京都森田療法研究所

http://kyoto-morita.org/index.html#rinen 【京都森田療法研究所】より

開設の御案内

森田療法は、私たち万人の生き方にかかわるものです。

今まで御縁のなかった方々とも御縁を結び、森田療法についての生活に根ざした勉強を共にし、

かつ研究交流をはかりたい。

そんな交差点を作ろうと、ささやかな研究所を設けています。

どうぞよろしくお願いいたします。

主宰者 岡本 重慶

 研究所の理念

日本人精神科医師、森田正馬が創案した森田療法の核心には、人間にとっての深い叡智が込められていました。

成立後百年近くを経た今日も、本療法が普及しているのは喜ばしいことです。

しかし療法の本質を見失うことなく、現代人の生活にそれを生かすことは容易ではありません。

森田療法の「温故知新」が必要です。古臭いと思われてもかまわない。古き皮袋に新しき酒を。

これが第一の理念です。

次に森田療法は、偏狭な枠にとらわれていては面白くありません。

これを研究するにあたっても、学際的に捉え直してこそ、本療法の粋を味わえることでしょう。

仏教、禅、東西の思想や哲学、教育、福祉、臨床心理学、等々の分野と交流し、「学際的研究」を進めることを第二の理念とします。

また、日常生活を抜きにした森田療法はありえません。

机上の論でなく、生活の中でそれを究めてこそ、森田療法です。

「生活の体験」を知恵に高めて学び合うこと。これが第三の理念です。

欲張りかもしれませんが、こんな三つの次元の研究を目指しています。


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【興味ある新刊書を語る】南條幸弘先生著『しなやかに生きる ソフト森田療法』(白楊社、2023)

2023/09/14

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 南條幸弘先生は、森田療法の分野で、「神経質礼賛」のブログ活動の展開と同名の著書『神経質礼賛』(白楊社、2011)で、神経質の理解者として親しみを持たれ、広く知られている精神科医である。最近、南條ファン待望の新刊書が同じ白楊社から上梓された。それは『しなやかに生きる ソフト森田療法』と題される、とても「しなやか」な書である。その本の外見の印象を、いきなり述べることを許して頂こう。ソフトカバーの表紙には、緑を背景に小さな紅い花がそっと咲いている写真が出ていて、そのさりげない鮮やかさに視線を奪われる。先生はこの著書の中で、森田が引用した禅語「花紅柳緑(柳緑花紅)」について述べておられ、そこで紅と緑の対照に触れておられるのだが、その趣旨と呼応して、この表紙の写真が一層印象深く感じられる。(著書中で述べられているこの禅語に関することは、後述する。)

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 さてカバーの写真のみならず、この本が放つインパクトは、そのタイトルのネーミングにある。本書のメインタイトルは「ソフト森田療法」であり、「しなやかに生きる」はサブタイトルであると見受けるのだけれど、背表紙に「しなやかに生きる」は、より小さな活字ながら「ソフト森田療法」の上位に置かれているし、また表表紙には「ソフト森田療法」が大きな活字で縦書きで大書されて、メインタイトルの地位を保っているものの、不思議なことにその右側、つまり縦書きの場合に先行する行に「しなやかに生きる」が、小さな活字で添えられているのである。

 このようにメインタイトルとサブタイトルの表記において、両者の順列の境界を限りなく不明にしておられることに、筆者は静かなインパクトを受け、考え込んでしまった。出版社側には、必ずしもメインタイトルの下位にこだわらず、サブタイトルの意味や味わいが伝わるように、自由な位置を与える意図があるのだろうか。もちろんそれは、著者の意図するサブタイトルの意味が、汲み取られてのことであろう。そして南條先生のこのご著作の副題、「しなやかに生きる」には、先生の深い森田療法観が含まれているのであろう。タイトルのネーミングにおけるこのような副題の位置づけの妙から、その意味の深さが窺われるようだ。

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 ところが、この「しなやかに生きる」というフレーズについて、南條先生はあからさまに語っておられない。「しなやか」という言葉の語義は、辞書的には「柔軟さ」や「弾力性があること」を意味している。「自然に服従し、境遇に柔順なれ」という森田正馬の重要な教えがあるが、これは本書の中で取り上げておられ(第12章)、「しなやかに生きる」は、まさに森田のその教えに相当すると言えるかと思う。また柔軟さについては、禅僧の仙厓義梵の「堪忍柳画賛」における句、「気に入らぬ風もあろうに柳かな」があって、これも同じ章で、森田の教えとして紹介されている。暴風が吹いても、吹かれるままに自在にしなる柳は、「しなやかに生きる」姿そのものである。

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 しかし南條先生の森田療法一筋の長いご経験による一流の森田療法観が、ご著書の副題と重なっていると受け取るのが、最も自然かもしれない。それは、メインタイトルの「ソフト森田療法」の名称にもつながっているようである。

 「ソフト森田療法」については、本書の冒頭に説明があり、それは広い意味での森田療法、すなわち森田療法的アプローチということであると書いておられる。しかし、そのようにおっしゃる背景には、ご自身の足跡がある。浜松医大で先生が師事なさった大原健士郎教授は、精神科の入院治療のベースに森田療法を取り入れておられた。その「浜松方式」をご経験の上で、先生は三島森田病院で、神経症を対象とする森田療法の原法とともに、統合失調症などの人たちを中心とする精神科診療に従事してこられた。その三島森田病院において、デイケアの社会復帰プログラムに森田療法を応用する試みをなさったそうである。その取り組みとして、実際に生活上で困った場面で参考になる講義プランを用意し、「ワンポイント森田」と題してデイケアで実践なさったのだった。それに対して入院患者さんや多方面から大きな反響があった。そのような「ワンポイント森田」としてのかかわりの経験が、この著書の元になっている。

 ちなみに本書は、第1章 「不安に襲われる時」から始まって、計20章、困った場面が掲げられているが、これはそのような本書の成立に由来する。しかし各章では、症状というより、悩みの特質がまず述べられている。神経質/神経症における症状別の対処法というようなマニュアルの提供は意図されていない。また森田療法の理論的説明もほとんどなく、章ごとの後半で、「ソフト森田」として、森田療法の基本を生かして歩を進める対処法が示されているのである。それが本書の構成の特徴である。森田療法の原法に熟達しておられる南條先生にして、原法にとらわれず、森田療法を広く活用して、「しなやかに生きる」ことを勧め、ご自身も森田療法家として、「守破離」さながらに、しなやかな活動を展開なさっておられる。

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 筆者の知人、名古屋の杉本二郎氏は、森田療法についての豊かな経験と学識を有する方であるが、日ごろから南條先生のご活動に深い関心を示されている。この杉本氏から、改めてご意見が届いたので、次にご紹介しよう。

 「一言で南條先生の印象を申し上げれば、私たちより20年若いだけに、森田療法から軽やかに超えて、現代の情勢に合わせた神経質のあり方を提示しているように感じます。厳しい管理社会の中、少しずつ多様性の芽が出てきている社会情勢にあって、それに合わせるかたちで、神経質であっても、「それでいいではないか」、「日常生活をそれでやっていこう」という姿勢が顕著にみられる、と思っています。

 師匠の大原先生が「ネオ森田」を提唱なさった例にならって、「ソフト森田」という名づけ方をされたのかな、と思います。」

 「 南條先生が、他の先生がたと相違するところは、ご自身が森田療法を知る前に、「症状(対人恐怖とうつ)がありながらも、なすべきことをしていくほかない」として、結果的にすでに森田療法を実践しておられたことです。そしてそれで乗り越えられた点ではないでしょうか。これがあったればこそ、後にクライアントを直に健全な日常生活に引き込んで指導していく、ということができたのではないでしょうか。

 森田先生の言葉でも、要点だけ、生活指導の後に小出しにされています。そして、なるべく森田療法を看板にして表に出さないようにしていると、ブログにも書いてあったと思います。

 そんな南條先生のやり方が、逆に新しい時代の森田療法のあり方となって、道が開けていく可能性があると感じています。それが「ソフト森田療法」かもしれません。」

 「「しなやかに生きる」ということについては、『神経質礼賛』の中で、「ぶざまでよい、ダメ人間でよい、できることをやっていくだけである」と述べられているのが、近いかもしれません。それによって心が次第に開けていく、という見通しを持ってのことでしょうが。」

 杉本氏は、第二世代の鈴木知準先生に師事なさった方で、その経験をご自身の立脚点にしておられるが、南條先生のソフト森田療法に、未来に通じる新時代のものを見ておられて、興味深い。

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 著者の長年の経験の上に本書が誕生した背景事情や、出来上がった本書の構成は、向き合ってみると意外に複雑で、筆者としては、読者が本書の入り口で少し理解に手間取るかもしれないという、神経質な心配にとらわれたのだった。そのため、ここまで、あえて紙幅を取って、解説めいたことを総合的に書かせて頂いた。

 さて、通販の本書のページには、次のような説明が記されている。「各章は2部構成で、前半ではそれぞれの悩みの性質を、後半では森田療法の基本的な考え方とともに、すぐに取り入れられる対処法「ソフト森田」を解説。今日から役立つ森田療法の入門書です。」

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 このような入門案内に誘われて、筆者も、いざ入門した。そこで本書の内容について、部分的になるが、個人的に印象深く感じたくだりを、紹介したい。

 南條先生は、いろいろな悩みについて、東西の先人たちが体験したエピソードを多く紹介しておられ、その博識さで、楽しく読ませて頂ける。たとえば、第4章「意欲がわかない時」には、自由律の俳人、種田山頭火の俳句が示されているし、第6章「緊張して困る時」には、ノルウェーの作曲家グリーグがポケットの中のカエルの置物を握りしめて気持ちを落ち着かせたことや、大相撲の力士・高見盛の自分を奮い立たせる奇妙な動作が挙げられており、第7章「腹が立って仕方がない時」には、大隈重信の怒りの静め方や作曲家バッハの作曲が怒りの自己治療につながっていたことが紹介されている。音楽に造詣の深い先生は、さらに 別の章で作曲家マーラーの縁起恐怖にも言及されている。

 これらの悩みに対して一歩踏み込んで、各章 の後半では「ソフト森田」として、森田正馬の教えや、森田の生き方のエピソードや、南條先生自身の独自の意見などを紹介しつつ、次なる一手が解説されている。

 先の第4章では、森田正馬が「苦しいながら、我慢して勉強するのを、柔順という。(…)」(全集第五巻)と教えたことが引用され、第7章では、やはり森田が「腹の立つのはなんともしかたがないから、その衝動をジッと堪え忍んでいさえすれば、それが従順というものであります。」(全集第五巻)と教えたことが示されている。これらでは「柔順」が共通のキーワードになっていて、「ソフト森田」は必ずしも、各章ごとに独占されるものではない。

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 ところで、冒頭でふれた禅語「花紅柳緑(柳緑花紅)」について、著者は第9章「劣等感や挫折感に悩む時」で取り上げておられる。この言葉は本来は「柳は緑、花は紅」なのだが、花を先に出す方が印象的であり、森田も指導の際に 「花は紅、柳は緑」と言っていた。「あるがまま」という意味だが、南條先生自身は、もう一歩進めて理解したいとおっしゃる。「花」は外向的で積極的な人の象徴、「柳」は内向的で神経質な人の象徴であろう。「柳」は花のように鮮やかになれないが、強風にも枝をなびかせて、地味な風情を愉しませてくれる。神経質はそのような持ち味を生かしていけばよいという勧めである。仙厓義梵の「堪忍柳画賛」の趣にも通じようが、やはり流石のご指摘である。

 南條ファンお待ちかねの徳川家康論も、第17章「大きな失敗をしてしまった時」に出てくる。大失敗を生かして大成功した人物として、家康の人間像が紹介されている。

 最後に、筆者自身が親和性を持ったのは、第11章に出てくる「弱くなりきる」という森田の教えであった。

 それにしても、この本に魅されて、長い書評を書いてしまった。こんなときには、「ソフト森田」ではどうすればよろしいのだろう。

« よみがえる森田療法

よみがえる森田療法

2023/04/09

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1. 森田療法の過去、現在、そして未来へ

 森田療法が成立して百年の歳月が経過した。私たちはその記念すべき時期にある。しかし、来し方百年の間に、森田の原法の療法は、時代や文化や医療の 変化とともに大きく様変わりした。入院原法 を維持している医療機関は減少の一途を辿っている。森田に続いて、かつて第二世代の宇佐玄雄、高良武久、水谷啓二、鈴木知準らの方々は、森田の療法を忠実に継承して入院施設を設け、精力的に入院原法を実施なさったのであった。その第二世代の方々も今は亡いが、そこに関わった弟子筋の人たちは、既に高齢ではあるが、失われた入院原法の価値を世に伝えるべく、力を尽くしておられる。

