俳句が完成する時

https://ameblo.jp/197001301co/entry-12758095188.html 【俳句が完成する時―「宇宙的」に「社会的」に】より

 角川『俳句』二〇二二年五月号「特別座談会 季語の冒険者たち」(宮坂静生、井上弘美、山田佳乃、堀切克洋、神野紗希)は大変読み応えのある座談会だった。

 この中で私が最も着目したのは、<つわり悪阻つわり山椒魚どろり 神野紗希>といった句における季語の扱いに神野紗希、堀切克洋両氏が言及した箇所だ。

 神野の「妊娠、出産、育児は、人間が長い歴史の中で営んできたことではありますが、その感覚を季語を通して言語化するということは、実はまだ発展途上のジャンルではないか」「共通認識としての季語を通して表現できる個別の感覚があるのではないか」という指摘は、現代における季語、また現在から未来における俳句の持つ「可能性」といったものを十分に示唆したように思う。

 また「…隠された苦しみをオープンにシェアしていこうという動きは、格差にせよ差別にせよ、社会的にも広がっている。だから紗希さんが悪阻の私的感覚を共感的に描こうとするのは、季語の冒険でもありつつ、社会的な冒険でもあるんじゃないでしょうか」という堀切の発言も、現代において俳句が向うべき一指針を示したと言えるのではないだろうか。

 両氏の発言から、私は詩人、谷川俊太郎のこんな言葉を思い出した。谷川は詩人の立場として①「宇宙的(コスミック)」であること②「社会的(ソシアル」であることの両面があると述べる。谷川は「詩人がなぜ詩を作るか」という問いに対し、まず「つくりたい」という気持ちがある。それは詩人の「情熱」のなせる業で、「宇宙的な生命のあらわれ」であるという。また詩人は「つくらねば」の気持ちを持つ。これは自身の「道徳(モラル)」が根底にあり、詩人の「社会的な人間のあらわれ」であるという。そして詩はこの「宇宙的」な「つくりたい」から「社会的」な「つくらねば」を経て完成を迎えるのだと。

 「俳句」を実に大雑把に定義するならば、「季語」を用い、時に伝統的な切れや切字といった手法を使い、自身の身辺やひいては取り巻く自然を詠む文芸、と簡単にはいうことが出来る。そのもって生まれた体質から必然的に「社会」を詠むのには少し工夫のいる詩型といえるのかもしれない。しかし、季語を介して自身の身体の「苦しみ」や「違和感」「動揺」「逡巡」「もがき」もしくは「心地良さ」「快感」といったものを表現したとき、それは巡り巡って「社会」を表現することにつながるのではないか。

 「季語」という多くの日本人のDNAに刻まれた、凝縮され、また一方でキャッチーな言葉で自身の内面を描くという作業は、人々への共感性を得るのに非常に便利だし、また俳句によって「現代社会を見る」ひとつの窓になるのではないか。

 「…一回、自分の体を通すということ、紗希さんの〈鯨〉の比喩とか、まさに好例だと思うのですが、季語を一回、自分の体というフィルターに掛けて通すことによって、その人の見えている世界が生まれてくるのが、俳句の面白さ」(堀切)。

 「…反復するものを一回きりのこととして、体を介する、私を介して季語と触れる。季語のもともと持っている反復性に私の一回性を加えていく。そのことによって、季語がそのたびに詠まれ直し、生まれ直していくのかなと」(神野)。

 この二人の発言は実に力強い。いわゆる「古い」言葉である季語を常に新しくしてゆくのは私たちの「体」であり、そこに詠まれた感覚を共有することで人は時に「生きにくさ」を感じる社会においても、見知らぬ人々とも見えない手を繋ぐことが出来る。

