潜像の垣根を超える

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南方熊楠 (みなかた くまぐす 1867~1941)が37年間住んだ和歌山県田辺市を訪問したことがあります。田辺市には合気道の植芝盛平の生誕地とお墓もあります。

南方熊楠 がオカルティズムに強い関心があったことはあまり知られていないようです。

熊楠家の蔵書に神智学協会を創設したブラバッキーの「ベールを脱いだイシス」や「シークレットドクトリン」や心霊科学協会を創設した一人のフレデリック・マイヤーズの著書がありました。マイヤーズの造語にテレパシーがあります。マイヤーズは神智学協会の会員でした。

オカルトの言葉は神智学協会会員のA ・P ・シネットによる1881年出版の「オカルトの世界」からと言われています。

オカルトは「隠された」「秘められた」という意味を持つ言葉で、その知識体系を「オカルティズム」といいます。その範囲は広く、錬金術、カバラ、タントラ、神智学、心霊術、超常現象、体外離脱、ESP、占星術、水晶占い、魔術、妖術、などがあり何をオカルトと呼ぶかは人によって異なります。

物質科学はオカルトを扱うことはできません。オカルトは一部の能力者を除いて見ることも触れることも感じることもできないからです。

ですから、再現ができないので、客観的な検証が不可能なのです。科学者に物質科学以外の現象の体験がなく、また、まわりにもオカルティストが誰もいなければ、オカルトを認めることはできないでしょう。

大多数の一般の人々はオカルトとは無縁の生活をおくっています。

現在、科学でオカルトは門前払いです。

死後の世界やテレパシーなどの非物質的現象は科学者の信念体系を超えているからです。

オカルトは「疑わしい。信用出来ない。いかがわしい」という意味に使われていて嘲笑の的になっています。

神智学が呼ぶオカルティストとは啓発と修行によって最高の智に達したアデプト・マハトマ(秘儀の熟達者)のことで、グレート・ホワイト・ブラザーフッド(聖白色同胞団)の一員となることでした。一部のマハトマは人類の進化に手を貸す為に人間の姿にとどまっているとされています。

しかし、それは明らかに仏教のアラハンタ arahanta (阿羅漢)やボーディ・サットヴァbodhisattva(菩薩)の概念を神智学が換骨奪胎(かんこつだったい)したものでした。

東洋の神秘主義に傾いた神智学協会とは別に薔薇十字の会員だったマグレガー・メイザースは西洋の魔術を復興させようと1865年にゴールデンドーン(黄金の夜明け団)を創設しています。

1848年は近代スピリチュアリズムのきっかけとなった有名なフォックス姉妹によるハイズビル心霊現象事件が起きています。この事件が起きた18年前の1830年に、ニューヨーク州北端の村ハイズビルの村から数キロのところにある、パルミラという町にジョセフ・スミスという人が生まれています。モルモン教の開祖です。

18世紀に産業革命が始まり資本主義が発展して、科学技術が力を持つと宗教は不合理なものとして見なされるようになりました。

その近代化の真っ最中の19世紀後半の西洋にハイズビル事件が起きて、心霊主義、魔術、オカルトが台頭したのです。

反合理的な運動が盛んになり、悪魔の術として教会から禁じられていた水晶占いも息を吹き返しました。

スピリチュアリズムはアメリカ全土に広がりヨーロッパにまで到達しました。近代合理主義によって否定され抑圧された影の局面が表面化してきたのです。

19世紀後半のロンドンはオカルティズムの熱気であふれていました。そのころロンドンに滞在した熊楠はオカルトに対して批判的でした。自然科学に熱中していた熊楠は大英図書館に通い詰めてブラバッキーの著書も読んでいましたが実にならないと批判しています。

高野山管長となる土宣法龍(どき ほうりゅう)との書簡の中で熊楠はオカルティズムを腐ったものと言っていました。

ところが、帰国した後の熊楠の態度は一変します。

マイヤーズの著作「ヒューマン・パーソナリティー」を近来まれなる著作と評し、ブラバッキーの著作の図とそっくりな「ユダヤ教の密教の曼荼羅図」(熊楠の生命の樹)を描いています。

南方熊楠の父は金物商で成功した新興商人でした。熊楠は子供の時から驚異的な記憶力の持ち主で江戸時代の百科事典を暗記して、家に帰って5年かけて百五巻書き写したといいます。自分が興味を持ったもの以外は全く関心を示さず、あらゆる束縛と権威が嫌いでした。無味乾燥な学校の授業は嫌いでも勉強は大好きで野外の自然観察を好みました。

熊楠は19歳で和歌山からアメリカとキューバに渡って25歳でロンドンに至り8年間滞在して33歳の時に帰国しています。ロンドンでは大英博物館に通い、18ヵ国語を操り学会の学者と議論をたたかわせネイチャーに論文を掲載しました。そして図書館の蔵書を書き抜きした52冊の膨大な量のノートを日本に持ち帰っています。ロンドン滞在中に両親がなくなり仕送りが途絶えたので仕方なく失意の帰国をしたのでした。

莫大な費用をかけて海外留学から熊楠が持ち帰ったものは、世間が認める地位や学位ではなく、わけのわからないコケやシダ、キノコや粘菌の標本でした。神戸まで迎えに来た弟は熊楠の業績を理解できず呆れ果ててしまいました。

ロンドンから帰国した熊楠は弟夫婦から冷たい仕打ちに会い帰国一年で実家の和歌山を追い払われて南方酒造の支店がある那智に行きました。

1億5000万点以上の資料を所蔵する大英図書館がある世界最大の近代都市ロンドンから熊野の僻地への移住というあまりにも極端な環境の変化は熊楠の自我にゆらぎをおこしたようです。

熊楠は1902年1月~1903年3月の間、那智熊野古道の入り口にあたる大阪屋に逗留して、早朝から毎日原生林に入って異常なまでの熱意で自然観察と標本採集を続ける生活をしているうちに日常意識と異なる変性意識状態に入りました。特に1904年3月~4月に集中して起きています。

自然の中にある聖なる場所は昔から偉大な宗教や神秘家を生み出してきました。聖地は変性意識状態を起こして人の心を霊的な世界に導く力を持っていました。大地の力が下から立ち上がって体を貫き頭頂まで達すると、自他の境界が溶けて自然と一つになる体験をします。変性意識状態の中で万物はお互いつながりあって一つの生きた生命圏を形成しているという気づきが生まれるのです。

那智での熊楠の暮らしは蔵書も図書館もなかったので左脳から右脳優位になり直感や洞察が強くなったようです。

「寂しい限りの所なので、いろいろの精神変態を自身に生ずるゆえ、変態心理の研究に立ち入った」熊楠 履歴書

「それゆえ博識がかったことは大いに止むと同時にいろいろの考察が増して来る。いわば糟粕なめ、足のはえた類典ごときは大いに減じて、一事一物に自分の了簡がついて来る」土宜法龍宛書簡

那智で暮らしていた熊楠は頭が異常に冴えて眩しい光を見たり体外離脱もしています。

「糸にて自己の頭をつなぎ、俗にいふろくろくび如くに、 室の外に遊ひ、其現状を見るなり」 熊楠日記(1904年4月25日)

熊楠が糸といっているのはスピリチュアリズム(Spiritualism)で霊子線(silver code)のことで肉体と銀色の糸で繋がったまま体を離れた経験を語っています。

熊楠が滞在していた19世の後半のロンドンはスピリチュアリズム(Spiritualism)が爆発的に増加した時代で人は肉体と霊魂からなり、肉体が消滅しても霊魂は存在すると証言する霊媒が多数現れて懐疑派の科学者もスピリチュアリズムに巻き込まれていったのです。

ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ教授のシジウィックとマイアーズによって1882年にSPR(英国心霊研究協会)が設立されています。頭の知識だけで死後の生を信じている人だけでなく懐疑派であっても詐欺霊媒師に簡単に騙さてしまうのでスピリチュアリズムの黎明期は混乱していました。

熊楠は那智時代の1904年2月にマイヤーズの著書「人間の人格、 その肉体の死後の存続・ヒューマン・ パーソナリティ」を購入して熱心に読んでいました。

熊楠はしばしば幽霊も見ていますが幻と幽霊は違うことを次のように述べています。幻は現実ではないことで熊楠にとっての幽霊は眼に見えない現実のことでした。

「幽霊が現われるときは見る者の身体の位置がどうであろうと、地平に垂直に現われ申す。しかしながら幻は見る者の顔面に並行して現われる」南方熊楠 履歴書

また熊楠は静座している時に亡き父親が現れて珍しい蘭の咲いている場所を教えてくれたことを書いています。

「朝早く起き静座しいたるに、亡父の形ありありと現じ、言語を発せずに、何となく予に宿前数町の地にナギランありと知らす」南方熊楠 和歌山新報

熊楠は目に見えない世界を日常的に感知で出来たといっています。そして、神通、千里眼的なことは特別なことではなく誰にでもできると言ってます。

「わしなんかこうして、この部屋にジーと坐っていても、ちっとも淋しいとは思わぬ。昼でも夜でも、好きな時に、昔馴染の娘でも、後家さんでも、呼び出すことができる。一種の霊感によって、これはと思う物を採集して来る。するとメッタにまとは外れぬ。……また吾輩が旅行から帰るとき、汽船が田辺から数丁の所まで来ると、家で何も知らず寝ている妻の耳に、平常通りわしの声で、今帰ったとはっきり聴きとれる。そこで妻は戸を開けて待っているのじゃ。こんなことぐらいは、ちょっと修養ができてる人間なら、誰にでもできる心霊現象じゃ。」酒井潔「南方先生訪問記」

非日常的な体験が日常的に起きると、本当か嘘か、あるとかないとかということを問題とすること自体があほらしくなります。

「予がみずから経験した神通、千里眼的な諸例を、虚心平気に考察すると、それほど解説できないほどの不思議なことはひとつもない。」和歌山新報 千里眼

インド哲学は人間の身体を、「粗大な身体」であるグロスボディ(gross body)、「微細な身体」であるサトルボディ(subtle body)、「元因の身体」であるコーザルボディ(causal body)の3つに分類しています。非物質的な心霊の世界はサトル(微細な)の領域です。

完全なリラックスに入ると、世界との仕切りが取り除かれて、微細なサトルの領域に入ります。一度その「コツ」をつかむと、脳はそれ以後、随意にそれを再現できるようになります。しかし、注意が散漫で考え事で心がいっぱいになると作用しなくなります。

熊楠によると私たちが霊能を発揮できないのは我執や我欲のマインドに覆われて曇っているからだと言っています。

「今日の多くの人間は利欲我執事に惑うあまり、脳力がくもってこのようなことは一切ないが、まったく閑寂の地にいて、心に世の煩いがないときは、いろいろの不思議な脳力が働きだすものなのだ。」南方熊楠 履歴書

生きながら霊界を見て来た体外離脱の達人スウェーデンボルグはお金の心配をする日常的なマインドに覆われると霊界にいけないと言っていました。熊楠も結婚してからはしばらく霊を見ることがなくったといっています。

「妻を迎え、子あるに及び、幽霊も頓と出でず、不思議と思うことも希になりし」 千里眼 和歌山新報

動物や精霊信仰の先住民族は近代合理主義の現代人よりも超越的感覚に優れているという証拠はたくさんあります。鳩の帰巣能力や長い旅行から主人が帰ってくるのがいつでもわかった犬の例もあります。

はるか石器時代の私たちの祖先も間違いなくそうした能力をもっていたでしょう。アボリジニやアメリカ・インディアンの世界ではシャーマンやメディスンマンなどの特別な人々だけでなく多くの人々が遠くの友人や親類とテレパシーで連絡していました。

ですが、左脳優位の文明になって都市を築いた現代の人々は日常の事柄でマインドがいっぱいになって、ジャングルのどこで猛獣が待ち構えているか直感する必要がなくなりサイキツク能力を失ってしまったのです。

体外離脱やテレパシーなどの超常現象はオカルトとよばれ研究者は学会から排除される傾向にあります。オカルトは実験室で再現も機械で観測もできないので科学では扱えないので門前払いなのです。心霊現象は病理的、現実逃避的、退行的、逸脱的なものとされ、ありとあらゆる軽蔑的な言い方をされてきました。

熊楠は目に見えない世界を頑固に否定する科学者に対してこう言っています。「一向不思議とか霊妙とかいうことを主張せざる科学一点張りの学者」三田村書簡

左脳優位の科学者にとって心霊現象は本を読むしか手立てがなく、自我が築いた世界観とあまりにも食い違うので拒否反応をおこすのです。

「小生は別段怪しくも思わず。これを疑う人々にあうごとに、その人々の読書のみしてみずからその境に入らざるを憐笑するのみ」南方熊楠 岩田準一宛書簡

熊楠の研究は目に見える世界と目に見えない世界の垣根をこえていました。

マインドの罠にはまって潜像の垣根をこえられない科学者を熊楠はあわれんで笑うしかなかったのです。

心がいまここにある時、自我の境界を超えて意識が広がります。

人の本質は時間と空間を超えています。それを確認するのが瞑想です。


高浜虚子の句

 わだつみに物の命のくらげかな

                           高浜虚子

眼前にあるのはくらげだが、「物の命」によって原初の命そのものを私たちは見ることになる。先行するものとして、漱石明治二十四年の句に、「朝貌や咲いたばかりの命哉」があるが、虚子はいわば、くらげによって命の句の決定版を作ってしまった。(辻征夫)

 川を見るバナゝの皮は手より落ち

                           高浜虚子

虚子の「痴呆俳句」として論議を呼んだ句。精神の弛緩よりむしろ禅の無の境地ではなかろうか。俳句はこういう無思想性があるからオソロシイ。そして俳人も。(井川博年)

 酌婦来る灯取虫より汚きが

                           高浜虚子

昭和九年の作。虚子に、こんな句があるとは知らなかった。先日、仁平勝さんにいただいた近著『俳句が文学になるとき』(五柳書院)を読んでいて、出くわした作品だ。仁平さんも書いているように、いまどき「こんな句を発表すれば、……袋叩きにされかね」ない。「べつに読む者を感動させはしないが、作者の不快さはじつにリアルに伝わってくる」とも……。自分の不愉快をあからさまに作品化するところなど、やはり人間の器が違うのかなという感じはするけれど、しかし私はといえば、少なくともこういう人と「お友達」にはなりたくない。なお「酌婦」は「料理屋などで酒の酌をする女」、そして「灯取虫」は「夏、灯火に集まるガの類を言う」と、『現代国語例解辞典』(小学館)にあります。念のため。(清水哲男)

 鶏頭の十四五本もありぬべし

                           正岡子規

中学の教室で習った。明治三十三年の作。教師は「名句」だといったが、私にはどこがよい句なのか、さっぱりわからなかった。しかし、年令を重ねるにつれて、だんだん親しみがわいてきた。この季節になると、ふと思いだす句のひとつである。作家にして歌人の長塚節がこの句を称揚し、子規の弟子である虚子が生涯この作品を黙殺しつづけたのは有名な話だ。この件について山本健吉は、意識下で師をライバル視せざるをえなかった「表面は静謐の極みのような」虚子の「内面に渦巻く激しい修羅の苦患であった」と書いている。その虚子の鶏頭の句。「鶏頭のうしろまでよく掃かれたり」。なんとなく両者の鶏頭への思いが似ていると感じるのは、私だけでしょうか。(清水哲男)

