Facebook池内 秀暢·さん投稿記事 ■人を見て法を説け
このことわざは、釈迦が仏教の教えを説くときに、相手によって伝える内容を吟味して、わかるように・伝わるように考えて言葉を使いなさい。
と、言う内容の意味であり仏教由来のことわざです。
営業やビジネスなど、人を説得したり何か重要な事を伝えたりするときに、相手の年齢や性別・性格や個性・知識量や経験・状況などに合わせて、伝える内容や主旨を存分に自分の中で練って、相手が納得するように・・・気持ちよく動いてくれるように語りなさい。
このようにビジネス研修や指導者・リーダー研修などでも教えられており、企業の管理職の方は、この言葉の意味をご存じの方も多いと思います。
上司が部下に・・・・営業担当者が顧客に・・・先生が生徒に・・・親が子供に・・・
日常生活で多くのケースがあります。
私も若い時に、このことわざを聞かされたことがあり、現在も自然療法を指導したりするときに心にとめております。
この「人を見て法を説け」を実践しようとすれば、まず「相手を洞察する力」が要求されます。
ホリスティック医学などでは、「人間丸ごとを見る医学」と言われていますが、標準医学において、医療従事者が十分に「患者洞察」がなされているかどうか?
疑問に思います。
御多忙な医療機関の事情は十分わかります。
またこれを実践しようとすれば、かなりの精神的エネルギーが必要となり、結構疲弊することもあるでしょう。 そんな余裕は医療の世界には無い・・・・と大きな声が聞こえてきそうです。
こちらにご相談に来られるがん患者から、主治医の説明の仕方や態度に非常に憤慨して語る患者さんを多く経験します。 本当に多いのです。
現代医学は、病気ばかりを見ていて患者さんご自身をあまり見ていない・・・。
病気がわかれば、標準治療でガイドラインに沿って治療方法が決まっていますのでそれに沿って進んでいくわけです。
そこに、患者さんへの洞察の入る余地は、時間的にも・・・多数の患者さんを相手にするので、担当医の精神的キャパスティーが追い付かない・・・・
また人を洞察する力そのものにも問題があるように見受けられます。
無理もありません。 医療は、患者さんという人間と対峙はしてはいますが、実は病気と対峙しているわけですから、ついつい人間洞察が薄くなって当然だと感じます。
患者さんからは・・・・パソコンばかりを見て、ちっともこっちを向かない・・・との声もよく耳にします。
特にガン患者さんと対峙していらっしゃる医療職の方々は、症状や病気そのものといった部分にフォーカスすることに加えて、患者さんの・・・人間そのものにも洞察力を働かせ接していただきたく思います。
私も常にこのことは頭の中心に置きクライアントさんと接しております。
追伸・・・映画「パッチ・アダムス」を鑑賞して頭に浮かびまし た。
渡辺美也子さんコメント
夫が肺腺ガンなった時、インフォームドコンセント後主治医に『何かご希望は?』
と訊かれ『夫のガンを診るのではなく、ガンである夫を診てください』
と言いましたこれも帯津良一先生が作戦参謀だったからです👌
https://seniorlife-soken.com/archives/40605 【『I love me!』を掲げるパッチ・アダムス氏を招聘し、人生100年時代におけるウェルビーイングの在り方を探る。6月開催の対面イベント受付開始!】より
ヘルスリテラシー教育を提供する株式会社Studio Gift Hands(所在地:東京都港区、 代表:三宅 琢)は、 2022年6月23日より4日程を通じて、 ウェルビーイングの第一人者であるパッチ・アダムス氏(本名:ハンター・ドーティ・アダムス、 以下パッチ・アダムス氏)をお招きし、 体感型の対面イベント『MEME of PATCH ADAMS』を開催します。 本イベントは『今を自分らしく生きる』を取り戻すをコンセプトに、 参加される1人ひとりが主役となり、 体感型でともに学習することを目的としており、 5月13日より一般チケットの販売を開始いたします。
【本イベントが目指すこと】
「MEME of PATCH ADAMS」に使われるMemeとは“意伝子”(言葉で引き継がれていくもの)を指し、Gene(遺伝子)に刻まれることのない言葉による想いと理念の伝承を意味しています。
本イベントでは、パッチ・アダムス医師から、ウェルビーイングに生きるヒントを学びます。参加者こそが主役となり、参加者同士が分野横断で様々なつながりが生まれることも、本イベントが目指すことのひとつです。
近年注目を集めるウェルビーイングとは、人生をただ生き抜く(Survive)のではく、豊かにいまを生きる(Alive)ための精神と身体の豊かさを意味します。人類がはじめて経験する人生100年時代、超高齢社会を生きる我々は幸せの定型がない時代を生きることになります。そんな不確かな時代には誰かに与えられた幸福ではなく、自らの言葉でウェルビーイングを翻訳することが求められると私たちは考えています。
若き日にキング牧師の言葉に出会い、人生に悪い日は作らないと決意したパッチ・アダムス医師の生き様から、自分の人生を自分らしく豊かに生きるためのヒントをきっと見つけられるはずです。
