点睛に淵を探すや秋の雲

Facebook西田 拓司さん投功記事【人生レシピ】

テレビをたまたま見ていたら人生レシピという番組が放映されてました。

テーマは"病と向き合うその先へ"その中で堀ちえみさんが、出演していらっしゃいました。 

堀さんが、舌癌という病気を患われたのはニュースにもなってましたので、 よくご存知の方も多いかと思います。

その治療中、さらに食道癌がみつかり、それも治療しながら今また、歌を歌うことに挑戦されてると。

その中で、病気を乗り越えるヒントたくさんお話しされてました。 

やはり、病気になった方から話される 言葉には重みがありとても考えさせられるものが多いです。

彼女曰く、病気になり、自分が迷惑かけてるんじゃないかって思うのが辛かった。昔の自分と比べて辛かった。自分を認めれなかったと。

ただ、病気を過ごす中、沢山の人に支えられながら、病気を徐々に受け入れれたこと、 

前の自分と今の自分は違っていいと 言うことに気づいたと。

この"受け入れる"ことが、長い病気と 向き合うには不可欠です。 

ただ、これができるのには、 人それぞれかかる時間は違うし、環境も違うので、 

それぞれのペースでいいと思います。

頭でわかって受け入れれるものでも ないと思います。

ただ、そこが楽になると、格段に日常的にかかるストレスも減り、 治癒に向かいやすくなる、 診療して感じることが多いです。


https://note.com/theterakoya/n/nd7aa47325a38 【【今日の言葉】いのちの循環と遺ってゆくもの】より

【今日の言葉】

雨が川から海に流れ、雲となりまた雨となるように、このいのちもまた循環してゆく。

しかし、ただ消え去ってゆくのではなく、我々の思いや言動は、人の心の中に生きた証となり遺ってゆく。

さて、信行寺のある福岡県宇美町では、毎日のように秋晴れの日が続いています。

朝、お寺の境内に出て門を開け、掃除をし、本堂でお経をとなえていると、とても心豊かな気持ちになります。

真っ青な青空と、少し肌寒い空気がとても心地良く、生きていて良かったとさえ思います。

何があるわけでもなく、特別なことをしているわけでもありませんが、身体も心も満たされていきます。そんな中、一日雨が降った日がありました。

秋の雨の日も、それを味わおうとすれば風流なものです。

いつものようにお寺の門を開け、本堂の窓を開けて、少し湿った新鮮な空気をお堂に取り込みつつ、お経をおとなえしていました。

シトシトシト。ちゅんちゅんちゅん。シトシトシト。ちゅんちゅんちゅん。

軒先から垂れる雨音と、挨拶を交わす鳥の声に、意識を添わせながらお経をおとなえします。

その時、雨が循環する様が脳裏に浮かびました。

雲から降ってくる雨が地表を濡らし、溝から川へ流れ、海へと旅をし、蒸気となって雲となり、また雨として大地を潤す。その雨が循環する様が、パッと頭に浮かんだのです。

それはきっと、突然亡くなられた方のご葬儀やご法事をお勤めすることが最近多かったからだと思います。40代で脳梗塞で亡くなられた方の一周忌では、「一年たって更に悲しみが深くなってきました」というご遺族の思いを伺いました。

突然の別れの直後は、時に実感がなく、涙を流しながらも現実とは認識できない(したくない)浮遊した感覚になります。

しかし時間がたち、徐々に実感がわき、地に足がついてくる中で、失った存在の大きさに悲嘆が深くなることがあります。

また先日、末期の癌であっという間に亡くなられた方の枕元でおつとめをさせていただきました。ご親族やご近所の方がその方のご自宅へと寄ってこられ、次々に亡くなられた方へ声をかけていかれます。

「目を覚まして。ねえ、目を覚まして。なんでこんなに冷たくなってるの。独りでいかないで」人は、いつかは別れていくことを誰しもが知っていますが、その時はいつも突然で、断絶された思いになります。

