身体知と「植物知性」

Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

いのちで見て

 3月3日が桃の節句で、5月5日が端午の節句。古代中国では、月と日に同じ奇数が重なる日を忌み嫌い、その日には邪気を払うために、さまざまな行事を行っていました。

「端午」とは「はじめの午の日」を意味し、5月の最初の午の日(5日)のことです。

菖蒲の節句とも言って菖蒲湯をしますが、節句は旧暦のことなので、ほぼひと月早く、まだ、菖蒲の花も咲き揃ってはいません。桃の節句に、まだ桃が咲いていないのと同様です。現代の暦とズレているとはい、季節の先取り感がいいですね。

節句というのは植物が関わっています。桃や菖蒲のほか、七草もありますし、7月7日にはホオズキの根を煎じて飲むという古い習慣もあり、9月9日は、いわずと菊です。

自然界、特に植物を目印に季節の移り変わりを知り、稲作をはじめとする暮らしを営んでいたということですね。

植物の能力や植物に心、魂はあるか、ということも長く研究されています。植物に嘘発見器を接続して、「植物は思考を読み取り、感情的に反応している」と発表したのがバクスター効果と言われるものです。

最近では、植物は季節の訪れを夜の長さで予知することが実証的に明らかになったようです。

植物への感謝と関心ですが、同時に、生きるとはどういうことか、心とはなにか・・・というテーマの一環のようにも思います。

宇宙をコスモスと呼ぶことに思いがいきました。古の人は敬虔に自然界から学んでいたのですね。花びらが規則正しく並んでいる様子(=秩序)からです。秩序とは、(=神とは)大自然の姿にほかならないということを実感できていたからでしょう。

いのちで見て、いのちで考えることを教えてくれています。

節句から感じたことです。


https://www.works-i.com/works/series/academia/detail002.html 【人事のアカデミア身体知】より

創造的な知の源泉はリアルな身体性にある

熟練技術者の勘やクリエイターの感性など、他人には説明しにくいが、個人的に体得しているスキルはどのように磨かれるのか。労働経済学者の梅崎修氏をナビゲーターに、注目の研究を紹介する本企画。今回は、認知科学の観点から創造的な知の研究に携わる諏訪正樹氏に聞く。

頭でっかちな知識から創造性は生まれない

梅崎:「こつ」「勘」「感性」などと呼ばれるものの正体は、一言でいえば何でしょうか。

諏訪:「身体知」、身体に根ざした知です。頭でっかちな知識とは違い、こつや勘は、その人の生活体験のなかで培われ、身体や生活の実体に根ざしたものです。身体知の学びとは、実に創造的なことですが、そのためには身体の存在が重要なんです。

梅崎:身体とは?

諏訪:1つは物理的な存在としての身体です。私は野球をやっています。バッターボックスに立つと、足裏からさまざまな感覚を得ます。地面が粘性のある土ならば、足裏のほんの一点で安定的に身体を支えられますが、サラサラの砂ではそうはいかない。身体は物理的な存在だからこそ世界との相互作用が生じ、新たな意味が感じ取れ、身体の動きが決まったりする。

もう1つの身体は脳の奥のほう、感覚を大脳皮質に伝える間脳や本能や情動を司る大脳辺縁系あたりでしょう。身体と世界の相互作用から、我々の体内には身体感覚が生じますが、その生成には脳のそのあたりが関与しているはずです。将棋では、次の指し手は約80通りあるそうです。プロ棋士の羽生善治さんは、すべての指し手候補を比較・分析して決めるのではなく、2、3の良さそうな手だけが見えるそうです。論理的な比較・分析は大脳皮質の仕事ですが、その前に間脳や大脳辺縁系あたりの部位が、身体感覚的に重要そうなものに着眼し、取捨選択しているのではないかと考えられます。

梅崎:それはアスリートやプロ棋士に限りませんよね。コミュニケーションも身体知ですし、一般のビジネスパーソンも身体を使っています。

諏訪:まさに生活は、身体知だらけだと思います。たとえば、人事が採用面接をするときにも、大脳皮質で論理的に考えるよりも前に、直感的に判断しているでしょう。「感性」とは、そのあたりの脳部位による着眼力と、大脳皮質による解釈力です。無限の情報のなかの何かに着眼し、そこに意味を見出すことなので、まさに身体知です。

