高次の意識の状態

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高次の意識の状態を示す言葉が沢山あります。

ヨガには八つのプロセスがあって、その最終段階を三昧(サマーディ)Samadhi といっています。

このことからヨガの目的がサマーディだということがわかります。

ヨガのポーズはその為の土台造りなのです。

ヨガ行者はいつかサマーディという素晴らしい境地に至る事を夢見てヨガのアサナにはげむのです。

ところがヨーガスートラを読むと、さまざまな用語が乱れ飛んでいてサマーディが分かりにくいのです。

ヨーガ・スートラのサマーディを整理してみると次のようになります。

まず、大きく分けて「区別ある三昧」サムプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)と「区別なき三昧」アサムプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)の二つがあります。

また別な章ではややこしい事に似たようなサビージャ・サマーディ(有種子三昧)とニルヴィージャ・サマーディ(無種子三昧)いう言葉がでてきます。

サムプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)とサビージャ・サマーディ(有種子三昧)は同じ事のようです。

どうして同一の意味で違う用語が混在しているかというと、今のスートラの形になる前に紀元前から継続している複数の系統の教えがあって、それをヨーガ・スートラとしてパタンジャリが編纂したからのようです。

異なる系統の間に同じ用語と異なる用語が混在しているので言葉だけで理解しようとすると混乱します。

その二系統の伝統を誰がはじめたのかは文献が残っていないので不明なのです。

そしてサビージャ・サマーディ(有種子三昧)またはサムプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)には次の四つの段階があります。

1、有尋定 savitarka サヴィタルカ

2、有伺定 savicara サヴィチャーラ

3、無尋定 nirvitarka ニルビタルカ

4、無伺定 nirvichara ニルヴィチャーラ

まず

1、有尋定(うじんじょう)サヴィタルカですが、解説では「心の焦点が具体的な対象に定まった時に有尋(うじん)三昧 サヴィタルカ・サマーディと呼ばれる。」とあります。

この聞き慣れない尋(じん)という訳語がどこから来たのかというと、4〜5世紀頃の世親(ヴァスバンドゥ)によって書かれたサンスクリット語のアビダルマ・コーシャ を漢訳した「阿毘達磨倶舎論」(あびだるまぐしゃろん)から来たようです。

「阿毘達磨倶舎論」(あびだるまぐしゃろん)の訳者は中国の真諦(しんだい)と玄奘(げんじょう)です。

アビダルマは詳細に心の作用を分析していて、不定法という分類で尋(じん)は粗大な心の働きとあります。

ヴィパサナ瞑想は上座部仏教のメソッドですがアビダルマの用語がそのまま使われています。

パーリ語のVittaka:ヴィタッカが尋(じん)です。

物質あるいは感覚を対象にして集中して得られるサマーディがサヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)です。

アビダルマで尋(じん)よりも微細な心の働きを伺(し)ヴィチャーラと呼んでいます。

ヴィパサナ瞑想では 伺(し)を詳細に観ることと説明されています。

思考を詳細に観察して瞑想が深まると思考が浮かび上がる瞬間を目撃します。

思考と思考の間にはギャップがあり、思考が浮かび上がる微細な変化を感じとれるようになります。

インドでは物質のもとになり、情報を伝達する非物質的な要素をタンマートラと呼びます。

このタンマートラを対象に集中がおこなわれた結果、達成されるサマーディがサヴィチャーラ(有伺定 うしじょう savicara)・サマーディです。

大乗仏典の座禅三昧経に五つの瞑想が紹介されています。

1、皮肉骨の不浄な肉体が腐敗して白骨になる様子を観察する瞑想。性欲の強い人に勧められる。

2、人の幸せを願う慈悲の瞑想。

3、呼吸の数を数える瞑想。

4、呼吸の観察 

5、仏の姿を観相する。

座禅三昧経には、これらの五つの行に意識を集中させることによって初禅が得られるとあります。

呼吸の観察は上座部仏教のヴィパサナ瞑想と同じ瞑想です。

集中する瞑想は他にローソクの炎を見つめるトラタック瞑想などがあります。

集中瞑想に共通するのは悩んだり不安になったりする思考以外の事にエネルギーを使い思考を低下させる事にあります。

アシュタンガ・ヨガのダラーナ(凝念・集中)によって得られるのが集中することで起きるサムプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)とサビージャ・サマーディ(有種子三昧)なのです。