 その一方、今日行われている森田療法の主流は 、本質を忘れているとは言わないまでも、入院原法から大胆に離れ、単なる神経質の治療に拘泥せず、活動の場を教育や福祉や家族や日常生活の中へと広げて、森田療法を生かす旺んな活動へと移り変わっている。それもまたよきかなである。

 つまり、森田療法の本質的なところにこだわり、方法としての入院原法を重視し、それを遵守することを大事とする古い世代の人たちの懐古的な流れと、いたずらに森田療法の過去に拘泥せず、森田療法ならではの良さを広く前向きに活かそうとする近年の流れとのがあるわけで、両者には相容れない距離があるのが現実である。今後それはどうなっていくのであろうか。是非の区別をするのではなく、両者の融合をはかるところに森田療法の今後の進展があるのではなかろうか。そのような視点から、森田療法の未来について少し私見を記してみたい。

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2. 古き良き森田療法への郷愁

 森田療法の名は未だ色褪せることなく、今も日本独自の代表的な精神療法として世に知られている。しかしその知られ方が、次第に浅薄になってきていることは 否めない事実である。巷間に知られているのは、森田療法は神経質や神経症のとらわれの病理に対して、あるがままを教えるもので、入院原法は4期からなっていたという程度の表面的な知識レベルのことである。これでわが国独自の森田療法が、この国でよく知られ、理解されているということにはならない。

 この森田療法の入院の4期の構造はどのようにして出来上がり、その造りはまた療法の本質にどのように関わるものであるのかと、根本的なことを考えてこそ、森田療法の真の理解になる。懐古派の人たちが、単に古き良き森田療法が失われていくと嘆いても、その慨嘆の中身こそが問われるであろう。

 そこで森田正馬が始めた入院療法はいかなるものであったのか、その特徴を少し掘り下げてみたい。

 この療法の4段階からなる構成については、第一期から始まるその過程の流れに妙味があるのだが、森田自身が十分に説明を尽くしていないこともあって、一般に理解されていないところがある。とりわけ第一期と第二期の意義への理解が乏しいようである。第一期は森田の言ったように煩悩即菩提であり、煩悩になりきって過ごすのである。第二期は第三期の作業に向けての転換期であり、森田は第一期での無聊から外界に関心が転じ作業への参加に向かう時期としているけれども、第二期には森田が説明を尽くさなかった意義がある。内なる煩悩を見つめていた第一期から起床して外界を眺めるときの感覚はみずみずしく、自分が生まれ変わったような新生の体験が起こりうる。これについては、宇佐玄雄が第一期を還元法と称したところにその鍵があると思われる。あえて精神分析的な解釈を導入すれば、第一期に赤ん坊のような状態にまで戻って、以後新たな自分に遭遇していく過程は、M.バリントの言う「良性退行」に相当するものとして理解できる。第二期以降には 「新規蒔き直し(新規巻き直し)」 の体験が進む。このように心機一転していく心的過程は重要である。

 こうして入院の前半の第一期、第二期を経て起こりうる新生の体験があってこそ、以後の作業三昧の生活へと有効につながっていく。

 以上のような第一期、第二期の深い意義については、森田自身があまり説いていない上に、自身が実施した経験について、森田は具体的な記録をあまり残していない。そのためもあって、懐古派の人たちの理解があまり及んでいなかったと思われるが、第一期から第二期へと進んでいく過程に、入院原法の重要なひとつの意義がある。

 ところで、森田はその療法を言い換えて、自然療法、体験療法、家庭的療法などと称したのであるが、まず、自然療法とは療法の基本をなす「あるがまま」に生きることを表すものであろう。療法の構造としては、「家庭的療法」であることが重要である。「家庭的療法」 の中に師の父性とおかみさんの母性があり、そこで見守られながら第一期から第二期を過ごして、作業の体験的生活へと向かう。これがこの療法の重要なポイントである。懐古派の人たちが大切にすべきは、森田療法のこのような造りであるはずである。第三期の作業三昧の生活も重要で、そこで師弟の関係が一層展開されるが、強いて言えば森田療法の核心は家庭的療法であるところであると考えられる。

 以上が、古き良き森田療法の特徴である。

 ただしつけ加えるなら、森田の療法を受けに来た人たちは、主に当時のインテリたちであり、森田の著書をあらかじめ読んでいて、この医師による治療を直接受けてみたいと望んで入院したのであった。こうして人間森田に出会う機会に恵まれたのであった。これは幸運なことであったが、逆に言えば読書療法の延長に入院があったのであり、神経質さを思い知らせて入院に導くという、露骨な表現を引くなら、マッチポンプのごとき道筋が敷かれていたとも言えるので、その点は気になるところである。ちなみに、第二世代の森田療法家が行った入院療法も、読書による予備知識が前提になっていたようで、入院原法には神経質の悩みを知的に深めさせてから受け入れるという手法のもとで実施されていたのであれば、そこに少し不自然な感じが残るのである。

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3. 特化と拡散の間で

 古き良き入院原法の伝統を重んじ、その完全に近い復活を期待する人たちがおられることは述べた通りである。その周辺には、原法を重視しながらも、今日それを厳格に再現することの困難さを受けて、現実で可能な限り原法に近い療法を実践しようと努める療法家も少なくない。その試行錯誤の努力は評価されるべきである。ただ、そこにおける成否は療法の勘所をどこまて押さえるかにかかっている。当然のことだけれども、森田療法は根本的に自然療法である。外界の山川草木の自然のことではなく、「おのずからしかある」自然であり、「あるがまま」にある様態である。それを要諦として、森田による療法は、家庭的療法というかたちをとって進められた。その家庭的療法の中に、作業への打ち込みや師弟関係での直接的な指導など、体験療法があったのである。原法に近い療法を行うにあたっては、今日ではさまざまな制約がある。その中で、原法のどこを割愛し、どこを生かし続けるか、難しい問題だが、可能性を追求することはできるだろう。

 以上のように、頑なであれ柔軟であれ、森田療法の原法を基準とする立場においては、神経質・神経症の治療は森田療法こそが純一なものであり、森田療法の対象は神経質・神経症を専一とするという、療法と対象を相互に特化する捉え方が根底にある。そこではこだわり過ぎる努力は要らず、原法の真価を見失わないことが重要なのである。

 これに対して、今日では森田療法をさほど厳格には規定せず、しかし森田療法のカテゴリーの中で自由な活動を行う流れが広がっている。

 それは、まず精神科領域においては、神経質・神経症に限らず、それ以外の疾患や病理にも森田療法を適用し、医療では他の診療科でも療法が生かされるようになった。もちろん心理臨床や福祉の分野でも、森田療法が生かされつつある。さらに森田療法は本来教育と深く関わっているから、教育のさまざまな面で森田療法が活かされている。このように多方面へと森田療法は広がっているが、こうなると入院原法はその跡をとどめず、療法のエッセンスが部分的に抽出され、それぞれの場に生かされているのである。それは貴重な実用的活動であるが、療法のエッセンスの捉え方の深浅が問われうる。森田療法の深みが忘れられてはならないであろう。

 ひとつの例を挙げる。森田療法の原法には日記指導があった。だが森田自身は日記について、「これにより患者の精神的の状態を知るの頼りとす」と述べている程度で、日記に重要な治療意義を置いていなかったようである。日記が療法により生かされるようになったのは、第二世代の療法家が講話において入院者の日記の記載を題材として取り上げて、論評を加えるしきたりを作ったからであった。この流れにより、後年外来森田療法において、便法として日記指導が活用されるようになった。そしてそれはCBT(認知行動療法)が精神科診療に積極的に導入されるようになって、日記指導はCBTと軌を一にしていることが明らかになっていった。これは、原法で重んじられていなかったものが、日記療法と呼ばれて近年の森田療法のひとつの方法として拡大された一例である。もちろん日記指導の中に療法の本質が含まれているだろうとは思うが、体験そのものてはなく、言葉によって認知を促す療法となっている。ここでは、森田から離れてなお、療法の本質が忘れられずに保持されているかどうか。療法の一部が拡大されたり、療法が拡散したりしていくとき、本質の保持は必ずや問われるであろう。

 このように見てくると、森田療法の原法を守り、特化をはかり続ける流れと、森田療法の拡大的な活用をはかり、従って拡散を招く流れには、まずそれぞれの内部に問題が潜んでいることがわかる。そしてそれゆえに両者が融和して補い合って進む必要があると思われるのである。

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4. ユニバーサルで、そしてパーソナルなもの

 私の知人に外科系の医師がいて、彼がこう言った。医療はユニバーサルな方向へと進んでいるが、病む患者はみなパーソナルな存在であり、医療のユニバーサル化によって患者は置き去りにされていると思うと。この彼の意見に呼応して、森田療法の視点から少し述べておきたいと思う。

 医学が進歩し、それによって医療の質が高まれば、患者はその恩恵を受けることができる。しかし医者も患者もパーソナルな人間である。医師が患者に渡すのは、単なる技術的な「もの」や「こと」だけてはなく、治療者の人間性が、巧まず意図せずして言外に患者に伝わる。医学が人間の生と死を扱うものである以上、医学が進歩しようとも、医学で解決できないことはあまりにも多い。その医学の限界をわきまえて、医師は謙虚であらねばならない。このような医師患者関係の中に森田療法が生かされるとよい。森田療法という名称など知らなくても、医師自身が森田療法的に生きていることが重要である。森田療法は神経質・神経症の療法を超えて、精神科に限らず、すべての診療科における医師患者関係のあり方へ、そして医療の枠を出て周辺のすべての分野で生かされてしかるべきものである。知人の医師の発言と同様に、自分も日頃から感じていることを記した。

 では森田療法とは。ここで改めて森田療法の本質にかかわることに触れておきたい。それは、将来へ向けて、古きものと新しきもの、そして特化と拡散というふたつの方向性が、融和していくにあたって顧慮されるべき素朴な原点である。

 人間本来の原点としてのあるがままの姿を思い起こしてみる。赤ん坊は丸裸の虚飾のない姿で汚れなき心を持って生まれてくる。いわば赤ん坊は仏のような存在である。

 その乳児にもさまざまな能力がそなわっているが、満1歳頃に見られる「やりもらい動作」は特に注目に値する。この頃になると相手を意識し、おいしいおやつを自分で独占せず、相手(母)の口に入れに行き、相手が喜ぶとそれを見て嬉しがり、今度は相手(母)が赤ん坊の口におやつをあてがうと、赤ん坊はさらに喜び、喜びの共有が相乗的に起こる。このシーンは実に感動的であり、「やりもらい動作」と言われ、発達過程の初期に見られる人間同士の素朴な共感、共生の原点のような姿である。それは森田療法で言う「純な心」に相当し、仏教的に言うなら仏性に通じるであろう。それを失わず、初心を忘れずに生きていくことが貴重なことである。しかし大人たちの人間社会は残念ながら汚れて、赤ん坊以下に堕落しており、欲望や競争や攻撃性といったみにくい行動が渦巻いているのが現実である。

 古歌にもあるとおりである。「生まれ子の次第次第に知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき」。

 そんな大人社会のみにくい現実を事実として認めざるをえず(森田の言う「事実唯真」)、その中で人と苦楽を共にして生きるほかないのである。日本の社会で、かつて古老たちは教えた。「困っている人を見たら助けてやれ」、「弱い者いじめをするな」、「人に迷惑をかけるな」と。これは倫理とか道徳を説く説教ではない。人を生かすことで自分も生かされる。そういう喜びを人生経験の豊かな老人が知恵として伝えたのであった。それは森田療法と重なる。森田療法の叡知とか真髄などと、ことさらに難しく言う必要もない。古老に教えられて自分の足元を見て気づく。それが森田療法である。禅で「脚下照顧」と言うが、自分の生き方はこれでよいのだろうか、大事なことを忘れていないだろうかと、おのれを見つめ直すことが必要である。単に「あるがまま」と言うだけでは、地に足がつかない生き方になることを私個人は危惧している。

