カニクサ・蔓が一枚の葉

https://hanamoriyashiki.blogspot.com/2014/01/12.html 【カニクサ(1/3) 日本で最大の葉 胞子は海金沙 本草綱目,大和本草,和漢三才図会,広益地錦抄,用薬須知,物類称呼,本草図譜,本草綱目啓蒙,物品識名,薬品手引草】より

2014年12月 左:栄養葉, 右:胞子葉

シダ類では珍しく,他物に絡まるつる性で,長さ3メートル近く伸びるこの蔓が一枚の葉である.したがって日本では主軸方向の長さで最大の葉を持つ植物といえよう.茎は地下にあり横に這いその先端の地上部から葉(蔓)を伸ばし,左または右に巻く.すなわち一株で左右の巻き方が混在する.この葉の主軸(蔓)から,複数の小葉からなる羽片が左右に出る.

小葉には胞子のつくもの(胞子葉-上図右)とつかないもの(栄養葉-上図左)の分化が見られ,形状がことなり,栄養葉のほうが鑑賞的価値が高い.秋が深まると,胞子葉は縮れてまるまり,多くの褐色の胞子嚢がついて,胞子を放出する.

この黄色~赤褐色の胞子(左図)を集め乾かしたものを,漢方では「海金沙」と呼び,内服或いは煎じた液を飲むと「清利湿热,通淋止痛。用于热淋,砂淋,石淋,血淋,膏淋,尿道涩痛」と淋病や利尿に効があるとし,カニクサ自身も「海金沙」と呼ぶ.

「海金沙」は中国の古い本草書『神農本草経』,『新修本草』には見られず,掌禹錫『嘉祐本草』(1059成書) に初めて記載されたようである.

日本の本草学に大きな影響を与えた,明の李時珍『本草綱目』(1596) 草之五,隰草類下 には「海金沙 (宋《嘉 》)【釋名】竹園荽。

時珍曰︰其色黃如細沙也。謂之海者,神異之也。俗名竹園荽,象葉形也。

【集解】禹錫曰︰出黔中郡,湖南亦有。生作小株,高一、二尺。七月收其全科,於日中暴之,小乾,以紙襯承,以杖擊之,有細沙落紙上,且暴且擊,以盡為度。

時珍曰︰江浙、湖湘、川陝皆有之,生山林下。莖細如線,引於竹木上,高尺許。其葉細如園荽葉而甚薄,背面皆青,上多皺紋。皺處有沙子,狀如蒲黃粉,黃赤色。不開花,細根堅強。其沙及草皆可入藥。方士采其草取汁,煮砂、縮賀。

【氣味】甘,寒,無毒。

【主治】通利小腸。得梔子、馬牙硝、蓬沙,療傷寒熱狂。或丸或散(《嘉 》)。治濕熱腫滿,小便熱淋、膏淋、血淋、石淋莖痛,解熱毒瓦斯

【發明】時珍曰︰海金沙,小腸、膀胱血分藥也。熱在二經血分者宜之。」とある.

日本においては,『本草綱目』の最初の和刻本である寛永14年 (1637) 版では「海金沙」の和名をスナクサとしている.

磯野によれば「海金沙」を「カニクサ」と比定した文献の初出は★貝原益軒著『本草綱目品目』(右図中央,1680年頃?)で,「海金沙 イトカツラ タタキクサ カナヅル カニクサ」と記している(右図中央 NDL).

これは寛文12年(1762)初刊『校正本草綱目』和刻本の附録である.しかしこの版の『本草綱目』本文では,「海金沙」の和名は「スナクサ」とされている(右図右端 NDL).

この版は,本文も貝原益軒が訓点を付したとされるが,このように,同一漢名に対する和名が本文と附録で異なる場合も多く,また本文と附録の枠の大きさが違うので,本文の校訂に貝原益軒は関与していないようである.

一方,本草家の稲生若水が校正し,和刻本のなかで一番優れているといわれている「新校正本」,正徳4(1714)版では,本文中の「海金沙」の和名は「カニクサ」とされ,貝原益軒の比定が取り入れられている(右図左端 NDL).

