことにひたむきな鬼やんまの、何度か噛まれた鋭い歯と、驚くほどきれいな青い眼と縞々の胴体をまざまざと思い出した。掲出句の鬼やんまは、湿原にいる雌。水をたたくとは、産卵しているのだろう。残念ながら鬼やんまの産卵に遭遇したことはないのだが、水面と垂直にした胴体を、底に何度も音がするほど突き刺して一心に産卵するという。湿原の水たたきけり、は、そのひたむきさを目の当たりにしながら、さらに観て得た、静かな中に生命力を感じさせる表現である。『俳句歳時記 第四版 秋』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)

 人間は水のかたまり曼珠沙華

                           松尾隆信

人体の化学成分比率は水分が60%、組織が40%であるという。新生児には80%だったという水分量を聞くと、大人になったことで失ってしまったさまざまな潤いが数字に表れているようにも思う。それでもやはり、人間の半分以上は水なのだ。考えたり、悩んだり、いらついたり、右往左往する水のかたまりを、作者はわずかに苦笑しつつ、愛おしく感じているのだと思う。そして曼珠沙華も人臭い花である。法華経に「摩訶曼珠沙華」として登場し、サンスクリット語で 「マカ」は「大きい」、「マンジュシャカ」は「赤い」を意味するありがたい花のはずなのだが、有毒であったり、鮮紅色が災いしたりで「死人花」「捨て子花」「幽霊花」など因果を強く感じさせる別名を持つ。さらに枝葉を許さぬ花の形が、だんだん人間の姿となって、かたまり咲く曼珠沙華が冠を載せた人の群れのように見えてくる。〈渚より先へは行けず赤とんぼ〉〈鯛焼の五匹と街を行きにけり〉『松の花』(2008)所収。(土肥あき子)

 夏座敷父はともだちがいない

                           こしのゆみこ

毎年梅雨が終わると、祖母は座敷の襖を取り払って簾を吊り下げた。すっかり片づいた座敷の真ん中を涼しい風がさぁっと吹き抜けてゆくのはいかにも夏らしくて気持ちがよかった。夏座敷や打ち水といった季節の風物と縁遠いマンション暮らしの今は、思い出のなかにある風景を懐かしんでいる。そんな夏座敷の真ん中に父が一人で座っている。「父は」と言っているところからそれぞれに友達がいるほかの家族と比べているのだろう。おしゃべりな母はご近所の人たちと、かしましい娘たちも友達とたわいもない話に興じながら日々を暮らしているのかもしれない。寡黙な父はそれを羨むでもなく、一人でひっそり静かな日常を過ごしているのだろう。風通しの良い夏座敷が父の孤独をくっきりと印象付けている。「昼寝する父に睫のありにけり」「蜻蛉にまざっていたる父の顔」など、家族の中で少し寂しげだけど、かけがえのない父の姿を愛情を持って描き出している。『コイツァンの猫』(2009)所収。(三宅やよい)

 あの頃へ行こう蜻蛉が水叩く

                           坪内稔典

あの頃っていつだろう。枝の先っちょに止まった蜻蛉を捕まえようとぐるぐる人差し指を回した子供のころか、いつもの通学路に群れをなして赤蜻蛉が飛んでいるのを見てふと秋を感じた高校生の頃なのか。今、ここではない別の場所、別の時間へ読み手を誘う魅力的な呼びかけだ。その言葉に「汽車に乗って/あいるらんどのような田舎へ行こう/ひとびとが祭の日傘をくるくるまわし/日が照りながら雨のふる/あいるらんどのような田舎へ行こう」という丸山薫の「汽車にのって」という詩の一節を思い出した。掲句には、この詩同様ノスタルジックな味わいがある。あいるらんどのような田舎に蜻蛉は飛んでいるだろうか。汽車に乗らなくとも川原の蜻蛉がお尻を振って何度か水を叩くのをじっと見つめれば、誰でもギンヤンマやシオカラトンボを夢中になって追いかけた少年の心持ちになって、それぞれの「あの頃」へ戻れるかもしれない。『水のかたまり』(2009)所収。(三宅やよい)

 苦しむか苦しまざるか蛇の衣

                           杉原祐之

人間が抱く感情の好悪は別として、蛇が伝承や神話などに取り上げられる頻度は世界でトップといえるだろう。姿かたちや生態など、もっとも人間から離れているからこそ、怖れ、また尊ばれてきたのだと思う。また、脱皮を繰り返すことから豊穣と不滅の象徴とされ、その脱ぎ捨てた皮でさえ、財布に入れておくと金運が高まると信じられている。掲句では、残された抜け殻の見事さと裏腹に、手も足もなく、口先さえも不自由であろう現実の蛇の肢体に思いを馳せつつ、背景に持つ神話性によって再生や復活の神秘をも匂わせる。以前抜け殻は、乱暴に脱いだ靴下のように裏返しになっていると聞いたことがあったが、この機会に調べてみようとGoogleで検索してみるとそのものズバリのタイトルがYouTubeでヒットした。おそるおそるクリックし、今回初めて脱皮の過程をつぶさに見た。もう一度見る勇気はないが、顔面から尻尾へと、薄くくぐもった皮膚からつやつやと輝く肢体への変貌は、肌を粟立たせながらも目を離すことができないという不思議な引力を味わった。はたして彼らはいともたやすく衣を脱ぎ捨てていたのだった。〈雲の峰近づいて来てねずみ色〉〈蜻蛉の目覚めの翅の重さかな〉『先つぽへ』(2010)所収。