常に身体の存在を意識し自分のことばで語り続ける

梅崎:身体知を磨く方法論として、諏訪先生が提唱されているのが「からだメタ認知」という概念です。

諏訪:簡単にいうと、身体の声(身体感覚)を聴こうとすること。身体感覚をなるべくことばで表現しようと努力することで、感じ方を研ぎ澄まし、身体の振る舞いを進化させる手法です。身体感覚をうまく表現できなくてもよい。ことばを介して、別のことばにも連想が広がり、新たなことばの視点で身体を見直すと、思いも寄らなかった着眼点や解釈が得られます。たとえば日本酒の酸味には、喉をジリジリと刺激する酸味もあれば、舌先にとどまりきらりと光る酸味もある。ことばの力を借りることで身体感覚に意識を向け、身体もことばも進化させるのです。

梅崎:環境と身体との相互作用は刻々と変わるので、常に内部観測を続けていくことが重要ですね。

諏訪:こつをつかむと視点が固定化し、停滞の時期がくる。スランプです。でも、実は、環境は刻々変わるので、自らの身体が発する声も変わっているはずです。からだメタ認知を実践する習慣があれば、新しい着眼点を得て、さらなる上達が望めます。スランプは必要悪なんですね。

梅崎:からだメタ認知は、単に「無になって身体の声を聴け」という話ではありません。言語化が大切で、身体とことばの共創サイクルですね。

諏訪:ここでの「ことば」は、他人に伝えるためではなく、自分の身体感覚をつなぎとめるためのもの。どこかで聞きかじった受け売りのことばでなく、身体感覚に向き合うからこそあふれ出す内なることばです。

梅崎:意識してトライ&エラーを繰り返すしかない。ノウハウとして他人に伝えようという意識が強過ぎると学びは止まってしまいますね。

諏訪:身体知は個人のものであって、マニュアル化して他者に使ってもらおうとすることは間違い。クリエイティブな知を育もうと目論むなら、マニュアルの発想から脱却して、自分の身体に向き合うことを実践してほしいです。

Text=瀬戸友子 Photo=刑部友康(梅崎氏写真)


https://ameblo.jp/openmind-psychology/entry-12601308330.html 【「身体知性(身体知)」とは?】より

「知性」「知能」と言われるものには、いろいろな種類があります。元来は、いわゆる「知能(intelligence, IQ)」でした。心理学では、学習や発達、臨床などと絡めて、かならずやらされる項目です(^^;)

スタンフォード=ビネやウェクスラーなどのいわゆる「知能検査」はこのレベルに相当します。

やがて「心の知能指数」と呼ばれるものがダニエル・ゴールマンにより提唱されました。

いわゆる「EQ」と呼ばれるものですね。(個人的には、「心の知能指数」という翻訳より

「感情知能」とか「感情知」の方がいいのでは、と思っていますが。)

最近ではさらに「身体知性(bodily intelligence, BQ)」が注目を浴び始めています。

この順番、分からなくはないです。

カウンセリングのプロセスの深化にも似ています。

人間、どこか頭でっかちで「自分はこう!」「こうしなきゃ」のように思い込んでいて、また

コミュニケーションとか体験を考えるときも言葉に終始し、気持ちや身体の反応に注意を払わないことが多いのです。

カウンセリング・セッションでは「ちょっと待って!」という感じでスローダウンしてもらい、気持ちや身体に意識を向けてもらいます。

そちらの方がより深く、正直でもあるからです。

これをあえてカウンセリング(心理療法}へのアプローチで言うと、ジェンドリンの

「フォーカシング」がありますね。

精神分析なんかだとまったく身体を介さない、言葉オンリーくらいに思っている人もいますが、私の知る限りそんなことはないです。

「言葉」は「身体」から発せられ、「身体」につながっていき少なくともそこには語る(または、沈黙を守る)「身体」があります。

私はカウンセラーをしていて、この「身体からの情報」を使えるようになるのに、しばらくかかりました(^^;)

しかし元々ダンスやヨガの経験がン十年(!!)と豊富なので、両方をつなげて生かしていけると思っています。


https://note.com/shimpeiok/n/n98edb570a8f3?magazine_key=m62f9a72caec4 【ボタニカル・クロッシング: 「植物のメタファー」を用いたフォーカシングの提案】より