 森田療法は生活の規範などと言うような教条的なものではなく、森田療法と言う名称すらことさらに必要でもなく、人間本来の自然な生き方を忘れずに大切にしようとする靜かな動きのようなものである。地下水脈と言ってもよい。地下水は広く深く、四方八方へと浸透していくのである。それは万人にとっての生き方にかかわるユニバーサルなものであり、かつ万人にとってのパーソナルな個々の教育あるいは自己教育にほかならないのである。

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5. よみがえる森田療法

 森田正馬は俗なる人であったから、みずから創始した療法を神経質に対する特殊療法として世に知らしめようとした。確かに神経質者は生きんがために「繋驢けつ」に陥るので、そこから解放して自由に生かしめるのが森田の療法なのであった。つまり生きるためのものであった。だから、本当のところは、対象を神経質に限定する必要もなければ、療法と呼ぶ必要すらもなかったのであった。森田の教えはかなり仏教に彩られている。しかしその思想は単なる仏教の受け売りではない。「事実唯真」、「自然に服従し、境遇に柔順なれ」などと教えた森田自身の言葉にその思想が凝縮されている。色紙に揮毫した言葉にも、独自の教えが躍如としている。森田療法の本質とでもいうものは、その辺から容易に知ることができる。

 かつて森田のもとで直接指導を受けられた第二世代の水谷啓二氏や鈴木知準氏らは、森田の療法の再現を目指してそれを継承なさったのであった。しかし現今においては、そのような形で療法を継承することはもはや困難である。一方、宇佐玄雄は禅僧であったから、東福寺山内に三聖病院を創建させ、禅的な森田療法を実施し、それは二代目宇佐晋一医師に引き継がれて、長年にわたって診療が続けられていた。

 その宇佐晋一先生によると、かつて天龍寺の平田精耕老師は、森田療法を仏教になぞらえて、無縁の大悲だと言われたそうである。無縁の衆生に対する仏の尊い慈悲であるという意である。治療として行われる森田療法の場には、人間としての治療者が居るし、居なければならない。仏教思想を導入するのもよいが、現実の人としての治療者の存在を問題にせずして、仏という観念的なものを持ち出し、無縁の大悲の呼称に甘んじているだけでは、森田療法から逸脱するだろう。森田正馬は血の通った、人間くさい治療者であった。森田は患者と共に生きた人だった。ときには患者を厳しく叱りながらも、治療者と患者が同行二人で進んだのであった。そのような人間的な療法であったことを忘れてはなるまい。

 入院療法の場の構造が 4段階になっていたからと言って、形式的にそれを踏襲すればよいとするのは浅薄である。しかし先述したように、かつての森田療法は、内弟子制のような師弟関係を軸とする家庭的療法だったのであり、その傘下における第一期から第二期にかけての過程で、みずみずしい新生の体験をすることができた。そんなところにこの療法のひとつの妙味があった。ここに一部を書き上げてみた森田療法の肝心なところは、今後も生かされていくことが望まれる。療法の特化をはかり続ける場合には、こだわるべきことだと思う。

 療法の特化をはかる方向においても、また拡大をはかる方向においても、捨て難い粋(すい)を共有して生かしていくことが肝要であろう。逆のことを言えば、療法の形骸的な部分にはこだわらなくともよい。守るべきを守って応用をはかれば、スリムにできるところもあろう。たとえば、物々しい建物、広大な庭や敷地は不可欠ではない。森田療法における作業は、本来森田邸宅で実生活として行われたものであった。医療行政による監督も厳しい今日、森田邸での作業を模する必要はない。医療機関内から追い出され、実社会を作業の場と心得ればよいのである。否、森田療法は究極的に療法を超越するものであるから、すべての場におけるすべての生活で森田療法的に生きていけばよい。かくして療法という枠にはまった森田療法は、本物の森田療法へとよみがえっていくであろう。

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【寄稿】: 「森田正馬とウィリアム・ジェイムズ 雑感」 高頭直樹

2023/02/13

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【寄稿】

森田正馬とウィリアム・ジェイムズ 雑感

高頭 直樹

 森田正馬の著作には当時の欧米の最新の思想への言及が散見される。ベルクソンやウィリアム・ジェイムズなどである。こうした人々への関心は当時の知識人には共通していたともいえる。哲学者の西田幾多郎、作家の夏目漱石などにも特にこの二人の思想への言及が認められる。

 ジェイムズに関して言えば、西田や漱石が『心理学原理』に興味を示したのに対し、精神医学の専門家である森田の著作『迷信と妄想』をみると、『プラグマティズム』からの引用しか見当たらないのは不思議な気もする。また森田の関心からすれば、当時すでに邦訳も出版されていた『宗教的経験の諸相』への言及があってもよさそうに思うが、それも見当たらない。森田にとっては、ジェイムズの思想そのものには特に興味を惹かれるものではなかったのかもしれない。いずれにしろその経緯はわからない。事実として言えることは、森田がジェイムズの『プラグマティズム』からの引用を自説の展開に利用しているということであり、森田がジェイムズに「何らか」の関心をよせたということであろう。

 ところで、『プラグマティズム』は、ジェイムズの著作の中でも、特異な、というか厄介な問題を引き起こす結果となった。確かにこの著作は思想後進国であったアメリカの生んだ最初の独自の思想、プラグマティズムを世界に広め、プラグマティズムの第一人としてのジェイムズの名声を不動のものとした。その一方、「プラグマティズム」という名称の生みの親でもあり、ジェイムズに少なからぬ影響を与えた盟友パースとの決別をもたらすこととなった。単純にいえば、パースにとって、ジェイムズの『プラグマティズム』はあまりに「通俗化」された議論に成り下がってしまっているということであろう。パースはその後自分の立場を、ジェイムズとの違いを強調して、あえてプラグマティシズムという別の名で呼ぶようになる。

 「通俗化」の代表として指摘されるのは、ジェイムズの「真理論」だといわれる。バートランド・ラッセルなどは、その考えは滑稽だとさえ言って批判している(といって、ラッセルが全面的にジェイムズを否定したわけではないが)。その「真理論」というのがどういうものかというと、これも通俗的な言い換えになるが、「われわれにとって真理だということは、われわれにとってそれが有用だということだ」ということになる。これは哲学の伝統的考え方からすれば、とんでもないことだと受け止められた。「真理」とは、およそわれわれにとってとか、われわれがどのように考えるなどという「主観的」問題とは、まったく関係のない概念だと考えられて来たからである。それゆえ、ラッセルにいわせれば「滑稽」ということになったわけである。

 ちょっとまどろっこしくなるかもしれないが、ジェイムズの名誉のために言っておくと、この問題について彼自身が言っていることをこのような単純な形に言い換えること自体がそもそも問題だということが、近年の議論では盛んに指摘されており、むしろジェイムズの議論を積極的に評価する立場も多くなっている。特に彼の「保証された主張可能性」という概念は、パースの「究極的な意見の収斂」と共に、プラグマティズムの真理論の核心をなしている。いかなる判断もその可謬性を受け入れ、十分な時間をかけて議論の結果受け入れられるものこそが、「当面」(なぜなら、それもまた誤っている可能性を持っているわけであるから)の「真理」として主張可能だというのである。それゆえ、ジェイムズは別のところで真理とは「思考の運命」だとも呼んでいるのである。

 ただ、確かにジェイムズの議論の中には、「真理」とは「有用性」なり、と言っているように受け止められかねない側面もある。これは、ジェイムズ自身ある意味では意識的に、それまでの伝統的哲学への挑戦として、『プラグマティズム』を発表したからである。彼にとって、哲学に本来期待されることは、単なる知的な抽象的議論だけではなく、「われわれの限りある人生というこの現実世界に何らかの積極的関連」を持ちうることに他ならなかった。「知的な抽象的議論」と「経験的世界の具体的行動」とか、さらには科学と宗教とかを対立させる二元的発想に対し、ジェイムズはその連関を強調する「全体論」的考えを主張している。それゆえこの著作の副題には「ある古い考え方(哲学)のための新しい名前」と記されているのである。『プラグマティズム』の中で、特に森田の興味を引いたのもこうした「連続性」や「全体性」、あるいは直面する現実的経験での有用性を真理とするジェイムズの議論だったのであろう。森田がジェイムズの議論を正確に理解し得ていたかどうかは分からない。ただ、この著作の中に二人が出会う「何らか」のものがあったのであろう。

 蛇足ながら付け加えれば、ジェイムズは精神の不安定に悩み苦しみながら生涯を送った。特に青年時代、そのために一時学業を休止せざるを得ない事態にも陥っている。そうした苦しみからの解放を求めてか、あるいは神秘思想家スウェーデンボルグの信奉者であった父、ヘンリー・ジェイムズ・シニアの影響か、超常現象、神秘的体験などにも強い関心を示した。森田はジェイムズの著作に接したとき、ジェイムズのそうした苦しみや趣向に相通ずる「何らか」を、ジェイムズのそうした問題を扱った著作を読むまでもなく、直感したのかもしれない。ただこれはあくまで、私の「妄想」である。

♥ ♥ ♥

【著者について】高頭 直樹(たかとう なおき)、哲学

兵庫県立大学名誉教授、京都森田療法研究所客員研究員

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【解説】

 当研究所では、哲学界の重鎮である高頭直樹先生を、以前から客員研究員としてお迎えしています。東西の哲学について、その歴史から現在までに広く深い造詣を有しておられます。森田療法についてもその過去、そして現在を、東西の両視点から哲学的なメスで捌いてみせてくれる最適の学者なのです。森田療法については、「森田正馬の雅号『形外』の意味について」の学会発表を連名でおこなったことがあります。

 また、高頭先生がこれまで関わってこられたいくつもの研究対象のひとつにウィリアム・ジェイムズがあります。森田正馬は、ウィリアム・ジェイムズをたびたび引用していますが、森田とジェイムズについての本格的な論考は、調べた限り見当たりません。そこで、森田正馬とウィリアム・ジェイムズの関係について論じてほしいと依頼しました。そしたら、重い腰を上げて起草してくださったのです。しかし、「森田とジェイムズについて書いてくださったこの一文は、注目されるところとなります」と私が言った途端に、「注目されると困る」とおっしゃり、カタツムリが角を引っ込めるように、文章を削ってしまわれたのです。残念なことに、ここに公表できたのは削られた鉛筆の芯のような部分のみです。削っていかれる途中で私にくださったメール文の中に書かれた、削る人の弁が残っています。そこで、高頭先生には事後承諾をお願いするとして、それを以下に引いておきます。ただしこれは、森田とジェイムズについて私が持ち出した拙い問題提起に対するご意見でもあります。

 「ジェイムズの例の二分割(軟心と硬心)は、彼なりの伝統的思想の整理という文脈で読めます。その整理には細かいところで、いろいろ問題はあると思いますが、ともかく彼はこうした二分割では駄目だと議論を進めているのだと思います。

 正直、ジェイムズの議論を簡単に説明するのは私には無理です。せいぜい真理論をどう解釈するかと言うような問題を、まとめるくらいです。それも、「理想」に書いたように、パトナムの議論を借りながらぐらいです。

 パースとなると、また大変です。ほとんどは未発表の原稿のようなものですし、個人的にもジェイムズ以上に変人でしたから!