蛇の脱皮映像をご覧になりたい方はこちらから(4分/音無し)。いきなり登場しますので、苦手な方はくれぐれもご注意くださいm(_ _)m(土肥あき子)

 胃カメラをのんで炎天しかと生く

                           吉村 昭

今日は敗戦記念日。「8.15以後」という言葉・認識を日本人は永久に忘れてはならない。さらに、今や「3.11以後」も風化させてはなるまい。くり返される人間の歴史の愚かさを見つめながら、生き残った者たちは「しかと生」きなければならない。昭は五十歳の頃から俳句を本格的に作りはじめた。結核の闘病中でも俳句を読んで、尾崎放哉に深く感動していたという。掲句は検査か軽い病いの際に詠んだ句のようだが、炎天の真夏、どこかしら不安をかかえてのぞむ胃カメラ検査。それでも「しかと生く」と力強く、炎天にも不安にも負けまいとする並々ならぬ意志が表現されている。四回も芥川賞候補になりながら受賞できなかった小説家だが、そこいらの若造受賞作家などには太刀打ちできない、実力派のしっかりとした意志が、この句にはこめられているように思われる。胃カメラ検査は近年、咽喉からでなく鼻腔からの検査が可能になり、とてもラクになった。昭には他に「はかなきを番(つがひ)となりし赤蜻蛉」があり、死後に句集『炎天』(2009)がまとめられた。(八木忠栄)

 志望校東京芸大赤蜻蛉

                           向坂 穣

近年はオトナばかりでなく、小中学生もさかんに俳句を作っていることは周知の通り。うちの孫(小学生)も「こんな俳句つくったよ……」と言って、いくつも披露してくれることがあって、慌ててしまう。あな、おそろしや。さて、高校生の俳句大会と言えば、恒例になった「俳句甲子園」である。今井聖によると「神奈川大学全国高校生俳句大会」も大きい大会だという。各地に各種の大会があるようだ。上記二つの大会で高い評価を得た句に「夏雲や生き残るとは生きること(佐々木達也)」とか「未来もう来ているのかも蝸牛(菅千華子)」などがあるようだ。いずれも偏差値の高い高校の生徒の句だという。うーん、私に言わせれば、一言「若いくせに、嘆かわしい!」。そこへいくと掲句は、いかにも受験生らしい気持ちが素直に表現されていて、好もしい。受験を控えた一度限りの切実な青春句だが、この場合「赤蜻蛉」が救いになっている。赤蜻蛉にこだわっているところからすると、彼は芸大の美術学部あたりを志望していたのかーーそんなことまで想像させてくれる。若い緊張感と不安が赤蜻蛉を見るともなく見ているようだし、赤蜻蛉も合格を応援して視界を飛んでいるのかもしれない。今井聖『部活で俳句』(2012)所載。(八木忠栄)

 秋の山一つ一つに夕哉

                           小林一茶

文化二(1805)年、43歳の作。一茶が北信濃柏原に帰郷定着するのが文化九年、50歳で、その間、江戸・柏原往復を六回。双方に拠点を作ります。その後、三度結婚するのだから強い。掲句の秋の山は、旅の途上か郷里の山か。一日の終わりに、じっと佇んでいるとき、まだ色づき始めてはいない秋の山を、東から西へ、一つ、一つ夕(ゆふべ)の茜色に染めていく、その色合いの変化。それは、色彩が変化する様を、ダイナミックな日時計のように視覚化した情景です。一方、同じ文化二年に「木つつきや一つ所に日の暮るる」があり、夕(ゆふべ)の一茶は視点が動いていったのに対し、「日の暮るる」一茶の視点は、一つ所に目を遣っています。「木つつき」の音の向こうは、日暮れから闇へと移り変わっていく時の経過です。さらに、寛政年間、たぶん30歳頃の作、「夕日影町一ぱいのとんぼ哉」。村ではなくて町なので江戸でしょう。夕日を浴びて、赤とんぼは深紅です。夜は漆黒の闇であった時代、夕日、夕(ゆふべ)、日暮れの光と色は違っていたことを、一茶の目は伝えています。『一茶俳句集』(1958・岩波文庫)所収。(小笠原高志)