 松過ぎの又も光陰矢の如く

                           高浜虚子

門松を立てておく期間は、関東では六日まで、関西では十四日までが慣習。門松や注連飾りが取り払われると、急に寂しくなるが、しかしまだどこかに新年の気配は残っている。とはいえ、仕事も本格的にはじまり「又も光陰矢の如く」になることに間違いはない。もう少し正月気分でいたい私などには、実をいうとあまり読みたくない句なのだが、仕方がない。虚子のいうとおりなのだから、いやいやながら掲げておく。(清水哲男)

 春風や闘志いだきて丘に立つ

                           高浜虚子

大正二年、虚子が俳壇復帰に際して詠んだ有名な句。そんなこととは知らずに、十代の頃この句を読んで、中学生の作品かと思った。あまりにも初々しいし、屈折感ゼロだからだ。俳句の鑑賞では、よくこういうことが起きる。句の作られた背景を知らないために起きるのだが、しかし、その誤解の罪は作者が負うべきなのであって、読者のせいではない。テキストが全てだ。……という具合に基本的には考えているのだが、俳句であまりそれを言うと何か杓子定規的で面白くないことも事実だ。そのあたりの曖昧なところが、俳句世界の特質かもしれない。喜寿の虚子に、上掲の句を受けた作品もある。「闘志尚存して春の風を見る」。よほど若き日の闘志の句が気に入っていたと見える。(清水哲男)

 運命は笑ひ待ちをり卒業す

                           高浜虚子

今の時代、留年せずに無事卒業してもその後の困難さを思えば、少数の例外を除けば「笑う」がごとき前途洋々としたものであるとは思えない。そして、運命はあざ「笑う」かのように複雑な管理機構の中で人を翻弄し続ける。この句は昭和十四年の作である。当時の大学・高等専門学校の卒業生(そして中学を含めても)は今の時代には考えられないほどのエリートであった。しかし戦火は大陸におよび「大学は出たけれど」の暗い時代であった。運命の笑いをシニカルなものとしてとらえたい。だが、大正時代、高商生へむけ「これよりは恋や事業や水温む」という句をつくっている虚子である。卒業切符を手にいれたものへの明るい運命(未来)を祝福する句とも言える。いずれにしろ読者のメンタリティをためすリトマス試験紙のような句である。『五百五十句』所収。(佐々木敏光)

 富める家の光る瓦や柿若葉

                           高浜虚子

こういう句に、虚子の天才を感じる。平凡な昔の田舎の風景を詠んでいるのだが、風景のなかに見えてくるのは、単なる風景を超えた田舎の権力構造そのものである。柿の若葉はよく光りを反射してまぶしいものだが、そのなかでひときわ光っているのが瓦屋根だという着眼力。そのかみの田舎では、金持ちでなければ瓦の屋根は無理であった。知らない土地に行っても、屋根を見れば貧富の差はすぐに知れたものだ。杉皮で葺いた屋根の下に暮らしていた小学生の私は、瓦屋根の家の柿若葉の下で、窓越しにラジオを聴かせてもらっていた。野球放送のなかで、自然に流れてくる都会の雑音を聞くのも楽しみだった。船の汽笛が聞こえてきたこともある。あれは、どこの球場からの実況放送だったのだろうか。昭和二十年代。昔の話である。(清水哲男)

 麦笛や四十の恋の合図吹く

                           高浜虚子

上品に言えば、秘めた恋。いまふうに言えば、不倫。手紙や電話で相手を呼び出すわけにはいかないので、一計を案じた句。いい年をした大人が麦笛など吹くわけはないから、その常識を逆手に取ったのである。虚子センセイも、なかなか隅に置けなかったのだなとは思うけれど、どことなく嘘っぽい。句が出来過ぎているからだろう。ところで、いまだったらこんな場合にどうするだろうか。ほとんどの男は、ポケベルを使うのでしょうな。(清水哲男)

 初秋や軽き病に買ひ薬

                           高浜虚子

季節のかわりめには体調を崩しやすい。とくに夏から秋は急に涼しくなったりすることがあるので、寝冷えやちょっとした油断から風邪をひいてしまう。医者に診てもらうほどのことでもないから、とりあえず買い置きの薬でしのいでおこうという句意。同時に、ぽつりと作者の孤独の影も詠み込まれている。物思う秋の「軽い」はじまりである。(清水哲男)

 冬の日の三時になりぬ早や悲し

                           高浜虚子

俳句で「冬の日」は「冬の一日」のこと。冬の太陽をいうこともあるが、そちらは「冬日」ということが多い。日照時間の短い「冬の日」。この時期の東京では、午後四時半くらいには暮れてしまう。したがって、三時はもう夕方の感じが濃くなる時間であり、風景は寂寥感につつまれてくる。昔の風景であれば、なおさらであったろう。句に数詞を折り込む名人としては蕪村を思い起こすが、この句でもまた「三時」が絶妙に利いている。「二時」では早すぎるし「四時」では遅い。ところで、今日の午後三時、あなたはどこで何をしている(していた)のでしょうか。(清水哲男)

 ビルの間の老舗さきがけ松立つる

                           和田暖泡

昔の一般家庭では、二十日過ぎくらいになると門松を立てたものだ。が、商店街は別で、ずっと早かった。ところが、最近はクリスマス商戦が盛んになり、まさか門松とツリーとを一緒に立てるわけにもいかず、商店街の門松は暮もギリギリにならないと見られなくなってしまった。そんなご時世のなか、ビルの谷間に頑固に昔風を残している老舗だけは、今年も例年と同じく、いちはやく門松を立てたというのである。老舗の心意気であり、意地でもあるだろう。ジングル・ベルの流れる街の一隅に、毅然として立っている門松が清々しい気分にさせてくれる。「なにがクリスマスでぇ、ベラボウめが……」という老主人の声までが聞こえてきそうな句だ。『徒然草』に「大路のさま、松立てわたしてはなやかにうれしげなるこそ」とある。かと思うと、虚子に「門松を立てていよいよ淋しき町」の一句がある。(清水哲男)

 高瀬川木屋町の煤流れけり

                           高浜虚子

夜ごと賑わう京都の木屋町の煤払いで出た煤が、高瀬川に流れ込んで濁っているという光景。しかし、汚くて見てはいられないというのではなく、作者はそこに歳末ならではの情緒を感じ取っている。いまではこんな光景も見られなくなったが、昔は大掃除の煤やらゴミやらを平気で川に流していた。それが当たり前だった。川は町の浄化に役立つ、いわば「装置」でもあったわけだ。それがいつの間にやら「装置」を酷使し過ぎてしまった結果、お互いの共存的バランス関係は大きく崩れ、川は人間により守られるべき聖域として位置づけられ、ためにすっかり精気を失ってしまった。もはや、昔のような川の位置づけでの句作は不可能となった以上、逆にいま書きとめておく価値のある作品だろう。(清水哲男)