これ以降は,「海金沙」=「カニクサ」が一般的に認められたようである.

★貝原益軒『大和本草』 (1709) 巻之八 草之四 には「海金沙 カニクサ 七月二日ニ乾シタヽクニ金砂アリ 唐ヨリ来ルニ性ヲトラス 京都近辺ニテカニグサ又カンツルト称ス 江州ニテタヽキ草ト云又イトカヅラト云 西国ニテハナカヅラト云 ツルアリ ヨウノ内岸ノ側ニ多シ」とある(左図左端 NDL).カニクサから秋に収穫された胞子の,海金沙としての薬効は「唐ヨリ来ルニ性ヲトラス」としている.さらに,いくつもの地方名を記されているところを見ると,広く民間に親しまれていたと思われるが,それは薬用としてではなく,その特異な形状やつるの用途に由来すると考えられる.

また同書の 巻之九  草之五には「カニトリ草 細草也蔓草ノ如シ 其葉両々相対セス 和礼ニ祝儀ニ用ユ シノフヲ用ルハアヤマリナリ 紋ニモ付ル」とあり,また「和礼ニ祝儀ニ用ユ」とあり,儀礼用或いは神事に用いたことが分かり興味深い(左図右端 NDL).

★寺島良安『和漢三才図会』(1713頃) では,カニクサと海金沙とは別項を立てている.

巻第九十四の末 には

「海金沙(かいきんしゃ) 竹園荽

〔俗に須奈久佐(すなくさ)。また多多岐久佐(たたきぐさ)ともいう〕

『本草綱目』に次のようにいう。

海金沙は山林の下に生える。茎は線のように細く、竹木の上に引き張る。高さは一尺ばかり。葉は細くて園荽の葉のようで大へん薄い。表面も裏面も青く、上に皺文が多い。皺の処に細沙があり、子の状は蒲黄粉(ガマの花粉)のようで黄赤色である。花は開かず、細根は堅強である。沙も草もみな薬に入れる。七月にその全科(菜も根もすべて)を収め取り、日中に曝し、少し乾くと紙を下に敷いておいて、杖で撃くと、細抄が紙の上に落ちる。また曝し、また撃くという動作を細抄のなくなるまで続ける。

気味〔甘、寒〕  小腸・膀胱の血分の薬である〔熱がこの二経の血分にある場合はこれがよい〕。熱淋急病の場合には、粉末にし、生甘草粉に煎じて二銭を調えて服用する〔あるいは滑石(雑石類)を加える〕。妙験がある。

△思うに、海金紗は和漢ともに用いる。江州から出るものが良い。また江浦草(つくも)の子を海金抄と偽るものもある。そのようなときは撚ってみて粘らないものが本物、土を撚るようで粘るものは偽である。」とある(右図右端・現代語訳 島田・竹島・樋口,平凡社-東洋文庫).

一方,巻第九十八 には「蟹草 俗称 △思うに、蟹草は山谷の石の割れ目に生えている。人家の手水鉢の際に栽える。高さー尺ぐらい。茎は細く硬く、葉は細長く扁(ひらた)くて、韮の葉の様に似ている。叉がある。葉は表裏とも蒼く、四時(いちねんじゅう)凋まない。花・実はない。」(上図左端・現代語訳 島田・竹島・樋口,平凡社-東洋文庫) とあり,人家で鑑賞用として植えられていた事が分かるが,それほどの暖地ではないのに,常緑性とも言っているのが不審である.

★伊藤伊兵衛『広益地錦抄』(1719) 巻之七 薬草四十五種 には,垣根にからませた図と共に,「海金沙(かいきんしゃ)葉形しのぶににたり 細長に切込あり 蔓ほそく竹木にからみ付テしげる 花はなし 葉をながめとせる 俗につるしのぶともかんつる共いふ」とあり,観葉植物として庭植えしていたことが分かる(左図,NDL).