3月に開催したオンラインイベントでのパッチからの言葉の処方箋
『“体験していない死”について不安になるより、“いまを生きる”ことについて考えよう』
『どんな自分が好き?自分の人生は自分で作れるんだよ、まず好きなことを基準に人生を選択しよう』
『あの日から僕は自分の人生に不幸な日を二度と作らないと心に決めて、ただ続けているだけだよ』
『人をつなげることも医療なんだよ、鬱という病気の多くは孤独が生んでいるからね。』
3月のイベント参加者の声
『感動の瞬間をありがとう、パッチ。自然と涙が出てきました』
『 最初は何気なく参加したイベントでしたが、人生において重要な「愛」という感情は何か、考えさせられる時間でした』
『「愛」はどんな形でも美しく尊いものであり、行動の源となる大きな感情だと感じました』
『 自分も大切にして自分の一番の理解者になってあげ、love myself の精神を 忘れずに豊かに生きることを心がけていきたいです』
『誰か困っていたら誰かが助ける、そんな当たり前の様に感じる事が私達が生きていく中で大切なことだと思いました。』
80カ国以上の実施されたワークなどを通して、パッチの生の言葉と生き様をに是非体感してみてください!
【パッチ・アダムスとは】
パッチ・アダムス氏は1945年生まれ、医師であり世界に愛と平和を届けるクラウン(道化師)で、ウェルビーイングの実践家として孤児院や被災地でのクラウン活動や講演活動を50年に渡って取り組んできました。
パッチ・アダムス氏は親族の死などから精神的に不安定になり精神病院へ入院し、 医療で回復できない中でキング牧師の「I have a dream!」のスピーチを聴き感銘を受けました。それが人生の転機となり、人生に悪い日は作らないと決意し“生き方・あり方を自分で決めることで、人は自分の幸せを自分で作れる”と確信しました。
6つの信条(幸せで、 面白くて、愛情深く、協力的で、創造的で、思いやり / 思慮深い)を大切にし、1984年に無料で医療サービスの受けられる診療所 Gesundheit!Institute (Gesundheit はドイツ語で「お元気で」 という意味)を設立し、現在ウエスト・バージニア州に彼が理想とする病院を建設中です。
また講演家としても世界中で登壇し、自らウェルビーングを体現しながら世界に影響を与え続けています。2021年にはこれらの功績によりノーベル平和賞にノミネートされています。
<パッチ・アダムス医師から日本講演にむけてのメッセージ>
※ 3月に実施したオンラインイベントも含めた応援メッセージ
https://www.youtube.com/watch?v=EuXgsb6Jqq0
(略)
https://tomatomaru4gou.hatenablog.com/entry/2021/09/05/105338 【近藤康太郎『三行で撃つ』気づきの③俳句に役立ちそうなこと】より
表現の仕方について具体的な記述があり、とても参考になった。書く意欲が湧いてくる指摘ばかりだ。その中から、あたしが俳句を作るのに役立つと思ったこと。
⑴「としたもんだ」表現を避ける。
これは、とても根本的なことだ。常套句を避けるということ。
「すべての青空が違う青さを持っている」
自分だけの表現を探して、探して、探しまくろうと思った。ぜんぜん出来てないけれど、それを目指すのでなければ、自分で句を作る意味がない。特に俳句には5・7・5という型があるので、なんとなく型に落とし込んでお仕舞にしてしまいがちだから要注意なのだ。常套句は親の敵だと思おう。
⑵型があってこその型破り
多読、音読。真似をする。自分を諦める前に、もっとインプットしようと思う。
憑依されるくらい、入れ込んだ俳人がまだいない。「蕪村、いいわあ」と、あたしはその程度だった。
⑶自分しか書けない「転」を書く
意表を衝く。飛び抜けた語彙、比喩、破調。人を引き付けるものを作り込む。
これも、ぜんぜん考えたこともなかった。ただただ自分の感じたことをそのまま表現して、意表を衝くどころか読み手に通じるかどうかすらも気にしていない。「あまりにも離れすぎている」といつも言われて。
⑷五感を磨き抜く
感性は鍛えることができると書かれていた。感じることを他人にゆだねない。無理して、努力しておもしろがる。この「鍛えることができる」に励まされる。
月並みな句ばかり量産してしまうあたしは感性の問題だからと半ば諦めていたけれど、俳句を続ける気なら、もう一歩、行っとこう。
この本に書かれていたことだが、仏陀は入滅前に「世界は美しい。人生は甘美だ」と言ったそうだ。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498734505.html【俳句の「切れ」は何を切るのか?】より
蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉(たこつぼや はかなきゆめを なつのつき)
俳句の「切れ」は何を切るのか?