 映画出て火事のポスター見て立てり

                           高浜虚子

映画館を出た後は、しばらくいま見てきたばかりの映画の余韻が残っている。と、街角に「火の用心」を呼びかけるポスターが貼ってあった。見ているうちに、作者の意識はだんだん現実に引き戻されていく。そんな状況の句だ。季語は「火事」である。この季語についての虚子自身の説明が、岩波文庫『俳句への道』に載っているので、引用しておく。「『火事』というものは季題ではあるが、他の季題に較べると季感が薄い、ということは言えますね。一体火事という季題は、我らがきめたものですし、火事はいつでもあるが、殊に冬に多いから、というので冬の季題にしたのですが、季感は従来のものよりも歴史的に薄いとはいえる。だからこれは季感のない句であるという風に解釈する人があるかも知れぬ。(中略)そういう人は季題趣味を嫌がっている人ではないですか。だが俳句は季題の文学である。……」。つまり、虚子は自分(我ら)で「火事」を冬の季題にし、そう決めたのだから、この句を無季句などとは呼ばせないと力み返っている。この自信満々が、虚子という文学者のパワーであった。(清水哲男)

 すき嫌ひなくて豆飯豆腐汁

                           高浜虚子

豆飯は蚕豆(そらまめ)や青豌豆(グリーンピース)を炊き込んだご飯で、この季節の食卓にふさわしい。虚子の句は豆づくしであるが、自分には好き嫌いがないのでこれで満足だと言うのである。素朴な季節料理でも、不平などないということで、明るい句に仕上がった。ということは、逆に言うと、豆飯が嫌いな人も昔から多かったことがわかる。私の周辺でも、グリーンピースの青臭さが嫌いで、客席などでのやむを得ないときには、実に器用に豆だけをよけて飯を食う人がいる。私のように豆好きな人間からすると不可解としか思えないが、嫌いな人にとっては必死の箸さばきなのだろう。そういう人から見ると、この句の作者は「自慢」の権化のように思えるに違いない。食文化に民主主義は通用しないのだ。(清水哲男)

 駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり

                           高山れおな

秋の夜、何の虫かはわからないが、道端などでジーと鳴いている虫がある。淋しい鳴き声だ。これを昔の人は、蚯蚓(みみず)が鳴くのだと思ったらしい。実際には螻蛄(けら)の鳴き声である。で、ここから出てきたのが「蚯蚓鳴く」という秋の季語。虚子に「三味線をひくも淋しや蚯蚓なく」という小粋な句もあり、この季語を好む俳人は昔から多いようだ。ところで掲句は、鳴くわけもない蚯蚓が駅前で鳴いていたことが、ちゃんと市史には載っていますよと報告している。そんなことが市史に載っているわけはないのだが、この二重に吹かれたホラが面白い。ホラもこんな具合に二つ重ねられると、一瞬なんだか真実のようにも思えたりするから不思議だ。関係者以外はほとんど誰も読まない市史という分厚い本に対する皮肉とも読めるけれど、そんなふうに大真面目に取らないほうがよいだろう。情緒てんめんたる季語を逆手に取って、クスクス笑いしている作者とともに大いに楽しめばよいと思う。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)

 又例の寄せ鍋にてもいたすべし

                           高浜虚子

今夜、客がある。「何にしましょうかね」と家人に相談されて、寒い折りでもあるから「又例の寄せ鍋」にしようかと答えた文句を、そのまま句にしてしまっている。こんなものが「俳句ですか」「文学なりや」と、正面から生真面目に問われても困るが、ま、虚子句の魅力の一つは、こうした天衣無縫な詠みぶりにあることだけは確かだ。このあたり、子規の句境とも共通している。ただし、虚子という大きな名前によりかかって、はじめて「俳句」と認知されるところがないとは言えないけれど……。でも、この句は「寄せ鍋」の単純な楽しさを予感させる意味では、なかなかに優れている。楽しさの正体は、たとえば「沸々と寄せ鍋のもの動き合ふ」(浅井意外)という「何でもあり」の鍋物そのものに見えている。そして「例の寄せ鍋」を喜んで食べてくれるはずの、「何でもあり」の気のおけない客を待ちかねる雰囲気も、句から十分に読み取れる。寄せ鍋は昔「たのしみ鍋」とも言ったそうだ。材料によって贅沢にも質素にもできるのが妙だが、いずれにせよ鍋物の美味い不味いは、おおむね誰とつつくかで決定される。句が暗示している客は、間違いなく歓迎されている。(清水哲男)

 東山静かに羽子の舞ひ落ちぬ

                           高浜虚子

京都東山。空は抜けるように青く、ために逆光で山の峰々はくろぐろとしている。そんな空間のなかに高くつかれた五色の羽子(はね)が、きらきらと日を受けて舞い落ちてくる。それも、静かにしずかにと落ちてくる。息をのむような美しいショットだ。羽子つきをしているのは、書かれてはいないけれど、子供ではなくて若い女性でなければならない。地上に女性たちのはなやいだ構図があってはじめて、作者は目を細めながら空を見上げたのだから……。いかな京都でも、今ではもうこんな情景はめったに見られないだろう。古きよき時代に、京都をこよなく愛した虚子の、これはふと漏らした吐息のような京都讃歌であった。読むたびに「昔の光、いまいずこ」の感慨に襲われる。そういえば、ひさしく京都にもご無沙汰だ。新しい京都駅も見ていない。学生時代、いっしよに下宿していた友人の年賀状に「下宿のおばさんが老齢で入院中」とあった。おばさんは、長唄のお師匠さんだった。当時(1960年頃)の私たちは、階下の三味線を耳にしながら、颯爽と「現代詩」などを書いていたのである。三味線の伴奏つきで詩を書いた人は、そんなにいないだろう。(清水哲男)

 雨の中に立春大吉の光あり

                           高浜虚子

陰暦では一年三百六十日を二十四気七十二候に分け、それを暦法上の重要な規準とした。立春は二十四気の一つ。暦の上では、今日から春となる。しかし、降る雨はまだ冷たく、昨日に変わらぬ今日の寒さだ。禅寺では、この日の早朝に「立春大吉」の札を入り口に貼るので、作者はそれを見ているのだろう。寒くはあるが、真白い札の「立春大吉」の文字には、やはりどこかに春の光りが感じられるようだ。あらためて、新しい季節の到来を思うのである。実際に見てはいないとしても、今日が立春と思うだけで、心は春の光りを感受しようとする。立春は農事暦のスタート日でもあり、「八十八夜」も「二百十日」も今日を起点として数える。それから、陰暦での今日はまだ十二月十八日と、師走の最中だ。閏(うるう)月のある(今年は五月が「五月」と「閏五月」の二度あった)年の立春は、必ず年内となるわけで、これを「年内立春」と呼んだ。正月のことを「新春」「初春」と「春」をつけて呼ぶ風習は、このように立春を意識したことによる。ちなみに、今度の陰暦元日は、再来週の陽暦二月十六日だ。立春を過ぎての正月だから、文字通りの「新春」であり「初春」である。以上、誰もが昔の教室で習った(はずの)知識のおさらいでしたっ(笑)。(清水哲男)

 ハンドバツク寄せ集めあり春の芝

                           高浜虚子

添え書きに「関西夏草会。宝塚ホテル」とあるから、ホテルの庭でのスケッチだ。萌え初めた若芝の庭園に、たくさんのハンドバッグ(虚子は「バツグ」ではなく「バツク」と表記している)が寄せ集められている。団体で宝塚見物に来ている女性客たちが、記念写真の撮影か何かのために置いたものが、一箇所に取りまとめられているのだろう。春と女性。いかにもこの季節にふさわしい心なごむ取り合わせだ。いくつかのハンドバッグが、春の光を反射して目にまぶしい。現代にも十分に通用する句景であるが、句作年月は昭和十八年(1943)の三月である。つまり、敗戦の二年前、戦争中なのだ。前年の三月には、東京で初の空襲警報が発令されてはいるが、嵐の前の静けさとでもいおうか、内地の庶民には、このようにまだまだ日本の春を楽しむ余裕のあったことがわかる。ただし、この句が作られたときの宝塚雪組公演の演目は「撃ちてし止まむ」「桃太郎」「みちのくの歌」と、戦時色の濃いものではあった(『宝塚歌劇の60年』宝塚歌劇団出版部・1974)。そして、虚子が信州小諸に疎開したのは、翌年の九月四日のこと。「風多き小諸の春は住み憂かり」などと、不意の田舎暮らしに不平を漏らしたりしている。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)

