Facebook一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)さん投稿記事
心の中で起こった思考や感情を変化させようとしたりなくそうとしたりせず
またそれを好きか嫌いかという評価もせず ありのまま見守っていると 思考や感情が
だんだん静まってきます。
何にも執着せず内面で起こるさまざまな考えや感情を静かに見守る心はすべてを偏りのない
バランスのとれた自然な状態戻す力があります。
これが瞑想の核心ポイントでもありこの心が水昇火降の状態をつくり出します。
http://blog.livedoor.jp/mizuhomaeda/archives/43080475.html 【俳句は観察と妄想力】より
毎月オンライン上で開催している読書会【千年読書会】。
今月の課題本は、高浜虚子『俳句とはどんなものか』です。
イベントページはこちら。https://www.facebook.com/events/1610233005926177/
今月は高浜虚子先生に俳句を教えていただき、俳句を作ってみよう(・ω・)ノという試み。
もちろん、ご感想の参加だけも大歓迎です。初心者のわたくし。はてさて、どうなることやら。理解できないと、すぐ自信をなくし落ち込む性格なので、参考書のつもりでこちらの本も同時に読み始めました。
『芸人と俳人』又吉直樹、堀本裕樹
又吉直樹さんは、まえがきで
“子供の頃から、俳句に対する憧れはあったものの、どこか恐ろしいという印象があり、なかなか手を出せないでいた。
なにが恐ろしかったかというと、難しくて解らないことが恐ろしかった。
自分なりに俳句を鑑賞し、感じたことを正直に「この句はこうだ」と勇気を持って解釈を披露したとして、俳句に詳しい人から、「お前なにいうてるん?お前の解釈めっちゃダサいやん!」などと言われるのではないかという恐怖である。
僕にとってはあらゆる恐怖の中でもかなり上位にくるスペシャルな恐怖である。”
全く同じ事を考えていた私。
又吉さんの不意の言葉に、私自身のビビリ度数の高さを声に出して笑ってしまいました。
この本は又吉さんの俳句に対する恐怖を取り除き、素直な感覚で俳句に向かえるようになるまでの二年間のお話です。
指導するのは、俳人の堀本裕樹さん。
その中で、歳時記と友達になろう!と教えてくださり、私はスマホを常に持ち歩いているので、電子書籍にしました。
サッカーのボールと友達になれ!と同じ感覚で季語も触れる事が大事だと感じました。
私は又吉さんの初期に作った【石鹼玉(シャボン玉)飲んだから 多分死ぬ】とても人柄を感じて大好きです。
『今はじめる人のための俳句歳時記 新版 (角川ソフィア文庫)』
この歳時記は現代の生活に即したよく使われる季語や句作りの参考になる例句が書いてあり、超初心者の私向けです。
そして後半は高浜虚子『俳句とはどんなものか』のお話を噛み砕いたようなわかりやすい俳句についての解説がありました。
“推敲とは 、〈僧は推す月下の門 〉の句を得た中国唐代の詩人賈島が〈僧は敲く月下の門 〉にした方がいいかでさんざん迷い 、結局韓愈の意見に従って 〈敲く 〉にしたという故事による。”
ロバに乗ってボーッとしていた賈島(かとう)は、長安都知事、韓愈(かんゆ)の行列に突っ込んでしまいました。
捕らえられた賈島は謝りながら事情を説明し、詩人としても有名だった韓愈に《敲く》が響きがあっていいよ。とアドバイスをもらい意気投合したそうです。
“俳句のような短い詩では 、一字の違いもゆるがせにできず 、苦心しなければならない 。
①ほととぎす宿かる頃の藤の花 ②くたびれて宿かる頃や藤の花は 、芭蕉の作品 。
①が初案で ②が終案 。これは芭蕉の推敲の過程を示している。”
松尾芭蕉は、次のように述べています。【句調はずんば舌頭に千転せよ。】
「句の調子がうまく整わないときは、千回は口ずさんでみなさい」という意味です。
なるほど。年中ボーッとしている妄想族の私にとって身近な世界だったのですね。
もうこわくない(笑)。
俳句と友達になれれば、きっと何気ない日常も豊かになることでしょう。
さて初めての俳句です。
