Facebok尾崎 ヒロノリさん投稿記事
おはようございます。『止まない雨……』
「やまない雨はないというけれど 私は今の雨をあびたい」言葉があります。
よく「止まない雨はない いつまでも降り続かないから」と励ます言葉があります。
あと「明けない夜はない」とか「冬が終われば あったかい春がくるから」など……。
この世に生きていて、不安や悲しみがなくなるということはありません。
また、不安や悲しいの原因を他者に求めたりするけれど,自分自身がその悲しみや不安を生み出しているうちの一人でもあります。
けれども楽しいことも同様になくなることはありません。
『禍福はあざなえる縄の如し』という言葉があります。
縄は紐を寄り合わせて作るように,人生は禍(災い)の紐と福(幸せ)がより合わさり、一体となり、形作られます。
雨雲が通り過ぎて朝日を浴びている時、先の雨で雨に降られている人もいます。
だから、禍福をあざなう中で私は私として生きています。こんな悲しみはなければ良いけれど、その延長線上で私は私になりました。
お互いに関係を持ちながら、影響しあいながら生きていて、私の生きている大地は、そもそも雨の中だと言える……。
他者の痛みを自分の痛みとして感じることが本当に生きることだと最近、感じるようになりました。
他人の痛みが分かるからです。
本当に自分と向き合うことこそ、まず最初に行うことだとこの標語は語っているのだと思います。
他に因を求め、責める前に自分を知るこが大切です。
素敵な一日をお過ごしください。
http://sairen99.cocolog-nifty.com/kotoba/2019/06/post-c79607.html 【やまない雨はないというけれど、私は今の雨をあびていたい。】より
禍福はあざなえる縄の如し
不安や悲しみの中にいることを雨の中にたとえて「やまない雨はない。いつまでも降り続かないから」と励ます 言葉がある。
他にも、悲しみを夜の闇にたとえて「明けない夜はないから」と言ったり、悲しみを凍えてしまいそうに寒い冬にたとえて「冬が終われば、暖かい春が来るから」と言ったりする。
その通りなのだけど、「雨はやんでも、またいつか降り始める」「夜が明けて日が出ても、また夜が来る」「春になったらなったで花粉症の季節だといって歎き、夏の暑さに辟易とし、秋は淋しいといい、そしてまた冬の寒さを迎えては早く暖かくなるといいなと口にするのに」ということも考えます。
そもそも悲しみという雨がいつやむのか、いつ夜が明けるのか、いつ春が来るのか分かりません。
身も蓋もない話をするようですが、この世界を生きていて、不安や悲しみがなくなるということはありません。その不安や悲しみの原因を他者に求めるけれど、私自身が不安や悲しみを作り出しているうちのひとりでもあります。
「不安や悲しみがなくなるということはありません」と言いましたが、嬉しいこと楽しいことも同様になくなるということはありません。
「禍福はあざなえる縄の如し」という言葉があります。「縄は紐(ひも)をより合わせて作るように、人生は禍(災い)の紐と福(幸せ)の紐がより合わさり、一体となって形作られていく」という意味です。
縄は、紐をつなぎ合わせて作るのではなく、細い紐を何本もより合わせて作ります。このことは、禍福が交互に訪れるわけではなく、禍福は一体である、共にあるということを表わしているのだと思います。
禍福を、個人の身に起こる出来事として捉えたならば、禍の後にはきっと福が訪れると、希望を抱きたくもなります。けれど、私が生きているこの大地には、70億を超える人間が共に生きていて、こんにちに至るまでに数え切れないほどの人々の歩みがあって、人間以外にも多くのいのちが生きています。その現実に想いを馳せれば、お互いにつながり合いながら、影響し合いながら生きているということは容易に想像がつくことです。禍福があざなえる縄の如くにあるということの意味は、個人の身に起こることとしてではなく、人間に、すべてのいのちに禍福が同時に起きていることを訴えているように感じています。