 生きてゐるしるしに新茶おくるとか

                           高浜虚子

戦争中(1943)の句。句集では、この句の前に「簡単に新茶おくると便りかな」が置かれている。簡単な便りというのだから、短い文面だ。虚子が読んだのは葉書だろうか。当時の葉書は紙質も粗悪で、現在のそれよりも一回り小型だった記憶がある。簡単の上にも簡単に書かざるを得ない。「新茶」を送る理由は、ただ「生きてゐるしるし」とのみ。今の世にこの句を置いてみると、なんだかトボけた味わいの作にも読めるが、戦時中なのだから、そんなに呑気な気分では詠まれてはいない。「生きてゐるしるし」の意味が、まったく違うからだ。今だと「ご無沙汰失礼。齢はとったけど何とかやっています」くらいの意味になろうが、当時だと「戦火激しき折りながら、幸運にも生き延びています」ということになる。作者はその短い文面をくりかえして読み、「こんな時節に、無理をして新茶など送ってくれなくてもよいのに」と、贈り主の厚情に謝している。したがって「おくるとか」の「とか」は、「送ってくるとか何とか、そのようなことが書いてある」の「とか」ではあるけれど、そんな平板な用語法を感性的に越えている。感謝の念が、かえってはっきり物を言うことをためらわせているのである。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)

 緑蔭や人の時計をのぞき去る

                           高浜虚子

公園のよく茂った緑の樹々。その蔭のベンチで憩う作者の手元に、いきなりぬうっと顔を近づけて去っていった男がいる。瞬間、作者は男が腕時計をのぞきこんだのだな、と知る。無遠慮な奴めと不愉快な気持ちもなくはないが、一方ではなんとなく男の気持ちもわかるような気がして憎めない。緑蔭にしばしの涼を求めていた彼は、きっと時間にしばられた約束事でもあったのだろう。シーンは違え、誰にでも覚えのありそうな出来事だが、見過ごさず俳句に仕立ててしまった虚子は、やはり凄い。「全身俳人」とでも言うべきか。安住敦に「緑蔭にして乞はれたる煙草の火」があり、これまた「いかにも」とうなずけるけれど、いささか付き過ぎで面白みは薄い。最近は時計もライターも普及しているので、このような場面に遭遇することも少なくなった。公園などで時間を聞いてくるのは、たいていが小学生だ。塾に行く時間を気にしながら遊んでいるのだろう。いまどきの子供はみんな、とても忙しいのである。(清水哲男)

 一夜明けて忽ち秋の扇かな

                           高浜虚子

季語は「秋の扇(秋扇)」であるが、「秋扇」という種類の扇があるわけではない。役立たずの扇。そんな意味だ。一夜にして涼しくなった。昨日まで使っていた扇が、忽ち(たちまち)にして不必要となった。すなわち「秋扇」になってしまったということ。並べて、虚子はこんな句もつくっている。「よく見たる秋の扇のまづしき絵」。暑い間はろくに絵など気にもしないで扇いでいたのに、不必要になってよく見てみたら、なんと下手っぴいで貧相な絵なんだろう。チェッと舌打ちしたいような心持ちだ。歳時記によっては「秋扇」を「暦の上での秋になってもなお使われている扇のこと」と解説していて、それもあるだろうけれど、本意は虚子の句のように、ずばり役立たずの扇と解すべきだろう。優雅でもなんでもありゃしない、単に邪魔っけな存在なのだ。とかく「秋」を冠すると、たいていの言葉が情緒纏綿たる風情に化けるのは面白いが、「秋扇」まで道連れにしてはいけない。「秋」に騙されるな。その意味で、虚子句は「秋扇」という季語の正しい解説をしてみせてくれてもいるのである。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)

 門の内掛稲ありて写真撮る

                           高浜虚子

門のある農家だから、豪農の部類だろう。普通の屋敷に入る感覚で門をくぐると、庭には掛稲(かけいね)があった。虚をつかれた感じ。早速、写真に撮った。それだけの句だが、作られたのが1943(昭和18)年十月ということになると、ちょっと考えてしまう。写真を撮ったのは、作者本人なのだろうか。現代であれば、そうに決まっている。が、当時のカメラの普及度は低かった。しかも、ハンディなカメラは少なかった。そのころ私の父が写真に凝っていて、我が家にはドイツ製の16ミリ・スチール写真機があったけれど、よほどの好事家でないと、そういうものは持っていなかったろう。しかも、戦争中だ。カメラはあったにしても、フィルムが手に入りにくかった。簡単に、スナップ撮影というわけにはいかない情況だ。虚子がカメラ好きだったかどうかは知らないが、この場面で写真を撮ったのは、同行の誰か、たとえば新聞記者だったりした可能性のほうが高いと思う。で、虚子は掛稲とともに写真におさまった……。すなわち「写真撮る」とは、写真に「撮られる」ことだったのであり、いまでも免許証用の「写真(を)撮る」という具合に使い、この言葉のニュアンスは生きている。「撮る」とは「撮られる」こと。自分が撮ったことを明確に表現するためには、「写真撮る」ではなく「写真に(!)撮る」と言う必要がある。ああ、ややこしい。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)

 何やらがもげて悲しき熊手かな

                           高浜虚子

今日は十一月最初の酉(とり)の日で、一の酉。十一月の酉の日は、鳳(大鳥)神社を中心とした祭礼日だ。江戸中期からはじまった富貴開運のお祭りで、台東区千束の鳳神社をはじめ、各神社が大勢の人出でにぎわう。したがって、東京以外の方には馴染みがないだろう。私も、京都にいた頃は知らなかった。大阪でいえば、十日戎といったところか。境内には市が立ち、熊手、おかめの面、入り船、黄金餅などの縁起物が売られる。「熊手」は熊の手を模した福徳をかきあつめる意味の竹製のもので、小さなおかめの面や大判小判、酒桝やら七福神やらがごちゃごちゃと取り付けられており、私のようなごちゃごちゃ好きな人間にとっては、見ているだけで楽しい。虚子は、そのごちゃごちゃの何かが「もげて」しまったと言っている。一瞬もげたのはわかったのだが、なにせ押すな押すなの人込みの中だ。拾うこともかなわず、ごちゃごちゃのなかの何がもげたのかもわからない。とにかく、とても損をしたような気分になったのだ。面白い着眼であり、大の男の悲しい気持ちもよくわかる。ちなみに今年は三の酉まであって、三の酉まである年は火事が多いと言い伝えられてきた。御用心。(清水哲男)

 鞄あけ物探がす人冬木中

                           高浜虚子

葉が落ちた冬の木立。少し遠くの方で、鞄をあけて一心に何かを探している人の姿が透かし見えている。見ず知らずの他人でも、物を探しているところを見かけると、こちらまで落ち着かない気分になる。あれは、なぜだろうか。実に不思議な気分だ。地面に落ちた物を探しているのなら一緒に探すこともできるが、鞄の中ではそうもいかない。この寒空の下、立ち止まって探す必要があるのだから、よほど大切な物なのだろう。これから仕事先に届ける書類かもしれないし、貯金通帳や印鑑の類かもしれない。作者は気になりつつ、その場を通りすぎていく。なんでもない句のようだけれど、さすがに虚子のスケッチは巧みだ。冬木中に鞄をあけている男の姿。この切り取りで、ぴしゃりと絵になっている。ただし、これがいまどきに作られた句だと、探し物は「携帯電話」くらいだろうと想像されるので、そんなに面白みはなくなってしまう。何を探しているのか皆目見当がつかないところに、寒い季節の味わいも出ているのである。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)