はじめに:身体知と「植物知性」

身体知は、植物に似ている。

周囲の環境を、その身を通じて直接的に応答している。根を伸ばし、葉を広げ、その状況に呼応して生きている。

そんな植物の生長や動き、微細な変化に気づく兆しは、毎日じっくり観察していてもなかなか気づけないことも多い。

植物たちは、動物と違う「時間」を生きている。ゆっくりと時をかけて、その状況下での最適な関係性を、「その場でどのように生きたらいいか」の最適解を非常に精密なしかたで示している。

それは場合によってはとてもか弱く見えて、しかし驚くほどにたくましいこともある。

これまでの自分の人生のいくつかの季節で、無性に植物に凝ってしまう時期があった。ここ一年ほどは、僕にとって空前のボタニカル・ブームが到来している。もちろん、NHKの朝の連続ドラマ『らんまん』にもダダはまり。ベランダの花々や夏野菜、観葉植物に語りかける時は土佐弁である(影響されまくり)。

水枯れをさせたり、虫がついちゃったり、鼻がつかなかったり思ったほどの収量がなかったりと、いとうせいこうさんのいう"ガーデナー"ならぬ"ベランダー"をやってみて、勉強になることばかりである。予想外のことや悩みも多分にあるけれど、植物と一緒に暮らす生活には癒しがあるし、単なる息抜きを超えて、本職の研究や臨床実践にも通じる、さまざまなアイデアを連れてきてくれる。

以前にも関連のnote記事に書いたけれど、フォーカシングを含む「身体知」のあり方は、植物の振る舞いをよく観察すると重なる部分が多い。実際、「植物知性」に関する書籍もたくさん出てきたし(賛否はあるが)、植物の哲学なるジャンルも最近出版が相次いでいる。

特に決定的だったのは、藤原辰史先生の『植物考』だった。歴史学、農業史をご専門とする藤原先生の視点はとてもユニークで、帯の「人間の内なる植物性に向けて」という文言はここ最近の僕自身の"公案"でもある。"We have plant body"と言ったのはまさしくジェンドリンだが、フォーカシング実践あるいはジェンドリン哲学のなかに、どのようにこの内なる「植物性」と響くものがあるのかを探究し始めている。

最近はますます植物に目が離せなくなり、故に、自宅だけでなく今や研究室にも植物が増幅しつつある。いや、これは趣味というより実は研究の一環なので...と言い訳はいつも考えている。おかげさまでクレームはまだない。枯らすわけにはいかない。

そんななかで、ふと思ったのだった。身体知と植物の知のあり方が似ているのなら、植物でフォーカシングができるのではないか。

こうして新たなフォーカシングのワーク「ボタニカル・クロッシング」が爆誕したのであった。

フォーカシングとメタファー:交差の機能

「植物のメタファー」を用いてフォーカシングをする。これがボタニカル・クロッシング(botanical crossing)のシンプルな特徴である。

その前に少し、フォーカシングとメタファーの関係について書いておきたい。

フォーカシングのプロセスでは、微細で曖昧だけど有意味な感覚である「フェルトセンス」にアクセスをするために、メタファー表現を用いることが多い。曖昧な身体の感覚や、そのような感覚を触発する状況を、”何かにたとえる”のである。

たとえば、ある人にとっての悩みの種になっている人間関係があるとする(種..すでにボタニカルである)。そのような問題のある関係や場を連想すると、何か胸に重たい感じがするかもしれない。その質感や、状況からの連想を喩え、メタファーにするのである。「そのことを思うと、からだではどんな感じがしますか?その感じや感じを伴う状況を、何かにたとえるとしたら、どんな感じがするでしょう?」というように聴き手側が問いかけてみることもある。

するとフォーカシングをしているフォーカサーは、「胸にずーんと、鉛のような重さがある…いや鉛よりも、もっと”ねっちょり”している感じ」というように表現したりする。”鉛”のようなメタファーや、擬音語や擬態語などのオノマトペも、フェルトセンスを言い表すのによく使う表現だ。

あるいは「その人間関係を想像すると、職場のことなんだけど…飴細工でできた大型船に乗っているみたいな感じがする…」というような状況のメタファーがイメージされる場合もある。このようなメタファーやイメージによって、フェルトセンスにアクセスさせ、メタファーとフェルトセンスが交差することで、身体が微細かつ精密に理解している状況についての「何か」が際立ってくることがある。

その状況は、重たくって、ねっちょりしていて、そして飴細工でできている大型船のようなものだ。そんな船に乗っているとしたら、そしてそこが職場だとしたらベタベタとして身動きがとれなくって、そしてうかうかしていたら全部海に溶け出して船の外に放り出されてしまうかもしれなくって、確かに落ち着いてはいられないだろう。船員たちもぎすぎすしそうである。

では、そのような状況は、あるいはそのフェルトセンスは、何を意味しているのだろう?あるいはどんなことがその状況にあるといいのだろう?

