https://www.toibito.com/toibito/articles/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90 【「アニミズム」の起源 - 奥野克巳 - トイビト】より
世界中で未曽有の事態を引き起こしている気候変動。それを招いたのが自然を人間のための「機械」や「材料」だとみなす近代以降の価値観だとすれば、その対極に位置するのがアニミズムです。人間以外の生きものや無機物にも魂が宿るとするその思想には、非科学的であるにもかかわらず、いや、むしろ非科学的であるからこそ、私たちを惹きつけて止まない力があるように思います。アニミズム研究の軌跡、描き出す世界観、そしてその現代的意義について、文化人類学者の奥野克巳先生にお聞きしました。
1. 「アニミズム」の起源
――アニミズムというのはざっくり言うと、人間以外の存在、動物はもちろん木や草や石といったものにも魂があるとする考え方だと思うのですが、この「アニミズム」という言葉が出てきたのはいつ頃ですか。
アニミズムという言葉を初めて使ったのはイギリスの文化人類学者であるエドワード・タイラー(1832-1917)で、時期は19世紀の後半です。タイラーはこの言葉で、いわゆる「未開」社会の人びとの「宗教」を取り出そうとしました。というのも、この時期に、人類には宗教を持たない社会もあるという議論が出され、それに対してタイラーは、人間社会には必ず宗教があるんだということを主張したんです。
――キリスト教や仏教とは異なる宗教の一形態として「アニミズム」というものを措定したと。
そういうことです。つまり石や木や草や水といったものの中に魂を読み取るような信仰、あるいは信念のことをタイラーは「アニミズム」と呼んだわけです。
タイラーのアニミズムの背景にあるのは、西洋哲学の「認識論」です。認識論は精神と物質を切り分けて捉える二元論がベースになっていて、元はデカルトの心身二元論から始まっているわけですが、タイラーは「未開」社会の人びとの信仰をこの図式で捉えようとしたのではないかと思われます。つまり、本来人間にしかない精神を石や木や草といった物質にまで投影することで、宗教としては最も原初の段階にあるアニミズムが生まれたと考えたのです。
――「アニミズム」という概念は、西洋的な世界観・価値観を「未開」社会に当てはめることで生まれてきたわけですね。
同じ19世紀には、ダーウィンの進化論を文化に応用した「文化進化論」が唱えられるようになりました。 すなわち、人類の文化はすべて、未開社会から文明社会へという進化の道筋を辿るものであると。
そうした見方に拠りながら、文明社会の頂点に位置するヨーロッパは、「未開」社会の人びとに正しいものの見方を教えて引き上げてやらなければならないし、自分たちにはその使命があるといって、植民地主義を正当化したわけです。そして、人間だけの持つ精神を草木や無生物に投影する「誤った」アニミズムもまた、それを低い段階にある宗教と捉えている点で、文化進化論の枠組みの中で理解されたのです。
しかし、20世紀になると、思弁だけに頼って論じられる文化進化論は衰退し、その流れでアニミズムもあまり論じられなくなりました。その状況が20世紀後半まで続いたわけです。
トーテミスムとアニミズム
20世紀後半になると、アニミズムが再び議論されるようになります。そのきっかけをつくった一人がフィリップ・デスコラ(1949-)というフランスの人類学者です。デスコラは構造主義を提唱したクロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)に学び、南米のアシュアールという先住民の社会の研究を通してアニミズムを再定義しました。
――デスコラの話に入る前に、いま名前が挙がったレヴィ=ストロースは、トーテミスムを批判したことが知られていますよね。それについて教えていただきたいのですが、まず、そもそもトーテミスムというのはどういうものなんですか。