★松岡恕庵(1668-1746) 『用薬須知後編』(恕庵の没後遺稿を整理編集して1759年に刊行) 後編巻之一 には「和用ユヘシ 和俗スナクサ カニクサ サミセンクサ リンキヤウクサト云フ 江戸種樹家(ハナヤ)ニテハツルシノブト云 葉ノ背ニ黄点アリ 即チ花也 葉ヲ陰干シテ紙上ニ撃(タタ)ケハ黄点落ツ 是ヲ用ユ 庸医誤リテ海底ノ沙ヲ用ユ 笑フヘシ 補骨脂ヲ誤リテ紙ト謂ヘルカコトシ」と和品で十分薬効を期待できること,また,名前につられて海底の砂を用いる医師がいることを笑い話として記している.

江戸時代の文物の方言資料として名高い,★越谷吾山 編輯『物類称呼』 (1775)  巻之三 には,「海金沙 うにくさ○京にて○かにくさ又かんつると云 近江及美濃或ハ上野にて○たたきぐさ又いとかづらと云 西国にて○はなかづら又さみせんかづらといふ」とある(下図左端). 

いずれも NDL

★小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806) 巻之十二 草之五 湿草類下 には,「海金沙 スナグサ カニグサ(大和本草ニ京師ノ名トス 然レドモ今ハコノ名呼ズ) カンヅル(同上) カニヅル カナヅル イトカヅラ(江州) タヽキグサ(同上) ハナカヅラ(西国) サミセンカヅラ(同上) ツルシノブ(江戸) サミセンヅル(和州) リンキヤウグサ(用薬須知後篇) カニコグサ(勢州)」と多くの地方名とともに,「原野ニ極テ多シ。蔓草ナリ。三月宿根ヨリ苗ヲ生ズ。一二尺マデハ直立シテ草本(クサダチ)ノゴトシ。

故ニ禹錫ノ説ニ、初生作小株高一二尺ト云。今ノ本ニ初ノ字ヲ脱ス。宜ク補べシ。苗長ジテ藤蔓細ク堅シ。長ク草木上ニ纏フ。其蔓ヲ採、外皮ヲ到リ去バ、中ニ堅キ心アリ。黄色ニシテ光アリ。三弦ノ線ノ如シ。小児戯ニ両端ヲ引テ弾ズレバ声アリ。故ニ、サミセンヅル云。葉ハ井口辺草(トリノアシクサ)ノ葉ニ似テ、深緑色。夏己後蔓ノ末ニ生ズル葉ハ、甚細ニシテ海州骨砕補葉(シノブ)ニ似テ、脚葉ノ形卜異ナリ。秋ニ至テ葉背ゴトニ皆辺ニソヒテ高ク皺ミ、巻カへツタル状ノゴトク見、其中ニ金砂ヲ含ム。脚葉ニハ沙ナシ。其梢葉ヲ採、紙ヲ襯(ハダ)キ、日乾スレバ細沙自ラ落テ紙上ニアリ。収貯ヘ、薬用ニ入。本経逢原ニ、市舗毎以秒土知入、須淘浄取浮者曝乾、撚之不粘指者ト云。」と生育地・形状,さらには栄養葉・胞子葉の細かい形状の違い,「金砂」の収穫法,市販品中の真の「金砂」の見分け方が記されている.

★岡林清達・水谷豊文『物品識名』(1809 跋)  乾五十 には「カニグサ ツルシノブ江戸 海金沙」とある(上図中央).

★岩崎灌園『本草図譜』(1828-1844)巻之二十 には「海金沙(かいきんしゃ)かにくさ 山中の樹下に生□春月宿根より生え蔓草なり 茎細くして黄絲如くして硬く竹木を絡ふ 葉ハ仙人掌草□に似て花叉多く互生し蔓長さ二三尺 梢葉ハ小雉尾草(がん志のぶ)に似て葉の背に黄色の細点阿り 是実□乾して振い落こと砂のごとし」とある.(左図,□は判読不能文字)

★加地井高茂 [編]『薬品手引草』(1843)上 には「海金沙(カイキンシャ)竹園荽(チクヱンスイ)すなくさ かにくさ つるしのぶ 和」とある(上図右端).

