https://news.yahoo.co.jp/articles/c8f50506245bbceaf6a53e8235a81787fd6b0e8f 【【ここまで変わった古代史】邪馬台国とヤマト政権には天皇の系譜に繋がる関わりがあった!?】より
纏向遺跡は、2世紀末から4世紀前半のものとされる。邪馬台国の中心地に比定する説があり、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳と、それより古い5つの纒向型前方後円墳が分布する。
古代史最大の謎と言っても過言ではないのが「邪馬台国」だろう。その所在地を巡る論争はもちろん、ヤマト政権との関連についてもさまざまな議論が交わされてきた。従来は関連性はないと思われていたが、研究によって少しずつ古代日本における統治の流れが解き明かされてきた。
従来説:別系統で連続性はない
新説:卑弥呼の王統が、崇神・垂仁の天皇系譜に繋がる可能性を指摘
■相次ぐ遺跡の発見により所在地論争は近畿が優勢
邪馬台国は古代史最大の謎といってもよいほど魅力的であり、なかでもその所在地をめぐっては百家争鳴といったところであるが、近畿説と北部九州説が有力と思われる。北部九州説では吉野ヶ里遺跡が注目されたが、邪馬台国と時代が少しずれるともいわれている。
近年は近畿説が力を増しているが、その推進力となっているのが纏向遺跡の存在である。2009年に発見された大型建物跡は東西12・4メートル、南北19・2メートルあり、卑弥呼の館かともいわれた。この他、遺構、遺物がみつかっており、都市的な遺跡と考えられている。
付近には卑弥呼の墓とされる箸墓古墳もある。箸墓古墳は、3世紀末の古墳とされていたが、近年は3世紀中ごろの築造ともいわれている。
纏向遺跡を邪馬台国とすると、ヤマト政権との連続性を想定することができるようになる。纏向の地は、「記・紀」の崇神・垂仁・景行の宮の所在地でもあり、卑弥呼の系譜に崇神をはじめとする初期天皇の系譜がつながる可能性もいわれている。
考古学的にも纏向エリアの大型前方後円墳について箸墓古墳を卑弥呼として、西殿塚古墳を台与(とよ)、行燈山古墳を崇神、渋谷向山古墳を景行の陵とする構想もいわれている。
監修・文/瀧音能之
https://news.yahoo.co.jp/articles/3bf82f3327a0a582c8dd90bd0c1b1cee4cfe8382 【日本古代史の謎と「空白の4世紀」に挑む! 古墳、大和王権、聖徳太子……etc. 歴史学びと楽しさのススメ】より
連載100回目を機に古代歴史についての考察を振り返りつつ、どのように歴史の世界を楽しむのか? についてお話ししておきます。私の場合は最新の研究による状況証拠や物的証拠も取り入れ、古代人と現代人に共通する基本感情の機微を大切にして考察推理し、合理性を以って「人間的に理解する」というのが基本です。皆さんに問題を提起しますので一緒に考えてみませんか?
