価値観は色眼鏡

Facebook近藤裕子さん投稿記事  🍀🍀心に宇宙を🍀🍀

「一心不生 萬法無咎」いっしんにしょうぜざれば    ばんぽうとがなし

 一心に生ぜざれば、萬法咎なし。

心が起きさえしなければ、どんな存在も咎めることはない。という意味です。

心が起きるとは「相対的な見方」をすることで、 良し悪しの考え方が表れた瞬間に、心は乱されて正しい判断が出来なくなります。(引用)

世の中のあらゆる問題はこれが原因です。

一心が生じなければ、一切の世界に問題は起きない という言葉です。

家庭や社会に於いても同じです。 

本当の平和はお互いの価値観を認め合うことから訪れます。


https://ameblo.jp/zuiunzan/entry-11294316767.html 【「一心不生 万法無咎」(いっしんにしょうぜざれば、ばんぽうとがなし)】より

(信心銘)

一心に生ぜざれば、万法咎なし。

心が起きさえしなければ、どんな存在にも罪はない。という意。

心が起きるとはどういうことでしょう。この言葉は「二見」という文の一節です。

その書き出しは・・・「二見に任ぜず、慎んで対尋することなかれ

わずかに是非あれば、粉然として心を失す。二は一によって有り、一もまた守ることなかれ」

(意味)

二見とは「相対的な見方」のこと、そんなものを追ってはいけない。良し悪しの考え方が表れた瞬間に、心は乱されて失われる。

相対は絶対から出てくるものだ、絶対をも固守してはならぬ。

相対(二)も絶対(一)も、どちらにもとらわれてはいけない。

もう少し分かりやすくいうなら、固定した価値観を持つな、ということだろうか。

価値観が決まってしまうと、それに沿っているものは良し、外れているものは悪しと、良し悪し相対の考えに陥ってしまう。

そして絶対的なものに価値観を預けてしまうのもいけない。

それもまた、相対を産み出して、結局は心を失うことだから。

そういった「価値観で物事の良し悪しを判断する」心が起きなければ、この世のすべての存在、すべての物事には罪がない。と、思えるようになるのだ。

報道番組などを見ていると、何か罪を犯した人に対して、やたらと「責任の所在」や「反省の弁」を求め、誰かを殺めた人間などには、決して自分の口では直接言わないものの、暗に「極刑」をうながすような構成でものを言う。

でも自分は思う。

どんな罪を犯した者でも、その人が産まれた事に罪はないのだ。

不思議なもので、平和な国で人を一人殺したら極悪人だが、戦争で敵兵を10人殺せば英雄になる。

価値観なんて、いい加減なものだ。


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Facebook相田 公弘さん投稿記事「ゆるすということ」

許すことは 幸せになるための 処方箋

許さないことは 苦しむための 処方箋

苦しみの原因が何であれ苦しみにはすべて 「許さない」という種が宿っていないだろうか?

復讐の念を燃やしつづけ 愛や共感を出し惜しみすれば健康を害し 免疫が低下することは まちがいない

当然だと思われるような 怒り でもこだわりつづけていれば 神の安らぎを味わえなくなる

許しとは その行為をよしとすることではない 残虐な行動を見逃すことではない

許しとは 怖れに満ちた過去にこだわり続けるのをやめる事

許しとは 古傷を引っかいて血を流し続けるのを やめる事

許しとは 過去の影に惑わされることなく今この瞬間に 100%生き 100%愛する事

許しとは怒りからの解放であり 攻撃的な思いに さよならする事

許しとは誰に対しても 愛を拒まない事

許しとは 許さないという思いから生じた心の空洞を癒す事

許しとは過去に何をした人でもすべての人のなかに 神の光を見る事

許しとは 相手のためだけでなく 自分自身のためであり 自分が犯したまちがいのためであり くすぶりつづけている罪悪感と自分を恥じる気持ちのためである

最も深い意味でのゆるしとは愛に満ちた神から自らを切り離してしまった自分を 許す事

許しとは 神を許すことであり神は自分を見捨てたというおそらくは まちがっている考えを 許す事

いまこの瞬間に許すという事はもう先延ばしせずに ただ 許す事

許しは心の扉を開け感情をスピリットと一体にしすべての人を神と一体にする

許すのに早すぎることはない  遅すぎることもない

許すには どれだけの時間が 必要であろうか?