私の日々の生活のために、どれだけの人の手を煩わせていることでしょう。私が喜んでいるそのときに、涙している人がいるのではないだろうか。私が悲しみの中にあるとき、ほくそ笑んでいる人もいれば、共に悲しんでくれている人もいる。私のしていることが、私の存在自体が、誰かを元気づけていることもあるかもしれない。
雨雲が通り過ぎて晴れ間がのぞいたとき、先の雨雲によって雨降られている人がいる。
夜が明けて朝日を浴びているとき、暗闇の中に身を置いている人がいる。
冬が去って春が来て、その暖かさに心落ち着かせているとき、冬の寒さに身を震わせている人がいる。
禍福あざなう世界で、私は私として生きています。「こんな悲しみなければいいのに」と思うことは誰にでもあります。けれど、「こんな悲しみ」も含まれる延長線上で、私は私となりました。
想いを馳せたとき、私の生きている大地は、そもそも雨の中なのだと目が覚めます。雨の中こそ私の生きる場。お互いに関係を持ちながら、影響し合いながら生きているのだから。
傘・・・本尊
雨の中に身を置いている現実に、「いつかこの雨もやむだろう」と待ち続けるわけにはいきません。そのとき手にしたいのは、雨の中に身を置き続けられる傘。つまり、私を守ってくれるもの。
宗教に、雨をやませる力などありません。「あなたは今、雨の中にいます」と気づかせてくれるものです。そして、その雨の中、私と共にあり続けてくれる傘の存在を説き示します。その傘とは本尊、阿弥陀如来。「南無阿弥陀仏」の念仏です。
ひとりがひとりに出遇(あ)う
福島県二本松市に佐々木道範さんという真宗大谷派の僧侶がいます。 原発の事故後、子どもたちのために除染作業等に取り組まれています。彼が話してくれたことが忘れられません。
「原発の事故が起こるまで、私だってイラクの人々・子どもたちの痛み悲しみに無関心でした。でも事故後、他者(ひと)の痛み悲しみを聞くと胸が痛いんですよ。でも、痛み悲しみに出会って、胸が痛みながら生きることが本当に生きることなのかなと思うようになりました。」
「目の前に生きている人間がいるんです。その人と出会って、ひとりがひとりに 出遇っていくしかないんです。出遇ってしまったら忘れられないんです。」
他者の痛みを自分の痛みとして感じる。胸が痛い。けれど、その痛みを感じながら生きてゆくことが、本当に生きることだと感じるようになった。それほどまでに他者の痛みを感じることができるのは、ひとりの人間が、目の前にいるひとりの人間に出遇っているからです。佐々木道範さんから、胸に痛みを感じるほどに人と向き合うということが出遇いなのだと教えられました。いや、本当に人に出遇うからこそ、痛みも伴うのでしょう。享楽は一瞬ですが、痛みは一生です。だから忘れられません。
自分が生きている大地を感じながら、阿弥陀如来と共にありながら、私は 今の雨をあびていたい。南無阿弥陀仏
Facebok能村 聡さん投稿記事
この話、過半数が、国会審議や選挙で、賛成の投票をしないと何も変わらないという『多数決似非民主主義』の限界を超える希望を感じる。
8割の国民(愚民)をマスゴミを使って洗脳して、マニュピュレートしてきた自公腐敗政権は、同調圧力や脅迫に屈せず、自分で考えて行動する2割の目覚めた『市民』の力によって、必ずや打倒されるだろう。
https://s-counseling.com/stanley-milgram/ 【スタンレー・ミルグラム「集団と服従」】より
過去の心理学者・臨床家・研究者の人物像や提唱された内容から今に学べることは多くあります。
ここではスタンレー・ミルグラム「集団と服従」について書いていきたいと思います。
スタンレー・ミルグラム(Stanley Milgram)は1933年ニューヨークでパン屋を営むハンガリー出身のユダヤ人家庭に生まれました。
ミルグラムは、学校での成績は非常に優秀でリーダー的な精神を持ち合わせており、高校の頃の同級生には、スタンフォード監獄実験でのちに有名になるフィリップ・ジンバルドーがいました。
ハーバート大学では人格心理学研究のゴードン・オルポート指導のもと心理学の博士号を取得し、ソロモン・アッシュと共同で「同調性」の研究を行います。
イエール大学では教壇に立ちながら「服従」の実験と研究を行い、プライベートでは、アレクサンドラ・メンキンと結婚し、二人の子供を授かります。
