https://chakolate.blog.fc2.com/ 【杉山久子ののほほん俳句HAIKUブログ~小鳥来るる日記】より
笑顔発見
いつもの自転車での通勤路交差点で停まったら、ふと目に入った。
この写真の中に笑顔がありますよ。
ね
吾の眼に映れる汝やねこじやらし 中岡毅雄
五島高資著 『平畑静塔の百句』
南海の星没薬となりてふる
「昭和6年、静塔は京都帝国大学医学部を卒業し、同大学病院精神科に入局。昭和8年には「京大俳句」を創刊し句作に注力した。京都にあれば「南海の星」は故郷の和歌浦に瞬く星を思わせる。「没薬」はかつて死体の防腐に用いられ、聖書では東方の三博士がそれをキリストに捧げて、その刑死と復活の象徴とされる。かつて腸チフスで休学し、故郷での療養にて九死に一生を得た静塔には、南海の星が没薬と重なったのかもしれない。しかし、間もなく自らに降りかかる新興俳句弾圧事件による投獄と、その後の復活を思えばまさに奇しき巡り合わせの句と言える。」
静塔の内面に寄りそうような丁寧な五島氏の解説で、深くその世界に入ってゆくことが出来た。
同じ宇都宮在住者、また同業者であることで、より静塔の人と作品に肉薄できたのかもしれない。
夜の俘虜禱る形にピアノ弾く
我を遂に癩の踊の輪に投ず
狂ひても母乳は白し蜂光る
胡桃割る聖書の万の字をとざし
みえぬものひかるしぐれのうへのあめ
海の中鯖青くして雪止みぬ
そばまきのことばことだま幸きはふよ
栗拾ふものの光の見ゆるとき
間に合った
第4句集『栞』を上梓した。
装幀をお願いする際、本屋と図書館をずっと見て歩き、水色と紫色を候補としたのち、大好きな紫色に決めた。
元々は来年あたりに…とぼんやり考えていたのだが。
昨年の今頃、梅田盾子さんの染色展を観に行って喋った時、盾子さんの「私また頑張るから」
という言葉を聞いて「じゃ、私も」と、予定より早く句集を作る気になったのだった。
人に友猫に猫友ところてん 久子
それから着手し、あとがきを書こうかという頃、師の黒田杏子が急逝。
落ち着かない日々の中、作業は続き、出版に至ることが出来た。手元に納品された中から一冊、入院中の母に送った。
2週間前に面会に行った時、初めて句集がもうすぐ出来ることを伝え、来週また面会の予約を入れていたので、その時に詳しいことを話そうと思っていた。
危篤の知らせを聞いて駆けつけた病室の棚に、スマートレターから取り出された句集が置かれてあった。
葬儀が終わって少し落ち着いてからめくってみると、このページに付属の栞が。
この栞はすべて同じページに挟んで出荷されているので、移動しているということは母は読んでくれたかと思う。
病院に句集が届いたのはおそらく亡くなる2日前。
間に合ってよかった。
梅田盾子さんを始め、携わって下さった多くの方々には感謝しかない。
冬星につなぎとめたき小舟あり 久子
黒田杏子最終句集『八月』
3月に先生が急逝されてから5か月。
「藍生」編集部の方々を中心にした「刊行委員会」の皆様の手によって、先生の句集が発刊された。
八月十日欲しいもの恐いもの無し 杏子
8月10日は先生のお誕生日。
8月に出そうと尽力されたであろう皆様の作業はさぞや大変であったろうと予想され、感謝の念に堪えない。
夢にきし阿修羅の還りゆく月夜 杏子
そういえば先生に初めてお目にかかったのは、奈良の興福寺の阿修羅像の前だった。
柚子湯してあしたのことは考へず 杏子
若き日に
柚子湯してあしたのあしたおもふかな 杏子
と詠まれた先生。晩年は少しの未来さえも考えず、一日一日に集中して生きられたのか。
満開の花巡りきし果報者 杏子
杏子先生に出会わなかったら、私もこんなに花に心打たれつつ生きることはなかっただろう。
収穫 杉山久子句集
とほき世の杳き泉をひとり聴き 杏子
私の第三句集『泉』に寄せて詠んでくださった前書き付きの句。
私の心の奥底まで見られているようで恐縮しながら、これを見た時は号泣した。
「俳句は人生の杖」
と帯にある。
この言葉を深く嚙みしめ、この杖に私自身がどれだけ支えられてきたか、先生にどれだけ支えられてきたかを思い起こしている。
花巡るいつぽんの杖ある限り 杏子
杏子先生、ありがとうございました。
お骨を拾ふ列に…
先週の日曜日に母が急逝した。
急ではあったが、5月に1度喀血した時、入所していた施設から「いつ電話しても出られるようにしておいてください。夜中でもかけさせていただきます」と言われていたので、ある程度の覚悟はできていた。
そして7月に2度目の喀血。病院の方へ移り、もういよいよと言われたと思ったら、落ち着き…。
3度目の正直と言うかなんというか。
死に目会えないのも覚悟していたので、本人が苦しまなかったことだけが幸いと思うことに。
葬儀にうかがうことはあっても葬儀を出すのは初めての経験で、ドタバタドタバタ。
生前母は「遺影は決めている」と言っていたが、具体的にはこれと言っておらず
「どれにする?どれにする?」
出来上がってみると、なかなかいい感じになっていて、我ながら自分を褒めたい。
頭上辺りで「それじゃない、あっち!」と母が言っているかもしれないと思ったが、
もう手遅れなのよ、お母さん。
話には聞いていたが、人が一人亡くなるとやることはいっぱいで、その後もドタバタと日を過ごしている。
鳥渡るお骨をひろふ列につく 久子
むか~し詠んだ句。
身内のだとこう静かな感じではいられない。
途中退席する人がいて、「あああ、饅頭渡さなきゃ」
と走って追いかけて…また列に戻ったり。
まだあまり実感はわかない。
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