それはあなたの価値観しだい 絶対に無理だと信じるなら 絶対に起こらない

半年かかると信じるなら 半年かかる 一秒ですむと信じるなら 一秒ですむ

私は心から信じている ひとりひとりが 自分も含めてすべての人を 完全に許せるようになったとき 世界は平和になるという事を

「ゆるすということ/もう、過去にとらわれない」(サンマーク出版)

ジェラルド・G・ジャンポルスキー


Facebook船木 威徳さん投稿記事

【 逮捕・拘束された状況で心身の健康を保つ方法 】

私は、昨年9月に逮捕され、5ヶ月以上にわたり勾留をうけた末、有罪判決を受けました。悪意をもっておこなったことは何一つありませんが、それを言い訳がましく話すつもりはありません。それよりも、この一連の経験が、私の人生になにをもたらしたかをお伝えすることのほうが、数百倍も意義のあることだと信じて、記事にするものです。

よく、「自分軸で生きよう」とか「やらないで後悔するなら、やってうまくいかないほうがはるかにいい」などと言われます。私も、それはそのとおりだと考えてきたし、以前よりも、実感をともなってそう信じられます。とはいえ、現実に、自分のやったことが罪に問われ、得体の知れない力に連日責められることで、事実とはまったく異なる話をするよう強いられる経験をしたなら、おそらくほとんどの人が、自分は悪人なのだ、私は世に罪を犯したのだと、自分で自分を勝手に責めはじめるであろうことも断言できます。

つまり、権力に自由を制限され、逢いたい人に逢うことも、話したい人と話すこともできなくなることに加え、その身体的な拘束がいつまで続くのか分からないという絶望的な状況に置かれるなら、自分のやっていないことまで「こんな悪意をもって、自分がやりました」と、いとも簡単に、強要された作り話を進んで「自白」してしまうものなのです。

なんのために?

相手の望むとおりに「自白」すれば、「自由」になれると考えてしまうからです。冷静に考えれば、やってもいないことを話せば、自分自身への制裁がより厳しくなる、ますます自由を制限されることは簡単にわかることなのに、話してしまうのです。私は、単純に自分に保障されている権利を行使し、いわゆる黙秘を続けましたが、そこで受けたいやがらせは壮絶なもので、係官の口から出てくるウソの数々は想像を絶するものでした。日本が残念ながら、司法(いわゆる「人質司法」と非難されるように)においては後進国というのは事実なのだと感じました。

そんな環境で、20kg以上体重を落としながら、それでも私が、精神的な平静をなぜ保っていられたか、そして、私にとって、この一連の経験はいったいなんだったのか、今年の2月の保釈以降、判決を経て、思索してきたことを記しておきます。

もっとも伝えておきたいことがぼやけないように、ポイントを

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●自由を拘束された状況で心身の健康を保つ方法

●人生に起きる苦難とは本質的になにか

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という2点に分けておきます。

●1. 自由を拘束された状況で心身の健康を保つ方法

私は、25年以上、内科臨床の医師として何万人かの患者さんを診療し、また1000名を超す人たちの最期を看取ってきました。教科書通りの知識では到底受け容れることができないような、不思議な経験もしています。簡単に言えば、「人がなぜこんな状態で生きているのか」、そして「なぜ、ここで死んでしまうのか」という率直な想いを持たざるをえない経験です。正直、分からないことばかりです。そして、私がいつも想うのは、人間は空気や食事「だけ」で生きているのではない、ということです。結論から申し上げると、どんな状況にあっても心身の健康を可能な限り保つために重要なことは、

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1) 人智を超えた霊的な力と個人的な関係を持つ

2) 愛する人と時空を超えてやりとりをできると信じ、そのすべての人に感謝する

3) 可能な限り「塩分」を摂る

4) 漫画・雑誌以外の「本」を常に読む

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1)は、いわゆる「神」や「仏」、あるいは創造主や救い主、守護者と表現されるものです。これは体験しなければわかりませんが、この世界は、目に見えるものだけでできているのではないことは明らかです。もしそうだとしたら説明がつかないことが多すぎます。私は、これが唯一の神だ、信じるべき対象だ、などとはここでは話しません。大切なのは、私たちが超自然的、人間を超越した存在と「個人的な」コミュニケーションを取りうると信じ、実際に、そのやりとりをことばに出して行なうということです。こうした私たちを超越した存在とコミュニケーションをとることは、だれもがどこかで自然にやってきているはずで、通常、その方法を「祈り」と呼んでいます。特定の宗教的な行為に限らず、人間の「祈り」が、時間や空間を超えて、他者のトラブル回避、病気の治癒にあきらかに効果をもたらすことは、科学的に証明されています。ここで大切なのは、病気を治して欲しい、~を釈放して欲しい、などと結果を祈り求める(ことももちろん大切ですが)のではなく、「それに応えてくださる存在」を心から認め、畏れることはもちろん、個人的な関係のもとコミュニケーションを取ることなのだと私は考えるのです。

