Facebook近藤裕子さん投稿記事 🍀🍀耳をすませば🍀🍀
「幽鳥弄真如」 ゆうちょう しんにょを ろうす 古松談般若 幽鳥弄真如
松が風に吹かれて ザワザワと鳴る音も 聞きようでは 般若心経にも聞こえます。
鳥のさえずりも 真如の声であると受け取ることもできます。
こんな意味合いでしょうか。。。
ものの見方一つでどのようにも取れるのが世の常です。
誰が、 どこから、何を、どのように見渡すのかで ものの見え方は変わってきます。
鳥の鳴き声も、風にそよぐ木の葉のざわめきも、わたしたちが聴こうと思わなければ耳に入ってきません。
自然の中で、耳を澄ませ、自分の心に向き合ってみれば、今まで聞こえなかった心の声が聴こえるかもしれません。
厳しい暑さの中ですが、木陰の風を心にも取り入れたいものです。
http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/hokouzen.htm 【歩行禅】
https://www.cari.ne.jp/candana/2022/10/15/572/ 【「明日への提言」】より
よく生きるための「対話」と「思考」
――ロジャーズの「深い傾聴」「内臓感覚的思考」に学ぶ
諸富 祥彦(明治大学文学部教授)
1.はじめに
私は、「対話」に関心がある。その対話を通して、思考が深まり、人が、よりよく、より自分らしく生きることができるような「対話」に、関心を注いでいる。
そして、自分のしているカウンセリングとか、心理療法といったものが、「思考」が深まり、「自分」が深まっていくような「対話」の典型的なものであると考えている。
一言で、「対話」と言っても、さまざまな種類、さまざまなレベルのものがある。
たとえば、テレビの討論会や、学会でのシンポジウムの対話の多くは、あまり質の良くない対話の代表例である。相手の話を聴いているうちに、自分の中からただ条件反射的に思い浮かんだことを口にしているだけだ。
一方、より質の高い対話も、たしかにある。
その人と話をしているうちに、普段はぼんやりしている自分の考えが明らかになってくる。自分が何をほんとうは考えていて、何をどうしたいのか、話をしているうちに、わかってくる。なんだかその人と話をしていると、一歩前に進めた、停滞していたプロセスが一つ先に展開した、という実感がある。
それが、「ほんものの対話」である。
話そうと思ってあらかじめ準備していたことを理解してもらえた、というだけではない。その人と話をしていると、ひとりでいるときよりも、自分の思考の核心により近づくことができた、という実感がある。ほんとうにわかってもらえていると、人は、自分自身の本質により近づいていくことができるのである。
このような、その対話において、対話参加者ひとりひとりの、自分自身との対話が深まっていくような対話、より深くものを考えることができるようになり、よりよく生きていくことができるような対話、そんな対話の一つのモデルとなりうるのが、現代カウンセリングの礎を築いたカール・ロジャーズのカウンセリングである。
2.ロジャーズ「傾聴」という「対話」の本質
ロジャーズがカウンセリングの必須の条件として説いた「受容」「共感」「自己一致」という考え、その方法である「傾聴」は、カウンセリングや心理療法の枠を超えて、教育、産業、医療、福祉、介護など、さまざまな分野の中心的な方法論となっている。
ロジャーズの説いた「共感」「受容」は、一見わかりやすいがために、「人間としてのあたたかさ」のように、曖昧に理解されるにとどまっている。表現の平易さがあだとなって、かえって本質的な理解が妨げられてしまうケースがしばしばあるがロジャーズはその典型的なケースである。
ロジャーズの思想と方法の本質の一端は、そのラディカルさ(徹底性/過激さ)にある。ロジャーズは、治療者と治療される者との関係をひっくり返し、教師と生徒の関係をひっくり返し、夫婦関係や恋人関係をこれまでとはまったく異質のものに転換しようとした。さまざまな人間関係についてまわる、こりかたまった常識や通念から、人間を解放した。ロジャーズが一部の人から「永遠の非行少年」と呼ばれるゆえんである。