べたべたとした甲板を船員たちが歩くのに、もう少し”さらっとした関係性”みたいなものがあるといいような気がする。そのようなコミュニケーションを”さらっと”させるような何かとは?まずはみんなの足元の”べとべと”を拭き取るような時間や機会が必要なのかもしれない。そしてそのように足元の甲板に注目して、よく拭いて味見をしてみると、意外と甘くて旨みがあるかも…。なるほど、この船という状況を生かすためには、まだまだ工夫できることあるかもしれない。

このようなかたちで、身体感覚と言葉やイメージ、メタファーを「交差(crossing)」させて、身体感覚の意味を精密に理解しようと試みる一連の流れが、フォーカシングの特徴だと言える。メタファーは、身体感覚とつながり、その理解にドライブをかけるのにうってつけの重要な要素なのだ。

どのようなメタファーを用いるか: 喩える系ワーク

そんなこんなで、すっかり植物にハマっている僕は、今こそ「植物のメタファー」でもってフォーカシングをやってみたいと思ったのだった。

フォーカシングにとってメタファーがどのような機能をはたしているかについては、上記の本を書いたり博士のときからの長年の関心ごとで、メタファーとフェルトセンスをなぞかけのように交差させる「なぞかけフォーカシング」というものを考案したりもした。

しかし、フォーカシングとメタファー、特にどのようなメタファーを用いるかについては、実はさまざまなワークがこれまでにもたくさん開発されてきた。

自分の状況や内側の感じを「天気・天候・気象」などのイメージに喩える「こころの天気」(土江, 2008)、状況を生きる自分を魚に喩える「サカナになるフォーカシング」(星加, 2015)、自身の状況と生き様を「○○している(動物)」という動物に喩える「アニクロ(animal crossing)」(池見ら, 2019)、あるいは植物に含まれるが「最近の私ってキュウリやねん」という「野菜フォーカシング」の実践報告もある(青木, 2020)。

このように、フェルトセンスやその状況、自分自身を喩える系のフォーカシング・ワークには、たくさんのヴァージョンが存在する。その1つとして今回は、フェルトセンスと植物による交差、ボタニカル・クロッシングをぜひ試作してみたいのだった。

実は、喩えに用いるもの、メタファーとして何を用いるのかは、喩えられる対象、この場合はフェルトセンスの理解に多分に関与する。いわば、それぞれのメタファーには、それぞれのメリット、巧みさ、特徴があると言える。

「天気」のメタファーでフェルトセンスを喩えるメリットは、まずは天気には良し悪しはなく、誰のせいでもないことにある。天気を変えようがないし、自分の感覚も変えようがない。そして天気は必ず変化する。これは自分の”気分”も同じである。止まない雨はないし、明けない夜はない。梅雨の時期でも晴れ間がでたりする。そして天気であれば、ある程度対応策が考えられる(雷雨になりそうだから遠出は控えよう、など)。

「動物」のメタファーにも、動物ならではのメリットがあるだろう。動物にはたくさんの種類があり、多種多様な生き方があり、それぞれの状況下で工夫をしたり、能動的に対応したりしている。ある状況のなかの生き様を表現するのに、動物というモチーフはぴったりである。そして案外、人はいろんな種類の動物を知っているものである(遠足の定番ということもあり、動物園に行ったことのない人は極めて稀である)。動物の喩えがあまりピンとこないという人でも、たとえば「今の気分はイヌ?ネコ?」と聴くと、どちらかかあるいは「どちらでもない」という答えが出る。ちなみに学生に今の自分の喩えを聴くと「ずっとダラダラ寝ているナマケモノ」という答えが大半である。

