植物記・桜

https://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/51368_56013.html【植物記】より抜粋

彼岸ザクラ

 普通のサクラに先駆け春の彼岸頃に逸早く花の咲くサクラに、彼岸ザクラと呼ばるるもののある事は誰れでもよく知っていて、その花を持て囃すのである。世間一般普通の人々にはそれでよいので、その間に兎とや角こう言うような問題は何んにも彼等の間には起っていない。

 ところがこの彼岸ザクラが一朝学者仲間での問題となると、普通の素人が考えているようにそう簡単には片付かないので、その間やや混雑の状を呈して来るのである。

 学者仲間、殊に植物学者仲間に於ては従来彼岸ザクラの名があえて正しく呼ばれていないのである。それには一つの原因があって、畢竟ひっきょうそれは彼等学者に彼岸ザクラ正品の認識が不足しているからである。近代の植物学者が大抵東京帝国大学育ちであり、一方東京での彼岸ザクラは彼の上野公園に在る大木性のものをそう呼んでいるので、右等の人々は彼岸ザクラといえば右の木より外には無く彼岸ザクラはただこの木一種とのみ信じきり、それが遂に一の通念となっているのである。それゆえ明治時代の学者田中芳男氏、小野職※もとよし[#「殻/心」、U+6164、76-13]氏などでもやはり右のサクラを彼岸ザクラと記し(両氏同撰『有用植物図説』参照)、また今日東京で出版せる大学出諸植物学者の著せる植物学教科書などを覘いて見ても、皆右の品が彼岸ザクラとなっている。しかしこれらは皆彼岸ザクラの正しい観方ではない。

 私自身は元来が関西方面育ち(生れは土佐)であるより少年時代から彼岸ザクラについてはよくその正品を知っていた。それゆえ関東学者と私とは彼岸ザクラに対しては根本的にその考えが違っている。しかればそれがどのように違っているかと言うと私の見解は次の通りである。

○ヒガンザクラ(一名コザクラ)

Prunus subhirtella Miq.

○ウバヒガン(一名ウバザクラ、タチヒガン、アズマヒガン、エドヒガン)

Prunus Itosakura Sieb. var. ascendens Makino.

東京にてはこれをヒガンザクラと云う。西洋の学者はこの種に P. subhirtella Miq. の学名を誤用している。

○シダレザクラ(一名イトザクラ)

Prunus Itosakura Sieb. = P.pendula Maxim.

 右に挙げた三主品がすなわち彼岸ザクラの一グループをなしているが、これに附属する園芸的変種を算かぞうるとそこに多くの異品がある。

 真正の彼岸ザクラすなわち Prunus subhirtella Miq. は往時むかしから彼岸ザクラと称え、それ以外の名は小こザクラがその一名であるように思われるけれど、その他にはなく彼岸ザクラの名が一般の通称である。普通に見るものは小木が多くて春に一番早く花が咲く。花は枝上に満ちて競発し淡紅色を呈して極めて優美である。京都辺では普通に見られ、また大和路などにもすこぶる多い。畿内近辺には小木が多いが信州辺へ行くとかなりの大木が見られる。幹は大小いろいろあれどその枝の具合、花の具合、また葉の具合ならびにその気分等は共に全く同一で何等異った点はない。時に八重咲のものがあって八重ヒガン、一名紅コウヒガン(var. Fukubana Makino.)と称するが、蓋けだしこれがいわゆる熊谷桜クマガエザクラのそれではないかと思う。また彼の十月ザクラ(var. autumnalis Makino.)は本種から出た一の変り品である。そしてこれらの諸品が婆ウバヒガンすなわちタチヒガンと縁の無いことは、その葉を検すれば直すぐに判わかるのである。

 上の彼岸ザクラの正品に対して一体東京方面の学者の認識の淡うすいのは東京にこのサクラが割合に鮮すくなく、ツマリお馴染みになっていないからであろう。東京で彼岸ザクラといえば後とにも前さきにも上野公園のもののみが登場して、そこでその木を一概にそう思い詰めているのである。それだから彼等の書いた植物教科書には皆そうなっているのじゃないか。拙著『日本植物図鑑』には上に述べた両種を極めて明瞭に区別して書いて置いたので、それを見れば判然とよくその両品を呑み込むことが出来る。