カニクサ(2/3)ツンベルク,英国では観賞用,米国では世界最長の葉に成長,野生化して厄介


https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=5173 【「むすひ」「修理固成」…古事記のキーワードと大国主神の力】より


大国主神に学ぶ日本人の生き方(4)「むすひ」と「修理固成」の力

鎌田東二鎌田東二京都大学名誉教授

概要・テキスト

『悲嘆とケアの神話論ー須佐之男と大国主』(鎌田東二著、春秋社)

『古事記』における重要な2つのキーワードに、「むすひ」と「修理固成」がある。世界神話には見られない日本神話の特徴でもあるこの2つは、どういったものであるか。また、この2つがもたらす天壌無窮の「終わりなきダイナミズム」とは。さらに、これらが大国主神のもつ健康と癒しのわざである「なおす力」にもつながっていくことを解説する。(全9話中4話)

※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)

≪全文≫

●『古事記』の重要な2つのキーワード

―― その大国主神の背景になるものとして、「むすひ」と「修理固成」があります。この2つは、これまでの講義でもお話しいただいています。

鎌田 そうです。キーワードでしたね。

―― すでにお話しいただいているので、ここでは簡単にご説明いただくと、どういうことになるでしょうか。

鎌田 今までの日本神話の、特に『古事記』におけるメッセージのキーワードを2つ挙げよと言われれば、私は「むすひ」と「修理固成」を挙げます。「修理固成」をどう読むかはいろいろな説があるのですが、「おさめ、つくり、かため、なせ」と岩波文庫では読んでいます。それに従って見ていきます。

 「むすひ」とは根源的な生成力で、その生成力は先ほど言ったような創造も生み出すけれども、破壊的な部分、死の部分をも含み持ちます。だけれども、その後もさらに創造、生成を続けていく。この根源的な生成の力が、生存の基盤にある、存在の基盤にある。

 では、それをどうやって運営していくか(託された運営の有り様)。農業をするためには種が必要だし、それを育てる水が必要だし、いろいろなやり方や創意工夫があるでしょう。「修理固成」とは、まさにその創意工夫の有り様です。だから、それはテクノロジーでもあり、1つの作法でもあり、儀礼のようなものなど、いろいろなものを含みます。そして、それはある種の生存の哲学に則りながら、生存の戦略として編み出されてくる。メソッドやテクノロジーなども含みます。それが「修理固成」という言葉になる。

 つまり私たちに、「この世界はどのような状態になっていても修理できる。作り直せ、固め直せ、修め直せ」といっている。要するに、なおす(リコンストラクション、リプロダクション)、再び新たにそれを甦らせる、あるいは甦らせることができなくても再構築(リメイク)していくことができる。

 映画などでもリメイクされたカバー曲などがあるでしょう。神話にもいろいろなメッセージがあって、伝わっていくということはリメイクできるからなのです。そのリメイク力がないと、生き延びられないのです。

 「同じものを同じ形で」というのは、創業者が替わって2代目、3代目はできません。でも、うまくリメイクしていけば、それは続いていく。できなければ、そこで途絶えてしまい...

https://www.youtube.com/watch?v=CAk_M8Ha0Hk

https://note.com/onoteru/n/n604974ede55e 【お”むすび”、”むす”こ・”むす”め、”むすび”の言葉…「結び」付くことで生まれる力】より

こちらの御朱印で、キーワードとなるのが「むすび」という言葉です🎀

皆さんは、「むすび」という言葉から何を思い浮かべますか?