(この場合の「切れ」とは一句完結の「切れ」ではなく、一句の中の「切れ」についてである。)
一句の「意味」を切るのか?
それとも「調べ」を切るのか?
意味を切るのであれば、この芭蕉の句は、
蛸壺がある。
その上に夏の月がかかり、月光が煌々と降り注いでいる。
夏の夜は短く、その月明かりの美しさはまるで一睡のはかない夢のようだ。
という意味になる。
そして、「調べ」を切るのであれば、
蛸壺がある。
蛸壺の蛸は今、夏の夜のひとときを、夢見て眠っているのだろう。
蛸はどんな夢を見ているのだろう。
夜明けが早い夏の夜を、今、煌々と月がかかり、蛸壺を照らしている。
となる。
この場合、意味としては「はかなき夢を」で切れている。
蛸の夢のはかなさと、夏の短い夜のはかなさの両方をかけているのでもあろうが、ここでどこで切るかによって、その人の「切れ」に対する考え方が決まる。
正直むずかしいのだが、私は「蛸壺や」で切れている、と思う。
つまり、俳句において「切れ字」は意味を切るのではなく、「調べ」を切る、つまり間を置くことこそが「切れ字」の命であると考える。
もちろん、意味を切る為の「や」も多数存在する。
しかし、俳句の「切れ字」は調べの為であって、必ずしも意味を切るためではないと考えているのである。
https://tb.sanseido-publ.co.jp/column/ltl/kotomana06/ 【俳句における「間」】より
長谷川 櫂 俳人
俳句誕生の背景
「家は夏向きに作るのがよい」―兼好法師は『徒然草』の中でこう言っています。じめじめして蒸し暑い夏は,ユーラシア大陸のいちばん東に位置し,海に囲まれた日本がもつ特徴的な気候です。夏をいかに過ごすかを日本人は昔から真剣に考えてきました。兼好法師のこの言葉は,家の作りのみならず,日本の文化全体にかかわるものでした。
日本は大陸から伝わる文化的なものを取捨選択して取り込んできましたが,そのなかで「暑苦しい」ものはことごとく捨て去られていきます。日本人にとって「涼しげなもの」でなければ文化としては根づかなかった。
例えば,仮名文字。中国から伝えられた文字,すなわち漢字を日本人も書き言葉に用います。『万葉集』ももともとは全部漢字で書かれていました。漢字ばかりがずらりと並びます。それはものすごく暑苦しいわけです。もっと涼しげな文字がほしくなる。漢字を簡略化したものでないと,日本人としてはとても耐えられない。そう考えたかどうかではなくて,文化の志向がそうなっているんです。そうして仮名が生まれた。
日本の初期の書,例えば空海の書も,中国の文献のように漢字がきちっと並んでいました。時代が経ってくると,小野道風のように横のラインが崩れていきます。字と字の間にたくさんの空白をつくって,一つの歌を書いていくことが主流になってくるんですね。書における「間」が生まれてくる。今も,俳句や和歌の書は,そのように書かれます。
絵画も同様。中国は基本的にリアリズムの国ですから,木一本からラクダの脚まで克明に描きます。西洋の絵も,空白があると未完成な絵として扱われてしまいます。セザンヌの絵は塗り残した部分が多いので,長い間,未完の絵とみられてきました。
ところが,日本人の絵は,描きたいものを描き,周りは空白のまま残しておく。長谷川等伯の松林図屏風がそうですね。
町を描くときにも,ヨーロッパの画家ブリューゲルは家並みを克明に描きます。日本人はすべて描くことはない。例えば,京都の町の中に「金の霞」という雲を描きます。実景にはない空白――「間」を描いて,日本人はやっと落ち着く。落ち着くとは,涼しい感じがするということです。
音楽や建築も同じ。こうやって「涼しげな」方向へ文化が創られていきました。
詩歌も例外ではありません。長々と言葉を使うのではなくて,短く言えればそれに越したことはない。言葉は人と人をつなぐもの。心が常に繋がる,相手のことが常にわかるというのは「暑苦しい」ことなんですね。遠ざけておけば,暑苦しくはない。これが日本人の言葉に関する感じ方です。
日本人の言葉への向き合い方,コミュニケーションのあり方は,大陸の国々とはずいぶん異なります。大陸では言葉の違う民族が接しあう。文化様式が異なる人々が行ったり来たり,通商や戦争,常にいろいろな民族が接しあいます。相手の考えをきちっとくみ取ったり,自分の考えを伝えたりするには,互いに言葉を尽くして,自分の考えを説明し,相手の言うことも聞く。これが大陸的なコミュニケーションのあり方です。
