咀嚼と吟味 推敲

Facebook斉藤 一治さん投稿記事

卑弥呼:3990回 徳川家康:1465回 戦前の日本人:1420回。

現代の日本人は、一回の食事で620回しか噛んでいません。戦前の日本人でさえ、2、3倍の1465回も噛んでいました。斎藤滋 神奈川歯科大学教授著「噛めば噛むほど13の奇蹟」から流用

唾液は、唯一、人間に与えられた「生薬」であり、自然治癒力の源です。

噛む回数が減少しますと、唾液の分泌量も減り、自然治癒力も低下し、ガンを始めとする国策病(生活習慣病) に罹病する確立も高くなります。

現代人は、柔らかいものだけを、すなわち、噛むのは煩わしいので、噛む必要のないものを大量に食べています。

いいえ「食べて」いるのではなく「呑み込んで」いるだけです。

何故、戦後、私たちは「噛む」ことを忘れ、ガンを始めとする国策病に苦しんでいるのでしょう。そもそも、噛むことは、赤ちゃんの哺乳期から始まっています。

つまり、母乳は赤ちゃんの顎の上下運動が原動力となって分泌されます。

赤ちゃん(乳児)には歯はありませんが、飲むときの顎や咀嚼筋の動きは「噛む」ときと全く同じです。この上下運動によって、母乳が分泌され、咀嚼筋の発達が促進されます。

そして、その後、離乳期を迎えたときの準備(学習)をしています。

やがて、歯が生え離乳期がきますと、咀嚼筋は学習済みですから、スムーズに固形食に移行し、自然な形で噛むことができるようになります。

ところが、加工乳(ミルク)の「哺乳瓶」になりますと、大人がストローを使用して飲むような吸引運動になってしまいます。

吸引運動は、顎の上下運動を必要としません。

上下運動がないということは、咀嚼筋が動かない、多少、動いても「噛む」ために必要なほど、発達しなくなります。未発達のままであれば、咀嚼筋の機能は退化していきます。

「噛む」ことが出来なくなります。「噛む」ことは、学習しないと身につきません。

ですから、誕生したその日から、母乳で予行練習を繰り返して、十分に学習する必要があります。人間の赤ちゃんは、人間の母乳で育てて初めて「健康な人間」になります。

同書に記述されている「噛めば噛むほど13の奇蹟」は次の通りです。

ガンを防ぐ ボケない 糖尿が防げる 虫歯にならない 口臭をシャットアウト 骨粗鬆症予防 姿勢がよくなる アトピーを防ぐ 視力がよくなる 積極的な性格になる 内臓が若返る

性欲が増す 太らない  少なくても、一口、30回は噛みましょう。

貴方にも「奇蹟」が起きます。実際のところ、これは「奇蹟」ではなく、当然であり「自然の摂理」です。はい ありがとうございます。


https://jphaiku.jp/how/suikou.html 【推敲とは?】より

 推敲とは俳句の質を高めるために、字句を吟味して練り直すことです。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

 これは『奥の細道』に収録されている松尾芭蕉の名句です。

 芭蕉が元禄2年5月27日(1689年7月13日)に山形市立石寺を訪れ、岩に岩を重ねたような山姿を目の当たりにし、その静寂に心が澄み渡っていくような心境を句にしたものだとされています。彼はこれを一発でひらめいて書き残した訳ではありません。

山寺や石にしみつく蝉の声    淋しさの岩にしみ込むせみの声

さびしさや岩にしみ込む蝉のこえ といった、試行錯誤段階の句も残されています。

 現存するだけでも4つの別バージョンの句が存在することから、芭蕉が山寺の麓の宿に逗留しながら、たくさんの失敗作を作って、これも違う、アレでもない、と悩み抜いたことがうかがえます。

 名句という先入観があるにしても、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の方が、下記の3つの句より、山寺の静寂に満ちた情景や物悲しさが伝わって来ると思います。