ハーヴァードで行なった実験が論争を巻き起こし、終身在職権が拒絶されますが、その後はニューヨーク私立大学で教鞭をとりました。
主著には、1963年「服従の行動的研究」 1967年「小世界問題」
1974年「服従の心理ーアイヒマン実験」などがあります。
集団と服従
ドイツのナチスの残虐な虐殺に関わっていた犯罪人アドルフ・アイヒマンの裁判にミルグラムは関心を持ち、アイヒマンが言う「ただ命令に従っていただけ」という言葉の真意と服従の研究を行っていきます。
ミルグラムの実験では、権威のある人から電気ショックを与えるように命令されると予想をはるかに超えて40人全員の被験者が300ボルトまで電圧を上げて苦痛を与えてしまいました。(本当の電圧ではなく演技ですが被験者は本物の電流が流れていると信じていたようです。その後被験者を欺いた問題が倫理的問題に発展します。)
ここから集団内の権威ある存在に服従しようとする強い傾向が人間にあることを明らかにしています。
ミルグラムは、この服従心は幼い頃から親や大人に従順に振る舞い、順応してきたところに由来すると考えるのが妥当であると言います。
ナチスの集団的な残虐行為はこの服従の力によって普通の人が自分の大切な倫理観や道徳心、意思決定を失わせたのです。
社会を持つ人間は、高次の権威や地位をもった他者やルールに従うことで形成されています。
私たちが意思決定して行なっている行動や思考もこのような社会の影響を無意識的にも大きく受けています。
私たちが正しいと思って行なっていることもその時代であるからこそ正しいと言えるのかもしれませんし、自分の意思で行っていると思いきやその環境に突き動かされているだけなのかもしれません。
このような視点は非常に見えずらく無意識的であるため、時に意識的に考えることで役に立つこともあるように思います。
特に失敗や「なんであんなことをしてしまったんだろう」という失態などで。
権威の服従に最も広範囲に影響するのが「責任感の喪失」である。
Facebok相田 公弘さん投稿記事 アメリカ・インディアンの教えです。
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批判ばかり受けて育った子は非難ばかりします
敵意にみちた中で育った子はだれとでも戦います
ひやかしを受けて育った子ははにかみ屋になります
ねたみを受けて育った子はいつも悪いことをしているような気持ちになります
心が寛大な人の中で育った子はがまん強くなります
はげましを受けて育った子は自信を持ちます
ほめられる中で育った子はいつも感謝することを知ります
公明正大な中で育った子は正義心を持ちます
思いやりのある中で育った子は信仰心を持ちます
人に認めてもらえる中で育った子は自分を大事にします
仲間の愛の中で育った子は世界に愛をみつけます
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インディアンは、常に7世代先の子孫のことを考えて自然と共に暮らしていたそうです。
食料であるバッファローを狩るとき、バッファローの群れの中から、年老いたものを狙います。若いもの、子供がいるものは、絶対に狙わないようにと教えられ、その見分けがつくようになるまでに3年の修行。さらに、矢が当たるようになるまで3年。
そして、その心臓は土に返し、残りのものは、すべて食べ、食べられないケンはドリームキャッチャーの糸にし、牙は首飾りにして、バッファローが自分達のために死んでいったことを称えるそうです。
むやみに殺生しないし、すべての生き物、植物に感謝をして生きる。
7世代先の子供たちを考えたら、自然破壊や環境汚染、食物連鎖、さまざまな問題があります。
今だけ、自分だけ、良ければいいのか?
まだまだ続いていく人達の為にも、子供たちのためにも、このインディアンの考え方は学びが深いです。
※魂が震える話より
🔵他の投稿をページ「あいことば」に載せてます。m(_ _)m
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