Facebook相田 公弘さん投稿記事
円融便り 昭和55.9.1発行 第33号
□「弱いから」 相田みつを
わたしは弱い人間だから ふつうの人といっしょでは とても骨が折れるんです
みんなといっしょでは とてもついてゆけません
わたしはのろまだから 同じことをやるにもひと(他人)より はるかに手間がかかるんです
わたしは気が小さいから まわりのことが 非常に気になるんです
わたしは怠け屋だから いくつになっても おっかない師匠が 必要なんです
わたしが どうしようもない人間だから 安心できる 観音さまが必要なんです
いつでも どこでも どんな場合でも わたしをじっと見ていてくれる仏さまが必要なんです
□武井哲応老師随聞記 相田みつを 「智門蓮華」
泥水の中でも
昔、中国に智門という和尚がいた。そこへ或僧がきて問うた。
「蓮華未だ水を出でざる時如何?」
智門が答えた。「レンゲ(蓮華)」
するとまたその僧が尋ねた 「出でて後如何?」
智門がまた答えた。「カショウ(荷葉)」
〈荷葉〉とは蓮のことだ。蓮の異名だ。蓮華未だ水を出でざる時、というのは、つまり、蓮が水中にもぐっている時、ということだ。蓮というのは花の咲くまでは泥水の中にもぐっている。泥水とは人間の煩悩妄想(迷い)のことだ。この場合の蓮は自己だ。いつもいうように他人ごとじゃない、自己自身のことだ。自己が煩悩妄想の中にいる時はどうだ?ということだ。それが〈蓮が水を出でざる時〉だ。泥水につかっていようが蓮は蓮だ。泥水から出て花を咲かせた時、それは煩悩妄想(人間の迷いの世界)から脱却した世界だな。その時も蓮は蓮だ。つまり、泥水のの中につかっていようが、泥水から出て花を咲かせようが蓮はどこでも蓮だ。
ここを押さえることが先ず一番大事。自己が煩悩妄想の世界を迷っていようが、そこから抜け出して悟りの世界にいようが自己はいつでも自己だ。そこを一つしっかり押さえる。
そこで安心してはいけない
すると、人間て、いうものはすぐこう思う。
「ああ、そうか、泥水の中にいようが、そこから抜け出そうが、自己そのものには少しも変わりがないのか。そんなら何もアクセク骨折ることはない。と安易に考えてすぐそこへ腰を落着けてしまう。安心してしまう。また、その反対に、なんとか泥水から抜け出そうと、アセリにアセッていらいらしたり、欲求不満を起こしたりする。人間というのは、この二つのうちのどちらかに大体片寄る。レンゲは人間のようにそんなみっともないまねはしない。
レンゲは泥水の中にいる時も、水から出て花を咲かせる時も、いつでもどこでも、その時その時を、いのちいっぱいに、レンゲのいのちを生きている。
泥水の中にいる時は泥水の中で、いのちいっぱいに生きている。そして、時がくれば水から出て美しい花を咲かせる。
時がくればということは、つまり、時節因縁だ。時節因縁がくれば泥水の中の蓮が水から外へ出て花を咲かす。そして、時節因縁がくれば、やがてまた枯れて水の中にもぐる。それが蓮のいのちだ。蓮のいきざまだ。
そこまでまた、時節因縁というと、人間はすぐ「そうか」と安心する。時節因縁がくれば俺も花が咲く-なんて腰を落ち着けてしまう。時節因縁のいうのはそんなもんじゃない。泥水の中に腰を落ち着けることも、水から抜け出ようとアセリにアセルことも一切を放下して、自己が自己として、その時その時を、一所懸命に、いのちいっぱいに生きてゆくことだ。それが智門のレンゲだ。
ま、いま、〈智門の蓮華〉という有名な公案を採り上げて、コタコタ説明したけれど、そんな説明は本当はなんにもしなくてもいいのだ。
「蓮華未だ水を出でざる時如何」
「レンゲ(蓮華)」
「出でて後如何」
「カショウ(荷葉)」
すっきりとこう言えばいい。
※相田みつを縁の栃木県足利市・高福寺
参禅して武井哲應和尚に”正法眼蔵”を説かれる
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