 ちょっとした言葉の変更によって、句全体のイメージや質が大きく変るのです。

 推敲という言葉の語源は、中国の唐詩紀事に収められた次のエピソードにあります。

 唐の中頃の時代、賈島(かとう)という男がロバにゆられながら、詩の創作に夢中になっていました。

 彼は「僧は推す月下門」という句を思いついたのですが、途中から「僧は敲く月下門」の方が良いのじゃないのかとも考え始めました。

 どちらにしようか迷って、ロバの背で門を推したり敲いたりする仕草をしていたところ、前方不注意で、長安都知事、韓愈(かんゆ)の行列に突っ込んでしまいました。

賈島は役人に捕らえられて、韓愈の前に引き立てられ、非礼をわびて事情を説明しました。

 韓愈は、詩人としても名高い人だったので、「それは君、『敲く』のほうが良いな。月下に音を響かせる風情があって良い」とアドバイスしました。

 これをきっかけに二人は意気投合し、二人は詩について論じあったそうです。この故事を元に、詩や文章を吟味して手直しをすることを『推敲』と呼ぶようになったのです。

推敲のコツ

 俳句が出来上がったり、推敲で手直しした後、一日時間をおいて、再度、声に出して読んでみると良いです。時間を経過させることで、より客観的に自分の作品を見直すことができ、欠点に気づきやすくなります。この際、声に出してみることで、リズムの善し悪しも吟味できます。俳句は音楽的要素も強いので、耳に心地よく響くかどうかも重要です。

 松尾芭蕉は、次のように述べています。 句調はずんば舌頭に千転せよ。

「句の調子がうまく整わないときは、千回は口ずさんでみなさい」 という意味です。

 句が耳にどのように聞こえるか、その音楽性を芭蕉は重視していたわけですね。

 また、推敲段階で浮かんだ句は、芭蕉のように消さずに残しておき、後で見比べられるようにしておくことをオススメします。

 もしかすると、最初に浮かんだ句や、手直しする前の句の方が、推敲した後の句より質が高いかも知れないからです。

やり過ぎに注意

 小説などでも文章の推敲を行なうのですが、作家の中には後書きで、「たった一行の文章をこねくり回して、気がついたら一日が経っていました」と告白する人もいます。

 文芸には、これで100点満点という線引きが無いので、より高い質の句を目指して、永延と推敲を続けることができます。

 賈島が韓愈の助言を受けて「僧は敲く月下門」にしようと決めたのに、「いや『僧は蹴る月下門』の方が良いんじゃないか? いらだつ感じが出る」などと考えて、悩み続けるようなものです。

 下手にこねくり回した結果、当初の良さが消えて、質が悪くなることもありえるのです。長く推敲を続ければ、質がドンドン向上するといった保証はありません。

 時間も有限ですので、ある程度、推敲をしたら、切り上げる必要があります。


https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_01.jsp 【「切字(きれじ)」を上手に使おう】より

かったるさを表現

居残りの窓の向こうは夕時雨

 齊藤徹生さん(秋田中央高3年)作。放課後の教室、勉強に飽きて窓の外を見ると夕時雨。これをさらにふくらみのある句にするため、切字の「や」を使い、

居残りや窓の向こうは夕時雨

としてはどうでしょうか。かったるい気分が出ると思います。

読者の視線を誘う

鹿の子跳ね川石濡らすひづめ跡

 雄勝高校を今春卒業した篠木諒太さん(横手市、会社員18歳)作。子鹿が川の石を跳んで渡った「跡」を詠みました。今眼前を跳び渡っている姿を想像して、

川石を濡らすひづめや鹿の子跳ぶ

としてはどうでしょうか。読者の視線は「ひづめ」に集中します。

スピード感を出す

はまなすやカーテン開ける旅の朝

 堀川南さん(秋田北高3年)作。宿に泊まって目が覚めた。サッとカーテンを開くと目の前にハマナス。さっきの二句と逆に、あえて「や」を使わない書き方を試みます。

はまなすにカーテン開けて旅の朝

としてはどうでしょうか。カーテンとハマナスが近くなります。また、スピードのある語り口になると思います。

 切字の「や」は<古池や蛙飛こむ水のおと>の「や」です。「や」があると一句の中に小休止が出来ますので、句がゆったりと仕上がります。「や」の前の言葉(さきほどの「居残り」「ひづめ」)を強調する効果もあります。その一方「や」を使うと句が古めかしく見えることもあります。「はまなす」の例のように、あえて「や」を使わない選択肢もあります。「や」を使う形と使わない形を書き並べ、見比べるとよいでしょう。

句案を見比べる

河童忌に鼻のにきびをつぶしけり

 外舘翔海さん(秋田北高3年)作。河童(かっぱ)忌は芥川龍之介の忌日。芥川の『鼻』は異常な鼻に悩む高僧を戯画(ぎが)化した作です。そのことを思いながら自分の鼻のニキビを潰(つぶ)したのです。