 この正品なる彼岸ザクラの名は早くも貝原益軒の『大和本草』に出で、その巻の十二に次の通り述べてある。すなわち今これを観ると、その行文はすこぶる簡単なれどもこの短文中に真によくその品たる事を躍出せしめている。すなわちその文句は

彼岸桜 其花桜花ヨリ小ニシテ桜ニ先立テ早ク開クコト旬余日花開ク時葉未レ生桜ヨリ小樹ナリ花モ小也桜ノ類也

である。すなわち京都辺で親しくこのサクラを眺めてその状態を知悉ちしつしている士は、右の文章を玩読すれば直ぐにアノ桜の事だと気が附くのであろう。そして決してその「小樹ナリ」の語を見逃がす事を為ないであろう。しかり、かの木は京都辺のもの皆小樹である。これぞすなわち正真正銘の彼岸ザクラそのもので、前文に既に書いたように彼岸ザクラとして東京辺の学者にはよく呑み込めていないものである。

 同書、上の文に次で

ウバ桜モ彼岸桜ノ類ナリ彼岸桜ノ次ニ開ク是モ花開ク時葉ナキ故ウバ桜ト名ヅク

と書いたものがある。このウバ桜は怡顔斎いがんさいの『桜品おうひん』では婆彼岸と別のものになっていれど、私はこれは多分同種であろうと思う理由を有もっている。すなわち右の婆桜も婆彼岸もその学名でいえば共に Prunus Itosakura Sieb. var. ascendens Makino. であると信ずる。

 私が始めこのサクラを研究したズット前の時分にはこの婆ザクラの名も、また婆彼岸の名も共に私の注意を惹かなく全くオヴハールックしていた。そしてまた何等別の名も見附からなかったのでそこで始めて立チ彼岸の新称を与え、後ち更にそれを東アズマ彼岸ならびに江戸彼岸と為した。かくこれを東彼岸、江戸彼岸と新称したのは東京で一般に彼岸ザクラといっているのはこの種を指すからである。しかしこれらの新和名を命ずるに当っても、その考えは決してこのサクラが東京に固有であるというような誤認から出発したものではなく、またこの樹の原産地は関東では無い位の事実は無論先刻承知していたけれど、前述のように東都で特にこれを彼岸桜と専称しているので、それで殊更に上のような名を附けて見たのである。それゆえこの名は決して悪るいのでもなく、また不当なものでもなく、また非難さるべきものでもなく、まず当り前に出来た称呼なのである。

 このウバ彼岸は元来は九州、四国ならびに中国方面の山林中に自生して樹林の一をなし直幹聳立しょうりつして多くの枝椏を岐わかち、葉に先さきだちて帯白あるいは微紅色の五弁花を満開し、花後に細毛ある葉を舒のべ小核果を結ぶのである。かく山に生じているものはその花が余り派手やかではないが、諸州に在あって里に栽えられてあるものにはすこぶる美花を放ひらくのがある。この樹は喬木で往々巨大なものとなり中には神代桜ジンダイザクラの名で呼ばれる著明なのがあり、彼の陸中盛岡の名木石割桜イシワリザクラもその種である。東京上野公園のものは上野の彼岸ザクラと呼んで有名であったが、今日では樹勢大いに衰え、とても前日のような面影はない。それに花色の淡いものと濃いものとがあったが今残っているか、どうか。

「ヒガンザクラ(縮図)」のキャプション付きの図

ヒガンザクラ(縮図)