 セーターにもぐり出られぬかもしれぬ

                           池田澄子

思い当たりますね、この感じ。私の場合は不器用なせいもあり、子供のころは特にこんなふうで、セーターを着るのが億劫だった。脱ぐときも、また一騒ぎ。セーターに頭を入れると、本能的に目を閉じる。真っ暗やみのなかで、一瞬もがくことになるから、余計にストレスを感じることになるのだろう。取るに足らないストレスかもしれないが、こうやって句を目の前に突きつけられてみると、人間の哀れさと滑稽さ加減が身にしみる。そこで思い出すのが、虚子の「死神を蹶る力無き蒲団かな」だ。「蹶る(ける)」は「蹴る」より調子の高い表現。当人は風邪を引いて(虚子は実によく二月に風邪を引く人だった)高熱を発しているので、うなされている。夢に死神が出てきて、そいつを必死に蹶とばそうともがくのだけれど、蒲団が重くて足がびくとも動かない。「助けてくれーっ」と、まるで金縛り状態である。この状態にもまた、思い当たる読者は多いと思う。でも、風邪の熱はいずれ治まる。悪夢も退散する。が、セーターのなかでの一瞬の「もがき」は、ついに治まることはない。「出られぬかもしれぬ」。何の因果か。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)

 風の日の麦踏遂にをらずなりぬ

                           高浜虚子

遠山の雪を背に、春の日差しを浴びながら麦を踏んでいる姿はいかにも早春らしい。たいがいの歳時記には、こんなふうに出てくる。見ているぶんには確かに牧歌的な光景であるが、踏んでいるほうは大変なのだ。ひたすらに「忍の一字」が要求される。地雷の撤去作業にも似て、細心の注意をはらっての一歩一歩が大切である。いい加減に踏んだのでは、たちまちにして根が浮き上がって株張りが悪くなり、収穫はおぼつかない。理屈としては子供にもできる仕事なのだが、いくら多忙でも、子供にまかせきるような農家はなかった。句は1932年(昭和七年)の作。添書きに「荻窪、女子大句会」とあるから、この麦畑は東京のそれだ。往時の荻窪や吉祥寺、三鷹あたりは、どこもかしこも麦畑だった。早春の関東の風は、ときに激烈をきわめる。土ぼこりのために空の色が変わる日も再三で、つい三十年ほど前までは、目を開けていられない状態におちいるのは普通のことだった。これでは、麦踏みの人も辛抱たまらずに撤退してしまうわけだ。気になって、虚子は女子大(「東京女子大」か)の窓からそんな光景を何度も見ていたのだろう。やっと引き上げていったので、ホッとしている。『五百句』(1937)所収。(清水哲男)

 バスの棚の夏帽のよく落ること

                           高浜虚子

戦前の男は、実によく帽子をかぶった。北原白秋の「青いソフトに降る雪は……」という小粋な詩を持ち出すまでもなく、寒い季節の「ソフト帽」はごく当たり前のことだったし、夏の「カンカン帽」や高級な「パナマ帽」など、いまの若い人にも古い写真や映画などではおなじみのはずである。句は六十年も前に、虚子が佐渡に遊んだときのスケッチだ。季節は五月。舗装などされていない島の凸凹道を走っているのだから、バスが飛び上がるたびに、網棚に置いた帽子が転がり落ちてくる。「しようがないなア」と、苦笑しつつ帽子を網棚に戻している。戻したと思ったら、また落ちてくる。で、また戻す。もちろん、他の人の帽子も。道中、この繰り返しだ。「それがどうしたの。たいした句じゃないね」。いまの読者の多くは、おそらくそう思うだろう。理由は、やはり現代人に帽子を愛用する習慣がないからである(いま若者に流行している野球帽みたいな「キャップ」とは、帽子の格が違う)。「不易流行」の「不易」も「流行」も、帽子的にはもはや喪失してしまっている。私もそんなによい句とは思わないが、あえて持ち出してみたのは、昔の句を観賞する難しさが、こんなに易しい句にもあると言いたかったので……。易しさは、おおかたの俳句の命。その命が伝わらなくなるのは悲しいことだが、しかしこのこともまた、俳句の命というものではあるまいか。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)

 秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみか

                           高浜虚子

作句時点は、敗戦の日から一週間を経た八月二十二日。このころ虚子は小諸に疎開しており、前書に「在小諸。詔勅を拝し奉りて、朝日新聞の求めに応じて」とある。掲句につづくのは、次の二句である。「敵といふもの今は無し秋の月」「黎明を思ひ軒端の秋簾見る」。この二句は凡庸だが、掲句には凄みを感じる。虚子としては、おそらくは生まれてはじめて、正面から社会と対峙する句を求められた。この「国難」に際して、はたして「花鳥諷詠」はよく耐えられるのか。まっすぐに突きつけられた難題に、虚子は泣かない(鳴かない)「蓑虫(みのむし)」をも泣かせることで、まっすぐに答えてみせた。「蓑虫」とは、もちろん物言わぬ一庶民としての自分の比喩でもある。「秋蝉」との季重なりは承知の上で、みずからの心に怒濤のように迫り来た驚愕と困惑と悲しみとを、まさかの敗戦など露ほども疑わなかった多くの人々と共有したかった。青天の霹靂的事態には、人は自然のなかで慟哭するしかないのだと……。無力なのだと……。「蓑虫」や「秋蝉」に逃げ込むのはずるいよと、若き日の私は感じていた。しかし、虚子俳句の到達点がはからずも示された一句なのだと、いまの私は考えている。みずからの方法を確立した表現者は、死ぬまでそれを手ばなすことはできないのだ。掲句の凄みは、そのことも含んでいる。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)

・ちょっと一言・国文的常識のうちでは、蓑虫はちゃんと鳴く(泣く)。『枕草子』に「秋風吹けば父恋しと鳴く」と出てくるからだ(長くなるので、なぜ鳴くかは省略。原典参照)。この話から「蓑虫」は秋の季語になったと言ってよい。もちろん、虚子は百も承知であった。

 日当りの土いきいきと龍の玉

                           山田みづえ

葉が群生し葉先の長い「龍の玉(りゅうのたま)」の実は、一寸かきわけないとよく見えない。虚子の句「竜の玉深く蔵すといふことを」は、この様子からの発想だ。木の下などの日蔭の植物というイメージが濃いが、掲句では日にさらされている。垣根か庭の下草として植えられたものだろうか。眼目は「龍の玉」そのものからは一度焦点が外されて、周辺の土から詠んでいるところだ。土を詠んで、もう一度「龍の玉」に目が向けられている。陰気といえば陰気な「龍の玉」が「日当り」にある姿は、たぶん生彩を失っているだろう。瑞々しさが減り、埃っぽい感じすら受ける。だから余計に、土の「いきいきと」した様子が浮き上がる。そこで「龍の玉」は、身の置き所がないように俯いている。人に例えれば、内気な人が急に晴舞台に引っぱり上げられたようなものである。作者は土の勢いに感嘆しつつも、身を縮めている風情の植物にいとおしさを感じている。この素材に、こうした着眼は珍しい。一筋縄ではいかない感性のありようを感じる。「龍の玉」の実は「はずみ玉」とも言われるように、固くて弾力があり、子供のころは地面に叩きつけて遊んだりした。もっとも、叩きつけた地面(土)の勢いなど、何も感じなかったけれど……。たぶん子供は自分の命に勢いがあるので、自然の勢いなどには無頓着なのである。『木語』(1975)所収。(清水哲男)

