https://4travel.jp/travelogue/10591920 【奥の細道を訪ねて[第5回]①仏頂和尚の山居跡「雲厳寺」】より
当旅行企画会社配布の資料によると、昔当寺の境内に”千丈岩”と云われる巨岩が有り、”雲厳寺塔(虎丘塔)”と呼ばれた中国・蘇州の”虎丘山”に似ていることから「雲厳寺」と名付けられたとの事。
その後臨済宗妙心寺派の禅宗の寺院となり、禅宗日本4大道場の一つと云われようにる。
赤い欄干の太鼓橋「瓜(か)てつ橋」を渡り、その名声通りの立派な山門を登ると、正面に見える「仏殿」の端正な姿が目に留まる。
仏殿の屋根越しに鬱蒼とした森を背負った「方丈」、その右手には「書院」の建て物が控える。
山門の右手に「鐘楼」が建ち、左手に「経臓」が望める。
更にその左手の木陰に、仏頂和尚の歌と芭蕉の句を併彫した碑が建っていた。
竪横の五尺に足らぬ草の庵(いお) 結ぶもくやし雨なかりせば 仏頂
啄木鳥(きつつき)も庵(いお)を破らず夏木立 芭蕉
(案内の先生から芭蕉の句に関し次の様な解説あり
”540~550年頃、仏教伝来に反対し寺や仏像を焼き払った物部守屋を、崇仏派の曽我馬子が殺害した。
物部守屋の霊は啄木鳥(きつつき)となり、寺でらをつつき破るようになる。
仏頂和尚の庵はその啄木鳥でさえその徳を敬しつつき破らない)
仏頂和尚は鹿島根本寺の住職で、江戸深川の臨川庵に寄宿して、鹿島神宮相手の訴訟を起こし、勝訴する。
芭蕉はその間深川で仏頂和尚の知己を得、禅を学ぶ。
訴訟に勝訴した仏頂和尚はあっさり住職の地位を捨て修行僧となる。
仏頂和尚の生きざまは西行と並んで、芭蕉の理想とする世捨て人の姿で、その庵跡を訪ねる事が芭蕉を「雲厳寺」と向かわせた。
仏頂和尚の庵はやや危険な崖の上にあるらしく、一般には公開されていない。
「仏殿」の西側を通って裏にある階段を登り「方丈」に参拝、その庭先から緑に包まれた甍を眺める。
修行僧と思える人が、庭木の剪定をしていたが、これだけの美しい庭を維持するのは並大抵であるまい。
お陰ですがすがしい気分で山を降りた。
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/15473300/ 【佛頂和尚】
https://www.jbf.ne.jp/member?id=15628 【臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)】より
【臨済宗妙心寺派の歴史】
京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」といった。妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。
平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。宗峰は建武4年(1337年)12月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃(岐阜県)の伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年(1342年)、妙心寺の開山となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取ったものである。
関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)の他、ほとんど残されていない。
妙心寺では開山関山慧玄以降、二祖授翁宗弼、三祖無因宗因、四祖日峰宗舜、五祖義天玄承、六祖雪江宗深までを「六祖」と呼んで尊崇している。なお、この初祖〜六祖は法系を指すものであって、妙心寺の住持として何世目であるかを指すものではない。住持の世代としては日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深がそれぞれ七世、八世、九世にあたる。
妙心寺 六世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを買った。応永6年(1399年)、義満は妙心寺の寺領を没収して青蓮院の義円(後の足利義教)に与え、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。義円は没収した寺領をさらに南禅寺の廷用宗器に与え、廷用は寺号を「龍雲寺」と改めた。こうして妙心寺は一時中絶することとなった。妙心寺が復活するのは永享4年(1432年)のことである。同年、廷用は微笑塔(開山関山慧玄の塔所)の敷地をその頃南禅寺にいた根外宗利に与えた。関山慧玄の流れを汲んでいた根外は、犬山瑞泉寺から日峰宗舜を迎えて妙心寺を復興させた。このため日峰は妙心寺中興の祖とされている。
妙心寺は応仁の乱(1467年 – 1477年)で伽藍を焼失したが六祖雪江宗深の尽力により復興。永正6年(1509年)には利貞尼が仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、境内が拡張された。利貞尼は関白一条兼良女、美濃加納城主斎藤利国の室である。その後の妙心寺は戦国武将などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。
妙心寺派の教え
【生活信条】
一日一度は静かに坐って、身と呼吸と心を調えましょう
人間の尊さにめざめ、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう
生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう
【信心のことば】
わが身をこのまま空なりと観じて、静かに坐りましょう
衆生は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう
社会を心の花園と念じて、和やかに生きましょう
ご挨拶
【妙心寺について】
正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山です。
インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。
1337年、95代の花園法皇さまの勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師さまの法流は四派に分かれ、全国3400ヵ寺に広がっています。
お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めます。
開山無相大師さまの最期の教え「請う、其の本を務めよ」と開基花園法皇さまの「報恩謝徳」の聖旨による仏法興隆を実践します。
自身仏を信じて坐禅に励み、足下を照顧しながら生かされている自分を感謝して、社会を心の花園と念じ和やかな人生を目指します。
https://kotobank.jp/word/%E7%91%9E%E9%B3%B3%E5%AF%BA-540204 【瑞鳳寺(読み)ずいほうじ】より
精選版 日本国語大辞典 「瑞鳳寺」の意味・読み・例文・類語
ずいほう‐じ【瑞鳳寺】
仙台市青葉区霊屋下(おたまやした)にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は正宗山。寛永一三年(一六三六)清岳宗拙が開創し、伊達政宗・忠宗・綱宗三代の廟所がある。なかでも政宗の霊廟の瑞鳳殿は、豪華な桃山建築で知られる。
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