漂泊民の居場所

https://book.asahi.com/reviews/11586097【『日本の「アジール」を訪ねて』書評 権力が及ばぬ地域の実態たどる】より

評者: 原武史 / 朝⽇新聞掲載:2017年01月15日

日本の「アジール」を訪ねて 漂泊民の場所 著者:筒井功 出版社:河出書房新社

ジャンル:エッセイ・自伝・ノンフィクション

 アジールとは、権力の及ばない地域のことである。そうした地域は国家権力が強まる明治以降、しだいに消滅したとされている。しかし本書は、乞食(こじき)やハンセン病者、職業不詳の漂泊民らが集まって暮らす一角が、外部から干渉を受けることなく、ほんの半世紀余り前まで各地に存在していたことを明らかにする。

 アジールに近い日本語はセブリである。そこに集まる人々はサンカやミナオシなどと呼ばれた。柳田國男や宮本常一のような民俗学者は、当然こうした人々に関心を寄せてきた。サンカについては、三角寛の『サンカの社会』もある。だが残っている文字資料はほとんどない上、『サンカの社会』のような事実に基づかない研究が、かえってアジールの実態を見えにくくさせている面がある。

 著者は、柳田や宮本が残した文章などを手掛かりに、アジールの跡を訪ねて全国各地を旅する。半世紀余り前までアジールがあったということは、近辺に住む高齢者ならばその記憶をもっている可能性があるはずだと見当をつけ、彼らに声をかけてゆくのだ。

 これはかつて宮本常一が試みた方法に似ている。実際に四国の山中では、1941年に宮本が訪れたのと同じ家を2008年に著者も訪れている。そしてハンセン病者だけが歩いたとされる山道があったかどうかを尋ねている。

 著者の地道な取材を通して、文字資料に残されていないアジールの実態が浮かび上がる。そればかりか、近年まで非定住民が使っていたテントが放置されたアジールの跡すらあったことも明らかになる。地図があてにならないため、実際に訪れてみて初めてわかる事実も少なくない。

 アジールがなくなったことは、いまほど国家の隅々にまで権力が行き渡った時代はないことを暗示してはいないだろうか。戦後日本の政治史や社会史を振り返る上でも、本書は重要な視点を提供している。

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 つつい・いさお 44年生まれ。民俗研究者。著書に『漂泊の民サンカを追って』『新・忘れられた日本人』など。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E8%88%B9 【家船】より

家船(えぶね)とは、近世から近代の日本に存在した一群の漂流漁民の総称である。

概説

古代海部の系統をひく水軍の末裔とも言われているが、詳細は不明である。数艘から数十艘にて集団を形成(「~家船」と称する)して、本拠地を中心として周辺海域を移動しながら一年を送り、潜水や鉾を使った漁で魚介類や鮑などを採集する漁業を営み、1週間から10日おきに近くの港で物々交換に近い交易をしていた。瀬戸内海の事例では、家船が三津の朝市で漁獲品を水揚げする姿は戦後もしばらくは見られていた。

別府温泉では、持ち舟で寝泊まりしながら浜脇温泉や別府温泉に通う湯治の習慣が古くから見られ、戦後しばらくまでは続いていた。春には波止場に係留される舟は100艘近くにのぼり、湯治舟とよばれて季語にもなるほどの別府の春の風物詩となっていた。

家船の根拠地は、西九州及び瀬戸内海沿岸に存在した。西九州では西彼杵半島と五島列島に多くが根拠を持ち、女性は抜歯の風習があったとされている。

幕藩体制の成立以後、家船に対する把握も行われ、藩からの公認と引き換えに鮑などの上納や海上警備などを行った。

明治維新以後、納税の義務化、徴兵制や義務教育の徹底の方針から政府が規制をしていった。西日本では昭和40年頃には陸上への定住を余儀なくされて消滅したと言われているが、東京では埋め立てが進む前の佃、月島、勝どき周辺に多く見られ、1万人弱を数える規模となっていた。こうした住民の福利厚生を行うために水上会館や水上学校(陸上に建てられた寄宿形式の学校)が建てられたほか、治安を担当する水上警察署などが設置された。そうした光景は同じく海運が盛んな都市であった横浜や大阪でもみられた。 これらは災害に遭ったり、都市開発により立ち退きを余儀なくされたり、設備の老朽化により徐々に数を減らし、一方で、艀の廃船を係留して住宅の代替として利用するケースが多くなった。しかし1980年代になると艀の老朽化が進み、使用に耐えられなくなり、ほぼ見られなくなった。


https://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=337040636045444193 【⑪江上天主堂とその周辺(五島市) 奈留島の江上集落 ひそかな信仰の終焉】より

 車がトンネルを抜けると、廃校になった小学校があった。グラウンド奥の木立の隙間から、白い江上天主堂の姿が見え隠れしている。小さな集落は物寂しく、身を切るような北西の寒風が容赦なく海から吹き付けてくる。人里離れた谷あいの地を切り開いて暮らした潜伏キリシタンの労苦がしのばれる。

 江上集落がある奈留島は五島列島の中央に位置する。巻き網などの沿岸漁業が盛んで、1960年の人口は9300人を数えた。だが、漁業の衰退と過疎化の進行で現在2300人に減っている。

