FacebookOSHO Japaneseさん投稿記事
人間は意識だ。絶えず気づいている意識。人間は体験者ではない。知る者にすぎない。
これが現実なのだ。
だが、私たちの心の状態は知る者のそれではない。体験者のそれだ。
その知る者が体験者であることに変わるときーー知ることなく、行為そのものと自己同化してしまうとき、離れたところから見守っている見張りではなくなり、その行為への参加者になるときーーそのときこそ自己同化が起こるときだ。
そうなったら、その人は行為と一体化してしまう。この自己同化が目覚めを妨げる。
というのも、目覚めているためには、気づいているためには、ある一定の距離が要求されるからだ。あるスペースが必要だからだ。
Osho
Facebook相田 公弘さん投稿記事
アメリカ・インディアン“ブラックウルフ・ジョーンズ”の言葉をご紹介いたします。
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メディシン・マン<呪術医>は言う。
「恐怖そのものに傷つけられることなどあるものか?あなたが恐怖に動かされなければ
恐怖はあなたを傷つけることはできないのだ。みずから恐怖にのみこまれてしまったら
恐怖があなたの主人になる」
あなたが恐怖を支配するか恐怖があなたを支配するかいずれにしてもどちらかが主人になる。
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出来事が恐いわけじゃなく、出来事に対する意味付けで恐くなる。
同じ出来事でも、人によって恐怖を感じる人と、そうじゃない人がいるように、
子どもの頃は恐いと感じていたけど、大人になったら平気なことのように、
その人のとらえかたで全く別のものになる。これは、「恐怖」だけじゃないですね♪
「幸せ」も、「喜び」も、「不安」も「悲しみ」、自分の感じ方次第で良くも悪くもなります。
なんとなんとっ!
自分で選べたんですね♪
自分の主人は自分、周りに振りまわされるのではなく、自分で選択していきたいですね(*^_^*)
※魂が震える話より
Facebook清水 友邦さん投稿記事
もし夢を見ているものだけが夢ではなく
現実だと思っていたあらゆるものすべてが夢だと気がついたなら心をかき乱す不安や恐怖の正体を見破り本当に自分がやりたかったことをする勇気が湧いてきます。
他人の人生ではなく自分の人生を生きるようになるでしょう。
古代は神事を遊びといい禊祓いを執り行う巫女のことを遊女(あそびめ)といっていました。
現在では遊女といえば売春婦と同意語になっていますが、神社や寺社で神事芸能を演じる集団のことでした。
平安時代中期に成立した「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」によると芸能を生業としたのは遊女で夜を待ちて淫売をするのは夜発といいました。
男女の芸能集団を傀儡、女性だけの芸能集団を遊女と呼んでいたようです。
万葉集で詠まれた遊行女婦(うかれめ)の遊行とは浮かれ騒ぐことではなく、諸国を歩いて芸能を演じる女性集団のことで売春を伴うことはありませんでした。
平安時代に母系相続の共同体を作り、定住して仕事に就かず山から山へ芸能をしながら漂白の旅を続けた遊女たちがいました。
更科日記に足柄山を通過した時に遊女の歌を聞いて感動した話が出てきます。
月もなく暗い夜に身なりも小綺麗にした15と20、50ばかりの美しい3人の遊女が現れて、唐傘をさして、火を灯し、美しい声で上手に歌ったので、人々はたいそう感動してもてはやしました。歌い終わった遊女たちが暗くて怖い山の中に帰ってゆく光景をいつまでも見送ったのでした。「こはた」という遊女の孫だと名乗っているので、遊女たちが母親から娘へと受け継がれる母系だったということがわかります。