「結ぶ」という言葉には、“ひも状のものをくくる”という意味のほかにも「繋げる」「まとめる」「創る」「固まる」「締める」のようなさまざまな意味があり、「人と関係をむすぶ」「契りをむすぶ」といった“ご縁や心をつなぐ”意味でも使われます。

古来、願いを込めて結ぶことは、“人の想いまでをも留まらせることができる”と考えられていました。

神社でも「しめ縄」という形で幾重にも結ばれた縄で結界を張ったり、願いを込めておみくじを「結ぶ」行為など、日本には「結び」に関する文化が多くあります。

例えば、結婚式やお祝い事などめでたい場で使われる水引。

こちらも「結ぶ」ことにより、“人と人を結びつける”という意味が込められています。

「結び」の挨拶なども、締めくくりにその集まりの意義を再確認して、人と人の心を結ぶものですよね。

このように、私たちの生活の中でも「結び」の意図を忍ばせたモチーフや言葉は、意識すると至る所で目にすることができるのです♪

◆「結び」の語源は日本神話にあり!

「結び」という言葉のルーツは、日本神話に出てくる「産霊」(ムスヒ・ムスビ)といわれており、古来から神道においても大事な観念として語り継がれています。

「ムス(産)」には“生み出す”、「ヒ(霊)」には“神霊の神秘的な働き”という意味があり、ムスヒ(産霊)とは、「結びつくことによって神霊の力が生み出される」ことだと解釈されています。

日本最古の歴史書である古事記には、“天地が形成された始まりの時に、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ、高御産巣日神(たかみムスヒのかみ)、神産巣日神(かむムスヒのかみ)という三柱の神が現れた”と記されています。

この中の2柱の神名にも「ムスヒ」が見えることなどからも、「天地万物を生成する霊妙な力をもつ神霊」とも定義されています。

いかに「産霊むすひ」が大事にされてきた観念であることがうかがえますね♪

また、自分の子どものことを「息子(ムスコ)」「娘(ムスメ)」といいますが、実はこちらの言葉もムスヒ(産霊)から生じた言葉なのです。

「息子」は<むすびひこ・産彦>、「娘」は<むすびひめ・産姫>という言葉の略称なのだそう。実は、いろいろなところに「ムスビ」という言葉は隠れていたんですね!

◆新嘗祭にいなめさいと「むすび」

今月11月23日には「新嘗祭にいなめさい」があります。

新嘗祭は、その年の収穫に感謝して初穂はつほを供えて神々をもてなし、共に食すことで契りを深め神様の御力を戴いただく。

宮中の恒例祭こうれいさいでも最も大事にされている儀式です。

また、新嘗祭はその年の勤労で結んだ成果を国民一体となり神様に捧げ、そのご縁を深く「むすぶ」儀式でもあります。万物に神が宿ると考えられていた古来の日本では、物の結び目にまでも神の心が宿っていると考えられていました。

「あらゆる“ムスビ”に感謝して生きる」ということには、先人たちの“万物との調和を尊ぶ心”が生きているのですね…!


https://www.setojinja.or.jp/kouza/kouza13.html 【「修理固成」について】より

「修理」といふ言葉があります

自動車の修理といふやうに、現在も使用される言葉ですが、古くは「古事記」に記載される言葉です

「古事記」の中の、伊邪那岐命・伊邪那美命の国生みの場面にこの言葉がでてきます

天津神が天地が別れたばかりの、まだドロドロしたような世界を、「この漂へる国をつくり固めなせ」と二柱の神に命じますが、この「つくり固めなせ」の漢字表記が「修理固成」となつてゐるのです

ここでは「修理」といふのは、単に、故障したものを直すといふだけの意味ではありません

堅固な大地を造りだし、人が生活を営む国土を創成するといふ壮大な意味合いも含まれた言葉です

伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神さまは、この言葉とともにアメノヌボコと呼ばれる矛を賜り、天の浮橋といふ天空の虹のような橋の上から、この矛をドロドロした下界に差下ろし、コオロコオロと音を立ててかき回して、その矛を引き揚げると、矛の先から滴り落ちたしづくが、固つてオノコロジマと呼ばれる島になりました

これが「国生み」のはじまりです

このオノコロジマにおいて夫婦の契りを結ばれた二柱の神さまにより、小豆島や隠岐の島、佐渡島などに続き、四国、九州そして本州が生まれ、日本の国土が誕生したということが、日本神話の始りに語られてゐます

