歴史人

https://www.rekishijin.com/32675 【【日本古代史ミステリー】みんなが思う「大化の改新」は「大化の改新」ではなかった!?】より

■譲位したはずの皇極の統制下にあった孝徳政権

藤原鎌足

死の床で天智天皇から長年の功績をねぎらって「藤原」の姓を賜る。彼の子不比等の子たちは北家、南家、式家、京家からなる藤原四家を興す。うち北家は平安時代に摂関家として栄華を誇った。

東京国立博物館蔵/ColBase

 皇極4年(645)6月14日、皇極(こうぎょく)女帝の史上初の譲位により孝徳(こうとく)天皇の新政権が発足する。左大臣に阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)といった孝徳に后妃を出した有力豪族の長がその中枢を固めたが、なかでも後者(蘇我倉山田石川麻呂)は「乙巳(いっし)の変」という政変を起こして孝徳を王位に就けた最大の功労者であった。麻呂は蘇我氏のなかでも本家に次ぐ威勢があり、蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿をみずからの手で葬り去ることでその地位に取って代わることに成功したのである。

 新政権の拠点は飛鳥を離れて当時の国際玄関口である難波(なにわ)に遷ることになった。数年を費やして難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)が造営される。それはおりからの激動する朝鮮半島情勢に対応する意図もあったが、難波宮を取り巻く摂津・河内・和泉の一帯が孝徳天皇や蘇我倉麻呂を初めとする政変を起こした勢力の一大勢力圏だったからであった。孝徳の上位にあってその権力を制御する立場にあった皇極女帝は、難波ではなく隠然として飛鳥(推古天皇の王宮だった小墾田宮/おはりだのみや/か)に留まり続けたようである。

■孝徳政権によって出された「改新之詔」の史実

 孝徳政権が行った政治改革が「大化改新」であり、その改革の要綱を記したものが『日本書紀』大化2年(646)正月甲子朔(かっしさく/元旦)条に見える「改新之詔」である。その概要は以下のとおり。

第一条、部・屯倉(みやけ)制度の廃止。

第二条、京師(みさと)の設定、律令制的地方行政制度・交通制度の創設など。

第三条、戸籍・計帳の作成、班田収授法の制定。

第四条、旧税制の廃止、新税制の制定。

 第一条の部・屯倉とは天皇・皇族に対する貢納・奉仕のシステムのことであり、その廃止が実施されていたとすれば「大化改新」はまさに未曾有の変革ということになる。この第一条と第四条はいずれも律令制とは直結しない内容であるが、文章に修飾が少ない。他方、第二条・第三条はともに律令制に直結する制度について述べているが、その文章は大宝令などによる後世の追記・潤飾が明白である。これらのことから「改新之詔」のうち第一条・第四条は孝徳政権によって当時実際に発布されたものであり、第二条・第三条は「改新之詔」全体を整えるために後に付加されたものであったと考えることができる。

■大化改革と孝徳政権のゆくえ

 孝徳政権は部と屯倉を廃止し、それに代わって新税制を施行するなど、難波宮を拠点にした改革は順調に進められていくかに見えた。しかし、改革の実施をめぐり孝徳と蘇我倉山田石川麻呂が対立を深める。大化5年(649)3月、孝徳によって謀反を糾弾され、追い詰められた蘇我倉麻呂は難波から飛鳥に逃げ、飛鳥の小墾田宮にあった皇極に助けをもとめる。

 だが、皇極により冷淡にも見棄てられ、山田寺で自害を遂げた。麻呂という求心力を失い、孝徳政権は自壊の一途をたどることになる。

 一貫して孝徳の上位にあった皇極が復活・復権を果たし、再び即位(重祚/ちょうそ)することになるのはこれより数年後のことであった。


https://adeac.jp/tondabayashi-city/text-list/d000010/ht000531【石川麻呂と茅渟道】より

大化五年(六四九)三月二四日、蘇我日向(石川麻呂の弟)が中大兄に密告し、「僕(やつかれ)が異母兄(ことはらのいろね)麻呂、皇太子の海濱に遊びませるを伺(うかが)ひて、害(そこな)はむとす。反(そむ)きまつらんこと、其れ久しからず」(中大兄の海遊びの時に暗殺する計画だ)といった。中大兄は即刻孝徳天皇に報告し、孝徳は大伴狛らを派遣して石川麻呂を詰問した。石川麻呂は天皇と対面して弁明すると述べたが、孝徳は許さず再び使者を派遣した。石川麻呂はまた同じ答をする。孝徳は今度は兵を派遣し、石川麻呂の宅を包囲しようとした。彼は完全に罪人扱いであった。