 ウバ彼岸から園芸的に変って出来たものにシダレザクラ、一名イトザクラがある。それゆえこのシダレザクラの親は正にウバ彼岸である。しかし学名の上では Prunus Itosakura Sieb. var. ascendens Makino. のようにシダレザクラが母種でウバ彼岸がその変種のようになってはいれど、実際ではその反対で、ウバ彼岸が母種でシダレザクラがその変種なのである。一体学名では早く名づけた種名が主座を占めるので、そこでこんな奇現相を呈し決してその自然の関係を表わしていない事になる。

 今試にシダレザクラの種子を播いて見ると、ここに二通りの苗が萌出して来る。すなわちその一は元とのままのシダレザクラが生え、その一は直立するウバ彼岸が生える。甲は親と同じであるが乙は祖先に還ったのである。これによってこれを観ればウバ彼岸とシダレザクラとは全く兄弟のように縁の近いものである。

 徳川時代の学者はシダレザクラすなわちイトザクラを垂糸海棠(漢名)だといって済ましていたが、しかしこれは無論間違いであった。しかればこの垂糸海棠は何んであるかというとそれは今日世間で呼んでいるカイドウである。原もと支那から来た落葉灌木で、美花を開き花弁は多少相重なり花梗は長いので花が小枝から垂れて咲いていて垂糸海棠の名は最も相応ふさわしい。しかるに同じ徳川時代にカイドウと称えて漢名の海紅すなわち海棠に充あてたものは、今日いう実ミカイドウ、一名長崎リンゴである。花は林檎式の帯紅白花を開き果実は直径四、五分許ばかりの林檎様のもので黄熟すると食えるのである。これまた原と支那から来たもので往々人家に栽えられてある。元来カイドウの和名は海棠から来たものであるから右の実カイドウを指して呼ぶのが本当で、今日のように垂糸海棠をそういうのは宜しくない。そしてこの垂糸海棠の通名として須すべからく花ハナカイドウを用うべきものである。

 京都帝国大学植物学教室の小泉源一博士がヒガンザクラの事を既刊の『植物分類地理』に書いている所を見ると、私がヒガンザクラについて大変にその名を混乱させ「この変名は実に甚はなはだしく混雑を来す無用のものであり」と攻撃的な言辞を弄ろうしていれど、この非難こそアベコベに須らく小泉氏が甘受すべきもので、夫氏自ら却かえってその名称を混雑させているのである。畢竟ひっきょうそれは小泉氏が真正のヒガンザクラであるべき正統品をヨー認識せずして前にはこれをコヒガンザクラと称えて見たり、後には始めて大木があると知って更にこれにチモトヒガンザクラなる名称を付けて見たりしているのを見れば分かる。すなわちこの「変名は実に甚だしく混雑を来す無用のもので」あるより外に何物もない。

「ウバヒガン(縮図)」のキャプション付きの図

ウバヒガン(縮図)

 Prunus Itosakura Sieb. var. ascendens Makino. を私がアズマヒガン、またはエドヒガンと称せしイキサツについては前文に書いてあるから、よくそれを玩読すれば特にこれをそうした事情が充分に呑み込めるであろう。そしてこれをそう名づけた精神は決して単にその種の地理分布を土台と為した皮相なものではなく、モット深遠な意味を含んでいるが、しかしその微妙な点が小泉氏にはヨー合点が行かぬのである。すなわち実はその一面には同氏等のような少くもヒガンザクラについては半可通な学者をして醒覚せしめんとの下心の迸ほとばしりもあったのである。旧く彼岸ザクラの名ならびにその正品の出ている文献は前に書いたのでその真品はそれで判かる。この碩学なる古人の正説を非認しその名称を乱る者は小泉氏等の学者達であって、それは前にも言ったように不幸にしてその誤謬が改善せられぬ今日の現状であるからこそ、吾人はここに彼岸ザクラについてあえて筆を執って起ち上がって見たのである。ツマリは彼等の蒙を啓かんがために外ならないのである。

