「火山と黙示録」

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ロシア人演出家率いる東京ノーヴィ・レパートリーシアターによって、鎌田氏の『超訳 古事記』が舞台化された。(二〇一五年十一月一八日、梅若能楽学院会館での再演)

鎌田東二氏は研究活動の初期から日本列島の地質、地理に着目し、火山と日本神話のかかわりについて発言しつづけています。聖地論やサルタヒコの研究で有名ですが、『超訳 古事記』『古事記ワンダーランド』を書いた古事記の専門家でもあります。今回のインタビューでは、ワノフスキーの『火山と太陽』についての解読とあわせて、鎌田氏自身の火山神話論についても話してもらいました。

(ここに掲載するインタビューは、桃山堂刊『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』からの抜粋です。鎌田氏の許可を得て、当ホームページに期間限定で公開しています)

日本列島の精神史

── 鎌田先生にとって、古事記とはどのような存在なのでしょうか。

鎌田 小学五年生のとき、学校の図書館で偶然、子ども向けの古事記神話の本を手にし、強くひかれました。古事記には、黄泉の国から生還したイザナギがみそぎをして、左目を洗ったときアマテラス、鼻を洗ったときスサノオが生まれたというくだりがありますが、小学五年生の私にとってそれは、何かのアナロジーやメタファーではなく、真実の物語でした。神の身体性のようなものを、なまなましく感じたことを記憶しています。その後も愛読書でありつづけ、どこに行くにも『古事記』と宮沢賢治の詩集『春と修羅』の二冊の文庫本を携えて出かけていました。

── 先生は日本人の精神史を考えるうえで、火山はきわめて重要であることをかねてより指摘されています。ご自身の火山とのかかわりを教えてください。

鎌田 私は四国の徳島県の生まれですから、身近なところに火山はありませんでしたが、高校二年生の春休みに、自転車で九州を一周したとき、はじめて火山を体感しました。四国を横断したあと、大分県へ船で渡り、そこから九重連山、阿蘇山などいくつもの火山が連なる「やまなみハイウェイ」を走り抜けました。桜島では溶岩のなかの道を自転車でめぐったことを覚えています。

神話の舞台とされている宮崎市の青島では、神話世界と現実の空間、地形が結びつくことに衝撃をうけ、感動しました。そのとき、言葉が火山岩のように私の内部から出てきて、詩のような作品ができました。詩人で劇作家としても活躍していた寺山修司氏にそれを送ったところ、ある雑誌に掲載してもらうことになり、これをきっかけとして面識を得ることができました。この自転車での九州旅行のなかで、私は火山と神話の結びつきを確信したのですが、それは今に至るも変わっていません。

── 小説家の中上健次との対談『言霊の天地』(一九九三年)、『ウズメとサルタヒコの神話学』(二〇〇〇年)、『神道とは何か』(同)などにおいて、鎌田先生は、日本の神話と火山の関係について繰り返し論じています。学問的なテーマとして、火山を意識するようになったきっかけは何なのですか。

鎌田 日本の信仰や思想を考えるうえで、私が最も影響をうけたのは、折口信夫と益田勝実という二人の国文学者ですが、どちらか一人を選ぶとしたら、『火山列島の思想』(一九六八年)の著者である益田勝実を評価します。火山をはじめとして、日本列島の地質や地形に対する関心が示されているからです。そうした観点を抜きにして、日本列島の神の本質は理解できないのではないでしょうか。折口信夫は伝承や民俗の世界を繊細に分析していますが、残念ながら、日本列島の大地そのものへの関心は希薄でした。

火山と神話を結びつけて考えた先駆者のひとりに哲学者、湯浅泰雄がいます。「日本神話の一考察──火山信仰の痕跡について」(『湯浅泰雄全集』九巻所収)などの論文として発表されるのは一九七〇年代以降ですが、東京帝国大学国史学科の学生だった終戦直後、湯浅は天孫降臨のあと、ニニギがコノハナサクヤヒメと結婚するくだりを火山神話だと直感して、詳細なノートをのこしています。