 彼は宅を捨てて逃走する。「大臣、乃(すなわ)ち二の子、法師(ほうし)と赤猪更の名は秦とを将(い)て、茅渟道(ちぬのみち)より逃げて倭国(やまとのくに)の境に向(ゆ)く。大臣の長子の興志(こごし)、是より先に倭に在りて山田の家に在るを謂ふ、其の寺を営造(つく)る」と『書紀』は記す。興志は彼を迎えて、ともに戦おうとするが、彼は許さない。一族の者をなだめ、仏殿の扉を開いて「生生世世(よよ)に、君王(きみ)を怨みじ」と誓い、自殺した。殉死する妻子は八名であった。

 同日、朝廷の軍勢が大伴狛と蘇我日向を将として、難波宮を出発した。「将軍大伴連ら、黒山に到るに及びて、土師連身(はじのむらじむ)・采女臣使主麻呂(うねめのおみおみまろ)、山田寺より馳せ来りて告げて曰く『蘇我大臣、既に三(みたり)の男・一(ひとり)の女と倶(とも)に自ら経(わな)きて死せぬ』と。是に由りて将軍ら、丹比坂(たぢひのさか)より帰る」。自殺を聞いて、途中で引きかえしたのである。しかし一隊はそのまま山田寺へ直行したらしい。「木臣(きのおみ)麻呂・蘇我臣日向・穂積臣噛(くい)、軍を以て寺を囲む。物部二田造鹽(ふつたのみやつこしお)を喚(め)して、大臣の頭を斬らしむ」とある。二六日のことであった。同日、難波宮の石川麻呂の宅では、残された妻子や随身の者たちが自殺した。三〇日には石川麻呂に加担した罪で一四人が斬首、九人が絞殺、一五人が流罪に処せられた。一族を含めると少なくとも四七名が処分され、当時としては最大規模の粛正であった。しかも『書紀』はこの月のこととして、「皇太子(中大兄)、始(いま)し大臣(石川麻呂)の心の猶し貞(ただ)しく浄きことを知りて、追いて悔い恥づることを生(な)して、哀び歎くこと休(や)み難し」と、石川麻呂が無実であったことを記している。

 この事件は中大兄による蘇我氏一派の粛正事件ともいえるが、石川麻呂の大和への道中に「茅渟道」がみえ、追討軍の経路に「黒山」「丹比坂」がみえる。これらと本地域との関係をみておきたい。


https://www.rekishijin.com/36336?utm_source=headlines.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink 【日本人なら誰もがその名を知っている「ヤマトタケル」の出自とは⁉】より

ヤマトタケルという人物について、名前は知っているけど、どんな人でだれの子なのか…を知っている人はそれほど多くはない。ここではヤマトタケルの出自について語る。

■2つ名前があった⁉ 太子と生まれたヤマトタケル

日本武尊の像(石川県金沢市)

明治13年(1880)、日本で最初に建てられた銅像といわれている。

『古事記』では「倭建命」、『日本書紀』では「日本武尊」と記されるヤマトタケルは、日本書紀によれば、16歳で熊襲(クマソ)の征討におもむき、30 歳の時に東の蝦夷の平定を終えて、傷つき斃(たお)れていくといった波瀾の生涯を閉じた人物として描かれている。

 まず、出自から確認しよう。古事記・日本書紀によれば、ヤマトタケルは、景行(けいこう)天皇と播磨のイナビノオオイラツメの間に生まれた子である。古事記・日本書紀によれば、この母は、吉備臣(きびのおみ)の祖であるワカタケキビツヒコの流れを汲む。