では「植物」を喩えに使うとなると、どうなるだろうか。実は案外、植物をフェルトセンスのメタファーに使うのか、難しいかコツがいるように思っている。

まず、植物は(一見すると)ほとんど動かず、変化しない。それが、本来的に「変化の兆し」を含意しているフェルトセンスを表現する際に、あまり適していないようにも思える。天気であれば「これからどうなっていきそうか」を想像することもできたり、動物のように「その状況でその動物はどうしがたっているか」のような問いかけがあり得るわけだが、多くの人は「その植物はどうしたがっているのか」なんてわからない。だいたい水をあげときゃいいかな、とか肥料をあげようか、とか太陽を当ててあげよう、となって枯れちゃうことがある。植物の声を聞くにはかなりのコツがいて、僕も日々一喜一憂しながら修練している。

知らない対象で、メタファーは作れないのである。多くの人は野球やサッカーを知っているから、人生を野球・サッカーに喩えられる(1発逆戦とか、ロスタイムまで諦めるな、とか)。しかし同じ球技でも「セパ・タクロー」を知らない多くの日本人は、人生をセパ・タクローでは喩えないのである。もちろん、東南アジア諸国では、人生をセパ・タクローに喩えるかもしれないし、インドではクリケットに喩えることことが多いかもしれない。

意外と私たちは、植物のことを知らない。植物は水が好きだから、とつい水を挙げてしまい枯れてしまう。日本人にとって馴染み深いイネのイメージがあるからだろうか、根の部分がずっと湿っていた方がいいと思ってしまう。でも人間でもずっと足元が濡れていれば不快で健康を害してしまうように、植物もずっと濡れているとダメなのである。

そして今、植物の「根」と人間の「足」を対応させたアナロジーで考えたが、これも注意が必要である。植物の根は、人間でいえば腸など内臓に近い。養分や酸素を吸収する器官である(かつ、植物体を支える足でもある)。土がずっと濡れていると、根は呼吸をできず窒息してしまう。そしてどうもイネは、根が水に浸かり続けても呼吸ができる独特の構造を持っているようだ。

私たちは一般的に、植物のことをぜんぜんわかっていないのかもしれない。植物はよっぽど「他者」だと、世話をしながらいつも思う。

一方で、植物と関わり、その叡智を知っている人、植物たちにずっと関心を向ってきた人ならではのその視点が、「植物」のメタファーをより巧みに交差させることに依拠するのである。

ボタニカル・クロッシング:植物好きのためのワーク

そう、植物のメタファーでフォーカシングを行う「ボタニカル・クロッシング」は、植物の喩えを用いる以上、ある程度は植物に馴染みのある人こそが楽しめるワークなのだ。園芸愛好家・植物好きのためのフォーカシング・ワーク。それが「ボタニカル・クロッシング」の大きな特徴である。

たとえば、春の時期の花に限ったとしても、「この状況の中の私の感じは、マリーゴールドというよりもペチュニアみたいな感じ」と喩えられるのは、園芸愛好家ならではだし、もし植物のことにあまり関心のない聴き手もそれが何を意味するのか連想するのは難しいかもしれない。

(※注意したいのは、これはあらゆるリスニングの場面において言えることで、だからこそ聴き手はそれが何を意味するのか、話し手に尋ねることが必要なのである。花の種類も特徴もわからなくても、聴き手は務まる。むしろ聴き手とは、わからないから聴く人のことである)

しかし、植物の喩えを用いるフォーカサー自体は、植物に精通していればしているほど、その植物に関する知恵を状況の理解やフェルトセンスの表現に利用することができるのである。

メタファーなどの言語学の分野では、喩えられる側の領域をターゲット・ドメイン(この場合や状況やフェルトセンス)、喩える側の領域をソース・ドメイン(この場合はハンドル表現に用いるメタファー、天気や動物、そして植物に関する知識や知恵)と呼ぶ。

園芸愛好家は、日々植物と暮らし、植物のケアをしていることで、植物に対する豊富なソース・ドメインを活用することが可能となる。たとえばマリーゴールドのオレンジの華やかさだけでなく、その強さやたくましさも知っている。そしてペチュニアの樹勢の強さやばっと花をつけたときの存在感だけでなく、たくさんの花をつけるがゆえに加湿に弱く花殻を詰む手がかかることも知っている。そのような植物との生活のなかで培われた、実感を伴った知恵が「ソース(資源)」となって、フェルトセンスと交差するのである。