 パースの中には、すべてが語られているとも言えますが、手を出したらきりがないということにもなると言われています。」

 ジェイムズに対する森田の思想は、二元論の暫定的受容や二元論から離れていく主客未分の一元論になったりする点で、ジェイムズと異なりもし、一致もするのではないかという私の問いがありました。また「真理論」については、森田が多分に依拠した仏教思想における真理との異同について述べて頂きたいとも願いました。しかし、高頭先生はこれらについて深入りするには慎重な態度を取られました。ジェイムズの哲学の側から先頭を切って森田の思想を論ずることを控えようとなさったように思います。

 諸賢におかれましては、ご意見を高頭先生にぶつけて、高頭先生の森田-ジェイムズ論をもっと引き出して下さい。

(解説 : 岡本 重慶 記)

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【寄稿】:「森田正馬の病跡をめぐる対談を終えて―鈴木知準と森田正馬―」 杉本二郎

2023/01/15

杉本二郎 筆

♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥

【寄 稿】

四方八方に気を配るということ    杉本二郎

 岡本重慶先生と対話させていただきました。

 この度のテーマを一言でいえば、森田正馬の神経質性格とADHD性格の特質が森田療法の指導に相補的に働いていたのではないかということ。しかもとらわれの強い神経質者の治療にADHD性格がある種効果的には働いていたのではないか、というものです。

 私は医師でも専門家ではありません。当然のことながら精神医学全般の知識は持ち合わせておりませんので、森田の性格分析を学問的に判定することはできません。長年森田正馬の著書を通じて森田療法を知り、また旧形外会の先輩方のお話を伺い自分なりの森田正馬像をイメージしてきました。

 奇人、変人と言われてきた興味深く、愛すべき森田先生の言動については、岡本先生とお話ししこの論文で文章化されています。

 私は昭和40年(1964年)代の初め、当時名古屋で「名古屋啓心会」という水谷啓二氏主宰の初期「生活の発見会」の雑誌を読む会に参加させていただいておりました。東海地区在住の旧形外会のメンバーと時々関西、関東在住の方々がおいでになり体験談を聞かせていただいておりました。また、どうしても一度実際の森田療法を受けてみたいと思い昭和45年に鈴木知準診療所の門をたたき鈴木先生から指導を受けました。

*            *

 前説はそれくらいにして、ここでは、鈴木先生から指導を受けたなかから、森田のADHD傾向の指導部分とある種重なるところが垣間見えるのではないかとその部分をとりあげてみたいと思います。それは森田の奇人、変人といわれる言動と相対化することによってそれが当時の寮生に効果的に働いていたのではないかと考えるからです。自分の体験を通してそのあたりを述べてみます。

 本論でも紹介されているように、森田先生が夫婦喧嘩をされ、寮生たちに「どちらが正しいか言え」と言われても聞かれたほうはどう返事してよいものか困ってしまう、どうしてよいのかわからない。また、先生ご夫妻が一緒に外出される際、気の早い先生は玄関で帽子をかぶりステッキをもって奥様がこられるのを貧乏ゆすりして待っている、奥様はゆったりとお茶漬けを召し上がっておられる、外では呼んだ車が待っている、なかに入った寮生はおろおろするばかりです。

 また旧形外会の会員が「森田先生の教えってのは、是非、善悪、正邪、そういうものから超越しているでしょ。ですから結局、何がなんだか分からない時もありますね」と述べています。

 この、寮生の「困ってどうしてよいかわからない」と「おろおろするばかり」

「わけがわからない」が重要なポイントになると考えます。

 私が受けた鈴木先生の森田療法指導のなかで、‘当時’、どうしてそうなのかとどうも理不尽だと感じたことの一端を述べてみます。(かっこ内は鈴木学校に入学して日の浅い当時の私の感想です)

・風呂の水を汲むとき、先生の指示で50メートル位離れた井戸水をくみ上げ12~3人が横一列に並んでバケツリレーをして風呂桶に水を入れるのです。

(水道があるのだから、蛇口をひねるだけで風呂水はすぐ満杯になるものをどうして大勢でバケツリレーをしなければならないのか。)

・診療所の中庭に夜電燈が点けられる。指示された当番の寮生が、朝まわりが明るくなった頃を見計らって電燈を消すのです。当番は目覚まし時計をつかわないように言われていたので東の空が赤くなりはじめた頃に目を覚まさなければならない。

(なぜ目覚まし時計を使わないのか)

・今日は記念の写真を撮るから全員中庭に集まるようにとお達しがあった。32.3名の寮生が集まった。一度には画面に入らないので2班に分けて並ぶようにとのことで、最初の組が先生を中心にしてカメラにおさまった。そのあとです、先生はスッと皆から離れ院長室方へ入ってしまわれた。残された別の班の寮生は呆然としていた。

(皆、先生と一緒に写真を撮りたかったはず)

・先生は定例の講話のほかに、突然そこにいるひとたちを集めて作業室で話をされることがあった。寮生の大部分は日課にしたがってそれぞれ作業をしていて、雰囲気を察知して作業室に駆けつけるのですがすでに扉が閉まっていて部屋の中に入れない。先生はぼんやりしていると聞きおとすようにしむけるのです、と仰有る。

(私も締め切られた窓硝子の外で耳をそばだてお話を伺ったことが再々)

・時に、隣接したご本宅での掃除に4~5名が呼ばれることがある。先生も一緒に掃除をされながら指導する。君、ここのホコリを雑巾で拭きなさいと指示される。雑巾の絞り工合いに気をくばり、2~3回拭いたところですぐ、ここがこんなにも汚れているじゃないか、箒で掃きなさい。何をボヤボヤしているのですこのソファヲ動かしてください、と次から次へと言葉が飛んでくる。前のバケツや雑巾、箒をどうしたらいいのかわけが分からなくなってくる。

(仕事三昧に入りなさい、と教えられたことと違うではないか、どういうことかと困る)

 そのように、鈴木学校でも「どうしていいかわからない」と感じたことと、森田先生に指導された形外会の方々が経験された「どうしていいかわからない」ことは同じことではないかと感想を持ったものです。

 言葉を変えれば、この不条理な言動による寮生の「困った」は森田先生の場合は多分に岡本先生の言われるADHD性格から派生してくるものであり、かたや鈴木先生の場合は、熟練した長年の経験から編み出された森田療法技法のひとつに他ならないのではないだろうか。そこには相似性があると考えます。

 当時、鈴木先生から「君はもう少しここの人になれば眼がやさしくなります」と日記帳にデカデカと赤ペンで書かれました。「ここの人になる」とはどいいうことかますますわけもわからず悩んだものです。たしかに私の作業は治病のため、そしてもっと言えば時間つぶしにただ作業をこなしているだけという感じでした。

 そのころ、炊事当番で飯炊きの役割を与えられました。ここで一つの転機が私におとずれます。

 普通の釜二つを使って、ガスでおよそ40名分位の量の飯を焚くのです。私はほとんど飯炊きの経験がありません。自動電気炊飯器がすでに出回っていた頃ですがここではガスで炊くのです。もし失敗したら先生をはじめ寮生、職員のすべてがこげ飯を食べなければならないはめになり責任重大です。ともかく理不尽と感じることがあってもそんなことはどうでもよい、飯炊きに失敗しないように全力をあげてやってみよう、そして鈴木学校のなかでの自分の居場所を作ってやろう、「ここの人になる」とはそういうことではないかと前任者に訊きながら飯炊きに全力をあげました。

 水の加減はどうか、焚く時間を計り釜の中の音を聞き分けて飯炊きに取り組みました。何とか炊けるように心が集中できるようになった時心が活性化してきたのか、今日のお皿は何枚用意するのか、それが出来ているのか、お茶の準備はできているのかと他の方にも注意が向くようになってきました。これまでのただ日課にしたがって作業をこなしてきた時と明らかに異なる作業態度が自覚できました。時には飯炊きが嫌になって釜の底を磨きながら気分が沈んで手が動かない時も間々あり、それでもヨタヨタとでも続けたものです。

 この経験がのちの社会にでてから仕事、生活する上での基礎になっているとおもわれます。

 「困ってどうしてよいか分からない」「わけが分からない」「おろおろするばかり」というところへ落とし込まれて、やもうえず自分の足で立って(主体性をもって)そこから一つのことに取り組む前向きの姿勢が出来てくるのではないか、そして仕事三昧になりきることによって内発的に精神は活性化され、四方八方への神経質者特有の気の配りが出来てくるのではないかと今になって思われます。

 この頃でも、突然の講話で戸外に締め出されたたずむことがあって、しまったと思うことにはかわりがないのですが、そろそろ夕食の準備で机を並べなければいけないと次へ注意が移っていく。

 要するに、「どうしてよいかわからない」ところを通って、自分のすべてを受容する態度ができ、一つの作業に真摯に取り組むことによって四方八方へ注意がひろがる前向きの姿勢ができるものと思われます。

*            *

 この度のテーマの一つである、森田先生の奇人、変人といわれた言動が一面寮生への治療の一端を担ったのではないか、ということを鈴木知準先生の指導を受けた私のつたない体験を通して類推してみました。

(了)

♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥

【杉本二郎様のご寄稿に添えて】

 杉本二郎様は、鈴木学校での若き日のご体験を核に、森田療法の研鑽を深め、献身的に後進の指導に当たり、森田療法的な生涯を送ってこられたお方です。同世代の私たちふたりは、高齢になってから出会いに恵まれました。森田療法の生きた体験の持ち主であるのみならず、深くて広い学殖を有しておられる杉本様から、私は森田療法、それも古き良き森田療法に関わるあれこれのことを教えて頂くことになったのです。

 そんな私が、杉本様に、森田正馬の病跡について、「この人は発達障害だと思う、それもADHDだと思うのですよ」と、打ち明けたのでした。一昨年のことです。内心そう思っていたのはもっと以前からですけれども。杉本様は、自分は研究者ではないのでと、大いに謙遜しながらも、私の森田正馬ADHD説に関心を示されることになったという次第です。杉本様は精神医学者ではありませんが、その分野の知識の吸収にも努められ、また何よりも、自家薬籠中にある森田正馬の生涯についてのうんちくを傾けて、私を啓発し、森田ADHD説について意見交換に応じて下さいました。一昨年は時既ににコロナのさなかで、やりとりはほとんどが、オンラインでのメール交換になりましたが、杉本様のような智者が惜しげもなく、卓抜したご意見をくださったことで、私はどんなにか教えられたのでした。

 そして、森田ADHD説についての、ふたりの延々と続くオンライン対談は、これこそ公表するに値すると考え、原稿として記事に残すべく、対談の連載を一年前から開始したのです。その企画を持ち出したのは、勿論私で、対談でも放談でもいい、気楽に連載を進めていきましょうと持ちかけたので、ある意味杉本様をペテンにかけたようなことになりました。実際、最初はプロ野球の落合博満監督について論じあったくらいです。しかし、対談を進めるほどに、自分たちの森田ADHD説の底深さにわれわれみずからが遭遇することになりました。そんな中で、主に杉本様から新しい気づきや新しい視点が提供され、私たちの森田の病跡論議は進みました。しかし対談という形式を維持するには内容が深きに及び、かつ複雑になってきたため、連載の後半に至っては、岡本が対談内容を文章化して原稿にするという方法を取ることになりました。

 さて、病的であろうとなかろうと、森田正馬の実像に迫ろうとするわれわれの目標への道筋として、森田の直弟子としてその影響を受けた鈴木知準の人物像の把握を介して、時間軸を逆走して森田にアプローチするという方法もあり得るわけです。鈴木の下での森田療法の体得に発しておられる杉本様の抱かれた方法論的な着想は、そこにあったようなのです。杉本様は、鈴木と森田のふたりは「合わせ鏡」だという持論を張られました。私は鈴木と森田を同次元に置いて「合わせ鏡」とする論旨に、実は同調できなかったのです。私は「合わせ鏡」という用語につきまとう文学性や非論理性が気になったのです。そのため、私たちのやりとりに、齟齬が生じた一幕もあったのでした。それは対談の水面下で起こっていたことでした。

 かくして、今回ご寄稿頂いた玉稿の内容は、「合わせ鏡論」を避けて、鈴木と森田を相対的に論じるという、これまた重要な森田療法論になっているのです。でも「合わせ鏡論」が封じられたためか、杉本節の論調が残念ながら低くなっています。

 ついでに、ちょっとバラしておきます。杉本様の流れるような文章の中には、小石のような誤字や誤記がいくつか透けて見えます。誤りにこだわらずに文章を執筆した本家は森田正馬でしたし、鈴木知準氏もその流れを汲んでいました。そこに杉本様を加えると、文章書き流しの御三家になります。漱石枕流の野暮さはそこにはありません。杉本様は、そんな風流な御仁です。ただし、一言しておきたいのは、杉本様が書いておられるような「ADHD性格」などというような雑駁な捉え方を、私はしていないということです。ADHDという特質を安易に性格の一類型にしてしまう論理の弛緩を、私は避けています。男同士の相合い傘の中で、風流でせっかちな杉本様と妥協なき私の間ではときどき痴話喧嘩が勃発したのでした。風流な「合わせ鏡」の論争もそのひとつだったのです。