 ヤマトタケルは、古事記によれば、ワカタラシヒコ・イオキイリヒコと並んで「太子(たいし)」であった。しかし、父親に愛されてはいなかった。そのことを名前によって明らかにしよう。ヤマトタケルは古事記・日本書紀では、最初にオウスノミコト(小碓命/小碓尊)として登場する。その兄は、オオウスノミコト(大碓命/大碓尊)である。紀によれば、オウスノミコト、オオウスノミコトという名前は、双生児が生まれたことを忌々しく思った景行天皇が、臼に向かって叫んだ事による命名だという。オウスノミコトの名前には「祝福されない忌々しい小さな碓の子」という意味が込められている。

 しかし、ヤマトタケルには実はもう一つの名があった。それは、ヤマトオグナ(倭男具那/日本童男)である。その名前の意味するところは、「倭(日本)のすぐれた童男」だ。この名前は、古事記・日本書紀では、ヤマトタケルが自身を名乗る場面で登場する。

 双生児の存在を否定しようとする父と双生児である自分自身を必死に肯定しようとする息子、この葛藤を止揚したのが、ヤマトタケルという名前である。


https://www.rekishijin.com/36332 【英雄・ヤマトタケルの「名の由来」と皇太子であったのに「天皇になれなかった」理由とは⁉】より

日本人ならばだれしもがその名を聞いたことある「ヤマトタケル」。ここでは彼の名の由来と皇太子として生まれながら天皇になれなかった理由について迫る。

■残酷な殺し方をすることでそう呼ばれた「ヤマトタケル」

日本武尊 

明治時代に勃興したロマン主義を代表する洋画家・青木繁による油彩で明治39年(1906)のもの。青木は『古事記』を愛読しており、古代神話をモチーフにした作品を多く手掛けた。(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)

 ヤマトタケルは、一般的には「大和の勇猛な人」と解されているが、ヤマトタケルは敵に対して大変残酷な殺し方をする。そのような殺され方をした相手から与えられた名前が「ヤマトタケル」なのだ。そこには「ヤマトの猛々しい人」という意味が込められている。

 その名は、父から熊襲征討を命じられた際に殺害されたクマソタケルの兄弟の弟から奉られた名前である。その後、出雲に立ち寄りイズモタケルをだまし討ちにして帰還した。ところが今度は天皇から東方十二道の征討を命じられる。ヤマトタケルは、伊勢の地で「天皇は私に死ねとおっしゃっているのか」と嘆く。これに対し、叔母のヤマトヒメは、クサナギノツルギを与えヤマトタケルを送り出す。

 この後、ヤマトタケルは相模(あるいは駿河)において火攻めに遭い、クサナギノツルギ(草薙剣)で切り抜けた。しかし、三浦半島から房総半島に向けて走水(馳水、浦賀水道)横断時に海の神の怒りをかい最愛の妻オトタチバナヒメを失って、「あづまはや」と嘆く。「あづま」という地名の由来である。

 さらに近江のイブキヤマ(伊賦岐山、五十葺山)で山の神を軽んじたことが命取りとなり、病にとりつかれ伊勢国・能褒野(のぼの)で死去し、白鳥となって飛び立つ。

■海の神や山の神の支持を得られず天皇になれなかった

 ヤマトタケルの生涯をざっとまとめると以上のようになるが、最後に太子でありながら何故、最終的に天皇になれなかったのかといった点を考えてみたい。

 『古事記・日本書紀』によれば、ヤマトタケルを苦しめたのは海の神と山の神である。記には、倭国の王の統治理念として「食国之政」と並んで「山海之政」という言葉が登場する。「山海之政」とは山の神や海の神との調和のもとに山野河海を統治していこうとする理念である。

 ヤマトタケルは、海の神や山の神の支持を得られず天皇になれなかったというのが『古事記・日本書紀』の主張である。モデルは、山の民や海の民を十分に支配できなかった王族将軍である。


https://news.yahoo.co.jp/articles/0020afed7394a33d8fff5b847e732f7f15fd1031 【じつは残酷な「日本古代史」 古事記・日本書紀に描かれた雄略天皇の「ウラの顔」とは?】より

歴史人

ヤマトタケル(東京都立図書館)

古事記・日本書紀(記・紀)においては、兄の手足をもぎ取るなど、ヤマトタケルの残酷な所業も記されている。タケルというのは「猛々しい」の意と考えられるのだが、同じくタケルと称されたワカタケル(雄略天皇)についても、荒々しい「殺し」の様子が描かれているのだ。どういうことか、みていこう。(「歴史人」2024年4月号から一部を抜粋・再編集しています)