火山神話論の先駆者として

──今回、『火山と太陽』を読んでいただいたのですが、個々の論点について、質問させていただく前に、一読後の率直な感想を聞かせてください。

鎌田 ワノフスキーは古事記を専門的に学んだ研究者ではありませんから、学術的なことをいえば、疑問点、問題点はありますが、彼の洞察は日本神話の本質を射貫いていると思います。ワノフスキー以前にも、科学者の寺田寅彦をはじめとして、火山と神話の結びつきを考えた人はいますが、古事記神話の本質は火山であると、これほど力強く断言したのはワノフスキーがはじめてではないでしょうか。今から六十年もまえに、こうした火山の神話論を提示していたプライオリティを私たちは認めるべきだと思います。

── ワノフスキーは、遠い昔の日本列島の住人が巨大な火山噴火を目撃したときの脅威と畏敬の感情が古事記神話の基層をなしていると主張しています。

鎌田 まったく同感で、正しいと思います。ワノフスキーがいうように、日本列島に暮らした人たちが見た火山噴火のすさまじい風景は、必ずや伝承され、世代を超えた記憶として、語りつがれたと確信しています。それは、まちがいない。そうした神話的な伝承が発生したのは九州であると私も考えています。巨大な火山噴火を目撃した人たちはそれを、ちはやぶる神の顕現だと思ったはずです。そうした記憶は、古事記などの神話、信仰や民俗のなかに痕跡をのこしているのみならず、私たち現在の日本人の身体にも、一種のソフトウェアとして組み込まれていると私は考えています。

── 先生は日本にとどまらず、世界各国の聖地について研究されています。聖地と火山とは結びつきますか。

鎌田 日本列島の信仰において、聖地と火山の結びつきは必然的なものです。ワノフスキーにとってのキースポットといえる伊豆大島も火山のある聖地で、役行者(えんのぎょうじゃ)が修行したとされる伝承地があるように、修験道とのつながりの深い島です。延喜式内社は全国に三千百三十二座ありますが、伊豆国は小さい国で都から遠いところにある一地方であるにもかかわらず、他国よりも非常に多い九十二座もの式内社がありました。隣の相模の国はわずか十三にすぎないのに。これは間違いなく火山神や地震や津波を畏怖し鎮める信仰と祭祀の現われだと思います。富士山、御嶽山などは火山が信仰の山になっているわかりやすい事例ですが、青森県の恐山(おそれざん)も火山によってつくられた聖地です。

恐山にはじめて行ったのは二十歳のころで、青森出身の寺山修司氏の作品をとおして興味をもっていたからです。イタコと呼ばれる巫女が死者の霊を口寄せする民間信仰で有名ですが、恐山は国が指定している百十の活火山のひとつです。下北半島の中央に位置し、円錐形の火山と外輪山の総称として恐山といわれています。宮崎県の青島が光り輝く聖地だとしたら、恐山は硫黄など火山性のガスが立ちこめ、草木もはえず、地獄のような風景が広がっていますが、やはり聖地なのです。そこには円通寺という名高い寺院があり、噴火でできたカルデラ湖の宇曽利湖には「極楽浜」という場所があります。熊野もそうですが、恐山では、地獄と浄土・極楽が同じエリアで平面的につながっています。天国と地獄が垂直的に区分され、まったく別の世界として両極を成している諸外国の他界観と比較すると、特異なものです。

── 現在の日本で、火山噴火は自然災害という面でとりあげられることが多いですが、ワノフスキーは火山がもたらす恵みについて強調しています。こうした火山に対する眼差しについては、どう思われますか。

鎌田 その点についてもまったく賛成です。火山は荒ぶる神ではあるが、けして、悪ではない。神道の言葉でいえば、荒御魂(あらみたま)と和御魂(にぎみたま)です。火山は激しい生成活動、立ち現れ方をするけれども、さまざまな幸(さち)をもたらす。ワノフスキーは一種の直感でそう述べているわけですが、私はそれを科学的に証明できると考えています。かねてより提唱していることですが、日本列島の神々についての理解を深めるには、地質学者、生態学者との共同研究が不可欠です。私たちは実際にそうした取り組みを進めています。火山の噴火には、地下のミネラルを放出し、それが土壌を豊かにし、植物、動物を繁殖させ、海のプランクトンを増やし、魚が集まってくるという生態学的なメカニズムがあります。古来、日本列島の食文化に豊かさがあるのはこのためです。日本列島に暮らした太古の人たちにそうした科学的な知見はなかったとしても、伝承される知識として理解していたと思います。このあたりについてのワノフスキーの言葉はとても豊穣で、益田勝実の火山神話論には見られない視点です。