トーテミスムは、アニミズムと同じく、「未開」社会の人びとの持つ非合理的な信仰として「発見」されたものです。たとえば、ある「未開」社会の人びとは、「自分たちはクマだ」「あいつらはワタリガラスだ」というように、集団を動物や植物の名前で語ることがあるのですが、それぞれの集団を動植物に結びつける考え方、これがトーテミスムです。
トーテミスムがヒステリーと結びつけて論じられたことにレヴィ=ストロースは注目しています。それらは、研究者たちが、自分たちの中にある望ましくない部分を「未開」人や精神病患者に投影して、自分たちの正常性を確かめようとして生み出された「幻想」だったのだと批判したのです。
彼の議論は要するに、人類学者が「トーテミスム」と呼ぶものを持っている社会では、集団間の差異がトーテム――いちおう「動物」ということにしておきましょう――の差異によって分類されて思考されているというものです。Aという集団とBという集団があったとしたら、その両者が違うということを認識し、さらにはそのことを説明するために、Aはクマだ、Bはワタリガラスだと語るというわけです。
――集団Aとクマ、集団Bとワタリガラスに意味的な結びつきはないというわけですね。よくわかりました。では、そのレヴィ=ストロースに学んだデスコラのアニミズムについて教えてください。
さっきも言った通り、デスコラは南米のアシュアールの社会に入って調査をしたのですが、そこで正にアニミズム的なものを目にしました。アシュアールの人びとは動植物や自然に対して、主体性を付与していたのです。これは先住民社会ではよく見られることなのですが、かれらは人間だけでなく、動植物もまた主体的な存在であると考えている。だから、それらとの間で友情を育んだり、逆に敵対関係になったりするわけです。
興味深いのは、動物たちは自分の村に帰れば人間の姿になり、人間と同じように家族や親族とともに暮らしていると、アシュアールの人びとが考えている点です。高畑勲のアニメ『平成狸合戦ぽんぽこ』でも、タヌキたちは自分の村では人間の言葉で話していますが、南米先住民のアニミズムはまさにそういうものだったのです。
――動植物の主体性を認めるというのは、動植物にも魂があるという以上に、人間と対等な存在として認識しているように感じますね。
デスコラは、人間が周囲の自然環境をどのように感じ、それとどのように交渉するのかを「アニミズム」「トーテミスム」「アナロジズム」「ナチュラリズム」という4つのパターンに分類しています。
この議論の前提として、人間は必ず主体と対象という図式で世界を捉え、さらにその両者の間に「身体性」と「内面性」というものを想定するとデスコラは考えています。身体性はフィジカリティー、内面性はインテリオリティーなので、前者を「物質性」、後者を「精神性」と言い換えてもいいかもしれません。そして、デスコラはアニミズムを、人間(主体)と自然(対象)との間に「身体的(物質的)な非連続性」と「内面的(精神的)な連続性」を認める思考だと定義しました。
――人間と動物は、体は違うけど内面は同じだというわけですね。
そういうことです。われわれは直立二足歩行ですが、動物は四足で走り回ります。しかし、動物もわれわれと同じように喜怒哀楽を感じている。両者の間には、身体性が断絶しているのですが、内面性は共有されている。そのような思想がアニミズムだとデスコラは定義したわけです。すると、これはかなり普遍的な定義なのではないかと考える人類学者が1990年代以降で増えてきました。
この定義を基にすればアニミズムの概要が見えてくると思います。私自身はアニミズムを「人間だけが地球の主人ではないとする思想」だと考えていますが、その基礎になっているのも、このデスコラの定義です。
――先ほどの4つの分類でアニミズム以外についてもお聞きしておきたいのですが、集団をそのまま動物の名で呼ぶトーテミスムは、動物との間に身体性と内面性の両者で連続性を認めるということですか。
その通りです。そして、その真逆で、身体性も内面性もどちらも非連続なのがナチュラリズムです。