■だまし討ちや残酷な殺害は責められるべきものではない

 さて、タケルと称されたのはヤマトタケルだけではない。注目すべきは、タケルの名がついた天皇がいることだ。すなわち、記紀にはワカタケルという名の天皇が登場する。ワカタケルとは、雄略天皇のことである。

 この雄略天皇は、記では「大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと)」、紀では「大泊瀬幼武天皇(おおはつせのすめらみこと)」と表記される。ちなみにワカタケルは、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文にも「獲加支鹵大王(わかたけるのおおきみ)」と表記されている。

 記・紀ではこのワカタケルが即位する前に、兄クロヒコ(黒日子王/坂合黒彦皇子)やシロヒコ(白日子王/八釣白彥皇子)や、父を殺したマヨワ(目弱王/眉輪王)、ツブラ(都夫良意冨美/円大臣)、イチベノオシハ(市辺忍歯王/市辺押磐皇子)を残酷な方法で殺害している。

 記において、ワカタケルは最初に登場した際にはヤマトタケルと同様にオグナであったと記されており、父が殺されたのに立とうしない兄達の襟首をつかんで、刀を抜いて打ち殺している。

 その場面は、ヤマトタケルがクマソタケル兄弟の兄の衣の衿をつかんで殺害する場面とも共通しており、少年ワカタケルの荒々しい気性を描いている。

 古代においては、だまし討ちや残酷な殺害は、必ずしも倫理的に責められるべきものではなかった。それを肯定するつもりはないが、古代の歴史を考える際には、古代人の価値観に向き合う努力が必要なのである。


https://www.rekishijin.com/32689 【古代最強の英雄・ヤマトタケルの憂鬱─毒親に悩んで愚痴をこぼしまくっていた!?─】より

記紀に登場する伝説の英雄・ヤマトタケル。彼にも悩みがあったようだ。

■熊襲征伐で名乗った「倭」が「日本」となる

ヤマトタケル(「芳年武者旡類」東京都立中央図書館蔵)

『古事記』によれば、「倭建命(やまとたけるのみこと)」が小碓命(おうすのみこと)といわれていた頃、天皇が「西の方にいる熊襲建(くまそたける)というふたりの兄弟を打ち取れ」とおっしゃった。小碓命は熊襲建の祝宴の女たちにまぎれこみ、懐から剣を取り出して兄の熊襲の胸を突き刺した。弟の熊襲建は逃げ去ったが、すぐにつかまり剣で刺され、熊襲建は「あなたはどなたですか」と尋ねた。

 小碓命は「名は倭男那王(やまとおぐなのみこ)である」と答えた、ついで熊襲建が「西の方には私たちふたりのほかに猛々しく強い者はいないが、大和国は強い男がいらっしゃった。私はあなたさまにお名前をさしあげましょう」と申し上げた。そのときから「名前をたたえて倭建命という」と記す。

 ここは「倭建命」の表記の意味を知るうえではなはだ大事である。

 注目したいのは、「倭は国のまほろば、たたなづく青垣山籠(あをがきやまごも)れる倭(やまと)し麗(うるわ)し」との倭建命の望郷の歌である。おそらく「倭」は、奈良県の一郷名であったのが「大和国」という国名となり、その頃に熊襲征伐があったという意味ではないか。

 一方、『古事記』の「倭建命」に対し、『日本書紀』では「日本武尊(やまとたけるのみこと)」と表記している。これは書名のところで述べたように『日本書紀』には対外的な意識が顕著にみられ、それと同時に天皇による国家統一の意味も含まれているからであろう。

 スポーツの国際試合などでは、しばしば「日本頑張れ」という声援を耳にする。この「日本」は対外的・民族的な意識を内包している。だが、町内の運動会では「日本」との声援はない。町内には対外的・民族的な意識がないからである。

 これと同じ意味が「日本武尊」のにも言える。「日本武尊」の「日本」には「やまと」のほかに「ひのもと」の意味もある。「日の本」が「やまとにかかる枕詞」ということに視点を置いて考えてみると、天皇の国家統一の意味をも含んでいることになる。