この国土に次いで、二柱の神さまは、岩の神、木の神、海の神、水の神、野の神、風の神、山の神など次々に様々な神々をお生みになります

ところが、火の神をお産みになった時、伊邪那美命は大火傷をして、黄泉国といふ死後の世界へ旅立たれてしまひます

残された伊邪那岐命は、わざわざ黄泉国まで伊邪那美命を訪ねてゆき、「愛しいおまえと一緒に造つてきたこの国は、まだ造り終へていない。また戻つてきてくれ」と申します

しかし、黄泉国の食べ物を口にしてしまつた伊邪那美命は、もう帰ることができなくなつてしまったと答へます

ですが、黄泉国の神々と相談してみるから、決してのぞかないでくれと言つて奥の方へ入つていきます

ところが、その約束を破つて伊邪那岐命が中をのぞいてしまつたために、伊邪那岐命は、黄泉国の醜女たちに追はれ、黄泉国から脱出して来ます

その後、黄泉国の穢れを落とさうと禊をすると、そこで天照大神、月読命、須佐之男命がお生れになるといふ順序で神話の物語は展開してゆきます

さて、ここで注目して戴きたいのは、伊邪那岐命が、伊邪那美命に向つて、「まだこの国は造り終へてゐない」と仰せられてゐることです

伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱の神さまが大八洲の国をお産みになったと語られてゐますが、この国生みの物語の時点では、「国造り」は完成してはゐないのです

それでは、この「国造り」はいつ完成したのでせうか

天照大神が岩戸からお出ましになったときでせうか

須佐之男命が八俣の大蛇を退治された時でせうか

あるいは、大国主命の業績によるのでせうか

それとも神武天皇のの御即位が「国造り」の完成にあたるのでせうか

神武天皇から百二十五代目の今上陛下の御代まで、永い歴史が続いてゐます

この間には、平和な時代もありましたでせうが、多くの戦乱や困窮の時代もありました

そして現代の今日……

毎朝、新聞やテレビのニュースを見る度に、皆さんはなにを感じられますか

日本の国内で毎日起きてゐる様々な事件や事故

そして政治や経済の各方面での多くの問題点

これらを見るときに「この漂へる国」といふのは、まさに現実世界そのものだと思はれませんか

しかも、世界は、大八洲と呼ばれた日本列島周辺に留らず、世界的に拡大し、国内の難題だけでなく、平和や環境問題も含めて課題は、全地球的な問題になつてゐます

「この漂へる国」を「つくり固めなす」すなはち「修理」して「固成」する仕事は、天神が伊邪那岐命、伊邪那美命に命じられた仕事でありました

しかし未完成であったその仕事は、暗黙の御命令として天照大神に引き継がれ、須佐之男命や大国主命を始めとする八百万の神々にも引き継がれ、また当然、瓊瓊杵尊から神武天皇、そして御歴代にも引き継がれてきたとみることはできないでせうか

そしてさらに、それを引き継ぐ責務を負つてゐるのが、私たち神国の国民(くにたみ)ではないでせうか

「まつり」は「祭」であると同時に「政」もまた「まつりごと」であることはよく知られてゐるところです

それは「修理固成」により平和で豊な民のくらしを実現することが、神々の意志であり、その神意を祈りにより具現するのが「祭」であり、さらに制度により実現を期するのが「政」なので、本来、表裏一体のものと言へます

私たちが、常日頃、近隣の人々と協力して、小さな社会奉仕に心掛たりしてゐるのも、この「修理固成」をめざす神々の意志の継承であり、それは生活のなかの「祭」であると同時に「政」の一環につながるものでもあります

一神教の世界観は、唯一絶対のの創造主としての神により世界の全てが創造されたとしてゐます

これに対し、多神教の、殊に、神道的な考へ方では、神も人も共に力を合はせ、人の意志を神の意志とし、神の思ひを人の情としながら、この世界を未来に向けて造り続けてゐるのです

この国造りの継承が「祭」でもあり「政」でもなければなりません

日常の家庭生活はもちろん、商売も事業も、政治も経済も「修理固成」の原点を忘れてはならないのです

これが「祭りの心」「神道的生活」の基本です

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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