――自然と完全に断絶しているのがナチュラリズムなんですね。
これは人間以外の存在を材料や機械と捉える西洋の自然観です。
――最後に、身体性は連続で内面性は非連続なのがアナロジズム。アナロジー(比喩)なので、身体的あるいは物質的に共通している部分を認めるわけですね。
そういうことです。こういったことをデスコラは『自然と文化を越えて』という本の中で精緻に体系化しています。
http://walhallahlaw.blog.fc2.com/blog-entry-457.html 【「根拠なき身体」から「アニミズムの身体」へ】より
〈土地と身体〉というテーマで、東京巡礼と日本列島聖地巡礼の、ふたつの企画をすることにした理由。
舞踏を始めた頃は、私は表現活動は公演(という舞台)を中心としたもの、と考えていた。
公演を続けているうちに、「何かヘンだ」「・・???」と感じるようになっていった。
最初のうちは自分の能力のなさが原因で、公演をやっていても充実感も達成感もないのだと思った。でもそれもギモンになっていったのだった。どうもこれは能力の問題ではないらしいと。身体とはなにか、とブログを書きながら考えていくにつれ、わかってきたことがある。
欧米主導の身体表現の後追いをしている、日本の創作舞踊は、舞踏を別にすれば、欧米的身体観をベースにしている。その身体観は「人体」という閉じた人間主体の体系だ。
人間を超えた根源世界とのつながり、他界とのつながり、自然とのつながりがない。
閉じた人体の筋肉運動と、物語性や様々なコンセプトをつなげたもの。そしてそれが即舞台表現となっている。
言葉を変えれば、近代的自我が体を道具化して支配し、(私はこれを身体に対する人間主体の帝国主義と呼んでいる)作品と称して舞台上で才能を競う。
それが表現だと、私自身も思い込こまされていた。
私の違和感は、ひとつには「閉じた人体体系」、ひとつには「舞台表現に特化した限られた身体性」、に対するものだったとわかって来た。
近代的自我の閉じた人体体系の、その身体の根拠のなさ、が気になってならなくなった。
足のないユーレイが、とんだりはねたりしているように感じられて仕方ない。
そこには人体はあるけれど、空気も場もない。他界からの息吹もなく、土地もなく、いったい何を根拠にして、舞台表現者は踊るのか ?なんと頼りない身体性であることか。
自分だけを根拠にして人は生きることができるのか ?
自分を支えているものへの認識なくして、どんな生き方も表現もできない、と私には思えるのだ。この根拠なきユーレイは、しかし、西洋においてはある程度の根拠を幻想できる。
それはヨーロッパの強固な思想的文化的土壌だ。それが、ベジャールを支え、ピナ・バウシュを支え、イリ・キリアンを支える。
でも西洋の後追いしている日本の文化的土壌は、それとはまるで別のもの。
豊かな日本の土壌を無視して、西洋のように鍛えられた思想性も文化的歴史もなく、
日本の身体表現はますますと貧しい。
(日本の舞踏は大きな仕事をした。なのに先細って、ほぼ消滅しようとしている。それには理由がある。そのことについては今まで書いてきたので、ここでは省く)
西洋でも土地と結びついた、たとえばフラメンコやギリシャダンスや、その他のローカルな踊りは面白いと私は感じた。
それは表現世界のグローバル化の時代にあって、隅っこに追いやられているけど、身体の豊かさをうしなっていない。
私は東京生まれの東京育ちとして、今まで故郷喪失者と自分を規定していた。でも踊りをやっていると、そのことが逆に信じられなくなる。「足の下に土地がなければ自分は踊れるはずがない」と思えてきた。それは回帰の思想ではなく、獲得の思想として、自分に立ちあらわれてきたのだ。ずいぶんと悩んだ。先が見えなかった。
根拠のない体で表現活動をつづけなくてはならないのか・・・自分にとって土地とはなんなんだ ?身体というのは「知の情報」だけでは生きられないものだ。