東京の北郊荒川の堤には沢山な桜の樹が植わって居って、今日では里桜さとざくらの唯一の名所となって居る。この桜が近来年を追て漸次に弱って行って樹勢が悪るくなり中には枯れるものもあれば、また枝の死するもの等もあって、これを幾年もの前に比ぶればその品種も大分減って今日ではそれが四十種ばかりになったという事である。前には七、八十種もあったものが今日ではほとんどそれが半減して居る有様である。先年根本莞爾かんじ君と私とがそれを採集して当時の東京帝室博物館天産部へその標本を採り入れた時は、今からズット約十年ほども前のことであったが、その時にはなお五十余の品種があった。それが十年ほどの後には早くもその二割の種類を失うたのである。近年東京附近の開け方は実に非常なもので、殊に彼の大震災後は急速な勢で旧観を破り新に発展し行く勢はスザマシイものである。この荒川の堤の上は同方面では誠に重要な通路に当って居るものであるから、民衆は勿論もちろんの事、近来大いにその数を増した自動車ならびに貨物自動車がこの堤上を馳するものが著しく殖えて来て、従てその路面を踏み固め曳き固めかつ揺るがし、加うるに二六時中四方の工場の煙突より吐き出ずる煙のためにその枝幹は黒く塗抹せられその葉面は黒煤を被ぶり為めにその桜樹の生気が断えず害せらるるので、樹は年々に弱り行き遂にこの憐れな結果を招来したものである。

 それなればその堤上の頻繁な往来を停止しその来襲する黒煙を止むる事が出来るかというに、それはトテモ出来ない相談で、この国家経済上からの進展大勢はどうしてこれを止むる事が出来ざるばかりでなく、またこれを制限する事も出来はしない。この経済発展の見地から打算すれば、今よりは一層堤上の往来も繁くし自動車も貨物自動車ももっともっと盛んに通って貰わねばならぬ。また工場の煙突からも、もっともっと黒煙を吐いて貰わねばならぬ。元来この地帯は固もとよりこんな運めぐり合せに向わされる宿命の場処であって、それを知らずそこへ桜の名所を作ったのは今から言えば当時の人の不覚であったが、一寸先きは闇の夜の人間だからそれまあー仕方のない事さ。

「荒川堤の桜の標本の一、ありあけ」のキャプション付きの図

荒川堤の桜の標本の一、ありあけ

 この堤上の桜に取っては地を固められ揺がせられ煙に巻かれるはそれは御難な事であろうから、こんな受難地にいつまでも居据らなければならんという事はない。また荒川堤の名所としていつまでもこれをここに止めて置かねばならんという事もない。また単なる一時の行楽地としてガンバッテ居ってそれでこの文化のために発展する往来または噴煙を抑止すべきでもない。この場処は今日の有様では一方を善くしようとすれば必ずや一方を抑制せねばならぬ状態に置かれて居り、この両立すべからざる反対の事相に対して何んとかそれを裁ばかねばならぬ場合に直面して居る当局の人々は抑そもそもそれをどうしようというのであろうか。これは人間と樹とに対する両方の軽重を考えそれに基いてこれを処分すべきが至当であると考えられる。

 私の考えでは今日これに多少の費用を投じ、多少の補植をして見た所でそれはムダな事でありそれは姑息な方法であると思う。今の東京府庁の方々または天然紀念物会の方々は、今これに処するに間に合せの方法を執られんとして居らるるようだが、それは取りも直さず梅毒患者の吹き出ものに一時絆創膏を貼って置くようなもので、遂には今にその第三期が来てやがては全滅の悲哀を味うであろう。右の方々には一廉ひとかどの識者もあるのに、なぜそんな必然の結果にお気が付かれんであろうか。脇から見てもハラハラする。