 季語は借り物の言葉ではなく、歳時記も教科書ではない。言葉に血肉を注ぐのは今を生きる私たちである。

 季語を用いて自身の私的な、肉体的経験を詠むとき、それはいつしか小さな風となって社会に吹き込むことがあるかもしれない。

 その時、俳句は「宇宙的」な存在と「社会的」な存在の両方の価値を身にまとい、現代社会において詩として完成を迎えるのかもしれない。

(「滝」2022.6月号所収)


https://ameblo.jp/197001301co/entry-12758092635.html 【自分の「美意識」を知る】より

 その句にとても魅かれるが、なぜ魅かれるのか説明し難い句、というのがある。句会の場などで講評を求められた時、自分の思い出に直結していたとか、同じような光景を目にしたとかいう「感想」はあたたかく素朴ではあるが「鑑賞」にはならない。

 例えば、

 音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢   赤尾兜子

 といった句。

 不安感とか絶望感を「音楽漂う」の若干のリリシズムで包み云々…という説明は出来るが自身の根本的な何に触れたのか説明するのはかなり難しい。

 「真理を知る方法は心情である」というパスカルの言葉は、最も安らかな批評の方法につながる。ただこの「心情」を言葉で説明するのはやはり難しい。

 しかし「なぜ良いか」を客観的に言語化して表現しようとする作業は自己分析の手段となり、また他者を深く理解する手立てともなる。

 そういう意味で最近読んだ『絵を見る技術 名画の構造を読み解く』(秋田麻早子著 朝日新聞社)は興味深い一冊だった。

 この著書は、名画と呼ばれる絵画がなぜ名画なのか―その仕組みを構造的に分析し「絵の見方」を提示する。

 「名画」といわれる所以はどこにあるのか。美術を見る鍛錬を経ると、その作品が例えば「明るい」「暗い」などという表面的な見方ではなくて、構造や造形の面から語ることが出来るようになるという。「フォーカルポイント」(絵を見る際の焦点)、「リーディングライン」(重要な部分に目を誘導する線)、「リニアスキーム」(線のバランス)、用いられている絵具の種類、十字線や対角線などを手掛かりに細かく分析的に見る方法が丁寧に解説されている。

 いわば絵画を見る際の「基準」というべきものを知ることで、絵画を理解していこうという試みだ。俳句も、構造的に一句を分析し、鑑賞することも可能だが、そういった見方はふくよかな味わいに欠けるという欠点がある。ただ、この本の巻末にあった自身の美意識を知る方法が、俳句にもあてはまるかもしれないので紹介したい。

 

①自分の好きな三つの絵(名画に限らず、漫画やポスター、CDジャケットなどでも)を選ぶ

②その三つの「共通項」を探る

というもの。

「絵」を「俳句」に置きかえて私も実際にやってみた。

①自分の好きな三句

 夏の河赤き鉄鎖のはし浸る   山口誓子

 冬河に新聞全紙浸り浮く   山口誓子

 花の雨滲む新聞紙を踏めり   菅原鬨也 

②共通項

・「河」「雨」など水にまつわる句。

・田園風景より都市生活。

・「鉄鎖」「新聞」といった自然物ではないものと季語の取り合せ。

・伝統的な切字より「浸る」「浮く」といった断定的な動詞の使い方。

・見慣れているようだがどこか暗さと陰りがある光景。

一句に漲る緊張感。

・鉄鎖や新聞といった無機質なものが有機的に描かれている。

・ぱっと見「美しい」というよりどこかひっかかりがある。

 これらの結果は、冒頭の兜子句にも共通するところがあり発見であった。

 なんとなく「良い」「好き」と思う句の「共通項」を客観的に知ることが自分の「美意識」をうっすらと知ることと繋がるのは面白い。

 「感想」ではなく「鑑賞」するためには「教養」がものを言うのだろうが、真の教養とは単に物知りな事ではないのだと思う。

 自分の美意識を知り、相手の美意識を知ろうとする姿勢。広く世界を見、世界を知ろうとする気持ちが豊かな「鑑賞」を生むのではないだろうか。

(「滝」2022.3月号所収)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000