「伝統俳句と前衛」

https://note.com/qoocrietion278/n/ndcb2e613b0d1 【【言葉】「アンチテーゼ」とは?】より

「アンチテーゼ」とはどういう意味でしょうか?

この記事では言葉の意味を分かりやすくまとめ、解説します。

これだけ知っていれば、無問題(もーまんたい)!

★「アンチテーゼ」の基礎知識

アンチテーゼは哲学用語です。

アンチテーゼはドイツ語「antithese」です。

ある理論に対して反対の論理を提示することを言います。

アンチ:反対の テーゼ:命題/主張/意見

アンチテーゼはただ主張に対して反対意見を述べることではなく、

その意見を「認めた」上で、反対意見を述べます。

頭ごなしに否定したり、誹謗中傷することではありません。

テーゼがあるからアンチテーゼを述べることができることを

忘れてはいけません。

★「アンチテーゼ」の使い方

死とは生のアンチテーゼだ。

彼は社会に対するアンチテーゼを唱えた。

大量生産・大量消費時代のアンチテーゼとしてミニマリストが話題だ。

★テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ

アンチテーゼはもともとドイツ思想家ヘーゲルが唱えた「弁証法」における思考の変化プロセスの事です。

タイトルにある通りアンチテーゼは単体の言葉ではなく、テーゼとジンテーゼを合わせた三位一体の言葉と言えます。

これらは哲学的に文章にすればとても難解ですが、例をだすと誰でもわかりやすいと思います。例えば、

テーゼ「これは丸だ」

アンチテーゼ「いいや四角形だ」

ジンテーゼ「つまりこれは円柱だ」

テーゼ「Aの意見に賛成だ」

アンチテーゼ「いいやBの意見の方が良い」

ジンテーゼ「じゃあ両方とも取り入れた意見を考えよう」

簡単に言えばこんな感じです。

この三位一体は『弁証法』という考え方の具体例になります。

テーゼは議題を提示します。アンチテーゼは議題に対する反対意見を提示します。ジンテーゼはこれらの意見を合わせます。……そんなイメージです。

★最終的に「アウフヘーベン(止揚)」に至る

この記事はアンチテーゼに関する記事なのですが、「アウフヘーベン」も押さえておきましょう。(ちなみに→止揚:しよう と読みます)

「アウフヘーベン」とは「弁証法」という考え方の最終段階の事です。

世の中にはいろんな議論が繰り広げられています。上記の例は2つの意見を対立させた形に過ぎませんが、意見の数はもっと存在する場合があり、それらの議論の究極目標は「昇華」にあります。

人は限りなく客観的に物事を見ること自体は可能ですが、主観から離れることはできません。だから相手の意見を聞いて議論をするのです。議論の本質は自分の意見を説得し、納得させ、倒すことにありません。議論の矛盾を調整し、誰もが一人では至らなかった結論や納得するような答えを見つけることで初めて議論の意味があります。

アウフヘーベンは議論をより高次な次元へと昇華することなのです。

先ほどの例にあった円柱の話ですが、丸や四角が議題になっていました。

丸や四角は二次元的です。これらの意見を合わせて円柱という三次元へと思考が昇華しました。これをアウフヘーベンといいます。

★まとめ

話が脱線してしまいましたが、「アンチテーゼ」とは「相手の意見を尊重した反対意見」のことです。アンチテーゼを含む「弁証法」という考え方は日常生活においてとても役に立ちます。

是非とも活用してみてください。


https://sengohaiku.blogspot.com/2022/03/genhaikouza45-008.html 【【赤野氏】「伝統」「前衛」について】より

11月20日(土)ゆいの森あらかわ

「近代人にとって王道(伝統)は我慢のならない桎梏であるところから、常にそれに対する反攻を繰り返しています」

というご意見については、かなり違和感を感じます。どちらかといえば、近現代人にとって伝統とは、ご都合主義的な権威付けの手段の側面が強いと思われるからです。

 たとえば現代日本で「伝統俳句」といった場合、無季や社会詠、破調は含まれないものとして扱われることがほとんどでしょう。しかし、それは「ホトトギスの伝統」であって、俳句、俳諧の「伝統」ではありません。現代の目から見れば新興俳句、前衛俳句もすでに「伝統」である上、子規や俳諧の時点ですでに無季、社会詠、破調などは含まれていた要素です。

 したがって、現代のいわゆる「伝統俳句」を高柳重信に倣って「偽伝統派」と呼んでもよいのですが、そもそも伝統というものは現代から遡及して設定されるものだ、という基本的性質をよく表す事例と考えるべきなのかもしれません。

 同時に「前衛」というのもよくわからなくなっています。現代において、「前衛俳句」の意味するところはは、かつての前衛俳句というお手本のある「スタイル」となっています。要は練習すれば誰でも(出来不出来はともかく)真似できるものです。「前衛」の本来的意味からすれば、そんなものを前衛とは言わないでしょう。