月明かり 祖父のワイシャツ 整理する 武蔵野に 空見上げてみれば 金剛の露
歩道橋 ひとりたたずむ 黄金の月 鬼灯や 三毛猫遊ぶ 音たのし
お粗末様でしたm(_ _)m
https://community2.fmworld.net/article?id=891814 【五感と連想力を使って季語を観察してみよう!】より
みなんさん、こんにちは。俳句を楽しんでいらっしゃいますか。
今回も俳句づくりを楽しむためのちょっとしたコツをお伝えしますので、ぜひ参考にしてみてください。
俳句コンテストはこちら
これまで2回のコンテストを開催してきましたが、俳句をつくるのが楽しくなってきたという方が多いのではないでしょうか。
楽しくなるコツでは、「季語」と「季語と関係ないフレーズ」を組み合わせた「取り合わせ」について紹介してきましたが、今回は、俳句のもうひとつの作り方、「一物仕立て」についてお伝えします。
俳句が楽しくなるコツ3
季語を観察
「一物仕立て」とは、「季語」のことだけでつくられた俳句です。
高浜虚子
「大根」は冬の季語です。小川を非常な早さで流れ去っていった「大根の葉」のことのみを詠んだ句です。おそらく、上流で大根を洗っていた葉がちぎれて流れてきたのでしょう。
冬の小川の清冽な水の冷たさが感じられるとともに、そこを流れていった大根の葉の緑色が鮮やかに目に見えるようです。
「一物仕立て」のコツは、五感と連想力をフルに使うことです。
視覚(どんな色・形?)
触覚(どんな手触り?)
味覚(どんな味?)
聴覚(どんな音?)
嗅覚(どんなにおい?)
連想力
日々の生活、散歩や買い物、全てが季語の現場です。五感を使って自然や風物を観察してみましょう。想像でも俳句はできますが、現場に立った実感にはかないません。
じっくり季語と対峙してみると、今まで通り過ぎていたものに、新しい発見や美しさを見出す……なんて瞬間がおとずれてきます。
あなたなりの「季語」との出会いを17音で切り取ってみませんか。
https://ayukablog.wordpress.com/2023/02/23/%e7%9f%a5%e8%ad%98%e4%ba%ba%e3%81%8b%e3%82%89%e8%a6%b3%e5%af%9f%e8%80%85%e3%81%b8%e3%80%9c%e7%9b%ae%e8%a6%9a%e3%82%81%e3%81%b8%e3%81%ae%e3%82%b9%e3%83%86%e3%83%83%e3%83%97/?fbclid=IwAR3uhUuQJIzk7K9bY_wKlmaWjl5GKkTibPiPgaYqtyHlIQvcB0lgl9wr3TI 【知識人から観察者へ〜目覚めへのステップ】より
恥ずかしいぐらい久しぶりですが、あまりに納得の行く言葉を見つけ、シェアせずにはいられなくなりました(笑)。
とりあえず原文をご紹介しましょう。これは和尚ことバグワン・シュリ・ラジニーシの「Awareness」という本からの抜粋です。(英文の下に訳文をつけました。)
If you become a mind, you lose consciousness – mind means sleep, mind means noise, mind means mechanicalness. It is knowledge that keeps you asleep; hence, the more knowledgeable a person is, the more asleep. Innocent villagers are far more alert and awake than the professors in the universities and the pundits in the temples. The pundits are nothing but parrots; the academicians in the universities are full of nothing but holy cow dung, full absolutely meaningless noise – just minds, no consciousness.