ロジャーズは、一人ひとりが自分の「内臓感覚=内なる実感」に即して、自由に生きることを徹底的に尊重した。社会の通念に染まり、「自動機械」のようになって、パターン化された思考を自動反復しつつ生きるのは、「人間」として生きていると言うに値しない。
そこに貫かれているのは徹底した自由である。自由であること、自分らしくあることをやめるくらいなら、狂気であることをすらロジャーズは厭わないだろう。
では何が必要なのか。
「相手の声に耳を傾ける」――これが、「すべての人がより自分らしく生きることができる世界」をつくっていくための最初の一歩である。
「相手の話を心から聴こうとする」――これが、その対話が、対話参加者の一人ひとりがより自分らしく、より深く、より自由にものを考えていける対話の第一条件である。
ロジャーズは「静かなる革命家」と言われていた。一人ひとりが、より深く、より自由に、より自分らしくものを考えていくことができる、そうした社会づくりのための「変革のツールとしての対話」を、呈示した人物である。その意味で「革命家」である。そしてその「変革のツールとしての対話」方法が、「傾聴」、相手の話を心から聴こうとする姿勢なのである。相手を論理的に説得することでも、議論で打ち負かすことでもない。データで説得することでも、ましてや巧妙なディベートの技術でもない。「傾聴すること」こそ、人を変え、社会を変えていくための最大のツールなのである。
3.ロジャーズが「発見」したもの
ロジャーズがカウンセリングの実践やそれに基づくリサーチの中で「発見」したのは、次のようなことであった。
カウンセリングの場で、悩める人のこころの声に深く耳を傾けて受け止め、傾聴していくにしたがって、人は、おのずと、周囲の期待に応えるのをやめていく。その社会の、定型的な思考を自動機械のようにおこなっていくのをやめる。自動機械のようにパターン化された思考を繰り返していた人が、立ち止まり、「ええっ。うーーん、、、、、」と、自分の内側に入り、内側の暗黙の感覚、思考の辺縁に触れ、自分の言葉で語るようになっていった。この「観察事実」をロジャーズは「発見」したのである。
ロジャーズのカウンセリングで、深く耳を傾けられていると、人はおのずと、それまでとは「違う仕方」「異なる様式」でものを考えるようになっていった。「思考の様式」「思考の仕方」が変化していった。その社会に属していると自ずと身につく定型的な思考を自動機械のように反復するのをやめていった。そうした「〈社会内的なあり方〉」(社会内的思考様式)から「離脱」していった。
同時にゆっくりと、自分の内側に深く入っていき、「からだの内側での実感」(いわば「内身体的実感」)に即して言葉を探すようになっていった。「あー、あの、、、、何って言ったら、いいか」「うーん、、、」と、「からだの内側での実感」「内臓感覚」から絞り出すように言葉を発していった。「そこに何か、大切なことがあることはわかっているけれど、まだ言葉にならない何か」、その暗黙知にふれながら、何とか言葉にしようと絞り出していった。まだ言葉にならないけれども大切なことがわかっている、という暗黙知は、「内臓覚知」として、一人一人の内側に与えられている。自分自身の言葉を取り戻す時、人はそのようにして自分の内臓感覚から言葉を発するようになる。(〈内臓感覚的思考様式〉)。
4. 相手に「なりきる」傾聴が、「思考の辺縁」にとどまるのを支える
ロジャーズの傾聴の「対話」としての特色は、①聴き手が、自分を消して、相手に「なりきる」こと、相手の「内的なフレーム」の内側から、その内的世界のエッセンスを理解すること、②それにより、話し手は「自分の内側の暗黙の側面(ジ・インプリシット)に浸りながら思考すること。暗黙の側面に浸り、それと共に、思考し続けていくことが可能になること」にある。