『火山と太陽』で最も重要な場所は伊豆大島ですが、一九九六年、私がコーディネーターとなって、「御神火と生きる──火山のコスモロジー」と題したシンポジウムを、伊豆大島の火山博物館で開きました。全島民が避難する事態を招いた一九八六年の三原山噴火から十年目の節目として企画されたもので、シンポジウムでは、地球科学者の原田憲一氏、文化人類学者の竹村真一氏らとディスカッションしました。あわせて、京都在住の陶芸家・近藤高弘氏が中心となって、縄文時代の土器づくりさながらの野焼きフェスティバルが行われました。特定の神社に属してはいませんが、私は神主でもあるので、三原山の火口近くにある三原神社で火をきり、一九八六年の噴火で流れた溶岩によって形成されたクレーター状の窪地まで火を運び、薪を燃やし、陶芸家に一般の人も加わって、野焼きをしたのです。

古くは三原山を御腹山とも表記していました。「腹」の文字は大地の子宮を連想させます。そこに神社を祀り、噴火を御神火として崇敬してきたこの島の歴史に神道の核心を見ることができます。火山の活動を災害という一面だけで見るのではなく、自然の大いなる営み、すなわち神の営みとして受け入れるということです。伊豆大島でのイベントが契機となって、二〇〇〇年、ハワイのキラウエア火山の麓で、野焼きフェスティバルとシンポジウムを行うことができました。私はかねてより、アメリカ大陸の西海岸から、日本列島、南洋の島々へと連なる太平洋の世界を「環太平洋祭祀文化圏」と名付けて、そのなかで神道のことを考えています。日本、インドネシア、ハワイ諸島をはじめとして、環太平洋は地球上で最も火山の集積しているところで、こうした点からも火山に関心をもっています。

── ワノフスキーの火山神話論の骨格をなしているのは、イザナミが日本列島を産んだ火山神であるという主張です。

鎌田 益田勝実の『火山列島の思想』は、出雲神オオナムチ(大穴持)を火口の神、日本列島生え抜きの火山の神としていますが、私はもっとさかのぼって、火の神カグツチを出産したことによって絶命したイザナミを火山と結びつけて考えてきました。イザナミの身体は大地を産み出す火山の噴火口そのものを暗示していると思います。したがって、イザナミについての私の見解は、ワノフスキーのそれとかなりの部分で重なっています。

女性器を日本語でホトといいますが、これは火処(ほと)であり、火口なのだということは、三原山、雲仙など、大きな噴火のたびに発言していました。一九九一年に中上健次氏と対談したのは、雲仙が激しく活動しているさなかでしたから、新聞の一面に掲載された雲仙の噴火する写真が、女性器そのものだという話題を提供したうえで、私はこんなことを言っています。

「上古、イザナミがホトから火の神を生んで病に伏せて、そこから反吐(へど)やウンコが、土になったり、金属になったりする。火の神を噴き出すというのは、ほんとうに山が妊娠をして、山の子宮の中に火のマグマをはらんでいる。それが爆発する。そこに日本人は神を見たと思うんです」(『言霊の天地』)

四十人以上の人命を奪った雲仙の火砕流被害のあと、私は被災地を訪れたのですが、そのとき、火砕流をともなう噴火を火口から一キロほどの場所から目撃することになりました。被害者のことを思えば、不謹慎といわれても仕方がないのですが、大地のバイブレーションに触れ、私の血液は逆流しました。それは感動というほかない心の動きでした。

