Facebook船木 威徳さん投稿記事·
【 人生に起きる苦難とは本質的になにか 】
~逮捕・拘束された状況で心身の健康を保つ方法 続編~
同じ題で投稿した昨日の私の記事に、想像をはるかに超えた方々からメッセージをいただき、ありがとうございます。特に、隠すべきことでもないので、ありのままを話しますが、あくまで目的は、私が世間的にはきわめてまれな経験をしたことで、なにを得たかをお伝えすることです。まちがっても、特定の人物や組織、機関を批判するものではありませんし、繰り返しますが、私は陰謀論者でも、反ワクチン論者でもありませんので、誤解のないようお願いします。
どこまでも、私は、自分の資格や立場、これまで得てきた知識、人間関係とは無関係に、真実を知ることに自由でありたいと願う者です。そして、私は、人間は真実・事実を知らなければ、真の意味で自由ではあり続けられないと考えています。
自分が生まれて以来、長く教えられてきたこと、あるいは、個人的に愛してやまない日本の文化のなかで常識とされてきたことも尊重はしますが、真実・事実に基づいて自分で考え、自分で行動することこそ、私が人生でもっとも重要な軸とするところです。
たとえば、私は医師として、一般の人々がなかなか知り得ない薬剤の副作用・副反応を知ったなら、そして集められるだけの情報を吟味し、たとえ、その薬剤が国や専門機関が推奨するものであったとしても、私が人間としての良心にかけて、私の担当する患者さんに使用すべきではないと判断するなら、その事実と、私の方針を伝えます。
それでも、患者さんがその薬剤をどうしても求めるなら、そのあとのリスクに対応することを含めて、主治医として対応することになります。常に毒として作用するかもしれない「薬」を処方・投与する医師には、それだけの責任が伴うことは当然ですから、なおのこと、初めて世に出る薬剤の使用には医師の相当の情報収集と覚悟が必須となるのだと、私は考えてきました。
さらに、医師は、患者さんが、心身がより健やかに生きる権利を守るだけでなく、「社会的に」も、可能な限り、支障なく、より豊かに生きる権利を守ることにも関心を持たねばなりません。医師の国家試験に相当な配点で「公衆衛生学」の分野が含まれていることからもわかりますし、医学部では法学を学ぶのもごくあたりまえのことです。
2020年から始まった新型感染症の騒ぎでは、おもに不安を煽るだけの報道が先行し、それまでの医療の常識では考えられないほどのスピードで「予防薬(注射)」が世に出てきました。薬剤としての効果効能、安全性についてほとんど国や製薬メーカーからの十分な情報提供もないまま、さらに、その薬剤の投与を受けたくない人たちの権利について、私の目にはほとんど議論もなされないまま、ただただ投与の推進がなされてゆきました。
注射を打たないと仕事をクビになる。注射を打たないと実習が受けられず、場合によっては退学しなくてはならない。注射を打たないと入院先・介護施設にも入れず親の最期にも見舞いにさえ行けない。注射を打たないと海外に渡航できず仕事を失ってしまう・・・。
当時は、ほとんど毎日のように、私のもとに相談が寄せられ、夜中まで話し合ったことも幾度もありました。政治の世界、行政の現場では、たびたび「少数派・マイノリティーの権利」を取り上げますが、その時期の、注射を打ちたくない、打たないという意志を表明した「少数派」の人たちに対する、学校や職場、公共施設から一般のお店における不利な扱いは、私の想像を絶するものでした。
私は悩みに悩んで、そうした人たちに、緊急避難的に接種済み証明書を発行しました。のちに、その証明書を有効にするための行政からのお金(接種にかかる委託料)を受け取ったことが犯罪だとされたことは私も納得しているところです。過去例のない特殊な環境で生まれた少数者が、充分な権利擁護がなされていたとはいえない混乱期に起きたことで、かつ、やむにやまれぬ事情で証明書を希望していた人たちにもそれぞれに「期限」があっただけに、私も「もうすこし様子を見ましょう」とはとても言える状況ではなかった。それが事実です。
まえおきが長くなりましたが、前回、私は自分のこれらの一連の経験を通じて考えたことのなかで特にお伝えしたいことを
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1. 自由を拘束された状況で心身の健康を保つ方法
2. 人生に起きる苦難とは本質的になにか