これはひとり、カウンセリングの場面にだけ当てはまるものではない。たとえば、私が大学の教師として大学院生の論文指導をする際にも、論文のテーマについて、学生が、真剣に考えるとき、その思考の辺縁、暗黙の側面に浸って考える。よき指導者は、その学生の内側の世界に立ち、学生になりきって、その内的思考のエッセンスを理解する。すると、学生は、自分の思考の辺縁、暗黙の側面に浸り、それと共に居続けながら、ゆっくり、じっくり考えることができる。そして、しばらくその「ジ・インプリシット」「思考の辺縁」にとどまり、あぁでもない、こうでもない、と悶々としていると、ふと「こう考えてみよう」というアイディアが浮かんでくるのである。論文作成の最大の援助法は、論文執筆者自身の内側の視点に立っての「論文執筆者自身の立場に立ち、論文執筆者自身になりきっての」傾聴である。論文執筆者自身の「ジ・インプリシット」「思考の辺縁」にともに浸り、そこから何かが出てくるのを「待つ」姿勢である。
「内臓感覚」というロジャーズの概念は、最大の後継者、ジェンドリンによってより洗練された形で引き継がれた。ロジャーズが「内臓感覚」と呼びジェンドリンが「フェルトセンス」=「ジ・インプリシット」と呼ぶこの「何か」こそ、そこで思考が立ち止まる「思考の辺縁(エッジ)」である。ジェンドリンはこのことに着目し、思考の辺縁にとどまっての、創造的な思考の訓練方法を編み出した。TAE(Thinking At the Edge)(「思考の辺縁で思考する」)と命名し定式化した。
5.「哲学対話」「探究の対話」とロジャーズの対話
「対話のやりとりの活発化」を目的とせず、対話参加者一人ひとりの「思考の深まり」を目的とする対話に、「哲学対話」「探究の対話」などと呼ばれている対話法がある。哲学を一部の学者のものとせず、市民のものにしようとする運動の中で世界的な広がりを見せている。
「哲学対話」は、対話参加者ひとりひとりの「思考を深める」ためにおこなわれる。一定の「答え」にたどり着くことが目的ではない。対話を通して「考えること」「考え続ける」こと自体が、目的である。答えがない問いについての探求にはゴールがない。「対話」のあとには、モヤモヤが残り、このモヤモヤ(違和感)があるから人は考え続ける。
セーフティ、「安全性」である。頭に浮かんできた考えを躊躇なく、言葉にして言うことができるためには、何を言ってもバカにされない、大切に聴いてもらえる、という安心感、安全感が重要である。
対話のファシリテーターにとって最も重要なのは、「待つ」姿勢である。いつも活発なやりとりがおこなわれている「対話」がよい対話ではない。「対話」の目的は、対話参加者が、より深く考え、よりよく生きることができるようになることである。
そして、より深く考える時、人は、沈黙する。完全にテーマに関心がなくなったがゆえの沈黙は無意味だが、自己内対話が深まっている時の沈黙は、たいへん大きな意味がある。深く考えるとは、自己と深く対話することであり、自己との対話は沈黙のうちにおこなわれる。「待つ」ことは、対話ファシリテーターにとってもっとも重要な姿勢である。
ロジャーズの「傾聴」の対話になじんできた私から見ると、哲学対話は、いささか拡散的である。思考が深まる場合も深まらない場合も、自由に任されている。対話としての「密度」「濃度」は何によって決まるのであろうか。
対話が「密度」「濃度」の高い対話であるために、必要なものは何であろうか。
対話参加者は、カウンセリングのクライアントのように、あるいは、修士論文作成者のように、切羽詰まったテーマを抱えているわけではない。
またロジャーズの方法のように、相手になりきって聴くわけではない。どちらかと言うと「聞き流し」が基本である。すると、話し手が、自分の内側の「暗黙の側面」「思考の辺縁」にとどまりながら考え続けることができるかどうかは、ただ、その話し手の力にゆだねられることになる。また、自由を重んじるために、対話の拡がりはどちらかと言えば、拡散的である。