── 『火山と太陽』では、スサノオは火山神ではないかという問題提起がなされています。これについてはいかがでしょうか。

鎌田 私はスサノオを火山神として考えたことがなかったので新鮮でしたが、この点については賛成することはできません。私自身はスサノオを、すさまじい暴風神、たたら製鉄とかかわる神、歌の創成神として考えていますが、火の神カグツチとスサノオに共通点が多いことにかねてより着目しています。カグツチは、イザナギ、イザナミの夫婦が生んだ最後の神ですが、カグツチは父イザナギに剣で斬られ殺されます。スサノオも三貴神の末っ子で、父イザナギの怒りをかい、追放されます。さらに、カグツチはその誕生によって母イザナミを死に至らせ、スサノオは歩むだけで山の木々を枯らしたというのですから、この二神は神話に登場する神々のうち、最大にちはやぶる破壊神です。この二神を結ぶ見えない線があるのは確かなことで、そのあたりでワノフスキーの論考とつながる部分があるかもしれません。

辺境と神秘主義

── ワノフスキーは自分でも書いていますが、日本語がたいしてできず、東京帝大で教えていた言語学者チェンバレンの英訳や共同研究者グリゴーリエフのロシア語訳を頼りに古事記を読み進めています。古事記についての体系だった知識もなかったようですが。

鎌田 そのような亡命ロシア人に、なぜ、『火山と太陽』に結実する深い洞察が可能だったのか? それは今回、私が考えたことのひとつです。多くの人がワノフスキーのことを詩人的であると評していますが、彼の精神は詩人的というより、詩人そのものであったと思います。そこに、『火山と太陽』を読み解くカギがあると思います。ワノフスキーは古事記を火山の叙事詩だといっています。古事記神話のすべてが火山にかかわるというところまでは同意できませんが、私も古事記の根幹にあるのは伝承された言葉であり、叙事詩であると考えています。私は以前、『超訳 古事記』という本を出版しましたが、これは手もとにいっさいの文献を置かず、即興で古事記神話を現代の言葉で語ったものです。わかりやすい現代語訳を提供するのが目的ではなく、文字のない時代に語られ歌われていたにちがいない叙事詩としての古事記を浮かび上がらせる狙いがありました。

ワノフスキーは『火山と太陽』のなかで、共同研究者グリゴーリエフを「ロシアのラフカディオ・ハーン」であると紹介していますが、私から見ると、ワノフスキーのほうがよほどハーンに似た精神をもっています。この二人の精神は本質的な意味において、詩人であると思うのです。ハーンが日本に来たのは一八九〇年、ワノフスキーは一九一九年ですが、ともに四十歳前後の中年期でした。ハーンの日本語能力もたいしたものではありませんでした。彼らが訪れた日本は、合理性だけでは理解できない言葉に満ちあふれた「詩の国」であり、古事記はそうした土壌から生まれたものです。ワノフスキー、ハーンはともに詩人としての直感によって、日本文化の深いところに入って行くことができたのでしょう。一方のチェンバレンは卓越した言語能力をもっていたかもしれませんが、古事記や日本文化の本質については何も見えていなかったのではないでしょうか。彼は古事記をポルノ小説まがいの低俗なものとみなしていました。

もう一点、指摘しておきたいことは、ワノフスキーには、地球史的な観点があることです。なぜ、彼がそのような大きな視野をもつことができたのかということも興味ぶかいところです。ロシアで革命家として活動している時期、彼はロシアでもさらに北にある流刑地に送られたり、警察当局に追われてシベリアなどを転々としたりしています。流刑や逃亡生活を通して、彼の精神に何かが生じたのかもしれません。シベリアなどに住む異民族の暮らしや信仰に触れる機会があったのではないか、ということも私は想像しています。ヨーロッパにおいてロシアは明らかに辺境ですが、ワノフスキーは流刑や逃亡生活のなかで、ロシアでもさらなる辺境に赴いています。ハーンが育ったアイルランドも辺境で、もうひとつの辺境として日本があります。エッジ・オブ・ザ・ワールド。ワノフスキーもハーンも辺境の人であったので、辺境の地としての日本のおもしろさ、そこに溜まり込んでいるものの真髄をくみ取ることができたのだと思います。