さまざまな園芸用語やちょっとしたtipsも、今の自分自身の状況と交差することで、状況の理解を促進させる働きをもつかもしれない。

たとえば、植物は水を切らしてもダメになるが(水枯れ)、水を与えすぎてもダメになる(根腐れ)。今のこの生きづらさを感じる状況は、植物に喩えるならば、水枯れ的だろうか、それとも根腐れ的だろうか。何かが足りなさすぎるのだろうか、あるいは何かが多すぎるのだろうか。そしてこの「水」にあたるものは何なのだろう。あるいは植物の育成上欠かせない要素は他にもたくさんある。日光、風通し、肥料、あるいは虫の存在…。あるいはガーデニングに欠かせない行為。葉っぱの剪定、古くなった枝の切り戻し、根鉢になったときの植え替えなどなど….。さまざまな園芸用語も、フォーカシング実践のなかでフェルトセンスと交差させることで、状況の意味を明らかにするための「ソース(資源)」となるのである。

虫と一言で言っても、害虫もあれば益虫もいる。何かに「蝕まれている感じ」があれば、園芸家にはいくつかの対応手段が思いつく。それでも、すぐに農薬を巻いたりすることが良い手であるかは、まさしくその状況の中で判断させることになる。すぐに対処したほうがいい場合もあれば、その虫がいる全体の視点から考えなければならないことがあったりもする。そう言えばこの冬、うちのモンステラにもハダニが出てしまったが、それは別にハダニが悪いわけでなく、僕が「葉水」やら諸々ケアを怠ったからだった。植物との間の「潤いのようなもの」が、自分の生きるこの状況に必要だったことを、あるいは葉水を植物に与えるような「余裕」が必要だったことを、ハダニとモンステラが教えてくれたのだった。

植物は、状況をその身に微細に反映させる。水が枯れると葉のありようを変えたり”しょんぼり”したりするし、肥料が多かったり少なかったりすると、それぞれ特有に葉の色を変えたり、落としたりする。そう、植物は自分で歯を落としたり、枯れたり、部分的にその身体を”死滅”させたりする。植物のもつ環境との独特の適応の仕方は、動物的なそれとは事情が異なる。そのような植物的な叡智をソースに、状況知にアクセスするとはどのような体験なのか、僕は非常に興味を持っている。

植物の種類は山ほどあり、僕自身もまだまだペーペーの園芸ビギナー(いとうせいこうふうに言えばベランダー)である。ベテランの園芸家の実践知のなかに、さまざまな可能性があるような眠っているような気がしている。

今後の予定とちょっと宣伝: 出店・ワークショップ開催予定

というわけで、植物のメタファーを活用したフォーカシング・ワーク「ボタニカル・クロッシング」を試作・鋭意開発中です。

具体的な実践の手順、実施上の工夫など、随時更新、部分的にご紹介していきたいと思います。

また今後、ボタニカル・クロッシングを中心に、交差を用いたフォーカシング実践を実験的に学んでいくワークショップの場を企画予定です。

実は細々と、focusing living laboというフォーカシング学習のための生活実験プラットフォームを始めました。

フォーカシングを生活に生かす、フォーカシングを文化にすることを目指したフォーカシングの新しい学び方の生活実験プロジェクトとして立ち上げました。

ゆるゆると試験的に始めており、この夏頃からまずはオンラインでのワークショップを開催予定です。

詳細はfocusing living laboウェブサイト、ツイッター、そしてこのnote投稿にてお知らせいたします。

また、2023年8月19日・20日に福岡で開催される日本フォーカシング協会年次大会でも、ボタニカル・クロッシングの体験ワーク会を申し込む予定です。こちらも決定しましたら、お知らせしたいと思います。詳細は日本フォーカシングky方会のウェブサイトをご覧ください。

「植物」という存在と交差することで、フォーカシングは、身体知はもっと面白くなる予感がしています。草花を育てるように、ゆっくりと探究していきたいと思います。植物好きも、ベテラン園芸愛好家の方も、なんかちょっと面白そうだと思っていただいた方も、どなたでも関係です。植物という身近だけどとても不思議な存在と交差しながらフォーカシングをするこの実験プロジェクトに関心を持っていただけますと嬉しいです。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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