■定型化された前方後円墳の普及と大和王権の広がりに対する素朴な疑問
大和王権が急速に広がる「空白の4世紀」と呼ばれる約150年間にどんなことがあったのかを理解するには、前方後円墳の広がりと、きめ細かい調査報告をヒントにして推理するのが有効でしょう。
古墳の築造年代や編年を知るのは出土数の多い円筒埴輪が便利ですし、もちろん副葬品の研究と各地の伝承を参考にしますが、墓誌や金石文(きんせきぶん)などが出土すれば大きなヒントになります。
弥生時代の墓は地方や時代によって様々な特徴を見せるものですが、ほぼ全国に広がる前方後円墳という特殊な墳形は定型化されているという不思議な状況を示します。約400年に及ぶ前方後円墳築造の期間、基本の形は変わりません。同時に築造される陪冢(ばいちょう)は、円墳・方墳・小型の前方後円墳などと墳形も大きさもバラエティに富むので、主墳と陪冢の関係からは、被葬者の地位や政治体制、埋葬習慣、さらには当時の階級制度や精神世界までが見えてきます。
前方後円墳型に込められた死生観や思想もまだ解明されていませんので、そこはさまざまな推理や想像を逞しくして研究するべきなのでしょう。
わが国創造の礎となった3世紀後半から5世紀はじめの150年間を謎のままにせず、真摯な研究をするためにも宮内庁の姿勢を改めてもらう必要がありますが、皆さんも自由に推理をしてください。
■聖徳太子の十七条憲法・冠位十二階と遣隋使の関係
『日本書紀』にも『古事記』にも一切の記述が無い第1回遣隋使の記録が『隋書』に残されています。それは西暦600年のことで、倭国の使者が大国「隋」と国交を結ぶために海を越えて訪れています。しかし当時の最先進国である隋は、倭国が官僚制度も法律も無い旧態依然とした未開の地であると断定し追い返すのです。
年表を見ると、587年に蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)の建立を発願しています。また四天王寺は593年の創建と伝わっています。先進国の証である大寺院を建立し得たことで、大和は勇んで遣隋使を派遣しますが、国家の根本を整備できていなかったために、600年の国交樹立に大失敗を喫するのです。
年表に戻ると、603年に「冠位十二階」、その翌年に「十七条憲法」が定められ、607年に小野妹子を正使とした遣隋使を派遣しています。『隋書』に従えば2度目の遣隋使となります。607年には法隆寺も完工していたとされていますので、本格的大寺院が次々に創建されているわけです。
隋に追い返されて大失敗した国交樹立をリベンジしようとした聖徳太子は、着工していた大寺院の充実や完成を急がせて、十二段階の官僚制度を創り、法治国家の体裁を整えるために仏教思想を深く織り込んだ十七条の規定法を創ったのでしょう。
隋国答礼使の裴世清(はいせいせい)が飛鳥の都に到着するルートを見てみましょう。長い旅を続けてきた船が入港する大阪湾に到着するころ裴世清たちの目に映ったのは、上町台地という小高い丘の上に、南北に長く大伽藍と五重塔の甍を輝かせた四天王寺だったでしょう。
古墳時代には巨大な大王墓を海岸付近に築造してその権威を見せつけていましたが、この時代には大寺院がその役割を担います。裴世清一行は野蛮な国に世界の秩序を教育しようとしてやって来たにもかかわらず、その雄大さと文化の高さに驚いたことでしょう。
難波津(なにわづ)に上陸すると、迎賓館で大歓迎の儀式と宴が何日も続きます。そして大和川を遡って法隆寺を左手に見ます。その後、上陸して山田寺方面の高台を60頭もの飾り馬に揺られて、広大な方形の法興寺を見下ろします。ますます倭国の文化の高さを実感したでしょう。大歓迎の式典の後、引っ越ししたばかりの推古天皇の新築宮殿である小懇田宮(おはりだのみや)に案内されたようです。
私には「これでもか!」というほど隋国の正使一行に倭国の文化度の高さを見せつける演出力のすごさを感じます。そして世界情勢の後押しもあり、隋と対等の国交を開くことに成功したのだと思います。
蘇我氏の皇子である聖徳太子らの推古政権は、馬子ルートの豊富な海外情報を手にしていたことが分かりますし、その抜かりの無い万全の準備を感じます。
聖徳太子という人はどんな人だったのでしょう?また、当時の仏教文化とはどれほど文化の高さを示すものだったのでしょうか?
■白村江の大敗と藤原鎌足の正体
蘇我氏本宗家を瞬時に滅ぼして政権を奪取した中大兄皇子と中臣鎌子(藤原鎌足)は、「大化の改新」を実行したといわれていますが、それほど本気で改革していたのかというと、私にはその気配はあまり感じられません。むしろ当時の最先端の文化を内包した仏教を積極的に取り入れ、朝鮮三国を飛び越えて隋国と直接国交を開いた蘇我政権の方が近代化の熱意を強く感じさせます。
つまり中大兄皇子(天智天皇)を旗頭にした藤原鎌足主導のグループが政権を奪取した目的が、滅亡に瀕した百済の救援だったとしか私には思えないのです。
まるで百済の復興に大和軍を動員することに最大の目的があったのではないかとさえ思えます。そして白村江まで出撃した大和軍は全滅しますが、鎌足は都を近江に遷して最高位の大織冠(たいしょくかん)をかぶり、藤原の姓を受けて死んでいきます。
鎌子・鎌足というのは本名でしょうか?もしかすると彼には百済の名があったのではなかったでしょうか?