 森田正馬の病跡をめぐるふたりの対談記事は、一旦これにて終わります。ともあれ、杉本様になんと貴重なご示唆やご意見を頂いたことでしょう。杉本様は優しく、かつ意気地あるお方です。多分私はその小型のような人間です。そんな杉本・岡本コンビの老老対談が、ゾンビのようによみがえることもあるかもしれません。杉本様は、「鈴木・森田合わせ鏡論」を引っさげて、再登場して欲しい。

 ではまたその時まで。

皆様、ご機嫌よう。

   岡本重慶 記

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2023謹賀新年 京都森田療法研究所

2023/01/01

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❤ ❤ ❤ ❤ ❤ ❤

 謹 賀 新 年

2023年が明けました。改めて、おめでとうございます。

今年は戦をやめ、禍を乗り越えて、みんなで力を合わせて、しあわせな生活を送れる年にしたいものです。森田療法は万人のもので、その目指すところも、同じく万人のしあわせにあるのだと思います。

森田正馬は高知の野市町の兎田(うさえだ)という地に生まれ育ちました。兎田という地名の由来には、何か兎に関する地域の歴史があったのでしょうか。よくわかりませんが、兎は犬神の餌食になりそうですから、弱い地名です。兎田出身のコンプレックスから、森田正馬は犬神の研究をしたのかもしれません。彼は中学生のときには、猫を撲殺して解剖をしたことがあるほどなのに、医師として療法を始めてから、飼っている兎が犬に噛み殺されたときには大いに同情し、兎に対する憐れみを患者に教えました。

以前にベルギーを訪れたとき、私は兎料理に舌鼓を打ちました。あっさりした肉に濃い味付けがしてあって、あれはおいしかったです。まだの人はぜひ召し上がれ。兎と人間の関係もさまざまです。兎たちに幸あれ。皆様にも幸あれ。

令和5年元旦

京都森田療法研究所

主宰者 岡本 重慶

研究員 一同

協力者 一同

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フランスのアルザスからの便り―コルマールのクリスマス―

2022/12/10

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アルザスにある都市、コルマールの旧市街地。歴史ある木組みの建物が立ち並ぶ由緒ある地区である。年に一度、クリスマスのシーズンには、フランス国内、国外から多くの人たちが訪れて賑わいを見せる。(コルマール在住の知人、Nyl ERB女史から送られてきた短い動画画像)

♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥

フランス人とはさまざまな付き合いをしてきたが、8年前にはフランス語圏国際精神医学会なる組織の学会を京都で開催してほしいと押し付けられて、責任者としてそれを引き受けた。ある種の災難で、大変な経験をしたけれど、海外からの来訪者たちに、折しも閉院を控えた三聖病院の見学をさせてあげることができた。日本人たちでなく、外国人たちが、森田療法のひとつの終焉に立ち会ったという、意外な出来事が起こったのだった。その時の数奇な縁で、新たに交流が始まったフランス人たちもいる。そのひとりにコルマール在住の精神分析家、ニル・エルブ Nyl ERB 女史がいて、この人とは現在も親密な交流が続いている。

♥ ♥ ♥

フランスの東端部のアルザス地方は、歴史的に独特の文化圏である。

わが国との関係では、幕末の開国により、日仏修好通商条約が仏政府との間に結ばれ、以後アルザス地方の特産品の繊維を求める関西の商人との取引が行われて、アルザスは日仏交流の地になった。

戦後には、日本の大企業がアルザスの地に誘致され、現地に駐在する日本人が増加し、また日本企業に勤務する現地のフランス人も増えた。そのためアルザスの地では、日本人と接し、日本文化を身近に感じるフランス人が多い。

コルマールという都市には、ルーツとして伝統的な文化があるが、その上で日本文化に親近感を持って、それを吸収するという、時空間を超えた文化の出会いと融合がある。

コルマールはフランスのオー=ラン県の県庁所在地の都市で行政的には地方の中心地だが、旧市街地には中世の趣を残す木組みの建物が残されている。日本のスタジオジブリが制作したアニメ映画の『ハウルの動く城』の冒頭に描かれた町並みは、この旧市街地にロケハンしたものであった。町には運河も通っていて、その界隈は、小ベニスと言われる。旧市街地を中心に、コルマールはお伽話のような雰囲気のある町である。

♥ ♥ ♥

ニル・エルブ Nyl ERB 女史は、精神分析家で、とても親日な人である。森田療法への関心も強い。8年前に京都での学会に来た後、4年前に高知で森田正馬没後80年記念祭があった年、独自に日本にやってきた。とにかく熱心な人であるが、彼女の紹介は機会を改めてできる。まあ、お伽話の中から出てきたような人なのである。

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ここまでつい長い前置きを記してしまった。

最近ニル・エルブ女史から、「コルマールのクリスマス」の写真が何点か送られてきた。今回はその画像を、皆様にもご覧頂こうと思って、以下にそれらを掲載する。

写真はいずれも、クリスマスの季節にコルマールのマルシェ(売り出し市)の店頭に並べられた、「創作」美術工芸作品の数々。

♥ ♥ ♥

まずは創作クリスマスケーキ。もちろん食べられる。

これも食べられる。

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以下4点、「楽焼き」のシリーズ。作品①。作者は日本に来て楽焼きを学んだ人なのであろうか。日本の楽焼きとおよそ異なるものになっている。

「楽焼き」シリーズ②

「楽焼き」シリーズ③

「楽焼き」シリーズ④

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創作作品

創作作品

創作作品

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虫やトンボなどの作者作品 ①

虫やトンボなどの作者作品②

虫やトンボなどの作者作品③。店の奥に作者の女性の姿が見える。

虫やトンボなどの作者作品④

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古い歴史の町、コルマールには、モダンアートの小さな店が立ち並んでいる地区がある。クリスマスを控えて通りに人が溢れる中、ニル・エルブ女史は店々に展示されているそんな作品群を写真に撮って、送信してくれた。

12月になると、国内からはもちろん、オランダ、ドイツ、スイス、イタリアなど外国から、イリュミネーションで美しさが際立つ町の景観と、有名なクリスマス市(いち)を目当てに、人々がバスでコルマールに押し寄せる。日本人旅行客も多い。市営の大駐車場には、数十台のバスがとめられている。

ニル・エルブ女史は、この時期の混雑が過ぎてから、また写真を添えてコルマールの紹介をし直すと言ってくれた。

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動画プレーヤー

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家々もイリュミネーシで飾られていて、長い夜の闇の中、見渡す限り、神秘的な光模様が見える。

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森田正馬の病跡をめぐる杉本二郎氏との対談(第4回)―ADHDが森田療法になるとき―

2022/11/04

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【前回に続き、杉本二郎様との濃厚なオンライン対談を文章化して掲載します】

♥ ♥ ♥

1. ADHDという光と影

森田が創始した療法の場に、奇人あるいはADHDの人、森田自身が存在しており、それが療法の大きなエレメントをなしていました。前回に引き続き、療法のそのような部分について検討します。

森田は、自分が創始した「療法」について、複数の著作で詳しく述べていますが、療法に反映される治療者の人間的なあり方については、触れていません。けれども森田が予定した療法の約束事の外で、しばしば治療者と患者の間に生きたドラマが起こっているのです。ところが奇妙なことに、森田はそのような出来事について療法として意味を認めていなかったかのようでした。

例えば、ある症例(後述)では、森田は治りのよくないその女性を殴ったり、突き飛ばして泣かせたりしたことがありました。当の森田は「治療法のためでなく」、自分の「気合いから出たこと」だとうそぶいていますが、そのような出来事がひとつの契機となって、患者は治癒していったのです。かなりおめでたい話ですが、案外このような挿話に森田の療法の真髄が窺えるのです。患者をよく叱ったことも、森田ならではの指導であったと言えます。気合いや叱りを示す行為には、何ほどかADHDの性質が関わっていたでしょう。

ADHDについて、まずわれわれは、森田という人における神経質という特質とADHDという特質の両者が相補的に働いて、神経質の療法として構造化された形跡を、その指導法の中に見いだします。と同時に、規格化した療法をみずから超える治療者の気合いに、療法の面白さを見るのです。

その辺の機微に迫るには、療法の場にいた生身の森田の動きをできるだけ知る必要があります。しかし森田に接した経験のある方々は生存しておられません。森田の直弟子だった第二世代の森田療法家の鈴木知準氏や水谷啓二氏らに指導を受けて、間接的に森田の療法を体感した方々はおられます。杉本二郎様は、鈴木学校に学んだ貴重な体験がおありで、知準師の身近でその聲咳に接し、そこで受けた薫育の体験を通じて、向こうに森田自身の療法を感じ取ってこられました。ただし森田の影響を受けた鈴木知準氏の療法が、どこまで森田の療法と同じであったかという問題があります。この問題について、私と杉本様はオンラインで議論をしてきました。両者は合わせ鏡になっているとは、杉本様の見方です。鈴木知準氏が行った療法の中には、不意打ち的な手法があり、とりわけそこに森田との異同が問題になります。そこで鈴木知準氏の療法についても述べて、森田の療法との関係を検討します。

ここにざっと書き上げたような諸点について、以下にやや詳しく論じます。

ADHDという鍵概念が加わったことで、まとまりを欠いていた従来の森田正馬像が新たな相貌を見せ、療法の影だった部分に光が当たることになるのではないかと思います。

♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥

2. 固有の性格と病理の関係

私たちは森田正馬における神経質とADHDという二重の精神病理に着目していますが、その下敷きとして、本来の固有の性格があったはずで、その点を見直しておく必要があります。

神経質は後に本人の自認したところで、中学生の頃から神経衰弱的な症状を抱えていて、その心気的な悩み方は神経質な性格として、固有の性格につながっていたと見ることができます。

一方、ADHDは今回初めて私たちが森田に差し向けている診断です。それは従来本人の固有の性格と見られていた特徴とどのような関係にあるでしょうか。遡れば、乳児期に見られた疎通性の障害は、発達障害を予示していた如くですが、幼年期については父の厳しい家庭教育の下に育ったこと以外には、十分な情報がありません。中学に入ってから、電気通信学校に入ろうとして家出して上京したり、高等学校に進学するために大阪の医者の養子になろうとしたりした突飛な行動は、神経質者がなし得るものではなく、ADHDを示す特徴的なエピソードであったと捉えることができました。このような若き日の森田の人間的な面について、野村章恒氏の『森田正馬評伝』などによって、描かれている主な特徴を取り上げておきます。

♥ ♥ ♥

野村氏は、例えば森田が五高を卒業して郷里で過ごした休みの日々に、様々な知人を無遠慮に訪ねて遊び回った行動に材を取り、村人と鰻釣りに出かけたり、三味線や弓の稽古をしたり、気が多く、天真爛漫、天衣無縫なところに、彼のじっとしていない、何でも見ておこう、何でも知りたいという気性が窺われると述べています。そして「正馬の奇人、変人といわれるゆえんの一つは、相手の人の社会的地位とか、職業とか、年齢とかいうことを超越して、人間同志として赤裸々な心で親しんだということである」と記しています。

こうして野村氏は、森田が天性の人間好きであったことを讃え、「このような開放的で明朗さが、彼が精神科医になったのち、対人恐怖などの神経質症の人達を立ち直らせるのに大きな力になったものと思われる」と指摘し、われとわが身を縛っている神経質者は「森田という人間から放射される、太陽の光線のような温かい、しかも虚偽を許さない純真な光に触れて、はじめて自分自身を縛っていた恐ろしい虚偽に気がつき、次第にそれが解けはじめた」と記しているのです。

♥ ♥ ♥

ここに描写されている若き森田の人間的特性は、神経質を「陰」とすれば、その対極の「陽」の方にあたり、かつADHDに通じるように見えるのです。

しかし、若き森田におけるADHDが、すべてこのように明るいものだったわけではありません。五高二年時には、自分の性格が原因で友人たちに疎んじられて悩んだ経験をしています。明治31年1月10日の日記には次のような記録があります。