「同上、ぼたん」のキャプション付きの図

同上、ぼたん

 私は永遠に前途を見つめた見地から英断を以てこの荒川堤の桜を他の安全地帯に移しそこに第二の大なる永久の名所を作る事を慫慂しょうようする。桜の名所は何も荒川堤でなくてもよい。東京の近郊なら西でも東でも北でも南でも桜に適した往来の便利な、また永久に他からの迫害(水害や煙などの)の無い好適処へその行楽の場処を新設すればよい。世の中は永いから例令たとえ今嫩わかき苗木を植えたとすればその内にはそれが生長して花を着けるようになる。そして我等の子の代、孫の代には実に見事な桜の名所となって花下で楽む事が出来るであろう。何も自分自身がそれを見ようとするような近視眼的な慾心を出すにも及ぶまい。世の中の事は万事これ位に遠大に考えてやるべきものだ。東京は何にも吾れと生命を同じうして一緒に亡びるものではない。吾れは今んまの間に死んで行っても東京は依然として後とに残り永久に向うて益ますます繁栄する。吾々の子孫はここに繁殖して年々に花見をする。それが世の中である。後の世の事をも思ってやるのも今や世の人の情けじゃないか。

 今の場合荒川の堤の桜はまず現状のままの成行きに任せて置いて一方新名所を作るに努力すべきである。この堤にある桜の大なる樹はその生活状態から考えてもその費用から見てもこれを他に移すことが出来ないからそれはそのままにして置き、この樹を母として接木などしてその子孫を多数に拵こしらえこれを新名所へ植うれば、その品種を失うことも無くして済む訳で桜を愛する人々はその位の面倒は不断に見ねばなるまい。ただ口先きばかりを働かしたとてとても徹底的な仕事は出来るものではない。

「同上、あまのかわ」のキャプション付きの図

同上、あまのかわ

 荒川堤の一つの名所がツブレたとてそれが何んだい、それに優る大なる好い名所がこれに代りて出来ればここに未練はないや、荒川堤に言わすればこんな桜なんてケチな奴は入りゃあしないや、春一時浮れた人が来てくれたってちっとも有り難くないや、それよりもこの辺一帯は国家の経済を幇たすける工業地になってこの堤上は自動車や貨物自動車の往来が頻繁を極むる枢要な道路になりたいと、今日この堤の桜を云々する人達は時世に鑑み、もうちっと活眼を開いてもれーてーね。

 一年中僅に一度ほんの花どき一時の浮きたる行楽のために、国家の発展する経済上の趨勢を支止めるなんてそんな事は出来やしない。行楽が重きか経済進展が軽きか三歳の童子でも判断が付かー。

 そこで愈いよいよ新に名所を造るとすれば土質桜に適し、かつ永久に何物かからの脅威もなく、その四周が景致に富み、何いずれから行くにも便利な土地を選び、その地域を極て広大にしこれに我邦に在る全部の桜の種類を蒐あつめ種ううる事である。その桜の各種少くも百本位は必ず同種のものの苗木を用意して適処に植え、その中でもヤマザクラ、ソメイヨシノなどは数万本も用意し、またヒガンザクラ、エドヒガン、シダレザクラなどは数百本あるいは数千本用意してこれを植うる様にする。この様に大規模にしてこそその場処が桜の名所となって永久に遺り、また日本はおろか西洋諸国へまでもウタワレルようになるのだ。桜の国などと自慢するには自慢するだけの用意があってしかるべきであるのに、今日の様な貧弱さでは何ともかとも仕様が無い。費用が入るって、真剣にやる気ならそれは何んとかなるよ。

 桜の種類を蒐めるには日本国中の隅々までもアサル事だ。そして既知の種類も隠れた種類も皆拉らっし来て右の一大桜の名所へ植え、ここへ行けばどんな桜でも見る事が出来る様にする。この様にして始て意義深い桜の名所すなわち桜の国に恥じぬ相応しい名所が生れるのだ。やる位ならこの位勢よく大胆にやらねばだめである。

〔補〕里ザクラの大部分は彼の大島ザクラを原として発展し来った事は、今から十余年も前に私の創はじめて考定した事実である。私はその証拠となるべき原樹を相模の真鶴で発見している。何いずれその内にその図説を発表せん事を期している。里ザクラの中にはまたヤマザクラ、オオヤマザクラ、ケヤマザクラから来た種類もある。しかしその親子の関係を詳細にかつ科学的に調べた学者は今日まだ世間に一人もない。つまり里ザクラの研究は現代なお、すこぶる幼稚な域を脱していない。