身体が「そんな希薄なものでは自分は動けないよ」と訴えるのだ。・・ そして身体は「飛ぶ」。時空をいっきに越えるという離れ業をやってのける。
私の身体は宇宙感覚に直結し、縄文に直結しようとしている のか ?? (_ _;)
そのような時にこそ「知の情報」が不可欠になる。
私は「アースダイバー」に出会った。現代思想の深い意味合いが身体を獲得しようとし始めてきた。その思想を受肉しようとする身体のエロス的力が見えてきた。
思想と土地と身体を、ダイレクトにマテリアルにプライマルに(笑) つなげて、現代人の生きる根拠にしていけないものか。・・・ とそんなふうに考えるようになった。
具体的にどうするのか、それは厳しい課題だ。とりあえず土地の上に意識的に立つことにした。それが「土地と身体」という企画。でも窮屈に考える必要はないのだよ。きわめて真摯に、しかし軽やかに、地球のなかの日本という土地を歩いてみたいのだ。舞を舞いたいのだ。
研ぎ澄まされた身体性と、都市人の闊達な知の力を持って。
たいしたことは出来ないかもしれないが、少なくともゼロではないだろう。
私は日本の身体の可能性を感じはじめたところだ。
それは既存の芸能の枠にとどまらない まずは
「アニミズムの身体」から。
https://www.mishimaga.com/books/datsukintore/000688.html 【身体知とは〜始原身体知〜】より
ここまで筋トレの弊害についてつらつらと書いてきた。からだのハード面における強化を図るのが筋トレの目的で、特定の動きを習得するために必要なコツやカンなどの身体感覚をそのプロセスにおいて置き去りにする。ここに筋トレの落とし穴がある。
コツやカンを掴むためには感覚世界に身を置くことは避けられない。自らの感覚を探りながらその動きに必要なコツやカンを捉えることが、動きの習得なのだ。そしてこの感覚世界は運動主体からすればまるで暗闇を歩くような困難さを強いられる。上達している手応えもさほどなく、練習や稽古などの取り組みそのものが正しいのかさえもあやふやになることもある。だから「感覚世界に身を置く」というのは口で言うほど容易ではない。
ここからいよいよ話が佳境に入る。
今回から感覚世界に身を置くための方法、つまり暗闇を歩くためのガイドラインを書いていこうと思う。感覚世界の見取り図なるものを示してみたい。筋トレに頼らず運動を習得するための、つまりコツやカンを掴むためのよすがとなるテクストになることを目指して。
発生論的運動学という学問がある。フッサールからメルロ=ポンティに連なる現象学をもとに、クルト・マイネルが創始したこの学問は金子明友が日本に持ち込んだ。ほとんどの運動指導の現場では、からだを機械に見立ててその性能を高めるための筋トレやストレッチ、すなわち生理学的アプローチと、運動主体の意欲を高めるための叱咤激励、すなわち心理学的アプローチに終始している。運動を習得するにはこころとからだを鍛えることが近道で、それが最善の方法だとナイーブに考えられているが、この学問はここに疑問を投げかけている。
繰り返すが、それぞれのスポーツ種目に求められる特殊な動き、すなわち「わざ」の習得にはそれに求められる感覚を掴まなければならない。だからこそパフォーマンスの際に運動主体の内面に生ずるコツやカンなどの感覚を指導することこそが、スポーツをはじめとする運動指導をする者にとっての喫緊の課題だ。理論や概念を論理的に学ぶ座学とは違い、実技指導では「わざの感じ」を掴むことが目的で、だから運動指導者はそれをこそ教えるべきで、つまり運動指導者は、感覚指導ができて初めてその役割を担いうる。こう考える発生論的運動学は、運動主体の感覚習得や運動指導者の感覚指導について詳細に研究を重ねてきた。
動きを実践するときに、運動主体の内面に生じる感覚を「動感」という。たとえば跳び箱を前にしたときに、「なんとなくこんな感じでからだを使えば跳べるはずだ」と思える人は、跳び箱を跳ぶための動感が充実している。逆に、「どんな感じで跳べばいいのかさっぱり見当がつかない」と思う人は、その動感は空虚である。料理人が手際よく包丁で食材を切り分ける作業は、包丁さばきに必要な動感が充実しているからできるのであって、普段ほとんど料理をしない人が包丁を手にしてもその動感が空虚だからぎこちない動きになり、どことなく様にならない。誤って手を切るのではないかと傍目にも危なっかしく映る。