「夜は渡辺と共に胸襟を開きて語る、渡辺は余に対して嘗て不快の事時々ありしも今は余の性情を知り、奇人なる事を知りて以来余に対して不平なし、凡そ余の言語挙動は外を飾らず、思ふがままにすればなりといふ。」

相手は森田が「奇人」であることを知って納得したという、奇妙な仲直りをしています。

また、五高卒業間近い頃、土佐会の某学生が遊郭に上がったことが判明し、会の幹事である森田が先頭に立ち、当の学生を土佐会から退会させたのみならず、退学に追い込んでいます。郷土の名誉という正義を振りかざし、前途ある同級生を卒業目前に退学させたのは、森田の側の若気の至りと言えるようで、冷酷な行為でした。さらに東大に入った第一学年時、森田は土佐同志会の新幹事に選ばれ、ここでまた吉原の遊郭に行く軟派学生数名を除名退会処分にすべきであると提議し、その問題に真剣に取り組んでいます。会では甲論乙駁があり、退会者が出るほどだったようで、処分問題に異様なまでに熱心に取り組んだ森田の方が際立っている印象を受けます。

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天真爛漫で人間好きの森田、そして妥協なき厳しい森田。これらはいずれも、今日的な診断眼をもってすると、ADHDの特徴と重なって見えるのです。結局、森田の本来の固有の性格とみなされてきた特徴は、多かれ少なかれ、ADHDと剥がし難く表裏一体をなしていたようです。けれども、そのADHDは、厳しい面を含みながらも、年齢を重ねるとともに、次第に露骨さは減り、行動力のような長所は生かされ、人間味ある個性へと一体化していったと見ることができます。

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3. 神経質とADHDの相補性

自縄自縛になっている神経質者の陰性の病理に対して、森田のような天真爛漫な陽性の人間的特質が、治療効果を発揮し得ることは、野村氏の言葉を借りて、先に記しました。ところが森田自身において、その内界には、神経質という陰性の部分と、奇人、あるいはADHDにあたる陽性の部分が同居していたのです。神経質には、内面に悩みを秘める深い力があり、だからこそ陰性なのです。したがってふたつの病理が内部で、自己治療的に相互に作用したことが考えられます。

そこで神経質とADHDの特徴の概略を、以下に比較対照的に示して、さらに両者が相補的に作用し合った可能性について述べます。

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[表] 神 経 質 と A D H D の 特 徴 の 大 ま か な 比 較

【神 経 質】        【A D H D】

陰性、内向        陽性、外向

内省性          行動性

とらわれ         不注意

自尊心、慎重       好奇心、多動

不安           衝動性

集中困難         過剰集中

不自然、 不自由      自然、自由

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もしも仮に、神経質の反対のものとしてどんな病理を想起しますか? と謎をかければ、ADHDが浮上するでしょうし、逆にADHDの反対は? と問えば、おそらく神経質という答えが出るのではないでしょうか。これは印象の次元での両者の対立性ですから、より明確に両者を比較する必要があります。

上の表に、神経質とADHDにおける心理面や行動面での特徴について、なるべく同じベクトル上にあたるものを取り上げて並べてみました。ベクトル上で双方の特徴が重なるものはなく、相反する特徴が対極をなす傾向が認められます。ここに掲げている両者におけるいくつかの特徴は、説明を要さないでしょうが、ADHDについて少しだけ書き加えておきます。

ADHDには注意の障害があり、一言で不注意と記しましたが、注意を周囲に配分しながら、必要な事柄に注意を向けて持続することが困難な障害です。神経質では、とらわれの悪循環を起こす機制として、森田が精神交互作用と称したものがあります。気になる違和感に注意を向けるほど、その感覚が増悪し、そのためますます注意を集中することになることを指しています。神経質とADHDでは、このように注意の病理が異なります。またADHDでは、好奇心に左右されて気が散ります。逆に言えば、好奇心の対象へのとらわれで、興味を伴えば過剰集中を続けることもあります。

さらにつけ加えると、ADHDでは、自然に自分の感じから出発し、感情のおもむくままに行動します。自己を点検するところのない唯我独尊的な自由人です。神経質者は、内省的なあまりに、かくあるべしという当為にこだわり、自縄自縛に陥る不自然、不自由なところがあって、この点もADHDと対照的です。

ところで、ADHDの人たちに特徴的な性格、もしくはパーソナリテイというものがあるのかどうか、調べましたが、そのような文献は乏しく、とりあえず、ネット上で次のような英文論文を見いだしました。これは、アメリカで2017年に刊行されたある資料集(Personality and Individual Differences)に収められた文献で、元はオランダの雑誌に英文で掲載された以下のような論文です。

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Rapson Gomes, George Van Doorn, Shaun Watson et al : Cloninger’s personality dimensions and ADHD: A meta-analytic review. (Cloningerのパーソナリテイ次元とADHD: メタ分析的レビュー)

この論文は、約20編の文献資料を分析したレビューであり、抽出された結果のうち、主な所見としては、ADHDにおいてはクロニンジャーのNovelty-Seeking(新奇性追求)との間に顕著な正の相関、およびSelf-Directedness(自己志向)との間に顕著な負の相関があったとされます。Temperament(気質)としての新奇性追求の高さは、本来ADHDの特性のひとつとされるものなので、これは当然の結果でしょう。一方、Character(性格)としての自己志向の低さは、予測はされるものの、ADHDの特徴的な傾向として、十分に論じ尽くされていないと思われる点を示す所見として注目されます。

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なお、ADHDを対象としていないが、森田神経質傾向とASD傾向との関連についての次のような論文が、最近わが国で出ています。

岩崎 進一、出口 裕彦 : 成人における森田神経質傾向とASD傾向との関連について. 日本森田療法学会雑誌 30 ; 121-127, 2019

任意の同一の対象に次のような2つの調査を実施して、関連性を調べています。ASD傾向については自閉症スペクトラム指数日本版(AQ-J)を用いて、その下位尺度を含む得点を出し、また森田神経質傾向については、森田神経質調査票(北西らによる)を用いて、総得点と下位尺度(とらわれの機制、弱力的傾向、強力的傾向)の各得点を算出し、2つの調査結果の間の関連性を統計学的に調べています。その結果の主な点として、森田神経質傾向のうちの弱力性(ヒポコンドリー性など)とASD傾向との間に相関を認めています。これについて、森田神経質とASDは概念は別でも、両者は同意義であり、生来のASD傾向が森田神経質の弱力性を形作っている可能性があると指摘しています。森田神経質の強力性(生の欲望)については、ASDとの相関を認めていません。

しかし、私たちの立場から見て、森田神経質は弱力性の領域を通じてASDと地続きであるとすれば、ADHDも同じ地平で捉え得ると推論できます。ASDにとって、またADHDにとっても、森田神経質の強力性の特質としての、生の欲望を涵養することが課題になるのです。

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さて、古くから土佐の人たちの気質や県民性を表すものとして、「いごっそう」と「はちきん」がありました。土佐の男は「いごっそう」で、頑固者、強情、負けず嫌い、偏屈、へそ曲がりなどの特徴を有し、土佐の女は「はちきん」で、明るく、勝ち気、世話好き、男勝りなどの特徴をもつとされました。いずれにも、生の欲望が満ちています。大原氏は、森田は「いごっそう」であり、母の亀と妻の久亥は「はちきん」であったこと、また森田が療法を創始して大成するに至るまでの過程では、「はちきん」であった母と妻の献身的な世話によるところが大であったということを指摘しておられます(前出の大原氏の論文「森田正馬の病跡(Ⅰ)」および「森田正馬の病跡」(Ⅱ)参照)。

その通りだと思いますが、少し補っておく必要があります。森田は確かに「いごっそう」に当たりましたが、その内面は必ずしも強いものではなく、弱さを抱えていました。神経質の内向する陰性の弱さ、ADHDの外向的だが、不安定な陽性の弱さとを秘めていたのです。そしてこれらの弱さを強さに変えていくことが、森田における生涯の課題となり、その過程で神経質の療法を生み出すことができたのです。

それを外側から、家族として支えたのが、母の亀であり妻の久亥だったのです。亀は森田を溺愛し、森田は成人後も母に依存的でした。大学一年のときに心臓の症状に悩み、死ぬ気で猛勉強をしたら試験は合格し、症状は吹っ飛んだという「必死必生」の体験後、母は上京して森田と同居したのでした。そして森田はまた心悸亢進発作を起こし、母に助けられたのでした。後に、森田は大正10年に慈恵医大の教授の候補者となりながら、文部省の審査に落選しています。その折りに、落胆している森田を励まして翌年から学位論文の執筆をさせたのも、母の亀でした。妻の久亥もまた、短気でわがままな正馬を護って、内助の功を果たし、家庭的な療法の母性的役割を担って、療法の成立に貢献しました。このように、身内のふたりの「はちきん」の助力のおかげで、森田は内面で自らを内省して矛盾を整理し、治療者として自己を深めていくことができたのです。

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こうして、神経質に悩んだ森田が成長して、神経質の療法を創始するに至った過程で、外的な要因として家族の支えがあったのでしたが、療法の誕生を可能にした森田の内的な要因とその働きを明らかにしなければなりません。しかし、神経質者が神経質を治そうとすればするほど、「けろけつ」に陥ってしまうことは森田自身が指摘した通りです。当事者が治療者になって神経質の療法を生み出そうと力んでも、「けろけつ」に陥ることに変わりはないでしょう。したがって、神経質の療法を生み出すには、森田自身が神経質であったという契機以外に、内面において、もうひとつの力が働く必要がありました。そのもうひとつの力となったのがADHDだったのです。こうして森田の内面では、神経質とADHDが相互に補い合う方向へと進展し、結果として療法へと止揚されていったと考えられます。

内面に両極があるので、一方に偏れば、それは中和されます。心や行動は動くものなので、動的な特徴はADHDに現れやすく、不適切な動きが過剰に出れば、神経質がそれを制御します。また静的な面で、神経質がとらわれに陥って、動きが取れなくなっていれば、ADHDがそれを打破するといった具合です。

このように、森田の内面で神経質とADHDが相補的に進展したと思われる心的現象の中でも、とりわけ療法の真髄に当たる境地について、それを神経質とADHDが止揚された域のものとして捉えることができます。

森田が、禅語の「無所住心」を引用し、四方八方に気を配ることを示した教えなどがそれに当たるので、次にそれらを取り上げます。

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4. ADHDが森田療法になるとき

森田において、その療法は、大別して、患者への教えと治療者の存在という両面で成り立っていたと思われます。そして、その両面において、ADHD的な心性が生かされていたのを見て取ることができます。そこで、以下、これら両面について触れることにします。

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1) 四方八方に気を配る―「無所住心」の教え―

森田は、いくつかの自作の言葉を色紙に書いています。その中にこのようなものがあります。

「四方八方に気を配るとき即ち心静穏なり 自転車の走れる時 即ち倒れざるが如し」(昭和七年)

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また、森田は著書『生の欲望』(昭和9年、人文書院)の中で、「心は八方に働く」ということに触れて、次のように述べています(全集第七巻、p395)。

「又物事をするに、常に心が、其事にばかり集中しなければならぬといふ事も、必ずしも其言葉のままではいけない。聖徳太子は、同時に八人の訴を聴かれたとの事であるが、実際に心の盛なる活動は、八方に心を配らなければならない。それでなければ、真の精神緊張といふものは出来ないのである。」

このように、心を一カ所に集中するのではなく、四方八方に気を配って、注意が自由自在に活動できる状態にあるとき、真の精神緊張があるとしているのです。

さらに森田は、この境地を禅の「無所住心」と重ねて捉えています。『神経質ノ本態及療法』の中で「無所住心」について述べている箇所を、少し長くなりますが、次に引用しておきます。(全集第二巻)

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「尚ほ吾人の健康なる注意作用に就いて考ふるに、禅に『応に無所住にして、其心を生ずべし』といふ語がある。無所住心とは、吾人の注意が、或る一点に固着、集注することなく、而かも全精神が、常に活動して、注意の緊張、遍満して居る状態であろうかと思われる。此の状態にありて、吾人は初めて、事に触れ、物に接し、臨機応変、直ちに最も適切なる行動を以て、之に対応することが出来る。