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に絞ってまとめたのですが、今回は2つめの「人生に起きる苦難とは本質的になにか」について話そうと想います。
2. 人生に起きる苦難とは本質的になにか
さて、私は、悪意はまったくなかったどころか、なんとか患者さんの権利を守ろうとしたことによって、自分が被疑者とされ、通常はありえない長期間の身体拘束を受けたあげくに、起訴され、最終的に犯罪者とされるという経験をしたわけです。個人的に、社会的に失ったものや、経済的な損失も相当なものとなりました。
そう簡単に「しょうがなかった」で片付けられる話ではないことは、容易にご想像いただけるだろうと想います。実際、日に日に体重が落ち、一度は私も完全に気を失って、倒れたことがありますが、そんな状況のなか、自分の身に起きたことに意味づけをするのは、非常に時間のかかるものでした。
今年5月に公判は結審し、以降、私は新しい事業の準備を進める傍ら、何十冊もの本を読んできました。そのなかで、私は、中学生のころに読んだきりだった、『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル著)という世界的な名著に40年近くを経て向き合うことになりました。
お読みになった方も多いでしょうから、あらすじは省略します。ユダヤ人の精神科医だったフランクルは妻、両親とともに、ナチスの強制収容所に突然送られ、父親が最初に死亡したのちに家族はばらばらになります。妻と母親の消息も分からないまま、終戦まで2年半にわたり収容所で強制労働にあたるなか、まわりのユダヤ人たちが次々に亡くなってゆくさまを見るという壮絶な体験をもとに書かれた作品です(妻、母親も死亡していたことをのちに知らされました)。
学校の授業や教育番組でも取りあげられる本ですが、私はこの著者がどうしても伝えたかったことこそ、
『私たち人間のなすべきことは、生きる意味はあるのかと「人生を問う」ことではなくて、人生のさまざまな状況に直面しながら、その都度、「人生から問われていること」に全力で応えていくこと』
なのだと感じました。とはいえ、本書の最重要点だと感じたものの私には正直、よくわかりませんでした。そもそも「人生から問われる」とはいったいどういうことなのでしょうか。
私たちは、たしかに、とんでもなく苦しい経験をしたとき(私は、仕事柄、とくに不治の病におかされた人々の苦しみ、悩む様子を何千回と見てきましたが)、「こんな苦しい人生になんの意味があるのか」と問います。そして、たとえばその苦しい経験が病気なら、治癒をみた時点で本人は、あるいは結果としてご本人が亡くなったなら、遺族は「苦しい経験を通じて、こんなことを学んだ、大切なことに気づいた」という体験を通じて、「人生とは~なのだ」という意味づけをするものでしょう。
しかし、フランクルは「そうではない」と言うのです。
ある学者は、これを
『人間の原点は「人生から問われている者」であるところにある---したがって、人間にできること、しなくてはいけないことは、人生のさまざまな状況に直面しながら、その都度その都度、状況から発せられてくる「問い」に全力で応えていくことである。その状況にひそんでいる真の「意味」を発見し、それに全力で応えていくことである。そして、そうすることで自分の人生に与えられている「使命(ミッション)」をまっとうすることにある』
と言いかえます。つまりは、私から人生にむかって「意味」を問えば、やがては自身の主観でその意味が見いだせるようなものではまったくなくて、「私を超えた向こう」から、私のところに、「私がなにもしなくても、もうすでに、与えられてしまっている」のが、人生の「意味」なのだ、と。したがって、私(という固有の存在)がなすべきは、「私の足下に、常にすでに送り届けられてきている<意味と使命>を、発見し、実現していくこと」ただ、それだけであり、勇気をもち、こだわりを捨てて、人生のこの素晴らしい真実を受け入れていくだけ、なのだと説くのです。
フランクルは、私にすでに届けられている「意味と使命」を実現するときに必須なのは、ただ落ちているものを拾うような行為ではなく、「応答する」ことだと言います。彼は、著書のなかで、「応える antworten(独語 = answer」ことと、「応答する ver-antworten(独語 = respond)」ということばを明らかに使い分けています。そして、人間存在のあるべき姿の核心は、常に応答できるよう、「応答責任を果たす体制になっている」ことなのだとしているのです。