 女を見連れの男を見て師走

                           高浜虚子

こういう句をしれっと吐くところが、虚子爺さんのクエナいところ。歳末には、たしかに夫婦同士や恋人同士での外出が多い。人込みにもまれながら歩いていると、つい頻繁に「女を見連れの男を見て」しまうことになる。それで何をどう思うというわけではないが、このまなざしの根っこにある心理は何だろうか。なんだか、ほとんど本能的な視線の移動のようにも感じられる。この一瞬の「品定め」ないしは「値踏み」の正体を、考えてみるが、よくわからない。とにかく、師走の街にはこうした視線がチラチラと無数に飛び交っているわけで、掲句を敷衍拡大すると、別次元での滑稽にもあわただしい歳末の光景が浮き上がってくる。一読とぼけているようで、たやすい作りに見えるけれど、おそらく類句はないだろう。虚子の独創というか、虚子の感覚の鋭さがそのままに出ている句だ。師走の特性を街にとらえて、実にユニーク。ユニークにして、かつ平凡なる詠み振り。でも、作ってみろと言われたら、たいていの人は作れまい。少なくとも私には、逆立ちしても無理である。最大の讃め言葉としては、「偉大なる凡句」とでも言うしかないような気がする。掲句を知ってからというものは、ときおり雑踏のなかで思い出してしまい、そのたびに苦笑することとなった。ところで、女性にも逆に「男を見連れの女を見」る視線はあるのでしょうか。あるような気はしますけど……(清水哲男)

 流れ行く大根の葉の早さかな

                           高浜虚子

これぞ、俳句。中学校の教室で、そう習った。習ったとき、我が家は生活用水として近所の小川を使っていたので、実感として理解はできた。が、一方ではあまりにも当たり前すぎて、句のよさはわからなかった。よさは、流れていく大根の葉だけを詠むことで、周辺の情景を彷彿させるところだろう。昭和三年(1928)の九品仏吟行で得た句というが、このような情景はどこかの地に特有なものではなく、全国的に普通に見られた。すなわち、往時の多くの日本人には、思い当たる情景だった。どのような表現でもそうだけれど、とくに短い俳句では、このように普遍性の高い生活環境や生活条件に下駄をあずけざるをえないところがある。言外の意味を、普遍性ないしは常識性に依存するのだ。そんなことを考えると、俳句の寿命は短い。世の中が変わると、昔の句は滅びてしまう。でも、私はそれでよしと思う。永遠の名作を望むよりも、束の間の命を盛んに燃やしたほうが、潔くてよろしい。おそらく、現代の若者には、この句の味は本当にはわかるまい。あまりにも、日常とは遠い世界の「大根の葉」であり、その「流れ行く早さ」であるからだ。あまりにも、当たり前の事象ではないからだ。まだ教科書に載っているかどうかは知らないが、載っていたとしても、教師には教えようがないだろう。俳句は、読み捨て。教えるとすれば、そういうことしかない。揚句に共感できる人も、みな同じ思いだろう。くどいようだが、それでよいのである。この句は、もはや「これぞ、俳句」のサンプルではなくなりかけてきたということ。(清水哲男)

 うらむ気は更にあらずよ冷たき手

                           高浜虚子

私の生まれた年(1938・昭和十三年)に、虚子はどんな句を作っていたのだろうか。と、岩波文庫をめくってみたら、十二月の句として載っていた。和解の情景だ。積年の誤解がとけて、二人は最後に握手を交わした。相手は、男だろう。女性であれば、握手などしない。いや、その前に、男女間で問題がこじれると(必ずしも恋愛問題にかぎらないが)、このようにはなかなか修復できない気がする。こじれっぱなしで、生涯が終わる場合のほうが多いはずだ。さて「冷たき手」だが、関係が元に戻った暖かい雰囲気のなかでの握手なのに、意外にも相手の手はとても冷たかった。その冷たさに、虚子は相手の自分に対する苦しみの日々を瞬時に感じ取っている。これほどまでに苦しんでいたのか、と。だから「うらむ気は更にあらずよ」と、内なる言葉がひとりでに流れでたのだ。「冷たき手」があればこその、暖かい心の交流がこに成立している。私にも、そういう相手が一人いた。といっても、立場は虚子の相手の側に近い。小学校時代に、いま思えば些細なことで、こじれた。私のほうが、一方的に悪いことをした。そのことがずうっと引っ掛かっていて、いつかは詫びようと思いつつ、ずるずると時間ばかりが過ぎていった。四十歳を過ぎてから故郷で同級会があり、この機会を逃したら永遠に和解できないような気がして、ほぼそれだけを目的に出かけていった。どんなに罵倒されようとも、許してくれなくとも謝ろう。思い決めて、出かけていった会に、ついに彼は姿を現さなかった。当然だ。亡くなっていたのだった。揚句に、そんな私は虚子と相手の幸福を思う。20世紀の終わりに、読者諸兄姉はどんなことを思われているのだろうか。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)

 マスクして我と汝でありしかな

                           高浜虚子

挨拶句だ。前書に「青邨(せいそん)送別を兼ね在京同人会。向島弘福寺」とある。調べてはいないが、山口青邨が転勤で東京を離れることになったのだろう。1937年(昭和十二年)一月の作。国内での転勤とはいえ、当時の交通事情では、これからはなかなか気軽に会うこともできない。そこで送別の会を開き、このような餞(はなむけ)の一句を呈した。お互いがいま同じようなマスクをしているように、同じように俳句を作ってきたので、外見的には似た道を歩んできたと言える。だが、振り返ってみれば「我」と「汝」はそれぞれの異なった境地を目指してきたことがわかる。これからも「汝」は「汝」の道を行くのであろうし、「我」は「我」の道を行く。どうか、元気でがんばってくれたまえ。大意はこういうことであろうが、目を引くのは句における「我」と「汝」の位置関係だ。青邨は虚子の弟子だったから、第三者が詠むのであればこの順序が自然だ。ところが、虚子はみずからの句に自分を最初に据えている。餞なのだから、こういうときには先生といえども、多少ともへりくだるのが人の常だろう。しかし、虚子はそれをしていない。「我」があって、はじめて「汝」があるのだと言っている。「我」を「汝」と対等視したところまでが先生の精いっぱいの気持ちで、それ以上は譲れなかった。いや、譲らなかった。大虚子の昂然たる気概が、甘い感傷を許さなかったのだ。マスクに覆われた口元は、への字に結ばれていたにちがいない。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)