例えば電車に乗りて、釣り革を持たず、読書しながら、電車の動止に倒れず、乗換場を忘れず、掏児にかからず、其時々の変化に応ずることの出来るのは、此無所住心であるときに初めて出来る事である。此時に当り、若し其の一条件だにも、其注意を固着して居たとすれば、其処に必ず何かの失策を起すやうになるのである。尚ほ電車に乗るときの此無所住心の状態は、どうして出来るかといへば、身体全重量を一方の足にて支へ、他方の足は浮き足にして、爪先立ちにし、体操の時の「休め」の姿勢を採り、其まま、平気で、何の心構へもなく所謂「捨身」の態度で居さへすればよい。此身体の姿勢と、心の態度とは、心身の不安定の状況にあるものである。従って其ために、精神は全般に緊張して、外界の変化に応じ、注意が自由自在に活動する事の出来る状態である。

凡そ神経質の症状は、注意が其方にのみ執着することによりて起るものであるから、其療法は、患者の精神の自然発動を促し、以て其活動を広く外界に向はしめ、限局性の注意失調を去りて、結局之を此無所住心の境涯に導くことにあるのである。是れ余の神経質に対する特殊療法の発足点である。」

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金剛経にある「応に無所住にして、其心を生ずべし」に由来する「無所住心」は重要な禅語です。以上に引用した森田の文章は、強いて三つの段落に分けて掲げました。

その最初の箇所に、彼は「健康な注意作用」の見地から、「無所住心」について説明しています。

第二の段落においては、奇妙とも思われる例を出します。電車に乗るときの無所住心の状態を、姿勢などで説明し、心身の不安定な状況にあるために、精神は緊張して外界の変化に応じ、注意が自由自在に活動できる状態であるとしています。

そして第三の段落で、神経質の療法は、症状に向けられている注意を外界に向かわしめ、無所住心の境涯に導くことにあると述べているのです。

ところで、金剛経による本来の「無所住心」の意味内容は、森田が示したそれと同じではありません。この点については、三聖病院に閉院前に研修に来ておられた精神科医師のM.R.氏が、ご自身のブログ「禅と森田療法」の中で「無所住心について、森田正馬の誤り。」と題する記事(2018.10.14)において鋭く指摘されました。私なりにパラフレーズすれば、森田流の無所住心では、内面にとらわれている心が外界に導かれ、外界の対象に向かって注意が自由自在に活動する精神状態のことを指していますが、それは、本来の無所住心ではありません。心には外界というような対象がないのです。

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水を差すようですが、そのことを知った上で、森田流「無所住心」は、それはそれで、重要ですから、先の引用文に従って論を進めましょう。森田の書いた「無所住心」は、臨床的に重要な概念です。それもまた高次なレベルの境地であり、療法の核心に触れるという意味で重要です。そして一読して、驚くべきことに、治療者森田自身におけるADHDの注意力の課題や神経質のとらわれの課題が、この森田流無所住心において、見事に解消されてしまっているのです。

森田自身、自分流であれ、無所住心という高次の境地に至るには、ADHD的な注意力の障害と神経質な面でのとらわれが、手枷や足枷になってもおかしくなかったはずです。しかし、ADHDには、神経質のようにひとつのことにとらわれ続けることなく、今を生きるという利点があり、また神経質が自縄自縛になっているとき、動くのは今だと、自発性を刺激することができます。また神経質は内省性を生かして、ADHDの不注意さを修正することができます。あちこちに気が散る傾向は、一概に否定せず、四方八方に気を配るように工夫していけるかもしれません。森田流無所住心は、注意作用に着眼しており、電車の中での無所住心などという突飛な例も出てきますが、そこに森田の苦心の跡が見えます。森田流無所住心は、既にして、われわれが想定した神経質とADHDの止揚の産物だったとみなし得るのではないでしょうか。

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「四方八方に気を配る」必要を、実際に弟子に教えた分かりやすい例があります。森田の高弟であった井上常七氏が、森田から受けた教えを回想して記された珠玉の著作『森田歎異抄』があり(三省会報第85号、2001年7月刊より数回にわたって掲載され、後に「生活の発見」誌にも掲載)。この中に次のようなエピソードが出ています。

唯一つのことに心を統一できず、雑念が心に浮かんでいた自分(井上)に対して、森田は教えてくれた。「そば屋の配達の出前持ちは、そばのザルを高く積んで、肩に担ぎ、自転車に乗ってくる。注意は手にも足にも、肩にもそれぞれ注がれていて、また、そのいずれにも固着していない。分かったか?」と。しかし、その場では分からず、その後先生から指示された複数の作業を支障なくやることができて、気づいた。「同時にあれこれ心が散るのは、必要な心の働きであって、これこそ正常の心であることを体得したのである」と井上氏は記しています。

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もうひとつ、三聖病院を通じて知った森田の教えを記しておきます。宇佐晋一先生が、講話の中で話されたことが記憶に残っているのです。それは、「一時に多事」という言葉です。英語の俚諺に、“ One Thing at a Time.”があり、日本語訳では「一時に一事」と言われていて、同時にあまり多くのことをやろうとすると、中途半端に終わってしまうので、その都度一つのことに集中しなさいと教えているものです。このような教えを是とせず、森田療法の立場からは、四方八方に気を配り、同時に多事をなせと勧めているのです。“One Thing at aTime.” をもじると、“ Many Things at a Time.”であり、「一時に多事」となるのでした。このもじった表現を、森田療法の分野で誰が言い出したのか、はっきり聴いていなかったので、今回改めて宇佐晋一先生にお訊ねしたところ、「一時に多事」と父、宇佐玄雄が言っていたが、森田先生から聴いたものと思うとのことでした。

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2) 治療者の気合い―理外の理―

療法の内容について、知的な面から教えることもさることながら、森田療法においては、療法の場に治療者が生身で存在することが、とりわけ重要です。この点について、大原健士郎氏は次のように述べておられます。(森田正馬の病跡(Ⅱ)、日本病跡学会雑誌 第37号、1989)。

「森田が考案した森田療法は、冷酷な治療者が忠実に施行すると、極めてスパルタ的で、暖か味のない、苛酷な治療になってしまう。しかし、森田正馬のように、人情家で、暖かく、時にはユーモラスな性格の治療者が施行すると、すばらしい治療効果をあげることができるし、かりに患者を叱責するにしても、いわゆる「愛の鞭」的な効果を発揮するのである。」

これは重要な指摘です。森田療法とは、森田が創始した療法ですが、森田が実施した療法であり、極論すれば、一代限りだったかもしれないところに面白みが詰め込まれています。とりわけ森田が試行と発案を同時に進めた療法の初期においては、予定調和のない手探りの中で、患者との間に、生々しい関係が展開されました。それを代表する一例を挙げておきます。

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〔症例 Y 57歳、女性、不潔恐怖〕

難治だった不潔恐怖を抱え、森田の自宅に入院し、その気合いのこもった治療によって全治することができたケースとして知られる、谷田部夫人です。

夫人は20年以上前から不潔恐怖に悩んでおり、数年前からあちこちの精神病院で入院治療を受けたが治らず、森田の家庭療法を受けるべく、家人が連れ込んできたものでした。森田は一年間を条件にこれを受け入れました。しかし、患者は不潔恐怖と梅毒恐怖のため、物に触れるにも手袋をし、食品に毒が入っていないということを、人に言わせないと気がすまず、治そうとする意志を欠き、安逸を求めるばかりで、森田の療法の適用が困難な状態が続きます。これに対して、有毒かどうかを人にたずねても相手にしないなど、不問的な処置で応じると、次第にそれに耐えられようになっていきます。

困難だった入浴については、森田が数回洗ってやり、洗い方を教えたら、自分で入浴できるようになりました。一年間の期限が近づいたある日、劇的なことが起こります。

以下、そのくだりは森田の著作『神経質及神経衰弱症の療法』(全集 第一巻)から引用します。

「或日患者に出し抜けに、余の母と共に銭湯に行くやうに厳命した。機は既に熟して居たのであるから、患者は直ちに之を実行した。其の時患者は独りで身体を洗ひ、其の上に余の母の背中を流してくれた。然も自分の手拭いで人の身体を洗ってやったのである。銭湯に行くのは実に患者が二十余年来初めての出来事であった。心機一転、思ひがけなく平気で楽に出来たのである。患者の悦びは一通りではない。成程『掛金がはづれる』とは、此処であったかと悟ったのである。」

(中略)

「 患者が治癒する前、一ヶ月許りの間には、余が患者を一度は殴り、一度は突き飛ばして患者が泣き出した事がある。此の辺の事は固より治療の方法でもなければ、患者を驚かすためでもない。只患者を治したいといふ余の真剣の気合から出たものである。今は此の事も患者の治癒の幸福と共に、患者の感謝の話の種になって居る。理外の理の存する処である。」

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この不潔恐怖の谷田部夫人は、森田が家庭的療法を熱心におこない、劇的な転回により治った症例として知られています。熱心なあまり、森田はこの患者を殴ったことがありましたが、それは、治したいという真剣な気合いから出たものであり、理外の理であったと森田は述べています。治してやろうとする熱意は、森田みずから入浴の手伝いをしてやるなど、ためらいのない行為にもあらわれていて、その流れの中で相手を殴ってしまったことがわかります。医師が患者を殴るような行為は、そこだけを切り取れば、倫理的に許されることではありません。しかし、人を救い、人を育てることにみずからをなげうっていた治療者森田には、気合いがあるばかりだったのです。そして患者はもはや治るしかなかったのです。

森田はまた人をよく叱りましたが、それは対機説法的であり、その場での気合いとしての叱りでした。殴るのも叱るのも、一見奇行のようですが、必ずしも奇行として括りきれない治療の根幹に触れるところがあったのです。

人を救い、人を育て、生の欲望に則って生きるように導く療法の治療者になった森田にとって、そのような治療者であることが彼の使命になっていました。森田の内面にあった神経質者としての自己の脆弱性やADHD的な自己の脆弱性は、いつしか成熟した自己として融合していました。

ただし、森田における療法への執念、そして衝動的に発揮された森田ならではの気合いは、彼の内なるADHDの精力によるところが大きかったのではないか、と見ることができます。

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5. 森田正馬の父親殺し

最後に残されている大きな問題があります。精神療法においては、治療者の自己( therapeutic self )が常に問題になります。とりわけ人間の再教育であり、治療者の人間味がたくまずして相手を薫陶する森田療法においては、治療者の自己が問われます。われわれは、森田の病跡をとらえる立場から、森田の内面の神経質とADHDの行方を追ってきましたが、森田自身の自己はどのように形成されたのかという大きな問題が残っています。

森田自身にとって心の師はいたのでしょうか。答えはおそらく否です。あるいは、師に代わるものとして、父の存在があったと言えるかも知れません。父の存在と格闘し続け、医師になって、神経質の療法を探り続ける暗中模索の暗がりの中で、自灯明、法灯明を見つけて、あるがままの境地をわがものにしていったのではないでしょうか。

井上常七氏によれば、森田は後進に対して次のように檄を飛ばし、森田に固執せずに進むようにと鼓舞したのでした。(「大観音横丁の思い出」、森田正馬評伝 月報、白揚社、1974)。

「森田の学説は、これを打破して前進することが森田の精神である。今後細部の研究がまちがえている。僕の説を鉄則として固執してはならぬ。」

それでも、森田を慕った弟子たちは、師に近づこうとしました。とくに、療法を継承して森田療法家になった高弟たちは、療法の再現に努めたようです。たとえば、三聖病院の宇佐玄雄は、森田の教えを祖述することに徹しました。ただし、禅僧である宇佐は、療法の体験は教外別伝のものであることを知っていました。

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鈴木知準氏においてはどうだったのでしょう。この点について、鈴木学校の体験者である杉本二郎様と、何度も議論を繰り返してきました。原法に忠実な森田療法を行った鈴木氏ですが、診療所においては、時に寮生に対して、不意打ちで理不尽な指示をしたり、理不尽な体験に陥れたりする指導をなさったことがあるそうです。「不意打ち療法」とでも称すべきこのやり方は、鈴木氏が治療戦略として、意識的になさったものでした。森田が治療の場で示した奇行的な言動が、しばしば治療的な効用を発揮しましたが、鈴木氏はその踏襲を試み、不意打ちをかけて、入院生の内面でとらわれに固着している心が外へ向かって動くように、契機を与えたのです。杉本様は、鈴木氏の療法の中にあったこのような戦略は、森田の療法と「合わせ鏡」になっていたという見方を示されました。鈴木氏が行った「打ち込み的助言」も然りで、森田が間髪を入れずに叱った指導に対応し、「言葉で殴る」と鈴木氏自身がおっしゃったそうです。