「応答責任を果たす体制になっている」ことでなされる行動は、けっして一般論としての方針ではなく、徹底的に具体的なしかたでなされるべきです。『夜と霧』には、さらにこんな一節があります。
『とにかく具体的な運命が人間にひとつの苦しみを課すかぎり、人間はその苦しみの中にすらひとつの責務を、すなわちひとつの完全に一回的な責務を、見なければならないだろう。人間はたとえ苦しみに直面したときですら、次のような意識へとみずから到達しなければならない。すなわち、そのような苦しみに満ちた運命とともにありながら、いわば全宇宙に一度限りそして比類なき仕方でもって立っているのだという意識へと人間は到達しなければならないのである。』
私は、昨日の投稿でも話したように、無意識に、あるいはあたりまえのように知っていたのです。前回、「自由を拘束された状況で心身の健康を保つ方法」として、「人智を超えた霊的な存在と個人的な関係を持つ」こと、その(人格的)存在と個人的にコミュニケーションをとることをまず挙げました。実体験として、そこに、明確な交流があるとしか想えないことが幾度となくあったからです。フランクルの言うところの「人生」とは、そこに人格をもった、「人生」そのものを創造し、私たちに与えた存在を認めない限り説明ができないものなのです。つまり、その「人生」を人間に与えたという行為をもって、自らを人間にむかって現わした存在を、フランクルは「人生 Leben」と表現したのだと。
人によっては、それは「神」と表現するかも知れません。「仏」や「守護者」、「創造主」かもしれません。
フランクル研究家のひとり(ラファエル・L・シロニス)は、こう言います。
『フランクルの言う「人生は私から何を期待しているか」という観点は「人生そのものや存在そのものに対する絶対的信頼、絶対的希望を要求する」。だが、そのような絶対的信頼は、「絶対的存在である神への信仰なしには考えられない」』
話はもとに戻りますが、「人生にどんな意味があるのか」と問うありかた、すなわち「人生から何をわれわれは期待できるか」という(よく見られる)とらえ方を、「自己中心的な観点」と呼ぶ研究者もいます。それに対して、「人生が何をわれわれから期待しているか」というとらえ方を「世界中心的な観点」と呼びます。フランクルは、人生の意味を探求するときに「自己中心的な観点」から「世界中心的な観点」へと切り替えることを提唱しているというのです。
「自己中心的な観点」とは、自己を中心として人生をとらえる見方で、すなわち「自分の人生は自分のものであり、自分でどうしようが自分の自由だ」という態度といえます。たしかに、これは、自由な生き方と感じられるのですが、その自由な生き方を積み重ねて得られた人生そのものの「意味」はだれも保証はしてくれませんし、私のように拘束されてしまったとき、そこに「何も期待できない」極限状態に陥ったときに、もはや自分を支えてくれるものはなにもないのです。
一方、「世界中心的な観点」で見てゆくなら、自分の人生は自分のものであるけれど、そもそもその人生は自分が創りだしたものではないし、その人生を生きている「いのち」さえ、「自分を超えた何ものかから与えられたもの」だと、人間は容易に気づくはずなのです。
この「自分を超えた何ものか」というのは、キリスト教では「創造主なる神」ですし、仏教では「四恩」(国土の恩、衆生の恩、師の恩、父母の恩をあわせたもの)のこととなります。そうすると「自分は『自分を超えた何ものか』に生かされている者として、自分の人生は『自分を超えた何ものか』から与えられたものであり、『自分を超えた何ものか』に対して、あらゆる瞬間に応答義務を果たすことを通じて、自分の人生を生き抜く責任を担っている」ことになるのだと、私は考えるに至ったのです。
「人生に起きる苦難とは本質的になにか」という問いに答えるなら、
<人間を超えた何ものかと、かけがえのない私が、私の責任において深いコミュニケーションを取り合うことで、私だけに用意された使命を知り、私だけに与えられる生きる意味、喜びを確認するための機会>
と、いまの私は答えるでしょう。私の感じる苦しみが大きければ大きいほど、私に用意されている使命は、私のなかでますます大きなものになるでしょうし、私だけに与えられる生きる意味、喜びも、私のなかで、ますます大きなものになるのだと、実感をもって信じられます。