 まあ言ってもいいのですが、少なくともそういった「偽伝統vsスタイル前衛」では、ヘーゲル的な価値ある対立になるとは思えません。

 「伝統俳句vs前衛俳句」というアングルは、昭和の一時代には機能したのかもしれませんが、現代においては賞味期限切れといわざるを得ないのではないでしょうか。あるいは、この対立は「現代俳句」というジンテーゼとしてすでに解消した、といっていいのかもしれません。

 ヘーゲルと書きましたが、一般論として、ある種の対立や競争が物事を前進させるエネルギーになることはあるでしょう。ただし、どんな対立や競争でもいいというものではありません。米国流成果主義競争を真似て荒廃していった日本の労働環境などはわかりやすい例でしょう。

 では現代において価値のある、機能する対立とはなにか、ということになりますが、まだ私も確立した見解は持っておりません。あえて言うなら、「文学vsビジネス」が主要な対立になってくるのかな、という予感はあります。この対立自体は古くからありますが、現代では俳句のビジネス化が進むことにより、新たな形で浮上してくるのではないかと思います。

 現代における価値ある対立軸については、筑紫様のご意見をさらに伺えれば幸いです。

【筑紫】

(1)伝統について

 伝統という言葉を用いているのは古いことではありません。また、現在色々論争する際に便利だから使っているのであって初めから伝統ありきではないということが大事です。伝統という言葉を使って何を言っているのかが大事なのだと思います。

 王道(伝統)に違和感を感じるというのは理解できます。私が言いたいのは、代表的伝統俳句主張者(虚子)が提唱している「題詠」こそが俳句の王道(始原)だということです。伝統などということは枝葉末節かもしれません。

 私が思うところ、俳句(というよりは俳諧、いや誹諧)の根源は題詠ですし、文学そのものが題詠でなくては生まれなかったと思います。北欧のサガや中国の楽府、記紀の古代歌謡、ユーカラや沖縄歌謡などがその根拠です。「イリアス」もそうした痕跡が見えるようです。作者の個性がにじみ出る紫式部やシェークスピアが出るのはそのはるかずっと後です。

 ご都合主義的な権威付けという批判や「伝統俳句」への拒否は、現代人として当然のことだと思いますが、我々の俳句の根源は明治からさらにさかのぼって江戸時代、連歌を介すれば平安時代にまで到着するのです。それらの人々の考えや感覚をなしにして俳句を考えることは難しいのではないかと思います。我々は何と言おうとも芭蕉の桎梏の中で模索しているのですから。現代人だからこそ拒否感を感じるので、古代人には拒否感はなく、ないしは関心がない(そもそもなんでそんな議論をするのかわからない)ということになると思います。

 その際使われるやすい自由という言葉もありがたい言葉ですが、自由そのものを我々は見る事が出来ません。何かから解き放たれるから自由なのであり、芭蕉から自由、江戸月並から自由、虚子から自由、新興俳句や前衛俳句から自由と言われて意味が初めて分かるのではないかと思います。現在の我々は何から自由にあるべきでしょうか。

 自由であるために必要なのは時代認識だと思います。伝統と前衛の対立が普遍的に間違っていたかと言われればそんな証明はなかなか難しいように思います。あの時代にあっては意味のある対立だったのでしょう。その時代の時代認識が問題です。では現在の時代認識から言えばいかなる対立事項があるかと言えば、様々な考え方があると思います。確かに、伝統と前衛の対立ではないように思えますが、その行く先は様々です。ご指摘のように「文学」vs「ビジネス」という考え方もあるでしょうが私はあまりしっくりきません。なんとなく一般文学論化している感じがあるせいかもしれません。

 私の感覚では、多分それを考える前提は、「俳句無風時代からの自由」を考えないといけないように思います(自由というよりは建設かもしれません)。

 全く思い付きなのですが、そんな中で、「俳句上達法」vs「鬱」は対立軸としてあり得るかとも思います。俳句の行動のモチベーションを何と考えるかという対立軸です。コロナだけではなく、高齢者は生活の不安から鬱になり、若い人は非正規雇用により鬱になっているようにも思います。気になるのは若い俳人が時折死んでいることです。澤田和弥や吉村鞠子、木村リュウジ等の名前が思い浮かびます。その原因は私が思っているのとは違うかもしれませんが、現代を象徴しているようにも思えます。

 とはいえ、これらは一種のメタファーですし、「俳句上達法=ビジネス」vs「鬱=文学」と還元すれば、ご高説に似てなくはないでしょうし、さらに「伝統=俳句上達法=ビジネス」vs「前衛=鬱=文学」と見ればお定まりの伝統と前衛の対立にも引き当てる事が出来るかもしれません。