 奈留島には18世紀末以降、江戸幕府の禁教令の下でひそかに信仰を続けていた長崎・外海(そとめ)地区の潜伏キリシタンが移住してきた。彼らは仏教徒の集落から離れた未開地を開発し、島のあちこちにキリシタン集落を形成した。

 島西北部の江上には4家族がたどり着いた。移住者は、現在廃校のグラウンドになっているわずかな平地に水田をつくり、斜面に家を建て、半農半漁の生活を営んだ。1970年には28世帯、109人が暮らしていたが、今や残るのは3世帯だけで、集落は風前のともしびといえる。

■集団で復帰

 1868年、五島・久賀島の潜伏キリシタンが、禁じられていた信仰を表明したのをきっかけに、五島列島に「五島崩れ」と呼ばれる迫害の嵐が吹き荒れた。奈留島の北に浮かぶ葛島(かずらしま)にも弾圧が及んだが、奈留島では大半のキリシタンが信仰を隠したままだった。

 1873年の信仰解禁後も、奈留島の潜伏キリシタンの多くはカトリックに戻らず、「かくれキリシタン」になって禁教期の信仰形態を保ち続けた。ただ、葛島と江上のキリシタンは宣教師の布教を受け入れ、カトリックに集団復帰した。

 江上では1881年、フランス人のブレル神父が住民に洗礼を授けた。江上の信徒は1906年、まず民家を移築した簡素な教会をつくり、その12年後に現在の江上天主堂を建てた。建設を主導したのは、上五島の潜伏キリシタンから司祭になった島田喜蔵神父で、「教会建築の父」といわれる上五島出身の鉄川与助に設計施工を委ねた。

 天主堂の建設費は当時の金額で2万円に上った。労働奉仕や負担金に耐えかねて江上を去った信徒もいたという。信徒は目の前の大串湾で、隣の仏教集落の住民と協力してキビナゴの地引き網漁にいそしみ、建設資金を蓄えた。

■教区で守る

 江上天主堂は木造教会の完成形といわれる鉄川の代表作だ。海に近く、背後に水が湧き出る地勢を考慮し、湿気を逃す高床式を採用している。内部は教会独特の「こうもり天井」を持つ。信徒が手書きした窓ガラスの花模様や柱の木目も味わい深い。

 国は2008年、江上天主堂を重要文化財に指定した。五島市は教会だけでなく集落全体を保護するため、江上と隣接の大串地区を国の重要文化的景観に選定すべく準備を進めている。

 かつての江上天主堂では、クリスマスのミサに周辺の葛島、有福(ありふく)島、久賀(ひさか)島などからも信徒が船でやって来て、中に入りきれないほどだった。しかし、ほとんどの住民が去ってしまった今、教会周辺は静寂に包まれている。

 現在、江上天主堂を守るのは奈留小教区の信徒たちだ。毎月第3日曜に10人前後の信徒が集まり、ミサをささげ、建物をきれいに清掃している。

 天主堂に入ると、日付や名前などを壁の一角に無造作に書き付けた落書きが目に留まった。かつて行政側は消すように求めたが、信徒はきっぱり断った。奈留小教区議長の葛島(くずしま)幸則さん(64)は「教会は私たちにとって文化財でも世界遺産でもなく、先人が厳しい暮らしの中で苦労して建てた祈りの場。書き付けは私たちにとっては落書きではなく、先人の信仰の証しなんです」と語る。

 教会は目に見える信仰の形であり、信仰を隠して生きた潜伏キリシタンの伝統が終わったことを意味している。彼らの痕跡を追い続けてきた「旅」も終わりを迎えようとしている。

◎メモ

長崎港から福江島の福江港までジェットフォイルで1時間25分、フェリーで3時間10分。福江港から奈留島の奈留港ターミナルまで高速船で30分、フェリーで45分。同ターミナルから江上天主堂までタクシー、バスで20分。同天主堂の見学は長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター(電095.823.7650)に事前連絡が必要。

◎コラム/小さな集落の大きな心

 カトリック長崎大司教区の古巣馨(ふるすかおる)神父(63)から興味深い話を聞いた。神父は奈留島生まれで、祖父は「かくれキリシタン」の洗礼を授ける「水方(みずかた)」という役職者だった。

 神父によると、奈留島のキリシタン集落の人々は、「家船(えふね)」と呼ばれた人々と交流していた。家船とは船上で生活しながら漂泊して漁をした漁民集団で、かつて西彼杵半島や五島列島などを根拠にしていた。

 家船は江上や宿輪(しゅくわ)などの集落にやって来て、海産物と農作物を交換した。差別の対象になっていた家船だが、集落の人々は嫌な顔一つせず、家に上げて風呂に入れたり、教会のミサに連れていき一緒に祈ったりした。

 「江上の人たちは差別せず、偏見も持たず、壁を作らなかった。今で言うグローバリズム」と古巣神父は言う。小さな集落の住民が持ち合わせていた広く大きな心は、異文化理解の旗印でもある世界遺産にふさわしいといっていい。

海沿いの狭い谷あいに形成された「奈留島の江上集落」=五島市奈留町大串(小型無人機ドローン「空彩2号」で撮影)

湿気が多い地勢に適応し、高床式になっている江上天主堂=五島市奈留町大串

木立の中にたたずむ江上天主堂=五島市奈留町大串

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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