これまで感じたことのないような顔や手の冷たさに、別れたことの現実を突きつけられます。

大切な方であればあるほど、別れが突然であればあるほど、その悲嘆は深く、立ち直るまでに時間を要します。もう一度会いたい。声が聞きたい。触れたい。

その悲嘆が癒されるには時間がかかります。

ただし、その寂しさ、苦しさ、悲しさの中にも、亡くなられた方との思い出や、そこから感じられる温もりは消えないものです。

我々を支え続け、励まし続け、希望を与えてくれるものであり続けます。

昔へと思いを向けてみれば、大切な方との別れを、人類は古より繰り返しています。

多くの涙と、多くの喜びを抱え、人類は生きてきました。

そして、別れていくいのちもあれば、また生まれてくるいのちもあります。

いのちは循環している。大地を潤す雨のように。人生とは、儚くも美しく、不思議なものですね。私もいつか別れて往きます。

しかし、その時にきっと、自分が日々発した言葉や、人のためになした行動は、親しい人の中に生きた証として遺ってゆくことでしょう。大切な方が遺してくれた思い出や教訓のように。

【今日の言葉】

雨が川から海に流れ、雲となりまた雨となるように、このいのちもまた循環してゆく。

しかし、ただ消え去ってゆくのではなく、我々の思いや言動は、人の心の中に生きた証となり遺ってゆく。

最後までご覧いただきありがとうございます。合掌

福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)神崎修生


中学生の頃 和多志は「生きる意味ばかり」を求めるニヒリストでした。

授業は 興味が持てなくなると 読みたい本を読み 教室から追い出され クラス担任が担当教師に 平謝りすることが何度かありました。

休憩中は職員室に入り浸りで 教師相手に「生きる意味」を問い続けました。

ある理科の教師が「命なんて リトマス反応のようなものだよ」と言ってのけました。

その時は大ショックでしたが 命はニュートラルなエネルギー現象であり 人生の意味は個別であり 魂が選んで決めること、そして魂の選択によってエネルギー現象が変化することを 実感するようになりました。

ある国語教師は「死ねる自由がある者と 無い者とでは どちらが幸せかと和多志に尋ねました。

和多志が「行き着く先が墓場だから 好きなことをして、切羽詰れば死ねばよい」と断言し 自分を満たしてくれるものを求め始めたからです。

「幸せの青い鳥探し」を始めたのかもしれません。

生きる意味も、自分を満たしてくれるものも 外に求め続ける限りは決して 掴み得ないものでした。

喉の乾きを潤すために塩水を飲み ますます乾きに苦しみ 喘ぎ続けた思春期でした。

しかし死の自由とはなにでしょう?

和多志たちは日々新しい存在です。新陳代謝を観るだけで よく分ります。

和多志たちは体に宿った時から死と再生を 繰り返し 成長します。

胎児に死に乳児に生まれ 幼児に死に小学生となり 子どもに死に大人に生まれ………

死と再生はセットといえます。


Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

「生」という文字

生きる、の「生」という文字、もともとは芽が出ること、はえることを意味しています。ひと粒の小さなタネが芽を出し、葉っぱとなり、成長していきます。

この、「いのちの働き」が生です。お日様に当たり、雨をいただき、風を受け、大地のぬくもりに養分をもらって、伸びていくのです。

こんな意味を込めて、ひとつの文字、たった5画の「生」が生まれたと思うと、人間ってすごいな・・・と感動してしまいます。

いいえ、ものごとは、みんなそういうものですね。私たちが受け継いできた伝統とか文化の根っこは、やはり「良く生きていこう」「みんなで助け合って頑張ろう」という真摯で素直な思いによるものです。

いつの間にか、勝者だ・敗者だと、わが身がひとりで生きてきたような顔をするようになりましたが、それ・・・、恥ずかしいことです。安易に使われる「自己責任」という言葉も、「生」の文字の前には小さくなっていきます。

先日、こんな言葉に触れましたました。

「声が大きな人をそんなに気にする必要はない」。辻山良雄さんという、書店主の随想集から拾ったものだそうです。

風が心地よい時期になりました。ゆっくりと見回せば、みな精一杯の「生」にあふれています。おかげさまですね。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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