 もちろん責任持って言える話ではありませんが、よく捕まえきれない時代を捕らえるためには、こんな風にさまざまに機軸をいろいろずらして考えてみて、帰納して行く先を考えてみるのも一つの方法のように思えます。


http://sapporoartlabo.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/73-1a72.html 【第73回「伝統俳句と前衛」】より

第73回 2017年4月28日(金)

講 師: 嵩文彦(詩人・俳人)

1938年網走生まれ。3歳の時帯広に移住。1956年帯広柏葉高校卒業。1957年北大医学進学課程入学と同時に句作を開始、道新読者俳句欄細谷源二に投句開始、しばしば一席に採られる。1960年医学部進学と同時に同人誌「あすとら」を発刊、句作をやめ詩作に転じる。1996年詩作をやめ句作を再開。2014年句作と並行して詩作を再開。2016年2月同人誌「奥の細道別冊」発刊に参加。現在に至る。

俳句の中に精神の自由を 

第73回レクチャーは、嵩文彦(だけふみひこ 俳句 詩人)にお願いした。題して「伝統俳句と前衛」。嵩は、レジュメを用意し、それに沿いながら順に話を進めてくれた。タイトルにあるように「前衛」と「伝統俳句」を対極に置きながら、具体的な作品を取り上げつつ自説を展開しながら、自在に論じてくれた。

Dake1

まず前衛思考のベースとなった、シュルレアリスムの受容に着眼してくれた。シュルレアリスムの美学は、既成の価値観を否定するものであったが、日本では、西脇順三郎や三好達治の作品にみられるように、「モダン」とイコールとなって定着したという。

一方の「伝統俳句」は、正岡子規の弟子たる高浜虚子が提唱した「花鳥諷詠」「客観写生」「季題」、この3つを絶対的「規範」として推し進められたという。

嵩は、この「伝統俳句」を批判的に捉えている。なぜだろうか。この「規範」では、「自然界・人間社会・世界」を厳しく認識することはできないという。というのも足元では人間が自然を破壊し、収奪し続けているからだという。それゆえにこの「規範」からは、表現者に大切な「批判的認識」と「積極的認識」が生起してこない、とかなり手厳しい。

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続いて俳句界の推移をかいつまんで紹介してくれた。嵩は、高浜虚子の結社「ホトトギス」からの離脱が進み、大きなウネリをもたらしたという。その代表的俳人に、水原秋櫻子、山口誓子らはいた。嵩は、山口誓子の「ピストルがプールの硬き面にひびき」「夏草に汽罐車の車輪来て止まる」を紹介した。いま詠んでも、新感覚の優れた句である。

その後、新興俳句運動が大きな渦を造り、いわゆる「自由律俳句」「無季俳句」が盛んになった。嵩が紹介してくれた高柳重信の句に驚いた。「きみ嫁けり遠き1つの訃に似たり」や「船焼き捨てし 船長は     泳ぐかな」だった。特に後者は詩のように行わけされ、さらに一行は「空け」である。斬新さをこえて意志的な、そして時間をもりこんだ句である。

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 さらに無季俳句が成熟を迎えた。その代表的作家として、細谷源二と西東三鬼らをあげていた。細谷源二は、工場労働者の生活俳句を提唱した方。「新興俳句弾圧事件」で検挙された。戦後になり北海道に移住後、「氷原帯」を創刊(主宰)した。その句「鉄工葬をはり真赤な鉄打てり」は、工場労働者の生活から生まれたもの。細谷には「戦争が廊下の奥に立ってゐた」があり、反戦の色合が濃い。実に深く心に訴えてくる力をもっている。戦時下で、細谷達が苦しんだように、国家体制の中に俳句運動全体が飲みこまれて行った。有季定型や客観写生にはむかうことは、国家体制への「反逆」とみなされたわけだ。多くの俳人が検挙された。そのたた新興俳句は大打撃をうけた。それが今も続いているという。 

最後に嵩は、いまの現況を見つめながら、「結社俳句」が権勢をほこり、表現行為をめぐっての厳しい論争もないことを憂いている。ただ小津夜景、大沼正昭、中村安伸ら、若い人たちが新感覚の作品をつくっているし、これからの動きに期待している。

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このように嵩は、表現者の1人として、前衛俳句の位置にたちながら、社会的視座をベースにおきながら、これまでの俳句の流れを辿ってくれた。嵩は、揺るぎのない意志を抱きながら、一貫して社会状況を批判的に見つめながら、句作している。だからこそ、このレクチャーは興味深かった。そしてこうもかんじた。嵩がもっとも大切にしているのは、どんな政治状況であっても「表現の自由」を奪われてはいけないことだと…。なぜなら「表現」とは、優れた批評的行為であり、それを喪失してしまえば、もっとも大事な「精神の自由」を喪失するからである。最後にひとこと。自作を紹介してほしかった。機会があったら、自作を軸にして表現論を展開してほしいと感じた。(文責・柴橋)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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