 少年を噛む歓喜あり塩蜻蛉

                           永田耕衣

塩蜻蛉が、少年の瑞々しい皮膚を噛む。少年の肉汁を内臓に取り込んだ塩蜻蛉は、それをエネルギーにして、生殖行動の歓喜に向かって飛び発つ。少年の肉体は、交尾後の産卵へと繋がっているが、少年はそれを知らない。一方、はじめてトンボに噛まれた少年は、噛まれる痛みを受苦します。噛まれた痕跡は、やがて消失しますが、噛まれた痛みは記憶として残り続けます。それは、自然界が授ける予防接種でもあるでしょう。ところで、大人になった少年は、甘噛みの歓喜に目覚めます。しばらく忘れていた 塩蜻蛉の記憶が、性の指南であったことを悟ったかどうかは定かではありません。掲句には、野球で言う先攻と後攻があるように思われます。表のあとには裏がある。噛む側が居れば、その後に、噛まれる側の人生が始まる。耕衣の「陸沈の掟」十ヶ条から二つ引きます。*「存在の根源を追尋すべき事。存在の根源はエロチシズムの根源なり。精気あるべき故に。」*「自他救済に出づべき事。先ず俳句は面白かるべし。奇想戦慄また命を延ぶに価す。即ち生存の歓喜を溶解するの力価を湛うべし。」これらの言からも、塩蜻蛉の歓喜は、エロチシズムとして少年の肉体に伝播し得たと読みました。尚、今年の「日本一行詩大賞特別賞」を受賞した清水昶氏の『俳句航海日誌』に、「耕せば永田耕衣の裏畑」があるこ とを、編者の一人久保隆氏から教わりました。ありがとうございました。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 日をひと日ひと日集めて猫柳

                           畠 梅乃

あれほど行きつ戻りつした春の日差しもすっかり頼もしく、もう後戻りすることはないと信じられる力強さとなった。猫柳の花穂は絹のようになめらかさを持つ銀色の美しい毛で覆われる。その名は猫の尾に似ているところから付けられたというが、手ざわりは爪先あたりにそっくりで、猫を失った年など、何度も何度も撫でては思いを馳せていた。猫柳はまだ春の浅い頃に紅色の殻を割り、冷たい風にふるえるように身をさらし、春の日を丹念に拾いながらふっくらと育っていく。春の植物は美しいだけではなく、余寒の日々をけなげに乗り越えてきた姿を思いやることで、いっそう胸が熱くなる。掲句の「ひと日ひと日」にもその感動が表れている。〈竹皮を脱いできれいな背骨かな〉〈水平は傾きやすし赤とんぼ〉『血脈』(2015)所収。(土肥あき子)

 赤蜻蛉米利堅機飛ぶ空ながら

                           阿部次郎

都市部では赤蜻蛉どころか、普通の蜻蛉さえも、めったに目にすることができなくなった。今年の秋もおそらくそうだろう。秋の空は晴れていても、そのだだっ広さがどこかしら淋しいものにも感じられる。米利堅(メリケン)、つまりアメリカの飛行機が上空を飛んでいる。にもかかわらず、負けじと赤蜻蛉が(当時は)空いっぱい果敢に飛びかっていたのだろう。米利堅機はいつものようにわがもの顔で、日本の秋空を飛んでいたにちがいない。赤蜻蛉がめっきり少なくなってしまった日本の上空を、このごろはオスプレイとかいう、物騒な米利堅機がわがもの顔で音高く飛んでいるではないかーー。いや、米利堅機は日本と言わず中東と言わず、世界中の上空が春夏秋冬好きらしい。赤蜻蛉よ心あらば、どこかからわいて出てきてくれ! そんなことを、とりわけこのごろは願わずにいられない。掲出句を詠んだ次郎は、まさか音高きオスプレイなるものを想像だにしていなかっただろう。次郎には他に「濡土に木影沁むなり秋日和」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)

 凡句よし駄句よし宇治に赤とんぼ

                           清水哲男

懲りずに相変わらず凡句・駄句を生産している者にとって、心強い句である。句会で高得点を目指して、五・七・五の指を折っている初心者に向けて、哲男は慰めの言葉をかけているわけでは必ずしもない。ここで言われている凡句・駄句というのは、箸にも棒にもかからないような句のことを言っているわけではなかろう。それらを「よし」として、だからと言って、うまい句をいたずらに期待しているわけでもあるまい。「良い句」を作ろうとして、そんなにムキになるなよ、ムキになったところで「良い句」ができるわけではない、という哲男の精神が言っていると理解したい。当方の本欄担当は今朝で最終回だが、これまでずっと取りあげてきた「文人俳句」は、シャカリキになっていわゆる名句を毎回物色していたわけではない。名句は夥しい数の俳人諸兄姉にまかせておけばよろしい、と考えてきたつもりである。句会でも同じことが言えよう。掲出句には哲男らしい俳句観が裏打ちされている。「宇治」といえば、哲男は学生時代に宇治に下宿していたことがあった。学生時代には俳句を作っていた、それが凡句・駄句であってもかまわない、という意味合いも含めているのであろう。当時の宇治では、赤とんぼがたくさん見られたにちがいない。秋には少し早い時季だが、今朝はあえて掲出句を選んだ。哲男が宇治を詠んだ句に「宇治や昔オルグ哀しも新茶汲む」がある。『打つや太鼓』(2003)所収。(八木忠栄)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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