これに対して,日本は同じ日本語なので,方言があってもだいたい通じてしまいます。文化様式も互いに似通っているので,詳しいところまで説明しなくてもいいのではないか,わかりあえるのではないかと考える。実際にわかりあえているかはわからないけれども,そういう考え方が日本の詩歌の背景としてあった。このような気候風土,文化や考え方のなかで,俳句も誕生してくるわけです。
「切れ」と「間」
俳句は,五七五の17拍(音)が全部言葉で埋まっているように見えますが,句の前後とその句の中には,膨大な空白,言い換えれば「間」があります。
その「間」を生み出すのが「切れ」。「切れ」によって言葉を切断して,涼しげにつくっていく。そして「これだけ言えば,あとはわかりますよね」と。これが俳句の基本的な考え方です。
「古池や」とここで刻むことで,「蛙飛び込む水の音」との間に「間」が生まれる。その深い「間」によって,単に「古池に蛙が飛び込んで水の音がした」というのではなく,蛙が飛び込む音によって芭蕉の心に浮かんだ「想像上の古池」と「現実の水音」という次元の違う二つのものが響きあって,詩の世界が立ち上がってくる。
この「古池や」の「や」を「切れ字」といいますが,切れ字は,俳句に「切れ」を生む一つの言葉の手法で,「や・かな・けり」などがあります。しかし,「切れ」は必ずしも切れ字を必要としません。これはあまり教えられていないことですが,「切れ字」を使わなくても俳句は切れます。
山口素堂の「目には青葉山ほととぎす初鰹」には切れ字が一つも使われていません。名詞をぽんぽんぽんと並べているだけですが,「目には青葉/山ほととぎす/初鰹」と,句の中が三つに切れています。名詞に限らず,俳句ではすべての言葉は「切れ」を生み出すことができる。そのなかで「切れ」を生むために特別の使命を負った言葉が切れ字です。
先に,俳句は句の前後とその句の中に「間」があるとお話ししましたが,俳句の「切れ」といえば,「古池や/」「目には青葉/」などの「切れ」,すなわち句の中の「切れ」にのみ目が向けられてきました。句の前後の「切れ」については,『一億人の「切れ」入門』(角川学芸出版 2012)を出す前までは,俳人の間でもほとんど注目されてこなかったものです。句の「前後で切れる」はどういうことか。
例えば,『おくのほそ道』では,文章があって,俳句があって,また文章がある。文章と俳句がひと続きに書かれたように見えます。しかし,文章は論理,俳句は直観によって生まれるものですから,文章と俳句の間には見えない断絶があるわけです。直観による俳句の刃が,文章の論理の糸を断ち切っている。これが句の前後の「切れ」です。
「月日は百代の過客にして……住めるかたは人に譲りて,杉風が別墅に移るに」と論理の頭で書いてきて筆をおき,ここで詩の頭に切り換えて,「草の戸も住み替はる代ぞひなの家」と詠む。そして俳句を書き終えると再び論理の頭に戻って「面八句を庵の柱に懸け置く」と書く。芭蕉のなかでは,俳句の前後で心のスイッチが切り替わっている,日常の心から俳句の心へ,俳句の心から日常の心へという,心の調子の切り替わりが,俳句の前後の「切れ」を生み出します。
散文は説明や理屈の世界。理屈は言葉のなかでも最も暑苦しいもの。この「切れ」によって「間」が生まれ,その「間」によってこそ,俳句は俳句として,理屈から切り離された詩の世界をつくりあげることができる。
日常から切れているのは和歌も同じです。『伊勢物語』は歌物語といわれますが,地の文があって歌があり,地の文は歌が詠まれた状況を説明しています。『源氏物語』も同様で,地の文として登場人物の現実の生活を描いていきながら,そのなかで歌が詠まれます。どちらの作品においても,歌の前後には「切れ」が隠れています。『おくのほそ道』は,ずっと以前からある,こうした歌物語の伝統を引いているわけです。
「考える」ということ
切れ字の学習といえば,切れ字の代表的な種類を覚え,「この句のこの字が切れ字,この句には切れ字がない」というように切れ字の有る無しを確認するというイメージをもつ人も多いのではないかと思います。そうではなく,「なぜ俳句には切れ字というものがあるのか」という問いが大切です。
このことは,季語についても,字余りや字足らずについても当てはまることです。「これが季語,ここが字余り,ここは字足らず」と指摘して終わるのではなく,「季語が俳句に必要とされるのはなぜか」「どうしてここを五音で詠まないのか」を問うてみる。今,学校では「主体的に考える」「深い学び」ということが言われているようですが,「考える」ことの本質は,ものごとの根底に立ち返える「問い」をもつことだと思います。
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