もしも、私たちの生きる意味が、私たちが中心になって(ある意味で傲慢に)人生に対して問い、見出したものではなく、あきらかに私たちを生かす「自分を超えた何ものか」が、私たちに個別に与えてくれているものだと信じるなら、私たちの人生にどんな苦難が生じようとも、やがては必ずわかる「意味」があることを信じ、ひとりひとりに与えられた使命があるのだという深い喜びをともなう希望を持てるのではないでしょうか。
少なくとも私は、9ヶ月におよぶ、私の人生で「最高の」苦難を通じて、以上のことに気づいたことで、これまで経験したことのない「自由」を得ました。
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あらゆるものを奪われた人間に残されたたったひとつのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。
あなたの内側にある困難を見つめないでください。
あなたの内側を見つめるのをやめて、あなたを待っているものに目を向けてください。
(ヴィクトール・E・フランクル)
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(ふなきたけのり 2023/06/27)
慈愛マスター@TOMMYEL77
多くの人は嫌いな人や価値観の違う人自分が理解できない人を否定しそれが悪いことだと思いがちです
でも本当は悪いことではないんです
この世界を善悪でジャッジしてしまうと戦いの世界が始まります
この世の中には善悪なんてないと氣がつくと世界に平和と愛が溢れますよ
Facebookごとう 孝二さん投稿記事
「私たち一人一人が愛に満ちた世界に変える力を持っている」
精神医学研究家、ホオポノポノ創始者イハレアカラ ヒューレン博士
〝私たちの人生は100%潜在意識に支配されている〟
一般的に潜在意識が変わると人生激変するということが、まだまだみんなピンとこない人が多いです。
「そんな簡単に変わるわけない!」「潜在意識ってよくわからない」「努力がすべてでしょ、潜在意識使うなんてオカルト⁉︎」
ホオポノポノを世界に広めたことで有名な国連やユネスコでも講演しているヒューレン博士はこう言っています。
潜在意識の中に貯蔵された記憶は人類が生まれてからのあらゆる体験が刻まれています。
辛い体験もすべてです。
その潜在意識の中の記憶は、私たちが毎日生活する上で絶えず私たちを支配しています。
現実に起きるやっかいな問題や苦しい状況があるとしたら、それは潜在意識の中の刻まれた記憶による支配なのです。
重要なのは自分が認識する世界はすべて自分が創り出したもので、「100%自分の責任」
であるということを認めることです。
目の前にある問題は全て自分の内側にある問題なのです。
一人ひとりが世界を幸福に変える力を持っている「100%自分の責任」という意味を多くの人はもう少し狭い範囲で捉えていますよね。
自分自身を愛せば世界も愛に満ちた世界に変化してくるという「責任」なんですね。
自分自身を愛し、癒せば、なんの苦しみも問題もなかったその状態に戻るのです。
私たちはその状態をワンネスと言います。ワンネスとは釈迦の言ったところの〝至福〟ですね。私たちが考える無と同じ状態です。
釈迦やキリストはこの世で人々の苦悩を取り除くためにやってきましたが、
この世界を創りだしたのが私たち自身で、責任があり、自分自身を癒すことによって世界の苦悩を取り除くことができるということは釈迦やキリストと同じことをしているということです。
私たち一人ひとりが世界を愛に満ちた至福に変える力を持っているなんてワクワクします。
その魔法の方法は自分自身を愛し癒すだけ…。
Facebook田中 宏明さん投稿記事
社会に 友人に 家族に パートナーに 期待するから 苦しいんだね
相手に期待という 鎧を被せるのを止めて ただそのまんま生きているその人でいいと思えたらその人はあなたといる時とても身軽に感じるだろうね
そうして安心してこのままの自分でいいんだと思えたら誰もがみんな自分に優しくなれる
そうしたら誰も相手に期待なんかしないずっと誰かに求めていた優しさがすでに自分の
中にあると気づいたのだから
もし今日あなたの世界を優しくしたいなら他人にも自分にも期待しないこと
このままんでいいと受け入れること それだけで十分です
では皆さまも良い一日を🌈😊 らぶ💓
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