確かにそこには森田の療法が彷彿とするし、森田の療法をモデルとなさった努力が見て取れます。

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森田自身は、療法をほとんど自然態で行っていたのであり、その療法は自己流でした。では自己流の森田の、治療者としての自己( therapeutic self )はどのように育まれたのか、改めて問題にします。

われわれは、やはり森田正馬の成長の物語に立ち戻らねばなりません。それは森田自身の父親殺しの物語です。その生涯においては、父なるものとの対決が通奏低音になっていました。父の正文は、事情はわかりませんが、森田家に婿養子として入り、年上で再婚の亀の伴侶となった人です。農業に従事して一家を支える大黒柱となる役割を負った父は、その生涯を素直に受け入れ、日々黙々と働き続けました。いごっそうと言うには当たらず、地に足を着けて地道に歩んだ父は、現実の人であり、その人生はいわば森田療法的でした。

子どもの頃の森田は、小学校の代用教員もしていた父から、勉強を強いられましたが、その後、学業成績は振るわず、父は進学に反対し、学費を出し渋ります。乗り越え難い父に対する反抗心は募ります。中学生時の家出、五高入学時に学費を出してくれる他人との養子契約と、父に反抗する暴挙に出ました。さらに、神経衰弱状態にあった大学一年の試験時には、父への面当てと称して、死ぬ気で猛勉強をしました。児戯的な反抗です。

やがて医師になり、人を救う治療者の立場を経験するに伴い、次第に森田の自己は成長していったのです。治療者としての自覚、患者への思いやり、さらに一家を支え、自分を医師にしてくれた父への感謝の念が、ふつふつと湧き上がってきたようでした。医師になって4年目、33歳のとき、新しく発行された百円紙幣を父に送って、感謝を示しました。

家庭的療法を行うようになった森田は、患者に対して父権的に接しましたが、人情に厚く、患者から慕われ、「今親鸞」とまで呼ばれました。父に反抗していた森田が、悩める人たちの父になったのです。けれども自分に盲従することを戒め、森田の説を鉄則とせず、これを打破して前進せよと説いたのです。そこには、『臨済録』の「殺仏殺祖」の教えに通じるものがありました。そのような境地に、森田の治療者としての自己がありました。それは、神経質とADHDが統合された究極の境地として、可能だったと思います。

そして「父親殺し」を原点とする森田の反骨の精神は、生涯を通じてその後も遺憾なく発揮されたのです。

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【注】 「森田正馬の父親殺し」については、本稿に先立ち、これまでに、いくつかの原稿や講演の中で述べてきました。

それらを以下に示しておきます。

1) 禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討―森田正馬自身の生き方を基礎事例として―.第27回日本森田療法学会(一般口演)、2009.

同抄録:日本森田療法学会雑誌.21(1);73,2010

2) A Comparison between“the Ten Ox-herding Pictures” of Zen and“the Cure” in Morita Therapy : Shoma Morita’s Life as the Basic Case. 第7回国際森田療法学会,メルボルン,2010年3月.

3) 禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討―森田正馬自身の生き方を基礎事例として―.京都森田療法研究所web掲載論文,2010.

4) 禅の十牛図と森田療法―悟りとは? そして治癒とは?―.第12回総合社会科学会(特別講演),2010年5月,東京.

5) 禅の「十牛図」と森田療法―正馬先生の「心牛」探しの旅―.第23回日本精神障害者リハビリテーション学会(高知)特別講演,2015年12月5日.

6) 森田正馬と森田療法. 精神科臨床 Legato.7(6) ; 50-53,2021

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6. おわりに― 精神医学史に現れたトリックスター ―

森田正馬が、稀代の変人、奇人であったことは今更言うまでもありません。しかし、森田はただ者ではなかったのです。当時の西高東低の精神医学の分野では、無批判に西洋の学説が受け入れられる風潮がありましたが、独立独歩の道を歩む森田は、みずからも一度は影響を受けた西洋の神経質論や神経衰弱論に対して勇猛果敢に批判を向けました。フロイトの精神分析を奉ずる丸井清泰氏と論争をして学会を騒がせ、ベアードの神経衰弱説に反論を加えます。これらは必ずしも高次の反論ではなかったのですが、論争の舞台に立って人を騒がせるところは、森田の独壇場でした。憎めない、得な性分で、人と争っても可笑しさを誘ってしまうのです。

神経質論は、森田にとって終生の重要課題でしたが、重要課題であるがゆえにか、模索を続けて、彼が提示する神経質の概念規定には変遷があり、完全を極めてはいません。初期には森田は、ベアードの、神経機能が興奮し易く、また疲労し易いという神経衰弱説を受け入れました。しかし、次第に症状の心理的、主観的な面に着目し、それに対応する素質は、神経衰弱から、虚弱な体質である神経質へとシフトさせます。そして素質と心理的、主観的症状をつなぐ要因として、内省的気質を挙げました。

一方、九州大学の下田光造氏は、神経質の原因は幼児期の養育にあるという、森田と異なる説を出していましたが、森田は第四十回 形外会(昭和八月十二月十七日)において、「神経質は、養育の結果というよりはやはり素質である」ということを述べて、下田氏に対して反論を返しています。

そして翌昭和9年に、還暦記念講演として、神経質について語っています。下田氏への反論との脈絡がやや不明ですが、とにかくこの講演で森田は、次のように語っています。神経衰弱と言われてきた病は、気のせいで起るものであって、ベアードの言ったような神経の衰弱から起るものではなく、特殊の気質の人に起るもので、自分はこれを神経質と名づけたのであると。

特殊の気質とは、自己内省的気質を指していますが、さまざまな症状は他動的に起るのではなく、自分自身の心から自動的に起るということを力説し、「この私の発見はコペルニクスの地動説にも比較することができるかと思います」と堂々と述べているのです。

しかしこの森田の自負は、正確さを欠いています。森田に先駆けて、わが国で最初に「神経質」を論じた精神科医師がいました。同じ東大の呉の門下で、森田の後輩にあたる中村譲でした。中村は、著書『神経質と其療法』(明治45年)において、神経質の心理機制として、みずから煩悶を増幅させる「相互呼応」を挙げています。(拙著『忘れられた森田療法』参照)。神経質の症状が自動的に起ることを発見したコペルニクスは、森田ではなかったのです。森田がコペルニクスを自称し、周囲がそれを容認してきたのは、森田療法史のダークサイドの中の物語です。森田の偉大さは、治療者として患者と関わった人間森田の情熱であり、気合いでした。奇人としての面が治療的に発揮されたところに森田の面目がありました。

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発達障害の臨床を専門的に行っておられる精神科医師、岩波明氏は、ADHDといわゆるトリックスターとの近い関係を指摘し、「沈滞した閉塞状況を打ち破るのは、ADHDの気質をそなえたトリックスターたちである。彼らはためらわずに決断し、突進を繰り返すのであるが、その過剰な試みは、新しい活路を切り開く契機になるのだと思う」と述べておられ(ご自身のブログ)、さらに著書(『発達障害という才能』SB新書、2021)で詳解されています。

精神医学の歴史の中で、およそ森田正馬のようなユニークな医師はいませんでした。この人の行くところ、愛があり、奇行あり、その奇人ぶりは枯れ木に花を咲かせるかのごとく、人々を救いました。偽物でありながら、コペルニクスを名乗って憚らなかったところもご愛嬌です。

東大精神科教室の師であった呉秀三は、わが国の精神障害者を座敷牢から解放する快挙をなして、精神障害者の父となった人でした。森田は、神経質者が心中の見えない鎖に縛られているそのとらわれから、神経質者たちを解放することに貢献し、神経質者の父となったのでした。

あるがままに生き抜く療法を導入し、形外会での余興と区別されない人生を、踊るがごとく自由に生きた森田正馬は、まさに精神医学史上のトリックスターであったと言えるでしょう。

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「荘子」の中に、畸人について書かれたくだりがあります。孔子は、弟子から畸人とはと問われて、こう答えています。

「畸人トハ人ニ畸ニシテ、而シテ天ニヒトシ」

畸人というものは、人からは畸人であるとしか見られないが、天に最も近い存在であり、自然の理法にかなった生き方をする人である、というのです。

これまた、さながら森田正馬の生き方のようです。ADHDにもつながるところがあるかもしれません。

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【付記】

1. 森田正馬の病跡学を論じる本稿として、発達障害、ADHDという診断名を書き込んで、本稿を公表することにつき、ご遺族の御了承を頂きました。

2. 本連載原稿の著作権は、京都森田療法研究所並びに著者の岡本重慶および杉本二郎に帰属します。

3. 大胆なことも書いています。御意見、ご批判をお待ちします。通信フォームからどうぞ。

4. 共著者の2人はWeb上で濃密な討論を繰り返しましたが、成果のすべてを原稿に書けたわけではありません。追って補遺の原稿を出すかどうか、検討中です。

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森田正馬の病跡をめぐる杉本二郎氏との対談(第3回)―療法に組み込まれた治療者の奇行―

2022/08/13

乳母車の森田正馬

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1. 前説

対談形式をとった本稿のシリーズ第2回の掲載から、久しく時間が経過しました。第2回までにおいて、森田正馬自身の生涯に発達障害、とりわけADHDの特徴が認められたことを指摘し、それが療法の創造に関わったことを述べたのでした。

私たちは、森田を過大評価も過小評価もしたくありません。従来の評価のしかたの中にあった問題に疑問をもち、それを洗い直した上で再評価したいのです。森田の教えの中核の部分の秀逸さを否定するのではなく、従来いたずらに森田を盲信し神格化して虚像を見ているところがあったようなので、それを見直しています。実像は、人間愛に加えて、奇行と無頓着な面のある人だったのであり、その奇行と無頓着さの由来するところは、発達障害、とりわけADHDであった、ということが第2回までの到達点でした。

大原健士郎氏の説では、森田の神経質を部分的に否定しながら、その置き換えの診断を欠いているところがあり、そこを埋めるのが私たちの作業だったのです。

森田は自称神経質で、神経質の治療に関心を持ちました。しかし、その行動は、石橋を叩いても渡らないような神経質者のそれではなく、ADHDに特有の探究と執念によって、療法を創造したのです。

このような森田療法の創造者、森田は、療法を創った森田と療法を使った森田に一応分けることができて、第2回までに取り上げたのは、療法を創った森田の方でした。一方、使った森田、つまり療法の構造の中に自らを組み入れ、治療者として療法を推進した森田がいました。それは療法の創案という地平を超えて、療法の構造の中にいて生身の治療者として患者と関わった森田です。この治療者、森田の場合においても、実にこのADHDらしき奇人ぶりと、独特の奇行が治療的効果を上げたのではないかと考えられるのです。

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私たちの対談原稿を第3回にまで延長したのは、そのためです。森田正馬という人の性格や愛すべき人間味のすべてが、発達障害に彩られているなどと、もちろん私たちは思っていません。しかし、奇矯な言動や風変わりだった挙措など、ADHDと考えると腑に落ちるところが多々あり、しかも、それが神経質の治療に役立ったことを凝視してみようと思うのです。こうして、森田のADHDの特質は、療法の創始に貢献したのみならず、その奇人ぶりが神経質の治療に適合したことを明らかにすれば、森田正馬の病跡にダブルの結論が出るのではないかという見方をしています。

このダブルの後半への着想は、対談者のふたりのうちの杉本二郎様に負うところ大で、杉本様に対談を引っ張ってもらおうとしたのでした。それで、対談原稿を準備するため、水面下で大いに熱のこもったメール交換を2カ月ほど続けましたが、そこで両人は、やや燃え尽きました。討論し過ぎた感あり、対談の形を留めて圧縮するのが難しく、要約化して、岡本の文責で文章化することになりました。対談の成果であることに変わりはありません。





















コズミックホリステック医療・現代靈氣

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