 垣破れ繕はず人笑ひ住み

                           上野 泰

半ば隠れているが、季語は「垣繕ふ(かき・つくろう)」で春。元来は北国の情景に用いられ、冬季の風雪にいたんだ垣根を春に修理することである。が、たとえば虚子に「古竹に添へて青竹垣繕ふ」とあるように、とくに北国に限定して使わなくてもよさそうだ。暖かい日差しのなかで庭仕事をしている人を見かけると、春到来の喜びが感じられる。掲句の家は「人」とあるから、自宅ではなく近所の家だろう。他人の家ながら、通りかかるたびに垣根が気になるほどいたんでいる。しかし、住む人たちはそういうことに無頓着らしく、修繕しようとする気配も感じられない。毎春のことである。家の中からはいつも誰かの笑い声が聞こえてきて、無精だが明るい家庭なのだ。こうした暮らし方もいいなあと、作者はほのぼのと明るい気持ちになっている。おそらく、作者は逆に几帳面な人だったに違いない。几帳面だからこそ、無頓着に憧憬の念を覚えている。無精者が破れ垣を見ても、句にしようなどとは思いつきもしないだろう。上野泰の魅力は、捉えたディテールを一瞬のうちに苦もなく拡大してみせる芸にある。それも、ほがらかな芸だ。見られるように、「破れ垣」と「笑い声」を取りあわせただけで、住む「人」の暮らしぶりの全体を浮き上がらせてしまう。上手な句ではないにしても「春雨の積木豪華な家作り」などを見ると、この「豪華」なる言葉遣いに芸の秘密を垣間見る思いがする。かくも素早くあっけらかんと「豪華」を繰り出せる豪華な感性。感性の地肩が、めっぽう強いのである。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)

 線と丸電信棒と田植傘

                           高浜虚子

思わず笑ってしまったけれど、その通り。古来「田植」の句は数あれど、こんなに対象を突き放して詠んだ句にはお目にかかったことがない。田植なんて、どうでもいいや。そんな虚子の口吻が伝わってくる。芭蕉の「風流の初やおくの田植うた」をはじめ、神事とのからみはあるにせよ、「田植」に過大な抒情を注ぎ込んできたのが田植句の特徴だ。そんな句の数々に、虚子が口をとんがらかして詠んだのだろう。だから正確に言うと、虚子は「田植なんて」と言っているのではなくて、「田植『句』なんて」と古今の歌の抒情過多を腹に据えかねて吐いたのだと思う。要するに「線と丸だけじゃねえか」と。何度も書いてきたように、私は小学時代から田を植える側にいたので、どうも抒情味溢れる句には賛成しがたいところがある。多くが「よく言うよ」なのだ。田植は見せ物じゃない。どうしても、そう反応してしまう。我ながら狭量だとは感じても、しかし、あの血の唾が出そうな重労働を思い返すと、風流に通じたくても無理というもの。明け初めた早朝の田圃に、脚を突っ込むときのあの冷たさ。日没ぎりぎりまで働いて腰痛はひどく、食欲もなくなった腹に飯を突っ込み、また明日の単調な労働のために布団にくるまる侘びしさ。そんな体験者には、かえって「線と丸」と言われたほうが余程すっきりする。名句じゃないかとすら思う。その意味からして、田植機が開発されたときには、もう我が身には関係はないのに、とても嬉しかった。これで農村の子供は解放されるんだと、快哉を叫んだ。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)

 牛も馬も人も橋下に野の夕立

                           高浜虚子

人里離れた「野」で夕立に見舞われたら、まず逃げようがない。どうしたものかと辺りを見回すと、土地の人たちが道を外れて河原に下り、橋の下に駆け込んでいくのが見えた。これしかない。作者も急いで駆け込んでみたら、人ばかりか「牛も馬も」が雨宿りをしていた。「牛も馬も」で、夕立の激しさが知れる。そこで「牛も馬も人も」が、所在なくもしばしいっしょに空を見上げて、雨の通り過ぎていくのを待つのである。この橋は、木橋だろう。だとすれば、橋を打つ雨の音もすさまじい。実景を想像すると、なんとなく滑稽でもあり牧歌的にも思えてくるのは、「野の夕立」の「野」の効果だ。上五中七で、ここが「野」であることは誰にでもわかる。にもかかわらず、虚子はあえて「野」を付け加えた。何故か。「野」を付け加えることで、句全体の情景が客観的になるからである。かりに「夕立かな」などで止めると、句の焦点は橋の下に集まり、生臭い味は出るが小さくまとまりすぎる。あえて「野」と張ったことにより、橋の下からカメラはさあっとロングに引かれ、橋下に降りこめられた「牛も馬も人も」が遠望されることになった。大いなる自然のなか、粗末な木の橋の下に肩寄せ合うしかない生きものたちの小ささがより強調されて、哀れなような情けないような可笑しさがにじみ出てきた。だが、もう一つの読み方もできる。虚子は最初から、橋の下なんぞにはいなかった。それこそ、彼方に河原が見える料理屋かなんかにいて、この景色を見ていただけ……。となれば、句の魅力はかなり褪せてしまう。この場合にこそ「野」は不可欠だけれど、どっちかなア。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)

 夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり

                           高浜虚子

今日は「夏至」。北半球では、日中が最も長く夜が最も短い。北極では、典型的な白夜となる。ちなみに、本日の東京の日の出時刻は04時25分(日の入りは19時00分)だ。ただ「夏至」といっても、「冬至」のように柚子湯をたてるなどの行事や風習も行われないので、一般的には昨日に変わらぬ今日でしかない。あらかじめ情報を得て待ちかまえていないと、何の感興も覚えることなく過ぎてしまう。暦の上では夏の真ん真ん中の日にあたるが、日本では梅雨の真ん中でもあるので、完璧に夏に至ったという印象も持ちえない。その意味では、はなはだ実感に乏しい季語である。イメージが希薄だから、探してもなかなか良い句には出会えなかった。たいがいの句が、たとえば「夏至の夜の港に白き船数ふ」(岡田日郎)のように、正面から「夏至」を詠むのではなく、季語の希薄なイメージを補強したり捏ね上げるようにして詠まれている。だから、どこかで拵え物めいてくる。すなわち掲句のように、むしろ「夏至」については何も言っていないに等しい句のほうが好もしく思えてしまう。多くの人の「実感」は、こちらに賛成するだろう。『合本俳句歳時記』(1974・角川文庫)所載。(清水哲男)

 爛々と昼の星見え菌生え

                           高浜虚子

戦後二年目(1947)の今日、十月十四日に小諸で詠まれた句。一読、萩原朔太郎の「竹」という詩を思い出した。「光る地面に竹が生え、……」。この詩で朔太郎は「まつしぐらに」勢いよく生えた竹の地下の根に、そして根の先に生えている繊毛に思いが行き、それらが「かすかにふるえ」ているイメージから、自分にとって「すべては青きほのほの幻影のみ」と内向している。勢いあるものに衰亡の影を、否応なく見てしまう朔太郎という人の感覚を代表する作品だ。対照的に、虚子は「菌(きのこ)」を生やしている。松茸でも椎茸でもない、名も無き雑茸だ。毒茸かもしれない。いずれにしても、この「菌」そのものがじめじめと陰気で、竹のように「まつしぐら」なイメージはない。朔太郎はいざ知らず、多くの人が内向する素材だろうが、ここで内向せずに面を上げて昂然と天をにらんだところが、いかにも虚子らしい。陰気な地を睥睨するかのように、天には昼間でも「星」が「爛々(らんらん)と」輝いているではないか。もとより「昼の星」が見えるというのは、朔太郎の「繊毛」と同様に幻想である。このときに「爛々と」輝いているのは、実は「昼の星」ではなくて、作者自身の眼光なのである。敗戦直後「菌」のように陰気で疲弊した社会にあって、何に対してというのでもないが「負けてたまるか」の気概がこめられている。以下、雑談。かつて山本健吉は、この星を「火星」だと言った。幻想だからどんな星でも構わないわけだが、正木ゆう子が天文に明るい知人に調べてもらった(参照「俳句研究」2001年10月号)ところでは、虚子に当日見える可能性のあった星としては土星しか考えられないそうである。「昼の星」は「視力がよければ見えることはあるし、そうでなくても井戸の底からとかジャングルの中からとか、つまり視界を限れば見えるだろうという返事」とも。『六百五十句』(1955)所収。(清水哲男)

                      (以下略)



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