私が書いた『超訳 古事記』を原作とする演劇作品『古事記~天と地といのちの架け橋~』が二〇一四年に上演され、二〇一五年には再演されました。この作品を制作し、演出したのは、ロシア人演出家レオニード・アニシモフ氏です。ここでもロシアと古事記が結びついています。

── 高校生のとき以来、ロシア文学が好きだったとうかがいました。

鎌田 ドストエフスキーをはじめとするロシアの作家は好きでよく読んでいました。ロシアの文芸作品には豊かな自然描写があるからです。若いころの私は、ロシア文学の大地性にひかれたのだと思います。それは、英米文学、フランス文学にはあまり感じられない要素でした。

私は慶應大学で美学の教授をなさっていた高橋巌氏を通してシュタイナーの人智学を学びましたが、人智学には神智学という源流があって、その創始者はブラヴァツキーというロシア人の女性です。ロシアの哲学にも神秘主義の系譜があり、ソロヴィヨフ、ベルジャーエフとつづきます。ベルジャーエフは『火山と太陽』にも登場していますが、ワノフスキーとは、ともに革命運動にかかわり、同じ流刑地で暮らした仲間であったことなど、私自身の長年の関心事とも重なっておもしろく読みました。こうした神秘主義思想を生み出すロシアという国に共感と関心をもっていました。神秘主義とは、神や自然と直接つながるという体験にもとづきますから、キリスト教のなかでは異端的なものです。神秘主義的な精神文化がヨーロッパの辺境であるロシアには存在しているわけですが、日本にも似たような風土があると私は考えています。

ワノフスキーが愛読書のひとつとしてあげている新約聖書の「ヨハネ黙示録」は神秘家が好む文献のひとつですが、彼はそこに火山の記憶を見ているようです。このあたりも非常に興味ぶかいところです。ヨハネはエーゲ海に浮かぶパトモス島で啓示をうけ、黙示録を書いたとされていますが、この島は太古の火山の跡であると考えられています。私は三十代のころ、同じエーゲ海にあるサントリーニ島を訪れたことがあるのですが、そこは活火山のある島で、その火山性の風景をはっきり記憶しています。エーゲ海はヨーロッパでは珍しい火山の集積地で、いくつもの火山島が点在しているのです。

エーゲ海に浮かぶサントリーニ島は現在も活動をつづける火山島。(上段2枚)ヨハネが「黙示録」の啓示を受けたと伝承されるパトモス島も火山島であるとかんがえられている。(下段)(写真はwww.santorini-rent-a-car.com  www.carlos.or.tv www.azamaraclubcruises.comより)

パトモス島はローマ帝国によって流刑地とされ、ヨハネは流刑者としてこの島で暮らしているとき、洞窟のなかで神の啓示をうけ、黙示録を書いたと伝わっています。修験道の始祖とされる役行者が伊豆大島に流され、洞窟で修行したという伝承を思い起こします。流刑、火山島、神秘的なビジョンというキーワードは『火山と太陽』に重なるものです。

聖地と呼ばれる場所には不思議な機能があって、ある人物がそこを訪れたとき、精神のカギのようなものが開いて、言葉が奔流のように出てくることがあります。その人物が宗教者であれば神託と呼ばれ、詩人であれば文学作品ということになります。インターネット空間にたとえるならば、ある場所とある人物のパスワードが一致したとき、人類史の膨大な記憶庫から重要な情報がその人物の身体にダウンロードされるような現象です。『火山と太陽』には、ワノフスキーが伊豆大島で遭遇した神秘的な体験が詳述されており、それが彼の火山神話論の原点となっています。ワノフスキーが伊豆大島を訪れることがなければ、『火山と太陽』という本は誕生しなかったのではないでしょうか。「ヨハネ黙示録」がそうであるように、『火山と太陽』についても火山島のもつ聖地性が非常に重要であったと私は考えています。

