Facebook土居 譲二さん投稿記事
コロナウィルス現象のメタファーとはなにか 群れないことを強いて「点」であれと命じている 線や面であるのではなく 「点」であることを前提に
ネットワークせよと命じている そしてそこに「中心」はない
それぞれの「点」が「点」でありながら「秋深し 隣は何を する人ぞ」とじっと隣の人に
耳を澄ましていなければならない 華厳である しかもウィルスは単なる生物でさえなく
それがそれぞれの「点」へとうつり そのなかでさまざまに変異していく 縁起の演技である
そしてそれがウィルスの主語的世界ではなく 人の主語的世界でもなく きわめて述語的な場のなかで さまざまに演じられていく
人はそうしたメタファー的世界のなかで「生身の身体」を扱っていかなければならない
分かれることで むすびなおす
そのことを 生きた身体をもって どれだけ経験できるか それが試されているのではないか
感染し感染させられる可能性や 重症化し死を伴う可能性があること 資本主義が崩壊するかもしれないこと そうしたさまざまなことは 新たなものを生み出すための経験へと向かう
現象のひとつとしてとらえるのが良いのではないか
ひとは「秋深し 隣は何を する人ぞ」と「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」(あらゆる透明な幽霊の複合体)
「風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈のひとつの青い照明です」
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
■中沢新一・山極寿一
『未来のルーシー/人間は動物にも植物にもなれる』(青土社 2020.3)
「山極/私は、神社やお寺に行くことの意味は、仏像と出会うということだけではなくて、自然のなかに包まれてある自分というものを感じられるということだと思います。」
「中沢/それが先ほどの、主語の世界と述語の世界とも関わっていて、ヨーロッパでは述語の地位に落とされた累々たる敗者の屍の上に、主語となった勝利者が自分たちの歴史を語っていきます。勝利者の歴史は、どうしても主語の歴史になってしまいます。ところが日本人は、主語を取り囲んでいる環境に散らばったおびただしい敗者たち、述語となり主体性も奪われてしまった者たちのいる広い世界のほうに、世界の原動力を見ている傾向が強い。勝者だけがすべてではないという見方が非常に強いのではないかと思います。述語世界の闇の中に消えていった敗者に語らせるという文化は、古代からずっと重要な宗教的ジャンルであり芸術的ジャンルでした。」
「山極/私は「第二のジャポニズム」で、そのような思考形態が急速に浸透していくのではないかと思っています。たとえば村上春樹さんの小説が、どうして世界中でこれほど熱心に受け入れられるのかというと、現実世界を軽々と越えてしまうからだと思います。あるいは異世界、並行世界があるとか。『羊をめぐる冒険』がまさにそうですが、人間と動物の境界も軽々と乗り越えられてしまいます。これはマンガでも同じです。そうすることによって、自分という束縛から逃れることができるわけです。
インターネットの時代がそれを可能にしている側面もあります。したがって、とくに若い世代がこのような感覚に慣れてしまったと思います。少し観察すれば、そういうアイデアが飛び交っています。それをやりやすいのが、もともとそういう文化を持っていた日本であった。西洋世界では、自分という束縛から抜け出すためには、神に赦しを得なければなりませんでした。日本では、ハエに変身して噂話を聞きにいくという昔話もあるくらいです。」
「山極/日本人は、動物に人間と同じ心があることを認めているわけではなく、ただ連続していると考えています。欧米では、人間と同じという発想だから、すぐに過激になってしまうのかもしれません。クジラやイルカといった哺乳類を、人間と同じ存在なのだと考える。日本人の自然観と似ているようで違うのです。
中沢/日本人は、違うものがあっていいという発想なのですよね。違うことを分かったうえで、その二つを結びつける。縁起の思想がまさにそうで、違うけれどつながっていて、底では同一のものが動いているという考え方です。
山極/欧米における動物の思想は、つねに人間のほうが上で、動物を救おうという発想になるわけです。日本の発想は、個々の命はあり方が違う、だけどつながっているというものです。彼らには彼らの命と生活がある。そういう意味ではユクスキュルに近いと言えるかもしれない。そういう命の網の目のなかに人間もいて、人間も数ある命のうちのひとつにすぎないという発想であって、決して救おうという話ではないのです。」
「中沢/私がレンマ学でやりたいのは、実証科学では扱われなかった動物のインテリジェンスの問題を取り上げ、インターフェイスを主体に立てるレンマ的論理が可能であることを示すことです。
これまでの厳密科学でそこに近いところまでいった人は何人かいると思います。日本人では岡潔がその筆頭ではないかと思っています。岡潔の晩年の講演をこの頃まとめて読んでみたのですが、その頃彼は光明主義という仏教の教えに深く入れ込んでいます。光明主義は仏教の瞑想法のグループなのですが、仏教がいう森羅万象が共鳴し合うという状態を脳のなかに再現しようとしていました。岡さんはそれを通して自分の仕事を見て、自分がやってきたのはこれだったのだと改めて仏教論理によって語り直すようになります。岡さんは、宇宙全体が共鳴し合って、反響し合い、変化していくというありかたそのものをベースにした数学をやろうとしてきました。岡さんの最大の功績は、「不定域イデアル」、すなわち「層」の理論だと言われています。層の理論をよく見てみると、岡さんの捉えていた宇宙観がはっきり表れています。岡さんは、自分の理論と、松尾芭蕉の「秋深し 隣は何を する人ぞ」という俳句がよく似ているとしばしば語っています。芭蕉も、いろいろなものがつながりながら、共鳴し合いながら、宇宙をつくっていく様子そのものを俳句に詠んでいます。「秋深し」、底なしに深い秋に、「隣は何を する人ぞ」とじっと耳を澄ましている。おそらく隣の人も、その隣の人に耳を澄ましているわけです。そういうふうに、人間同士が直接コミュニケーションするわけではないのだけれど、幽き響きを通じて局所的コミュニケーションをとりながら、大域につながっているということを芭蕉は言おうとしていて、それを数学の中で実現しようとすると、層の理論となると岡さんは考えています。
岡さんは、自分の論文が英語に訳されるときに、自分の考えはおそらくヨーロッパ人にはわからないだろうと書いています。実際、岡さんの「不定域イデアル」の理論はすぐに合理化されて、「層」の理論につくり上げられ、それが一人歩きしていきました。本当はもっと違う宇宙観を背景にして生み出したものだったのですが、ヨーロッパ人はそれが新しい便利な数学の方法であるということに気がついて、それを合理化してしまうのです。岡さんからすれば、それは違うよと言いたかったと思います。岡さんは厳密数学を使いながら、「秋深し 隣は何を する人ぞ」という東洋的な世界観を表現しているわけですから。」
「中沢/ある意味、世の中は華厳に向かいつつあるというのが私の実感です。先ほども申しあげた「事理無礙法界」です。インターネットのあり方も基本的にそうなっていると思います。資本主義を根本的に変えていくのは、革命ではなくて、そちらなのではないかと思います。
山極/現代はネットワーク上のつながりなので、線や面ではなくて、「点」なのです。優位性が生まれない、中心が生まれないというつながりが、いま現実に起こっていると思います。けれども、皆なまみの身体を持っているわけで、自分というものを無理に出そうとすると炎上してしまう。あるいは関係をあえてつくろうとすると炎上してしまう。ネットワークというのは、情報交換をするにはとても良いのですが、過剰に踏み込もうとするとおかしくなってしまいます。
そこがこれからとても重要です。ようやく、しがらみのない「点」として、演技的な空間をネットワーク上はつくることができたのですが、生身の身体をこれからどう扱っていくかが課題だと思います。」
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