天皇家の葬礼を司る役職の「遊部(あそびべ)」は葬式の時に刀を負い矛を持った女の禰義(ねぎ)と刀を背負って酒食を持った女の余此(よし)が呪文を唱えて棺を周っていました。のちに刀と矛は女に向かないといって遊部(あそびべ)の家系の女性を娶った夫が神事を行なうようになりました。
「大山寺縁起」には白拍子という遊女がいたが不浄があるので追放したという記述があります。
13世紀になると女性は罪深く「不浄」で穢れているという見方が強くなり聖地での女人禁制が現れたのです。
男性原理が優位になると女性は神事から追放され男性が独占するようになったのです。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて白拍子と呼ばれた男装の舞妓が現れました。
白拍子とは旋律とリズムの拍子のことで白拍子は神事として使われていました。
100日の日照りの時に神泉苑で白拍子が雨乞いの舞を舞うと雨音が大きく響いて三日間も続く雨が降ったという説話があるように、白拍子は神事芸能の傀儡・遊女(あそびめ)をルーツにしていました。
傀儡女・遊女・白拍子たちは教養があり天皇や貴族たちの宮廷行事で即興で歌を詠んだり舞を舞っていました。
後鳥羽法皇が抱えていた白拍子の亀菊は親鸞・法然が流罪になる原因を起こしたり、亀菊に所領として与えた地頭を罷免するように後鳥羽法皇が鎌倉幕府に要求したことで、日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力の争い「承久の変」が起きています。
平家物語の平清盛の寵愛を受けた祇王・祇女と仏御前、源義経と連れそった静御前は特に有名です。
京都・奥嵯峨の祇王寺に伝わる物語は次の通りです。
美貌で才智があった「祗王(ぎおう)」は都でも評判の白拍子でした。やがて「祗王」は全盛期を迎えていた平清盛に寵愛されて母と妹も一緒に立派な家屋敷をあたえられて、毎月米百石、銀百貫の仕送りを受ける贅沢な暮らしをしました。
器量と芸の巧みさで天下人の心を射った祗王の栄耀を人々は憧れました。
三年後の都に加賀国(石川県)から十六歳の仏御前(ほとけごぜん)という白拍子が上京して評判となりました。祗王の栄華にあやかりたいと仏御前は西八条の清盛の邸宅にまかりでました。
清盛は「祗王がいるのに目通りなんぞできん、とっとと帰らせるがよい」と追い返そうとしました
が祗王が、「すげなく帰されるのはかわいそうでございます。白拍子は、わたしも昔はやっていたのですから、他人ごととは思えません。仏御前の悲しみはわかります。舞や歌をおさせにならなくとも、お会いなさるだけでも」と口ぞえをしたので、清盛は祗王のいうことももっともだと思って仏御前に会ってみることにしました。
「会うたからに歌も聞いてやらねば」と歌わせると、皆うっとりしてほめたたえました。
「舞う姿もさぞかし上手であろう」鼓打ちを召して舞わせたが、髪姿・容貌も声も美しく節まわしも見事な舞でした。
清盛は仏御前に心を奪われ召抱えようとしました。
「そんなことをおっしゃれば、祇王さまがどう思われるか。わたしの方が恐縮でございます。どうか、早くおいとまを下さいまし」と仏御前が驚いて帰ろうとすると清盛はますます執着して「お前が祇王がいることで心がはばかるならば、祇王の方にひまを出そう」と家臣に「祗王をいますぐ邸から出せ」といいつけました。
祇王は三年間住みなれた住まいを突然追い立てられることになりました。
祗王はもう二度と来ることはないだろうと「 襖障子」(ふすましょうじ)に、「もえいづるも枯るるも野辺の草 いづれか秋にあはではつべき」と和歌を書いて名残りおしく、泣く泣く去りました。
歌の意味は「若くして寵愛を受けたあなたも、今の私と同じく、いつの日かあきられて捨てられる運命」
清盛からの仕送りも途絶えた祗王一家でしたが祗王はただただ引きこもって悲しんでいるばかりでした。
仏御前が清盛を訪問した時に余計な口添えをしなければこんなことにはならなかったのに、と後悔しても時はすでにおそしです。