■『日本書紀』は日本武尊の哀しみを何も語らない

 そこで、改めて「日本武尊」が何をしたかといえば、彼は南九州から東北に至るまでを旅して、天皇に服従しない勇猛な人どもの心を開いたといえる。人々が頑なに閉ざしていた門を開いた人物なのである。

 また山の神・河の神・港の神に至るまで、すべてを言向(ことむ)け平らげた。それは秩序ある天皇政治を日本全体に実現するためであった。

 したがって外国人を意識して書かれた『日本書紀』に、「日本武尊」の表記が用いられたのは当然といえるのである。

 一方、『古事記』には西の方の熊襲のふたりを平らげ、帰途には出雲建(いずもたける)を征伐したのに対し、父の景行(けいこう)天皇は、重ねて「東方の12国の悪者どもを平定するように」との勅命を下す。天皇の勅命は絶対的なものである。倭建命は伊勢神宮を拝み、それから斎王であった叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)のところに立ち寄った。

 そのとき、倭建命は倭姫命に「天皇の既に吾を死ねと思ふ所以や」と語る。「天皇は私なんか死んでしまえとお思いなのは、どうしてなのでしょう」という意味である。さらに兵士も十分には下さらないで12国の悪者どもの平定に派遣されたことから思うと、「猶吾を既に死ねと思ほし看すぞ」と患(うれ)い泣いた。

「死ね」という言葉を二度繰り返しているところに、本音が見える。「やはり天皇は私なんか死んでしまえとお思いになっていらっしゃる」ということで、この時の倭建命の「患(うれ)へ泣き」は、心の底からこみあげてくる哀しみの涙を物語っている。

『日本書紀』には、ここまで赤裸々な告白はない。『日本書紀』は建て前を記しているから、「兵士も下さらない」「死んでしまえ」などという表現はみられないのである。

『日本書紀』が、対外的に民族意識を高揚する目的で書かれたことを、日本武尊の章は物語っている。


https://www.rekishijin.com/31653 【聖徳太子は聖武天皇のためにつくられた理想の皇太子像だった!?【日本古代史ミステリー】】より

聖徳太子に関しては、さまざまな面でさまざま説が飛び交っている。そのひとつ「理想の皇太子」説についてここでは紹介する。

■聖徳太子の時代には皇太子の制度は未成立だった

聖徳太子(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)

 聖徳太子の「太子」とは、言うまでもなく「皇太子」のことである。『日本書紀』には、推古女帝の即位(592)の翌年4月に厩戸皇子が「皇太子」に立てられ、同時に「摂政(せっしょう)」という役職に任じられたと記されている。だが、当時は皇太子という制度はまだ存在しなかった。皇太子制度が中国から移入されたのは厩戸皇子の時代からおよそ1世紀も後のことで、それは天武(てんむ)天皇と持統(じとう)天皇によって編纂された飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行(689)にともなうものであった。

 厩戸皇子に皇位継承権が認められていたことは明らかであるが、彼は推古天皇の次の天皇になることが確約されていたわけではなく、あくまで即位資格を認められた有力皇族の一人にすぎなかった。なお、「摂政」の地位も平安時代の摂政・関白と同一視すべきではない。それは『日本書紀』において厩戸皇子に「政を録摂させた(国政を統括させた)」と記されているもので、彼が推古天皇の執政の輔佐(ほさ)にあたったことを意味しているのである。

■聖徳太子は聖武天皇のためにつくられた理想の皇太子像

『日本書紀』のなかの聖徳太子が当時実在しなかった皇太子の地位にあったとされたのは一体どうしてであろうか。かつて大山誠一氏は、聖徳太子は律令国家の頂点に立つ天皇の理想像として作られたと考えた。だが、実際には即位することがなかった厩戸皇子を借りて天皇のあるべき姿を示そうとしたとはおよそ考えがたい。『日本書紀』が、その編纂の最終段階において皇太子の地位にあった首皇子(聖武天皇)の即位の正当性を歴史的に証明するために書かれたことを踏まえれば、『日本書紀』のなかの聖徳太子は皇太子のあるべき姿を示すために作り出されたと考えるのが妥当であろう。中国において皇太子は「皇帝の長男」を意味し、我が国には馴染みの乏しい制度であった。だから、皇太子の理想像を実在の人物である厩戸皇子をモデルにして示す必要があったのである。

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