ボールを投げる、蹴る、バットであるいはラケットで打つといった動きにもそれぞれに必要とされる動感がある。運動習得という現象そのものを厳密に掘り下げれば、この動感を充実させることが最大の目的であり、ポジティブな心構えも、発達した筋肉やからだの柔軟性も、つまりのところはこの動感の充実に収斂される。
だから発生論的運動学は、生理学的および心理学的アプローチに頼る運動指導は、結局のところ運動主体の自学自習に丸投げしているに過ぎないと批判してきた。肉体的にハードな練習を課し、意欲を高めるために励ますだけでなく、動感を発生させるための感覚指導ができて初めて運動指導者と呼べるのであり、まずもって感覚世界を熟知することが運動指導者には求められるのである。
さて、この学問の問題意識を共有したところでいよいよ感覚世界の見取り図を描いていきたい。
発生論的運動学では「身体知」という概念を基底に据えている。マイケル・ポランニーが提唱した「暗黙知」をもとに作られたこの概念は、言語化・数量化できない身体の作動の総称を意味している。たとえばラグビーならば、迫り来る相手選手の間隙を縫って走るプレーは、相手との間合いを見切り、スピードと進行方向の角度を絶妙にコントロールすることで可能となる。「間合い」、「速度調節」、「進行方向の切り替え」など言語化・数量化に馴染まないこれらのパフォーマンスが身体知の範疇に属する。この能力は反復横跳びや50m走の結果と必ずしも比例しないところがおもしろい。徒競走が速い人が鬼ごっこもうまいとは限らないわけで、運動場面をよくよく観察してみれば、運動主体がそれぞれの仕方で身体知を駆使していることにすぐ気がつくはずだ。
私たちが運動場面において因襲的に「運動神経の良し悪し」だと解釈してきたさまざまなパフォーマンスは、この身体知という概念を当てはめればより深く考察できるようになる。運動神経のよさ、もっといえば先天的に獲得された運動能力とみなしてきたものも実のところ身体知なのであり、その充実度をみることで浮き彫りになるのである。
ではさっそくその中身をみていこう。
身体知は、始原身体知、形態化身体知、洗練化身体知の3つに分けられる。
まず始原身体知は、いわばすべての動きの基本となる動感能力で、おおよそ生まれ持った能力として私たちが解釈しているものとみなしてよい。その性質からさらに体感身体知と時間化身体知の2つに分けられる。
体感身体知とは、私たちに馴染んだ言葉に置き換えれば空間認知能力とほぼ同義である。これは「今、ここ」がありありと感じられる身体知で、具体的にいうと、対象との距離がわかる遠近感能力、視覚に頼らず周囲360度を捉えられる気配感能力、自分のからだのニュートラルポジションがわかる定位感能力がある。
遠近感と気配感は、その語感から想像できるだろう。視界の内外にいる人やある物体など「対象との隔たりを感知する動感」である。たとえばバスケットボールにおいて相手ディフェンスを撹乱する効果的なパスを繰り出すポイントガードはこれらに秀でていると考えられる。自分をマークする、あるいは背後に忍び寄る相手ディフェンダー、あるいはサポートしてくれる味方選手のポジションや彼らとの距離が感知できるからこそ、最適なプレーが選択できる。隔たりがわかるからこそ自身と対象とのあいだに生じたスペース(空間)を把握できるわけだ。
スポーツ場面だけでなく日常生活においても、私たちは知らず識らずのうちにこれらの動感を働かせているように思われる。
たくさんの人々が行き交う街中を接触することなく歩けるのがそうだ。すれ違うはるか手前でその人との距離を感じ取り、右あるいは左に微妙にコースを変えているからぶつからずに済む。あるいは見通しの悪い曲がり角では、向こうから人が歩いてこないかを探るべく気配感を働かせ、また夜道を歩くときは背後から近づく人の気配に敏感になっているだろう。外部に放射されたこの動感感覚は、わずかな空気の振動で対象を認識し、物音や声の大小で距離を測っている。