桜をサクラと訓ますは非である

 昔から世間一般に桜をサクラとして用いている事は誰でもよく知っているが、実言うと桜は我邦のサクラでは無いのである。そして我邦のサクラは全く日本の特産と言ってもよい位だから、固もとより漢名というものを持合せていない。しかし支那の湖北省にヤマザクラがあると報ぜられているから向うでは何んとかいう漢名があるかも知れぬが、それは今不明である。

 しかれば桜は何んであるかと言うと支那の桜桃の事である。これは桜の一字が一番元とでそれへ桃を加え桜桃としたものらしい。そしてその異名に鶯桃、含桃、荊桃がある。これへかく桃の字を加えたのは、この桜は固より桃の類では無いけれどその形ちが桃に似ているからだといわれている。またこれを桜というのはその果実が瓔珞ようらくの珠に似ているからだとの事である。

 昔我が邦でこの桜桃をサクラだと思った事があったので、それでその略字の桜がサクラと成って今日に及んでいる。

 もしも上の桜桃が我がサクラと同種の者であったなら、その間何んの問題も起らなく桜はサクラで済し込んでいてもあえて不都合な事は無かったが、不幸にも桜桃は全く我が邦のサクラとは別種の者であったのである。

 桜桃は支那では特産の一つで主としてその果実を貴ぶ一の果樹である。ゆえに支那の書物にもこれを果樹の中へ入れている。その生本は日本へも来ていて諸処で見られるが、果実が余り沢山生らないので今日は大して世人に愛せられていなく、ただ前に来たものの残っているのを植えてある位の程度である。早春に葉に先だちてヒガンザクラ様の淡紅花が枝上に群着して開き多少は美麗である。花が了ると帯褐色の新葉が出で重鋸歯ある倒卵形の闊い緑葉と成る。実は葉間に隠見して赤熟し固より食用と成る。直径は凡そ一・五糎許ばかりもあろう。

 今日市場に売っているサクランボウを一般にオウトウ(桜桃)と呼んでいるのは最も悪るい。これは決して桜桃ではなく元来が欧洲種の果樹である。

 吾等は真正なる支那の桜桃を支那ミザクラ、欧洲産の者(Sweet Cherry と呼ばれる)を西洋ミザクラと呼んでいる。両方とも実ザクラで元来が花を賞するのが目的の樹ではない。

 サクラの語原についてはどうも吾人をして首肯せしめる程の判然したものが無いのが残念であるが、これは多分極めて旧く神代から続いた名でその時代にはその意味が判っていたのであろうが今日ではどうもその辺が曖昧に成っているのではないかと私は想像する。サクラはサキウラ(咲キ麗)の転じたものとかあるいはコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)のサクヤの転じたものとか言っていれど、何んとなく頭にピンと響かない。

 先日東京の山下清一君から次の様な事の示教に預った。それは神代での瓊々杵尊ににぎのみことの大和地方での御歌に、「これのハバカや、薄赤ウスホに白き、万家ヨロズヤの上エに花咲くは、幸サキクに咲くらむ、寿ホキくにさくらむ、美ウツし花かも、なりに、」というのがあってこの歌の中の咲くらむのさくらがその語原であろうとの事である。さてこの歌はサクラを眺めて咏じ給いしものではあろうがそうするとその歌の始めにあるハバカがサクラの事に成らねばならぬ理窟だ。しかしこのハバカは一名カニハザクラと云って今日いうウワミズザクラの古名と成っているのでここに喰い違いが起るがこれをどう取捌いたがよいものかチョット困りもんである。

〔補〕最も古く僧昌住の『新撰字鏡』には桜がサクラとなっている。深江輔仁の『本草和名』では桜桃がハハカ一名カニハサクラとなっているが、どうもここではウワミズザクラではなく、サクラを指したものではないかと思う。このハハカについては古人もいろいろと論じているが、しかし尚新しく研究の余地があると私は考える。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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