哲学対話に、ロジャーズ的な傾聴の要素が加わったら、どうだろう。つまり、①全員で集中できる押し迫った問題を共有する、②話し手の話を、聞き手は聞き流すことなく、話し手になりきって、深く傾聴する、この二つの条件を付しておこなうならば、いかがだろうか。①対話参加者の一人一人は、その切羽詰まった問題について、より集中して思考し、②みずからの思考の辺縁、そのまだ言葉にならない暗黙の側面に浸り、それに触れながら考える、ということが促進されるのではないだろうか。
おわりに
昨今、「対話」がブームである。私がかかわっている教育現場でも、産業界でも、「対話」に大きな期待が寄せられている。
しかし同時に見られるのが「対話疲れ」とも言うべき現象である。
「対話のための対話」になり、「対話が自己目的化」して、「とにかく対話が大事なのだ」となって、「対話をするために、対話している」となる。その対話によって、思考が深まり、互いに相互影響しあうことで、かけがえのないつながりを見出し、そのつながりにおいて、さらに個の思考が深まっていくのが真の対話であるはずなのに、思考の深まりも、相互のつながりも実感できない。形だけ、対話を続けることになってしまう。また本来は対話によって生産的な議論がなされ、そこで見出されたことにコミットして実現することに価値があるはずなのに、いつまでも「対話のための対話」に終始することになりかねない。
コロナ禍における自粛警察に典型的に示されるように現代社会は、「きちんとする」こと、「ちゃんとする」ことが強く求められる社会である(千葉2022)。それは「秩序化」「単純化」に向かう文化であり、秩序から外れるもの、だらしないもの、逸脱を取り締まって、ルール通りにきれいに社会が動くことをよしとする文化である。「きちんとするのは当然だ」という無言の圧力のもと、「ほんとうにそうか」と、深くものを考えることを排除する文化であると言ってもいいだろう。
こうした社会的風潮の中で、ひとりで「ものを考え続ける」のは困難である。
対話参加者の一人ひとりが、より深く考え、よりよく生きることを刺激しあえる「ほんものの対話」が求められている。その「対話の質」の向上のために、ロジャーズの「傾聴」は大きな示唆と具体的な方法論的手掛かりを与えてくれる。
参考文献
千葉雅也 2022『現代思想入門』講談社現代新書
諸富祥彦 2021『カール・ロジャーズ カウンセリングの原点』角川選書
土屋陽介 2019『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』青春新書インテリジェンス
◆プロフィール◆
諸富 祥彦(もろとみ よしひこ)
福岡県生まれ。1986年筑波大学人間学類、1992年同大学院博士課程修了。英国イースト・アングリア大学、米国トランスパーソナル心理学研究所客員研究員、千葉大学教育学部講師、助教授(11年)を経て、現在、明治大学文学部教授。教育学博士。臨床心理士。公認心理師。
日本トランスパーソナル学会会長、日本カウンセリング学会認定カウンセラー会理事、日本生徒指導学会理事。
著作としては、『知の教科書 フランクル』(講談社選書メチエ)、『魂のミッション―あなたが生まれてきた意味』(こう書房)、『哲学的探究における自己変容の八段階―「主体的経験の現象学」による“エゴイズム”とその克服過程に関する考察』(コスモライブラリー)、『カール・ロジャーズカウンセリングの原点』(角川選書)、『いい教師の条件』(SB新書)ほか多数。
また、「あさイチ」(NHK)、「中居正広のミになる図書館」(テレビ朝日)、「解決!ナイナイアンサー」(日テレ)、「私の何がイケないの?」(TBS)、「ザ!世界仰天ニュース」(日テレ)など、テレビ、ラジオにも多数出演。一般の方も参加できる「気づきと学びの心理学研究会〈アウエアネス〉」を主宰し、体験的な心理学の学びの場(ワークショップ)を提供している。(ホームページ:https://morotomi.net/)
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