マインドの機能は脳が作り出しています。

思考以外のものに意識を集中する事で普段、休む事なく考えて活発に活動している脳の部位の血流が変わります。

興奮しすぎた知性の働きが抑えられると、情動の辺縁系や生命活動を司る脳幹の部分が活性化します。

心身症とは知性と情動の調和が乱れている状態です。

脳幹の視床下部は自律神経やホルモンの調整をしているので、ここが活性化することで免疫力が上がり傾いた健康のバランスが回復します。

対象の観察を維持できるようになって集中が深まると光のヴィジョンが見えたり気持ちがよくなったりもします。

そして、そのことをあれこれ考えたりもします。

瞑想が起きて、意識が明晰になると、恥ずかしさや罪悪感が起こっては消えていくのがわかるようになります。

恥ずかしさや罪悪感に実体がないのです。

心に浮かぶ否定的な感情に強く締め付けられる感覚が少なくなり、意識の広がりを感じ、ストレスが軽減されます。

日常の意識状態は次々と浮かんでは消える思考に覆われているために、微細な身体を自覚する事が出来ません。

心が落ち着いてくると頭にあった意識の座が広がり腹にまで満ちてきます。

思考が静まると滞ったエネルギーが自由に流れ始めます。

全身に微細な振動が起きているのを感じるようになり、エネルギーが背骨を伝わって上昇するようになります。

そのときに脳内麻薬といわれるエンドルフィンがあふれ体中が歓喜(大楽)につつまれ恍惚となります。

この時にしばしば大悟したと思い込む人々がいます。でも、それは最終段階のサマーディではありません。

変成意識状態になると言語や倫理、分析したりする左脳の働きが低下して、非言語の右脳の働きが活発になることが観察されています。

その時に様々な陶酔感や宇宙との一体感などの神秘体験が瞑想者に起きます。

この体験者がいる段階では、見るものと見られるもの分離感があります。

自我を伴うサビージャ・サマーディsabijah(有種子三昧)またはサムプラジュニャータ・サマーディsamprajnata(有想三昧)の段階なのです。

この段階では思考が伴うので、対象と一体にはなりきっていないのです。

この段階は心の作用が完全停止したアサムプラジュニャータ・サマーディasamprajnata(無想三昧)ニルヴィージャ・サマーディ(無種子三昧)ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)とはあまりにも違いすぎるのでサマーディと呼ばない方がよいでしょう。

瞑想の努力をやめるとサマーディの体験は過ぎ去り瞑想者は自我の状態に戻り欲求不満に陥ります。

これが瞑想の中級者が陥る困難です。

仏教は宗派によって用語がたくさんあります。アビダルマは欲界、色界、無色界に分けています。色界の最初の境地を初禅といっています。最高の境地は涅槃(ニルバーナ)です。

そして肉体を伴う有余涅槃(うよねはん)」と肉体が残っていない「無余涅槃(むよねはん)」に分けています。

それと世間で使われる三昧は、贅沢三昧という言葉にある様に本来の意味とは異なってしまっています。

ヨーガ・チューダーマニ・ウパニシャッドでは人間に粗大身、微細身、元因身の三つの身体があると言っています。

第1身体の粗大身とは物質的な身体のことで、眼に見えない、非物質の第2身体のサトル(微細身)がこの粗大身を包み込む様に階層的に存在しています。非物質なタンマートラが形成する音や光を知覚するのはサトル(微細身)です。

第2身体は第1身体を自覚出来ますが、第1身体は第2身体を自覚出来ません。

第2身体は第1身体を自覚出来ますが第3身体を自覚出来ません。

第3身体はコーザルボデイ(元因身)と呼ばれます。

日常の意識状態は次々と浮かんでは消える思考に覆われているために、微細な身体を自覚する事が出来ないのです。

存在は下位の身体を自覚するように促すので、自覚されなかった身体は病理として現れます。

目覚めると意識の階層に従って、自覚の領域が広がって行きます。

意識の進化・成長はどんな段階もさけて通ることはできません。

高次の意識はどの段階にも潜在しているので、それを客観し対象化しなくてはならないのです。

もし、下位の身体を飛び越えて上位の身体に働きかけても、客観されなかった身体は取り残されるのです。

覚醒・自覚・気づき(awareness)

観照(witness)、

光明(enlightenment)

マインドフルネス(mindfulness)、

自己想起(self-remembering)

照明(illumination)

道(TAO)、

瞑想(meditation)、

禅定(dhyana)、

三昧(Samadhi)

これらの言葉はマインドを超えたコーザルボデイ(元因身)の自覚を表しています。

ただしコーザルを自覚する観照者は微妙な二元性が残っています。

すべての身体、感情も思考も含めた全体を観照している意識をヨガではプルシャ(純粋観照者)とよびます。

仏教では永遠の仏、法身(ほっしん)と呼び思考を超えた知性を智慧(プラジュニャー)と呼んでいます。

インド哲学は見るものとみられるものが一つになっている状態を非二元(アドバイタ)と呼んで、ラマナマハリシはトゥリーヤティータと呼んでいます。

禅の十牛図では第八図「人牛倶忘」以降が表しています。

自我が消滅するヨガのプロセスはダラーナ(凝念・集中)、ディヤーナ(禅定)、サマーディ(三昧)です。

キリスト教神秘主義では浄化、照明、融合、合一の生活、と呼び、イスラムでは心の集中をジクル、消滅をファナー、持続をバカーと呼んでいます。

異なる宗教的伝統でも精神的身体構造は同じで、言葉は異なりますが体験過程は共通しています。

言葉は言語を超えた領域を表すことに向いていないのでマインドは混乱します。

もし、理解してもそれは頭だけの机上の空論なので、ゆらぎが起きるとたちまち暗黒の奈落(ならく)に落ちて苦しんでしまいます。

どんなに素晴らしい体験をしても肉体を持っている限り再びマインドに戻ります。

サマーディの体験を何回もすることでマインドの理解が深まります。

マインドは心理的ダメージを受けて深刻になっても立ち直りが早くなります。

最終的に観照者とマインドが一つになった状態に落ち着きます。

それが禅の十牛図の「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」とアビラの聖テレサの「合一の生活」、サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ(自然な区別のない三昧)です。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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