火山の神から太陽の神へ

── 古事記神話が発生した時期について、どのような見通しを持っておられるでしょうか。

鎌田 古事記が完成したのは八世紀だとされているので、津田左右吉がいうように、古代天皇制が確立されようとしていた編纂時の政治状況を反映しているというのはその通りだと思いますが、古事記をまとめるときに使われた材料の起源は相当、古いと考えています。とはいえ、古事記のなかの個々の所伝について、これは縄文時代にできたもの、これは弥生時代のものと特定するのは困難ですから、学者はこのあたりのことを語りたがらないものです。私はひとつの仮説として、古事記のなかには、縄文時代よりも古い旧石器時代の記憶がのこっているのではないかと見ています。旧石器時代の人たちがいだいていた神の観念やさまざまな記憶は、その上にいくつもの層レイヤーが折り重なって、表面からは見えにくくなってはいるものの、中核にある「種」として、古事記神話のなかに存続していると思うのです。

── イザナギ、イザナミの国産みで誕生した九州は、一つの体に四つの顔があって、それぞれに神としての名がついていますが、鎌田先生は『超訳 古事記』で、「これらの神々はみな雄々しく火を噴く男神たちであった」と述べています。古事記の本文に火山のことは出ていないので、これはかなり先鋭的な解釈だと思いますが。

鎌田 九州は国産みによって出現した八つの島、すなわち大八島のひとつですが、筑紫国、豊国、肥国、熊曾国という四つの国に分かれており、それぞれに神の名がついています。筑紫国は白日別(しらひわけ)、豊国は豊日別(とよひわけ)、肥国は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)、熊曾国は建日別(たけひわけ)と古事記には書かれています。この四神に共通して見られる「日」については、太陽や光と解釈され、太陽信仰に沿って考えられることが多いのですが、原初的には、「火」であったと私は考えています。それは火山の火です。

九州が火山の国であり、はるかな昔、火山の神が祀られていたに違いないということは、自転車で九州をまわった十七歳のときから、たえず考えていることです。狩猟採取で暮らしていた旧石器時代、縄文時代において、人間と自然は強く結びついていましたから、火山は畏怖すべき神であったと思います。弥生時代になって、稲作農業が広がると、豊穣をもたらす太陽への信仰が強くなり、火山の「火」は、太陽の「日」に上書きされ、火山の神はSun Godに塗り替えられていったのではないか──という見通しを私はいだいています。イザナギ、イザナミによる国産み神話については定説に乏しく、検討すべきことが多くのこっています。私やワノフスキーは、火山という視点から国産み神話を考えているわけですが、古事記や神話の研究にとどまらず、日本という国の歴史や文化を考えるうえで、欠かすことのできない重要な視点であると思います。

 『火山と日本の神話』第二部「『火山と太陽』を読む」より転載

火山の王国・九州では、いまも火山の活動が休みなくつづいている。写真右は、草千里より望む阿蘇中岳の噴煙。写真左は雲仙の平成新山。頂上付近にはわずかに白い噴気をあげているのが見える。

鎌田東二の火山神話論

研究対象のひとつに「聖地」があるからでしょうが、鎌田東二氏は長い研究活動の初期から、火山をはじめとする日本列島の地質・地形と日本人の信仰のむすびつきについて、繰り返し発言しています。東日本大震災や一連の火山活動をふまえて、日本列島の精神文化について考えるうえで、とても重要なメッセージをふくんでいるので、火山神話にかかわるいくつかの著作をここで紹介します。

鎌田氏は神主の資格をもっており、特定の神社に属したことはありませんが、フリーランス的な神主としての活動でも知られています。そうした経験を踏まえて書かれた『神道とは何か ──自然の霊性を感じて生きる』(PHP新書 2000年刊)では、伊豆大島の三原山火山について詳述されています。

 三原山から噴火する火が神の火である。この噴火の営みそのものの中に偉大な大自然の力や神霊の働きがあると感得してきたのである。(中略)災害を人間的な力でねじ伏せていこうとするような近代的な思考様式に対して、災害を自然の大いなる営みとして受け入れ、随順し、それと共に生きていこうとする生活者の知恵や態度や技術を、われわれは二十一世紀にもう一度見直さなければならないのではないか。

