自然の力と一体化する

https://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-bashou/basho-motuga.htm 【禅と詩歌-松尾芭蕉  】より

物我一智

 芭蕉の俳諧は「物我一致」という禅の体験からきている。物(=対象、客観)と自己がひとつであるという自覚があると、すべて(他人も物も)が自己と一体、すべてが自己の心である、との自覚が生じる。そこから自然に自分がない、誇るべき自己はない、名利をもつべき自己もない、恨むを留める自他もなし、と無の境涯に生きる。しかし、虚無ではなく、すべてが自己という新しい自己、他人とひとつという自己(=他者)の喜びにために働く。それも見返りを求めない無心で。芭蕉の境涯は禅から来ていると思われる。

物我一智

 元禄七年(五十一歳)芭蕉は、弟子にあてた書簡で、「物我一智」の境涯に至ることの大切さを説いている。自分がそうでなければ、他の人にすすめるはずがなく、これを見ても芭蕉が悟りを得ていたことは疑いない。「物我一智」とは禅でいうことである。正念でいて、分別ない時、ものと自分はひとつである。人間の自己とは、主体(我)と客体(もの)がひとつであるから、これを哲学者、西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」といったのである。

 「物我一智」と「物我一致」のどちらでも、ほぼ同じである。体験の事実としては、「物我一致」であるが、その体験から得る真実も見る眼は智慧であり、「物我一」を知る智慧、「物我一」に生きる智慧と見れば、「物我一智」である。

「ただ小道小枝に分別動きそうろうて、世上の是非やむ時なく、自智物をくらます処、日々より月々年々の修行ならでは物我一智の場所へ至るまじくぞんじそうろう。」(元禄 7年怒誰あて書簡)

(枝葉末節のことに分別を働かせて、自我の眼を絶対正しい、として、世俗の是非善悪の念をふりまわしていると、自己の光明の知恵がくらまされる。分別を働かせている時は目がみえなくなっており、本来の自分の知恵が、くらまされている。毎日、長い間こつこつと修行しなければ、物と我が一つという境涯には至ることができないと思います。)

 このように、芭蕉は、他者に向上をすすめていたが、自分でも悟道の後も、さらに「物我一智」の人間の真事実から離れないようにつとめていたであろう。それは、「禅の心で生きた芭蕉」にて、検証できる。

心が色、物と成る

 芭蕉の言葉を弟子の土芳が『三冊子』に書き留めているが、その中にも、「心が物になる」という言葉がある。無分別の時、自分はないので、自分が物である。道元禅師は「身心脱落」という。「身心」は「自分」である。自分が脱落すれば、客観(もの)のみである。それが禅であるが、俳句もそうだというのである。

「常風雅にゐるものは、おもふ心の色、物と成りて句姿定まるものなれば、取物自然にして子細なし。」(土芳『三冊子』)

 (常に風雅を実践していれば、心が色、物になる。そうすれば自然と句ができる。)

私意を離れよ

 禅の修行においては、師匠の指導に従うことを要求される。その時特に強調されるのは、自分の我見を捨てよということである。芭蕉も俳諧の指導において、そう言った。師の意図を実に受け止めてくれる弟子は少なく、師の教えがわかったといいいふらして、師を貶める者がいる。後世の人によって、道元禅師もずいぶん浅いものにおとしめられてしまった。

「師のおもふ筋に我心をひとつになさずして、私意に師の道をよろこびて、その門を行と心得がほにして私の道を行く事あり。門人よく己を押直すべき所なり。松の事は松に習へ、竹の事は竹に習えと、師の詞のありしも私意を離れよといふ事なり。この習へといふ所をおのがままにとりて終に習はざるなり。習へといふは物に入てその微の顕(あら)れて情感じるなり、句となる所なり。」(土芳『三冊子』)

(師匠のいうことはわかったといいながら、自分勝手な分別で修行している。そんなことでは道は得られない。自我私意を捨てて本当に師匠のいうとおり、実践しなければだめだ。)

 芭蕉の生き様と、その俳句に、「物我一智」がある。


https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=3618 【人知を超えた存在である神との一体化を示す「運の強さ」】より

日本文化を学び直す(3)日本的を自覚する

田口佳史田口佳史東洋思想研究家

概要・テキスト

古代の日本人には、人知を超えた自然の力と一体化する能力が備わっていた。圧倒的な力を持つ見えない存在・神を感じ、神との一体感を求めて祭祀を行ったのだ。見えざる自然、神の力をアニマ、霊力として認識する。これが神道の基本であり、縄文時代にその基本はすでにできあがっていた。大転換期の現代に、われわれはこうした日本的なるものを再度自覚する必要がある。(全11話中第3話)

キーワード:アニミズム アニマ 霊力 老荘思想 祭祀 縄文文化 日本文化

≪全文≫

●人知を超えた存在・神との一体化

 そこで、森の奥底に人知を超えた力があって、それを神というわけですが、そういうすさまじい力との一体化ということが重要です。

 一体化とはどういうことかというと、要するに人間としての人工性をなるべく排除することによって自分も自然の一員のように、自然と同一の呼吸、同一の息吹というものになっていくことによって、自然との一体化ということになってくる。それが人知を超えたものとの一体化ということです。まさに人知を超えた神なる存在とその力を駆使するということになってくるわけです。そういうものが日本のベースにあったから、老荘思想とか、禅とか、そういうものが高度に発展していったといってもいいと思うんですね。

 そういう要素がなければ、あそこまでの発展はない。禅についても、老荘思想についても、この後十分に語ることになりますが、日本にはその淵源として、その土壌に人知を超えた力の存在というものを味方につけるだけの人間的な広がりというんでしょうか、あるいは自然との融合というもののコツといったらおかしいけれども、それはどうすればできるのかというような、そういうものが自然に備わっていたといっていいでしょう。

●非常に重要なのは、見えない存在であるということ

 もう一つ、そこから出てくるのは、それをもって運の強さといってもいいんじゃないかと。人知を超えた存在である神と一体化することができたかどうか、そのことを運の強さといっていた。例えば「今日は恵まれて…」というとき、「運に恵まれて、獲物がたくさん取れてね…」ということとか、あるいは、これはもう命が危ないというような状況のときにスッと救われたということも神のおかげじゃないか。

 そうやって一体化するというとき、神というものが必ず存在するようになってくる。その神とはどういうものかですが、まずここで非常に重要なのは、見えない存在であるということです。「これが神です」といえない存在であるというところがすごく重要で、ここから、見えないものを見るということになるのです。なにしろ見えない神をあたかもそこに存在しているかのように、要するに使う。これは直観、直覚という、それこそ鈴木大拙が言っている禅の奥義の基本です。日本の場合、そういうものを古代において、古代人がもう十二分に備わっていたといっていいと思うんで...

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