2)は、私たちが、積極的に関わってきた、関わりたい人たち、すなわちなんらかの縁があり、もらってきた「愛」を感じる人たちすべてが対象となります。私が、「縁がある」と書いたのは、その相手に憎しみしか感じていないとしても、この世でなんらかの人間関係を与えていただいただけで奇跡的なことであり、私たちが無関心で、無縁な相手でない以上、まず、感謝すべきだと考えるからです。自分を愛してくれる人に感謝することはだれにでもできます。ですが、自分をおとしめた、あるいは自分を憎んでいる「敵」にこそ、感謝すべきです。その「敵」である誰かにも、両親がいて、ご先祖がいて、愛する人たちがいるのです。私たちがもらった縁は、偶然の産物ではなく、すべてに意味があります。そして、相手とどれだけ離れたところにいても、その想い、愛を込めたことばは「必ず」相手に届きます。手紙のやりとりや面会ができなくても、決してあきらめる必要はありません。

3)も絶対に知っておいてほしいことです。人生において、身体拘束を受ける人はまれでしょう。ですが、忘れないでほしいことは、どんな状況、環境にあっても、必ず「塩」を意識して摂ることです。天然塩でなくてもかまいません。醤油やソースでもかまいません。人は生きている限り、コンスタントに塩分を失ってゆきます。世間でいう「減塩」が必要な人は、重度の心臓病や腎臓病をわずらっているごく一部です。塩が足りなくなると感情や思考が不安定になり、長期になると、考えていることと行動が一致しなくなり非常に危険です。このことを熟知している権力者は、歴史的にも(もしかしたら現在もそうかも知れません)、捕らえている者に徹底して塩を与えないようにして、相手を無気力に、無抵抗にしてきました。塩を意識して摂ると、自然に水分も摂るようになります。

4)は、読書の好き嫌いに関わりはありません。普段から読書をしている人の精神状態が安定しやすいことはよく知られており、その理由として、私は、読書が結局は、著者とだけではなく、自然に自己との対話を促すことになるからだと考えています。精神を病ませるのは「孤独」です。読書を毎日していて、孤独にさいなまれることはありません。知識や智慧を得るだけではなく、読書は、どんな状況にあっても、私たちを無数の他者とつなぐ強い架け橋になります。私は、拘束されてきた期間中、同じ境遇にあった人たち何十人と話しましたが、精神的な平静を保ち、自暴自棄になっていない人たちの全員が、雑誌・漫画以外の本を常に読んでいることに気づきました。なお、参考までに記しておきますが、留置場、拘置所において「接見禁止(面会を禁じられる)」という措置をとられることがありますが、その際でも、書籍の差し入れは(よほど内容に問題がないかぎり)常に可能です。1冊の本が、自由を拘束されている人の命さえ救いうる事実を私は目の当たりにしました。

私たちが生きている世界は、おそろしい勢いで変わっています。私には、その変化は偶然起きているようにも、好ましい状況を目指しているようにも見えません。

誰とは姿を表わず、名もはっきりしないけれど、しかし、社会のすみずみまで入り込んだ不気味な意図を持った力が、あきらかに「究極の着地点」を目指して、着実にこの世界を変えようとしています。いえ、変えるのではなく、「計画的に壊そうとしている」ように感じられてなりません。

私は(たいていはその本当の意味すら理解していない人たちに)、陰謀論者だと、さんざん揶揄されてきましたが、私自身は、陰謀論など信じていません。私自身は単に、事実を知りたいだけです。そして、本来、「まともな感情や思考を与えられた人間」なら、当然のことだと想いますが、

『自分が「それ」を長く信じてきたかどうか、生活や仕事、自身の誇りを「それ」に依って立たせてきたかどうか、などどうでもよいことで、「それ」が<事実かどうか、信じるに値するかどうか>だけが重要なのです。いまさら、変えられるはずがない、などと「誤り」にしがみつくことで、自分を保てるのだと自分に言い聞かせ続けるのは、かけがえのない自分自身を欺くことに過ぎず、延(ひ)いては、大切な命さえ失うことになりかねない』のだと信じているに過ぎません。

私にとって、どんな権威が言っている、科学論文で報告されている、マスコミや世間で大勢の意見だと聞いている・・・など、どうでもよいことです。

事実、真実がなにか。

現代の技術水準で、検証可能なレベルでの証拠を納得がいくまで調べ、それが、ほかでもない、「自分自身の『心』」で、深く納得できるものであるかどうか、だけです。信じてきたことが、信じてやってきたことが誤りだと知ったら、すぐにやめて、やり直せばいい。ほかの99人が正しいこととしてやっていても、私の心が、それは間違いだと気づいたなら、やめるだけです。

間は、人智などはるか超えた存在に、知性だけではなく直感も与えられています。それは、なにが何でも、私たちを生き延びさせるためのすばらしい恵みだと感じざるを得ません。その知性、直感が「やめろ」と警告を与えているのにそれでも、やめないでいること、他者に従い続けることこそ、人間としてもっとも愚かな、真に「バカな」行為だと想えてならないのです。

話が長くなってしまったので、「人生に起きる苦難とは本質的になにか」は、次回、お話しします。

船木威徳(ふなきたけのり 2023/06/26)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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