鎌田氏はプレートテクトニクス理論を紹介したうえで、三原山のある大島をふくむ伊豆諸島がプレートとプレートの境界線にあり、火山と地震が宿命づけられているとしたうえで、この続けています。

 だからもしそこで生きるとなれば、そうした火山の活動や地震と共に生き延びる文化を創出しなければならない。そこで、火山の噴火を災害としてとらえるのではなく、自然の大いなる営みすなわち神の営みとして、それを大自然という神の大いなる運動、もしくは現象として受け入れていく大地のコスモロジーが必要となってくる。

神道とは、そうした自然の営みを踏まえた人々の暮らしのなかから形成された「日本列島的表現」である──と鎌田氏は明言しています。スケールの大きな、そして現代的なテーマを内包した神道観であるとおもいます。

小説家の中上健次氏との対談本『言霊の天地』(1993年刊)でも、鎌田氏の火山神話論が披露されていますが、これは、『火山と日本の神話』のインタビューでも語られているので、ここでは簡略に紹介します。

中上、鎌田両氏は箱根(火山!)の知人宅で合宿しながら対談をしていますが、酒をのみすぎてヘベレケになる様子や議論にエキサイトした鎌田氏が突然、裸になって池に飛び込むなど、今の時代から失われている「熱」が活字をとおしてさえ伝わってきます。文字通り、火の出るような対談です。中上健次というと、無頼派のイメージがつよいようですが、この対談本からは、尋常ではない深みをもった思想家、学者としての風貌がうかがえます。なかでも、サルタヒコの謎を探究するべきだと、鎌田氏にすすめていることは驚きです。鎌田氏を中心として推進され、現在も続いているサルタヒコについての現代的探究の発端は、中上氏の直感にあったということになります。

残念ながら絶版状態で、文庫化もされていませんが、中上作品の熱心な読者ではない人にとってもきっと面白い本ではないかとおもいます。たいがいの図書館には入っているはずなので、こうした分野に関心をおもちの方には一読をお勧めします。

『火山と日本の神話』では参考文献として紹介できませんでしたが、鎌田氏には、「温泉宗教論」という面白い論考もあります。初出は1994年の青土社の雑誌ですが、『エッジの思想』に所収されています。

 昔話になって恐縮だが、三十年ほど前、私は地獄巡りに熱中していた。「地獄」と名のつく土地を見つけてはその地を訪れた。多くは間歇泉や硫黄を噴き出す火山帯の一画にあった。日本人は「地獄」の風景として、まず第一に火や灼熱を思い浮かべたのだ。(中略)おもしろいことに、地獄巡りをしているうちに、そこが聖地と表裏一体のところであることがわかってきた。

 青森県の恐山、紀州の熊野、九州の雲仙。「地獄」は聖地や寺院・神社と隣接し、そこには温泉があるというのです。中世の説教節のヒーローである小栗判官は、熊野の温泉の湯を浴びることで、手足の自由を奪い、醜い容貌をもたらしていた病を癒やし、再生をはたします。

 そこでは「湯」は単なるhot water ではない。それは神聖さを表わす「斎(ゆ)」の霊力を持つものだったのだ。「湯=斎」は聖水であり、magical holy hot water なのである。

熊野本宮大社から一山越えた集落に、小栗判官伝説をもつ温泉がある。

全国各地に温泉神社という名をもつ社をみますが、鎌田氏は、温泉そのものを神として祀るのは世界でもユニークな信仰文化だとして、それは、「日本列島が火山列島であるという地質学的条件に依拠している」からだと述べています。その神話的な根拠は、国産みの女神イザナミが火の神カグツチを出産したとき、女陰を焼かれて病み、絶命するという場面にみることができるとして、「温泉宗教論」のなかでこう述べています。

 イザナミの身体は火口を持つ火山でもあった。女神イザナミの身体性は単なる人間的な身体形態にとどまらず、自然形態でもあったのだ。それゆえ、噴火口はイザナミ女神の女陰(ほと)である。そこから火の神が生まれ、その火の神の血が飛び散り、「湯津石村」に付着してさらに神々が化生してきたのである。