もうひとつの定位感は、自らのからだのかたむきがわかる動感である。体操選手は空中でひねりを加えながらからだを回転させても着地を見事に決める。これは回転しながらに上(天)と下(地)を感知しているからできることであり、重力がはたらく地球上での安定姿勢であるニュートラルポジションからどれだけかたむいているのかがわかるから、着地の直前に身を翻して脚を地面に着くことができる。内村航平選手は、目まぐるしく移り変わる視界に、ときおりわずかに飛び込んでくる屋根の色を視認することでからだのかたむきを把握しているというから驚きだ。練習の賜物とはいえ凄まじい定位感能力の持ち主である。
当然のことながらこの定位感もまた、私たちは日常生活で発揮している。
ほとんどの人は転びそうになったときに危険を察知して、転ばないように踏ん張ったり、あるいは転んだときのために身をすくませ、手をつく準備をするだろう。「このままでは転んでしまう」という瞬時の判断は、ニュートラルポジションからのかたむきが閾値を超えたことを感知できるから下すことができる。片足立ちができるのも、沼地や砂浜を歩けるのも、この定位感が働いているからである。
この動感を私たちになじみのある言葉に置き換えれば、バランス感覚となろう。たとえば福祉の現場で問題となっている高齢者の転倒を防止するためには、まずはこの動感を充実させることを目指すべきだろう。かたむいたからだをニュートラルポジションに戻すために筋力は不可欠なのだが、それに先んじて、かたむきを感知するこの動感の衰えを回復しなければ絵に描いた餅となる。この定位感が空虚なままだと筋肉は単なる重りと化すから、ますます転倒しやすくなるわけで、まったくの逆効果となる。
不安定きわまりない二足歩行を宿命づけられた人間にとって、この定位感はなにをするにおいても充実させなければならない動感であると私は考えている。
ここまで述べてきた始原身体知は、想像力を働かせば主に幼少期の遊びの中で培われるものだと推測できるだろう。たとえば遠近感は、「鬼ごっこ」で鬼から逃げ回るなかで知らず識らずのうちに養われるだろうし、気配感は「かくれんぼ」でその隠れ場所を探り当てようとするとき、あるいは「ハンカチ落とし」でハンカチを背後に置かれた瞬間を感じ取ろうとするときに如何なく発揮されているはずだ。定位感については「木登り」や「ジャングルジム」あるいは水中で、なんとかバランスを保とうとして充実させているのではないか。
さらに遡って、まだ歩くのもままならない幼児期は、床に置かれたおもちゃやリモコンを目指してハイハイするときに遠近感を、視界にいない母親を探すときに気配感を働かせているかもしれないし、大人に抱えられて「高い高い」されているさなかには定位感が育まれているのかもしれない。相手が乳幼児なだけにその真偽を確かめることはできないが、具に観察すればこんなふうに見立てることもできる。
人それぞれに固有の仕方で感知する身体感覚は曖昧で漠然としているが、この身体知という概念をあてはめてみればその豊饒性に気がつくはずだ。身体感覚なるものは私たちの想像をはるかに凌駕する奥行きを持っている。からだを使って何かをするときに、意識するしないを問わずほぼ自動的に働いているのが身体感覚であり、体重が減らず筋肉量が増えなくとも、試合に勝っても負けても、身体感覚はその使い方に応じて豊かになってゆくものなのだ。とくに心身が発達途上の子供にとってその効果は顕著で、だからとにかくからだを使って遊ぶことはなによりも大切なのである。
次回は、「形態化身体知」について書く。特別な動きとしての「わざ」を身につけるために発揮される身体知とはいかなるものなのだろう。
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