Facebook坪内 稔典さん投稿記事
あなたも河馬に
ねんてんさん、俳句開眼の一句。その極意とは取り合わせです。無関係なAとBを結びつける技法のことで、この句でいえば河馬と桜。意表をつく組み合わせですが、違和感がありませんよね。その理由を考えるよりも、いっそ作品の魅力に溺れてしまうのが正解かも。だって河馬なんだもん。(蜂谷一人)
https://www.youtube.com/watch?v=5mz8XaW230k
坪内稔典(としのり)さんは、通称「ねんてん」さん。1944年愛媛県生まれ。正岡子規の研究で名高い国文学者にして、京都教育大学名誉教授。俳句グループ「船団の会」(1985-2020)の代表もつとめました。ですがその真髄は、なんと言ってもユニークな実作の世界。なんだかよくわからないけれど、一度聞いたら忘れられない俳句、こどもから大人まで幅広い人気を持つ俳句、リズムが面白くてつい口ずさんでしまう俳句、そんな作品の数々で知られています。今回の配信ではその「ねんてんワールド」が炸裂。不思議で楽しくて、思わずジーンとしてしまうことでしょう。あなたも「ねんてんファン」になること請け合い。さあ、みんなで河馬になりましょう。
ねんてんさん、俳句開眼の一句。その極意とは取り合わせです。無関係なAとBを結びつける技法のことで、この句でいえば河馬と桜。意表をつく組み合わせですが、違和感がありませんよね。その理由を考えるよりも、いっそ作品の魅力に溺れてしまうのが正解かも。だって河馬なんだもん。
https://miho.opera-noel.net/archives/2565 【第四百七十六夜 坪内稔典の「たんぽぽ」の句】より
春もやがて中ば近くなってきた。タンポポは、道端にロゼット状の葉を広げていて立ち上がってはいないが、もうじき、タンポポの花の咲き出す季節になる。
ずっと気になっているのが稔典さんの「たんぽぽ」の句。春になれば思い出し、タンポポの野に立てば、突然のように「ぽぽのあたり」ってどこだろう、「火事ですよ」ってどういうことだろうと考えたりしていた。
数日前も、夢というか目覚め前のうつつの間というか、ぼーっと考えが浮かんできた。そのとき初めて、もしかしたら「ぽぽのあたり」はどこか他所にあるのではなく、人の心の中にあるもので、わたしの中にもあるものではないかと思った。
今宵は、坪内稔典さんの「たんぽぽ」の句をみてみよう。
たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 『ぽぽのあたり』
(たんぽぽの ぽぽのあたりが かじですよ)
句意は、タンポポのポポのあたりが、火事になっていますよ、であろうか。
言葉がシンプルだから、表面上の句意はこのようにしか取れない。読者は、この17文字の言葉とリズムに惹かれつつ魅了されつつ、わからないまま、となるのかもしれない。
数日前に浮かんだ「わたしの中にもあるかもしれない」を、もう少し考えてみよう。哲学も心理学もかなり疎いが、75年を生きた間に、相当な苦労を重ねた月日を過ごしてきた。
「ぽぽのあたり」は、人間の臍のあたり、決心する場所であり覚悟を決める場所でもあろうか。この臍(ほぞ)が、しょっちゅう「火事」になっているかの如く、いらいらし、癇癪をおこし、なぜか、大人しく収まるということを繰り返しているのである。
でもタンポポは好きな花。どう見てもやさしい花である。たった一度だけれど、素敵な光景に出合っている。茨城県の鬼怒川の支流の小貝川の土手に、ここでは桜の名所として名高い2キロほどの側道がある。
タンポポの花も終わり、桜の花も終わり、土手道は葉桜でこんもりしていた。
わたしの吟行は黒ラブ犬との2人連れがほとんどなので、どれほど素晴らしい光景に出合ったとしても犬は証言してはくれない。
タンポポを書く度に、このエピソードに触れているかもしてないが、ちょうどこの時期に、葉桜の道は白いものが舞っていたのだ。4月の終わりであったが雪が舞っていると思った。だが、白いものは空から降ってくるのではなく、2キロにわたる土手から一斉に空へと飛び立っていたのだ。近づいてみると、タンポポの白い絮であった。
不思議な夢のような光景であった。
https://plaza.rakuten.co.jp/operanotameiki/3012/ 【●坪内稔典句集『ぽぽのあたり』を読む】より
坪内稔典氏より最新の第八句集『ぽぽのあたり』をいただいた。稔典氏は、現代俳句において、独自の俳句スタイルを作りあげている俳人の一人である。
坪内稔典氏は昭和19年愛媛県生まれ。高校時代より新興俳句の日野草城、後に伊丹三樹彦氏の「青玄」で所属。一貫して若い世代の前衛的拠点としての俳誌をつくりつづけ、現在、「船団」「子規新報」代表。そのユニークな句柄から、通称、愛称「ネンテン」氏と呼ばれている。もう一面は、子規、漱石、芭蕉論等多数著書のある大学教授の顔である。
まずは、この句集から好きな稔典俳句を掲げてみよう。
胸に小火(ぼや)目に水鳥の遠く浮き 目も耳も口も穴なり春の昼
睡蓮へちょっと寄りましょキスしましょ 夕凪や父はとろけて母縮む
魂の半分は鬼花火散る ごろごろのかぼちゃにたまる夕日かな
炎天やぐちゃっと河馬がおりまして 野にあって君は露草露の玉
十月の蝶氷片の響きして 三月の大粒の雨畝傍山
たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 四月来て雑木林が透き通る
こんもりと百年があり野ばら咲く ストレスのたまる松の木秋うらら
月光の折れる音蓮の枯れる音
これらの句を書き留めながら、この句集のどの句からも、自然の中に、ひとりぼっちで、どこまでもぼーっとたたずんでいる稔典氏が感じられた。稔典氏のあらゆる感性は、もう自由に、気ままに、働いているようである。そう考えると、胸の小火(ぼや)も、夕凪の父や母も、夕日のかぼちゃも、十月の蝶からは飛び立つときのぎこちない音も、溢れるほど繁っている野ばらも、冬の刃物のような月光も、そう、あの何百年も経った松の見事な人工の枝振りも、松の木にしてみれば、「ストレスなんだ!」と、素直に納得してしまうのである。
数年前、「船団」誌上で、「写生よさようなら」という企画特集をした稔典氏であるが、今回の句集『ぽぽのあたり』に、「写生」「感性」「言技(ことわざ)」の三位一体を感じてしまったのだが如何であろうか。
あとがきに、次の言葉があった。「民族学の柳田国男は、諺(ことわざ)は、言技(ことわざ)だと述べた。簡単に覚えることができ、そして気軽に口ずさめる俳句は、諺にきわめて近い。とすれば、俳人である私は言葉の技の発揮に腐心するほかはない。言技師(ことわざし)こそが俳人である。(略)」
ともかく、蝸牛社の『一億人のための辞世の句』の選、コメント、あとがきを書いて下さった稔典氏の第1巻のあとがきに、「今の私の辞世の句は<たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ>」とある、この『ぽぽのあたり』の句集名はなんとも懐かしいのである。
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