河童忌の鼻のにきびをつぶしけり

とすると「河童忌」と「鼻」の関係が近くなります。そうすると作者の意図が見え過ぎるので、あえてさりげなく「河童忌に」としたのかもしれません。「や」を使って「河童忌や鼻のにきびをつぶしたる」と書くこともできます。

 どの形が自分の気持にしっくり来るか。自分が自分の句の読者になったつもりで複数の句案を見比べることが肝心です(言うは易く、行うは難しですが)。

さあ、あなたも投稿してみよう!


https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_82.jsp 【「や」の上手な使い方】より

 死骸なきがらや秋風かよふ鼻の孔 飯田蛇笏

 息絶えた亡骸(なきがら)の鼻の穴を秋風が吹きかよう。一読ドキッとする句です。「仲秋某日下僕高光の老母が終焉に逢ふ。風粛々と柴垣を吹き古屏風のかげに二女袖をしぼる」と前書にあります。1927(昭和2)年、素封家の家に「下僕」がいた時代の作です。

 この句の凄(すご)さはいきなり「死骸」が出現するところ。句だけを読むとただ冷厳なだけの句にも見えますが、前書には家父長的な慈しみが垣間見えます。

 

 北風やほとけの足のぶうらぶら 蛇笏

 

 「ほとけの足のぶうらぶら」は縊死(いし)のようにも思えますが、前書には「師走某日甲府錦町にて病院を出で来たれる男女の一団に逢ふ」とあります。病院で亡くなった人の亡骸を何かに載せて運ぶのでしょう。「ほとけの足」が長いため「ぶうらぶら」と揺れている。

 強烈な印象な二句ですが、「北風や」と比べると、切字(きれじ)の「や」をこともあろうに「死骸」に使った冒頭の句の大胆さがよくわかります。

 今回は切字の「や」を使った句、「や」を使いたい句を取り上げます。

何が重点か吟味する

野遊びやアミガサタケをひとりじめ

 和久井緞帳さん(茨城県、76歳)の作。「野遊び」が春の季語。秋季が多いキノコの類のなかで、アミガサタケは春。野遊びで見つけました。大量に採れるものでもなく、一人で採ってしまうほどの生え方だったのでしょう。「ひとりじめ」は嬉(うれ)しい気持ちと思われますが、もっとピッタリの表現がありそうです。

(1)野遊びのアミガサタケを獲たりけり

(2)野遊びやアミガサタケを獲て帰る

 (1)は、切字の「や」に代えて「けり」を使いました。「や」と「けり」は原則併用しませんので、上五は「野遊びの」とします。「獲たりけり」は「やったぜ、収穫したぞ」という心持ち。「野遊び」よりも、キノコを獲たという事柄のほうが強調されます。

 (2)の「獲て帰る」は「獲って帰って食べるのだ」という心持ち。上五は「野遊びや」のまま。キノコが採れて嬉しい、そんな野遊びだったのです。(2)のほうが、「野遊び」に重点を置いた表現です。

切字で句をふくらます

湯のごとき喜き雨うやたちまち潦にわたずみ

 阪上智子さん(神戸市、61歳)の作。「潦」は水たまり。「喜雨」は夏の季語で、旱(ひでり)のさなかに待ち望んだ雨。「湯のごとき」でなまあたたかい雨だとわかります。「喜雨にたちまち潦」や「喜雨のたちまち潦」でも同じ意味ですが、「喜雨や」と「や」で切ることで句にふくらみが生まれます。

表現を軟らかくする

たんぽぽの岬の丘に怒ど涛とう音

 小柏久男さん(群馬県、75歳)の作。この句に「や」を使ってみましょう。

たんぽぽや岬の丘に怒涛聞く

 「怒涛音」は硬い表現。丘にいて波の音が聞こえるのですから、「怒涛聞く」といたしましょう。

シンプルに表現する

リンドウにお盆告げられて墓そうじ

 犀草さん(にかほ市、71歳)の作。この句に「や」を使ってみましょう。

リンドウが咲けばお盆や墓そうじ

 お盆が来ることをリンドウに告げられるというのは擬人法。意味はわかりますが、凝った言い方をせずとも、ふつうの言い方でよいと思います。山にある墓でしょう。お盆とリンドウは秋季の季重なりとなりますが、このような形で一句の中に並ぶと自然な感じがします。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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