奥ゆかしい

https://www.premium-flower.com/hpgen/HPB/entries/91.html 【第60回:鬼灯と風船唐綿~花が主役の座を奪われた】より

 今回のコラムのタイトルは、漢字の読み方のクイズのようになりました。「ホオズキ」と「フウセントウワタ」と読みます。鑑賞植物の中には花が脇に追いやられ、実や葉、茎などが主役の座を奪うものがあります。夏の風物詩・ホオズキとフウセントウワタの場合は…。

ご先祖様が帰ってこられる目印

 ホオズキと言えば、真っ先に赤い、小さな紙風船のような袋がぶら下がった姿が思い浮かびます。これを提灯に見立て、お盆に帰ってこられるご先祖様の目印になるようにと、玄関や仏壇周りに飾る風習があります。お盆の間、ご先祖様の魂はホオズキの中に宿ると言われています。「鬼灯」と書くのは、空中に漂う火の玉「鬼火」からの連想と思われます。

「ほおずき市」が3年ぶりに開催

 子供の頃に袋の中にある赤い実の中身をくり抜いて、ホオズキ笛を作ったことがあります。私はなかなか音を出せませんでしたが、近所のお姉さんが「ギュッ、ギュッ」と上手に鳴らしていたのを思い出します。

 コロナ禍で中止になっていた東京・浅草の縁日「ほおずき市」は先月、3年ぶりに開催され、多くの人で賑わいました。買って帰って、ホオズキ笛を作って遊んだ親子もいたことでしょう。

開花期と観賞期が違う訳は?

 ホオズキはナス科ホオズキ属の一年草または多年草で、原産地は東アジア。赤い袋は花の付け根にある萼(がく)が果実を包み込んで、丸く膨らんだものです。

 花期を調べると「開花期は6~7月、観賞期は8~9月」と『みんなの趣味の園芸』(NHK出版)に書いてありました。開花期と観賞期が違うのは、ホオズキの観賞対象は花ではなく、花が散った後に赤く色づく袋状の萼ということです。

 ホオズキの花と言われても、すぐに思い浮かばない方もいるかもしれません。直径1~2cmの淡いクリーム色の五弁の花です=写真=。

白いホオズキ?

 ホオズキを探して近くの公園を歩いていると、白っぽい紙風船のような袋がぶら下がっている花木を見かけました。「えっ、白いホオズキ?」と遠目に思い、近づいて見ると薄緑色のフウセントウワタでした。袋には柔らかいトゲが付いており、ハリセンボンのようにも見えます。

 カガイモ科フウセントウワタ属のフウセントウワタは、アフリカ南部原産の一年草です。先の本では「開花期は6月下旬~9月、観賞期は8月~9月(果実)」と記されており、ホオズキと同じように観賞対象は花ではなく、薄緑の袋状になった果実です。

風船のような外国産の綿

 フウセントウワタは、直径1.5cm程度の白っぽい花を数輪束ねたようにして咲かせます=写真左側=。花が咲いた後、果実が膨らんで袋状になり、熟すと割れて、中から綿毛の付いた種=写真右側=が出てきます。原産地では、この綿毛を集めて、クッションの詰め物にしたと言われています。

 風船のような外国産の綿ということで、「風船唐綿」の漢字が当てはめられました。「唐」は中国の王朝の名ではなく、渡来してきたという意味合いです。

花にちなまない花言葉

 ホオズキの花言葉は、袋は大きいのに、中は空洞で種も小さいことから「偽り」「ごまかし」。フウウセントウワタの花言葉は、袋の中に詰まった綿毛がはじけて飛んでいく様子から連想して「いっぱいの夢」「隠された能力」。どちらも花言葉なのに、花にちなんだものではありません。ここでも、花は脇役に押しやられています。

主役に遠慮して控えめに

 ホオズキとフウセントウワタの花は愛らしくて、可憐な花です。しかし、申し合わせたように、小ぶり、地味な色で、下向きに咲きます。まるで主役の萼や果実に遠慮しているかのようです。赤や薄緑の目立つ袋さえなければ、もっと注目されるだろうにーと思うと、少し気の毒になってきました。


Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

玄関

 普通に使っている言葉が、思いもしないところから来ているということがよくあります。洗心や慈愛などは、仏教からだろうと想像がつきますが、挨拶とか我慢、上品・下品、退屈というのもそうです。ちなみに、退屈は厳しい修行から逃げることだそうです。

 そんな仲間に「玄関」もあるようです。玄関とは「玄妙なる未知に入る関門」。玄妙とは、奥深いこと=真理ということですね。

 玄関では履き物をそろえるというのが、子どもの頃からのしつけというか、日本人のマナーですが、もとを知ると、まさしく、なるほどです。掃き清められた玄関の清々しさは、やはり心に通じるというものです。

 思えば、こどものころに友達と近くの森で遊ぼうと言うとき、かならず森の入り口であいさつをしたものです。こちらは仏教ではなく八百万の神さま(森の神さま)に対する礼儀ですが、どちらも日本人の宗教観を反映しているように思います。

 昔の言葉がいまも生活の中の言葉として息づいています。かつて先人たちが気づいた大事なことがのちのち忘れられないように、暮らしの言葉として身近に置かれたように思います。

そうして、今日まで、ことさら意識しないままにも、言葉も「人となり」も続いてきたのでしょう。

かつて生きた人が想像もつかない世界に生きてはいますが、人間のありかたは大差ないのかも知れません。むしろ、進んだ文明に振り回されないように、が現代人への戒めとなりそうですね。

10月4日から名古屋の個展がはじまります。秋の空が高く晴れ上がっています。どうぞ、お運びください。お待ち申し上げております。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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