鎌田東二氏の火山神話論において、もうひとつ重要な作品は『聖なる場所の記憶──日本という身体』(講談社学術文庫所収)です。火山についての直接的な言及はあまりないものの、日本列島の火山性の風土、土壌への着目がそこかしこに見うけられるのです。

ゲーテの地質学的論考や宮沢賢治の詩編から、花崗岩をめぐる記述をとりあげた文章も読み応えがあります。ここで鎌田氏は「花崗岩問題」という地質学上の論争を話題にしています。「花崗岩問題」とは、御影石とも呼ばれ、墓石にも愛用されている花崗岩の形成についての議論であり、簡単にいえば、火山的なメカニズムを重視するか、地下深くでの圧力・熱による作用を重視するか、という論争であったようです。

現在、この分野の一般書をみると、花崗岩は地下のマグマが結晶化してできたというような説明があるので、論争は「火山派」の勝ちだったようです。『聖なる場所の記憶』の初出論文は1980年代のものなので、「花崗岩問題」は未決着の論争として紹介されており、鎌田氏は専門家ではない自分にどちらが正しいかは判断できないとしたうえで、宗教研究者の直感では「火成論」(火山の作用による形成)に魅力を感じるとして、このような興味深いことを書いています。

 今まで述べてきたゲーテ的な意味での花崗岩(Granit)を問題にしてきた小論では、地底深部でのマグマの結晶作用を認める火成論により多くの共通点が見いだせるのではないかと思う。マグマの結晶を通して、花崗岩が場所の記憶を呼び醒ます入口になってくれるからだ。恐らく神殿や神社の多くは、こうした場所の記憶が強く刻印づけられている地点に建立されている。それは連綿と伝えられる場所の記憶の中継点なのだから。

地質学の世界での「花崗岩問題」はほぼ決着がついたようですが、花崗岩をはじめとする火成岩や火山岩などマグマに由来する岩石は、日本列島の精神文化のうえで、どれほど大きな価値をもっていたのかという問題は、とても今日的なテーマです。地域信仰に関心をもつ地質学者の発言で次第にはっきりとしてきたことですが、全国各地の磐座をはじめ信仰にむすびついた巨石、奇岩の多くは、火山活動にともなって形成された岩石であるからです。

ワノフスキーは古事記にかかれた神武天皇の熊野におけるエピソードを火山神話として解釈しているのですが、これに関係することでいえば、紀伊半島・熊野における聖地の多くが火山性の岩石でできているという地質学的な所見を、熊野在住の地質学者・後誠介氏(和歌山大学特任教授)をはじめとする研究者が指摘しています。熊野カルデラと呼ばれる広大な陥没地をつくりだした巨大噴火が1500万年ほどまえに生じ、そのとき産み出された岩石(地質学用語では「熊野酸性火山岩類」)が巨石、奇岩、滝をつくりだした信仰の聖地となっているというのです。

熊野地方の中核都市・和歌山県新宮市に鎮座する神倉神社は、ゴトビキ岩と呼ばれる磐座で有名ですが、神社のそばの山の頂上にあるこの巨大な岩は花崗斑岩という花崗岩の一種でいわゆる熊野酸性火山岩類の典型です。中上健次の小説『火まつり』で描かれている「お燈まつり」はこの神社の年中行事です。

神倉神社は熊野三社のひとつ熊野速玉大社の摂社で、古事記にかかれた神武天皇の熊野行きの伝承地とされています。巨大なゴドビキ岩に至る登山道のような参道の登り口に、サルタヒコを祭神とする社がまつられています。毎年のように「お燈まつり」に参加し、松明をもって山を駆け下りていた中上健次氏がサルタヒコの謎を意識しはじめたきっかけは、この神社であるにちがいないと、鎌田東二氏は書いています。神武天皇、サルタヒコ、火山の岩と火まつり──。古事記神話をめぐる議論は、ここでも火山とむすびついているようにみえます。

神倉神社では、熊野酸性火山岩類の巨石が信仰のシンボルとなっている。中上健次氏はこの神社でサルタヒコが祀られているという謎に注目した。

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