翌年の春になって、その祗王のもとに清盛から使者が来て、「仏御前が退屈そうに見えるので、参って、歌い、舞など舞って、仏御前をなぐさめよ」ときましたが返事をしないでいると
「なぜ返事をしない。来ないつもりなのか。それなら、こちらでも考えがある」という脅しの催促が来ました。
祗王は気が進みませんでしたが母のたっての勧めもあったので妹祗女と他の白拍子二人を連れて出かけると以前の上座と違って下に座らされたのでした。
落ちるくやし涙をこらえつつ
「仏もむかしは凡夫なり、われらもついに仏なり
いづれ仏性具せる身をへだつるのみこそかなしけれ」と2度歌いました。
歌の仏は仏陀と仏御前をかけた意味でしょうか。「仏御前。あなたもむかしは凡夫の白拍子でした。わたしも仏になる身の上 いずれ人はみな仏性をもっております、おなじ凡夫といえど、仏といえど、わけへだてするのはかなしいことでございます。」
祗王の思いも知らず清盛は感心して「これからは、使いがゆかなくても、しょっちゅうここへきて、はやり唄をうたったり、舞ったりして仏御前をなぐさめてやってくれ」と言いました。祇王は悲しみをこらえて家へ帰りました。
祇王はこれからもつらい思いをするなら、身を投げようと決心し、妹も母もこれに同意することとなりました。
しかし、母まで一緒に死なす罪を祇王は恐れて、自害を思いとどまり、三人で嵯峨の奥の山里に尼となって引きこもりました。
人里離れた嵯峨の庵で夕暮れに親子三人念仏していると杉の戸をたたく音がしました。
化け物が来たかと恐る恐る戸を開けると、これが意外にも仏御前でした。
「清盛様に召されても、書きのこされた和歌が、もっともと思われ、いつか我が身の上と思えば、ちっとも嬉しくはありませんでした。いつぞやはおいでになって、唄をうたって下さった時も、恩を仇でかえしたようなわたしの身の上をつくづく情なく思ったことでございました。
その後、祇王様が尼となって念仏修業にはげんでいると聞き、羨ましくて、お暇を乞うたが許されませんでした。現世の栄花は夢の夢、楽しいこととて、いったいなんの楽しみでございましょう。今朝決心して、ひそかに邸を出て、この姿になってお訪ねしました」といってかぶりものをとると、すでに尼姿になっていました。
祗王は、涙をこらえて、
「あなたが、これほど思っているとは知らず、我が身の不運と思えば良いのに、あなたを恨んで往生を遂げることができないでおりました。この世もあの世も中途半端な失敗した者と嘆いていましたが、今あなたの姿を見て、心がすっかり晴れました。
私の出家は世を恨み、人を恨み、我が身を恨んでのことでしたから、あなたさまの出家にくらべたらものの数ではありません。あなたは恨みもなし、嘆きもなし、今年わずかに十七歳になるばかりで俗世を捨てて浄土をねがう深い心こそ誠の仏でございます。私たちを導いてくださる仏道の師はあなたしかおりません。」と言って
「これからは、この庵で四人いっしょに住んで、仏前に花香をそなえ、朝夕念仏を講じれば、多少の早い遅いはありましょうけれど、それぞれ、浄土へ往生できますでしょう」と手をとりあいました。
以上は『平家物語』の巻第一「祇王」に出てくるあらすじでした。
平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」で始まっています。
この世を去る前に、夢から目が覚めて「春の夜の夢のようだった」と思うのか、それとも眠ったまま、再び別の夢を見るのかはその人の人生の熟成次第かもしれません。
もし夢を見ているものだけが夢ではなく
現実だと思っていたあらゆるものすべてが夢だと気がついたなら
心をかき乱す不安や恐怖の正体を見破り
本当に自分がやりたかったことを
する勇気が湧いてきます。
他人の人生ではなく
自分の人生を生きるようになるでしょう。
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