蘇我本宗家を瞬時に滅ぼした板蓋宮(いたぶきのみや)と甘樫丘(あまかしのおか)を舞台にした乙巳の変(いっしのへん)が実行される頃、蘇我氏先代の大臣馬子が大勢の百済遺民を明日香に受け入れて住まわせていましたので、その集団は相当な人数と勢力になっていたと思われます。その中でも特に過激派の一団が、血筋に申し分のない中大兄皇子を旗頭にクーデターを断行したのではなかったかと、私は考えています。そう考えると、近江朝廷の実態や壬申の乱の真の動機も理解できると私は思っています。
定説といわれている歴史のストーリーはどんどん覆されています。これからはますます真摯な調査研究と大胆な推理が必要とされるでしょう。歴史ファンは自由に大胆に想像豊かに謎解きにチャレンジして楽しみましょう!
https://news.yahoo.co.jp/articles/1a97d1e5d0a490f589aeeb60e7e8cccac8a48986 【「『大和朝廷」ではなく「ヤマト政権』」「『大化の改新』は『乙巳の変』に」大人が知らない日本史の新常識【古墳時代~飛鳥時代】】より
受験シーズンの2月が到来。現代の受験生が解く日本史の内容は、大人世代の知っているものとは大きく異なっている。専門家に、「教科書から消えた」日本史の常識を解説してもらった。
【画像あり】日本最大の古墳は「仁徳天皇陵」ではなく「大仙陵古墳」
<古墳>日本最大の古墳は「仁徳天皇陵」ではなく「大仙陵古墳」
1980年代には「仁徳天皇陵」と記載されることが多かった日本最大の古墳の名称が、現在使われている教科書では「大仙陵古墳」に変わった。「この名称変更を紐解くと、原因は幕末までさかのぼる」と語るのは、放送大学講師で、考古学者の山岸良二氏だ。
「江戸幕府が、日本中の天皇の墓を莫大な費用をかけて改修することにしたんです。しかし、『日本書紀』に書かれた初代・神武天皇以降、歴代天皇の墓や古墳の場所がすべて特定されていたわけではありません。そこで、各天皇が亡くなった場所の記録から、その周辺にある古墳を各天皇の墓ということにしたのです。仁徳天皇陵も同じ流れで名づけられましたが、各地で考古学的な発掘調査をすると、天皇の年代と合わない出土物が次々と発掘されるなど、つじつまが合わなくなりました。そこで1960年代から、地名から古墳の名前をつけるようになりました。大仙というのも現地の地名です」
<古墳>「大和朝廷」ではなく「ヤマト政権」などに
現在、古墳時代に誕生した政権は「ヤマト政権」と表記される。「『朝廷』とは “天皇の政治どころ” という意味。天皇自身が日本の政治に大きくかかわるようになるのは、7世紀後半に活躍した天武天皇からですので、『ヤマト政権』が誕生した4~5世紀当時の、有力豪族の連合体による政治体制を『朝廷』と表記すると、意味が違ってしまうのです」(山岸氏)
<飛鳥>聖徳太子の肖像画は偽物。呼び方は「厩戸王」が主流に
「第40代の天武天皇は、兄の天智天皇の血筋を討ち滅ぼそうと、それまでの“タブー”を破り、中国にならった律令に基づく中央集権体制を整えました。この“クーデター”を正当化するため、歴史上で“大王を助けた優れた人物”を作り出す必要があり、聖徳太子こと厩戸(うまやどの)王に白羽の矢が立ったといわれています。いまの教科書では『かつて聖徳太子と呼ばれた』などと、実在性の薄い扱いになっています。聖徳太子の有名な肖像ですが、両隣にいるのが成人男性とすれば、中央の聖徳太子の身長は2m20cmほどになってしまいます(笑)」(山岸氏)
<飛鳥>蘇我入鹿が暗殺された事件は「大化の改新」ではなく「乙巳の変」に。「大化の改新」は「事件以降の政治改革」を指すように
