https://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/9b1c2c3e53eda3ed03f779cb1bf2b429 【藤田真一「蕪村」(岩波新書 2000年刊)がおもしろい】より
ふむむ、すんばらしい一冊であ~る(^^)/~~~
蕪村ファンなら、絶対に読み逃すべきではない。とはいえ、ファンなら皆さんすでに読んでいるだろう。
ウィキベディアで藤田真一さんを調べたら、著作はすべて蕪村のもの。
蕪村の専門家なのだ。
なにがすばらしいといって「春風馬堤曲」の解読ですよ、これで、長年の疑問がほぼすべて氷解。
なるほど、こんな詩だったのか。
全文を掲げてみよう。
春風馬堤曲 (謝蕪邨)
余一日問耆老於故園。渡澱水過馬堤。偶逢女帰省郷者。先後行数里。相顧語。容姿嬋娟。癡情可憐。因製歌曲十八首。代女述意。題曰春風馬堤曲。
春風馬堤曲十八首
◯やぶ入や浪花を出て長柄川
○春風や堤長ふして家遠し
○堤下摘芳草 荊与棘塞路 荊棘何無情 裂裙且傷股
○渓流石点々 踏石撮香芹 多謝水上石 教儂不沾裙
○一軒の茶見世の柳老にけり
○茶店の老婆子 儂を見て慇懃に無恙を賀し 且儂が春衣を美ム
○店中有二客 能解江南語 酒銭擲三緡 迎我譲榻去
○古駅三両家 猫児妻を呼 妻来らず
○呼雛籬外鶏 籬外草満地 雛飛欲越籬 籬高堕三四
○春艸路三叉中に捷径あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲り三々五々 五々は黄に三々は白し 記得す去年此路よりす
○憐ミとる蒲公茎短して乳を浥
○むかしむかし しきりにおもふ 慈母の恩 慈母の懐袍 別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
梅は白し浪花橋辺財主の家
春情まなび得たり浪花風流
○郷を辞し弟負く身 三春 本をわすれ末を取 接木の梅
○故郷春深し行々て又 行々
楊柳長堤道漸くくだれり
○矯首はじめて見る故園の家黄昏
戸に倚る白髪の人弟を抱き我を待春又春
○君不見古人太祗が句
薮入の寝るやひとりの親の側
「春風馬堤曲」は、相当日本語力のある人でないと、まったく歯が立たない。
ところどころ挟まれた俳諧はなんとか読めても、返り点のない漢文はお手上げである。
蕪村はむろん、漢文を読むことも、書くこともできた。
彼は京が気に入り、長く京に住んだのだが、そこに文人たちの一種のサロンがあったのだ。
やぶ入や浪花を出て長柄川
春風や堤長ふして家遠し
薮入の寝るやひとりの親の側(太祇の句の引用)
全体の雰囲気と、これら俳諧はわかっても、そこからさきにすすむのが容易でない。
わたしは萩原朔太郎の「郷愁の詩人与謝蕪村」だとか、安東次男さんの「与謝蕪村」だとかは、若いころ読んだことがあった。
しかーし、納得はできていなかった。
藤田さんは、痒いところに手がとどくように、解析している。
初心者というか、古文・漢文がろくすっぽ読めない人に、噛んでふくめるように書いている。
これは、明治の「新体詩」にも匹敵する、明らかに時代を先取りした詩である。
主人公は藪入りで里へ帰ることになった娘。つまり、フィクション仕立てなのである。
そのことがわかっていないと、泥沼にはまる。
薮入の寝るやひとりの親の側
この一句も、蕪村自身の作ではなく、断ってあるように、先輩である太祇の句である。
藤田さんによると、いろいろと二重三重の仕掛けがほどこしてある。
しかも、すばらしい詩なのである。こういう詩を書いたのは、蕪村しかいない。
俳諧と漢詩の幸福きわまる出会いと、しめやかな宴。
なんとなんと、こういう作品であったか(^^♪
わたしの胸に鋭くささったのは、62才の蕪村が、この「春風馬堤曲」について、門人の一人につぎのように書き送っていることを知ったとき。
「春風馬堤曲」は《実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出(いで)たる実情ニて候》と。これが詩の背景であることを、私信のなかで蕪村みずからが語っているわけだ。
「うめき出(いで)たる実情」とは、軽々しく読み捨てにはできない痛切なことばというべきだろう。67才まで生きながらえた蕪村にして、いつ死がやってきてもいい準備はできていた。
この詩の娘は彼の想念のなかで造形されたものであるにせよ、舞台である毛馬の堤は、彼が育った幼年期の風景である。それを呼び戻しているのだ。
第一章 「蕪村発見」の軌跡
第二章 「芭蕉」へのまなざし――蕪村時代の素描
第三章 俳画の妙
第四章 翔けめぐる創意――蕪村俳諧の興趣
第五章 本のプロムナード――俳書と刷り物の匠み
第六章 春風のこころ――「春風馬堤曲」の世界
これが本書の構成。
どのページもフレッシュなアプローチがなされている。
蕪村という人のたいしたところは、俳諧、南画の二足の草鞋をはいて、しかも、その二足とも一流の域に達したこと。この一事を忘れて蕪村の蕪村たる所以を語ることはできない。
わたしは二足も三足もの草鞋をはく男なので、俳諧と南画のバランスが見事にとれていた蕪村的世界へのあこがれが強い。
本書では、藤田さんは南画・文人画は素人だと謙遜しておられるが、十分な目配りがなされている。
あとがきでは《連句や俳文については、ほとんどふれることができなかった》と悔やんでおられるがおそらく、他の著作において、それも果たされているのだろう。
蕪村は若いころから好きな俳人であった。芭蕉よりいいなあ・・・と思っていたことすらあった。
絵画的で、ロマネスク。
ロマネスクの趣向は、晩年につくられた「春風馬堤曲」でクライマックスに達する。俳諧にフィクション設定を持ち込むことを、彼は厭わなかった。そこが写生にこだわった明治以降の「ホトトギス」一派とはずいぶん違う味わいを誇っている。
菜の花や月は東に日は西に
春の海ひねもすのたりのたりかな
稲妻や浪もてゆえる秋津島
ほととぎす平安城を筋かいに
四五人に月落ちかかる踊りかな
実景ではない。詩的言語、俳諧的言語を駆使して、蕪村の想像力が生み出したテイストである。
小さな景のようでいて、しかも大きな景物をも漁るflexibleなことばの力。
そこに蕪村の俳諧の醍醐味があることを、本書は教えてくれる。
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