中大兄皇子によって蘇我入鹿が暗殺された事件は、かつて「大化の改新」と表記されていた。しかし、現在ではその存在自体が疑問視されて、意味が変わっている。事件そのものは「乙巳(いっし)の変」という表記になり、それ以降、中大兄皇子や中臣鎌足らが中心となって律令政治を整えた改革を「大化の改新」と呼んでいるのだ。「もともと、大化とは日本最初の元号だとされてきました。この通説そのものが最新の研究で変わり、現在では、701年の『大宝』が最初の年号だといわれており、暗殺事件があった十干十二支=乙巳をこの事件の名前に当てています」(山岸氏)
<飛鳥>日本最古の貨幣は「和同開珎」ではなく「富本銭」だけど、鎌倉時代まで日本では中国銭が主流だった
「1998年、飛鳥池遺跡から富本銭(ふほんせん)が出土しました。しかも1~2枚ではなく、枝に富本銭が束ねられている状態で見つかりました。要するに、“銭の工場”が発掘されたわけです。さらに、地層の調査などにより、富本銭が和同開珎よりも古くから流通していた事実もわかりました。
しかし、当時はあまり日本製の銭貨は信用されていなかったといいます。というのも、当時の日本は中国が第一の手本ですから、中国から来たものを大切にしていたため、中国貨幣が日本に入ってくると、国産銭はほとんど流通しなくなりました。2018年に埼玉県の武士の館跡から、数万枚の埋蔵銭が発掘されましたが、全部、中国の銭貨ですよ。このように、室町時代や江戸時代に幕府が国産銭を作るまでは、国産の銭は信用度の低いものでした」(山岸氏)
https://www.teikokushoin.co.jp/junior/faq/detail/939/ 【「大和朝廷」ではなく、「ヤマト王権」という用語を使うのはなぜですか。】より
「ヤマト王権」は、3世紀後半以降から奈良盆地に成立した、のちの大王を中心とする豪族たちのゆるやかな連合勢力のことをいいます。この政治体制を示す用語として、「大和朝廷」が一般的に用いられています。しかし、「朝廷」という言葉には、天皇と貴族による中央集権政治という意味合いが含まれることが多く、成立当初、まだ「朝廷」という語にふさわしい政治制度をもっていなかったこの豪族の連合勢力に、「朝廷」を使用することは学界でも疑問がもたれるようになりました。このため「朝廷」を用いずに、王と諸豪族の貢納・奉仕を媒体とした当時の人間的関係を踏まえて、「王権」という語を用いるようにしました。
なお、ヤマト王権は、中国大陸との関わり合いなどを通じて、しだいに制度を整え、7世紀後半の律令制度の施行でその制度は一つの到達点をむかえました。そのため、弊社では、この時期から「朝廷」という語を使用するようにしています。
次に「ヤマト」王権の「ヤマト」というカタカナの表記についてですが、「ヤマト」は現在の奈良県地域を示す地域名称として用いられており、この政治体制が存続した時代には、倭・大和・大養徳などと様々な漢字で表記されてきました。その一方で、「大和」という国名は、7世紀の『古事記』『日本書紀』では使用されておらず、8世紀中ごろに施行された『養老令』から、広く「大和」国と使用されるようになりました。さらに、「倭」は、中国で日本の総称として用いられていました。そのため、地域名称としての「ヤマト」を表す場合、国名の「倭」や「大和」との混同を避けるために、カタカナでその音を表しています。
なお、高等学校の日本史教科書でも、「ヤマト」とカタカナで表記されております。また、「朝廷」の文字も使われず、7世紀後半までは、「政権」「王権」で表記されています。
0コメント