思考中心になると気づきの意識を見失う。思考とは眠っているということ、騒音であるということ、そして機械的ということだ。
知識があなたを眠り続けさせる。つまり、知識があればあるほど眠りが深くなる。無邪気な村人のほうが大学の教授、寺院にいる権威者よりもよっぽど警戒力があり、目覚めている。権威者(知識人)はオウム以外の何者でもなく、大学の研究者たちの中身はまったくもって空っぽ、またはまったく意味のない雑音でいっぱいで、せいぜい牛のフン程度のものがあるだけだ。ただ思考だけ、気づきの意識はまったくない。 (あゆか訳)
う〜む、大学の研究者たちの頭の中身は牛のフン程度って、だいぶ手厳しい(笑)。ちなみに私の両親とも大学教授でしたが、この文章を二人に読み聞かせたらたぶん笑って賛成する気がします。
さてイギリスでは、2021年の6月にマスク義務やすべての感染対策が解除になりました。一応お願いベースは残っていましたが、お願いはほぼスルーされ、だいぶ前にコロナは終わっている感じです。今はインフレと光熱費の高騰でみんなの頭はいっぱい。
ですが、この文章を読んだとき、コロナ禍に間中にずっと感じていたことが見事に書かれていると思ったのです。何かというと、私たちがいかに報道(他者の言葉など)を鵜呑みにしているかということです。聞いたままを事実として受け止める。自分自身の観察よりも、報道を頭の中でコピペしていく。
例えば、”感染者数が増えています”と報道されると、頭の中で”感染者数が増えているんだ”とコピペされ、そのまま終わり。権威者が言っているのだから、専門家が言っているのだから正しいに違いない。だから、自分で考えなくて良い。
ちなみに、この話を先日お話会でしたところ、自分はそうではない!と言われましたが、ここは一般的(自我の傾向)なお話しをしています。また、コロナ禍を例に出していますが、普段からこの傾向は私たちとても強いです。(私ももちろんやっています)
つまり、ここで起きていることは、コピペして他者に考えを委ねる。抜けているのは、ほんと?という疑問を持つこと、そして自分で観察し、感じて、考えること。
一方例えば、カナダではトラック運転手たちが、外に出られない子どもたちや家族に会えない老人たちが病んできている、ここまで自由を奪うほど猛毒なウイルスではないのじゃないか?と疑問を持ち大規模なデモが起きました。
トラックの運転手が知識や教育がないということではなく、デスクワークではない体を使っている仕事の人のほうが肌感が生きているのではないかと思うのです。
和尚は続けて、動物のほうが目覚めている、周囲の出来事に注意を向けていて、観察を怠っていないと書いてあります。つまり、動物は思考にハマらない分、ありのままの今ここにいるということです。
ですが、私たちは情報や知識、論文などのほうをより重視し、そっちが正しいとしてしまうことで、自然を観察する力、自分で考える能力、共感する心などを失ってしまいがちです。
さて、ここでもう一つ動画を紹介させてください。”科学って何?”というタイトルです。
Allen Savory – What Is Science?
短いので翻訳してみました♪
科学とは何だろう? 人は科学に対して曖昧な言い方をするが、科学とは一体何なのだろうか?
大学で修士や博士号を得た人が自然の現場にやってきても、彼らは精査が入った論文以外は何も信じない。論文しか受けつけないのだ。観察しよう、考えよう、討論しようといってもやらないのだ。
”これは精査されていますか?”としか聞かず、それが彼らにとっての科学なのだ。まったく持って嘆かわしいことだ。若く優れた頭脳を持って大学に入ったのに、脳が死んだ状態で卒業していく。それが今の学問。もし、論文が精査されていれば、彼らがその結論は正しいと判断する以前に皆が同じ結論に達したということになる。
これによる意図しない影響は、新しい知識や新しい科学的な洞察が生まれた時、それらが精査されているということはあり得ないということだ。つまり、新しい発展、科学にとっては非常に大きな発展をブロックしてしまっていることだ。(信じない、取り上げないという点で)
科学の新しい発見を振り返ってみれば、それらはほとんどいつも科学の主流ではなく、隅っこから違った見方をするところから生まれてきているのだ。高度な腕のキャンドル職人が、電球を思いつくことはあり得ない。新しい発見はその世界の中ではなく、そこを破った外側から生まれて来るのだ。
こういった自分自身の愚かさで、私たちは自分たちを破壊してしまうだろう。(アラン・セイボリー 2020)
あまりに賛成で何も付け足すことはありませんが、最後の言葉は本当にそうだなと思ってしまうのです。実際に起きていることを見る能力がなくなっていくことで、まずほんとうの危険と嘘の危険の区別がつかなくなること。
そして、今ある情報や知識の外に無限とある可能性を見過ごしたり、否定したりしてしまうこと。
ちょっとネガティブに書いてきてしまいましたが、最終的に、私たちは生命のエネルギーという本質から生まれ、本質そのものですね。なので、あまりに本質から離れると、本質に戻りたくなる、目覚めたくなる衝動も起き上がってくるに違いないと思うのです。
最後にまた和尚の言葉、”人は自分の思いに自分が気がついている分だけ目覚めている”
私たちの中には、自分がまったく気づいていない育った過程で刷り込まれた思い、価値観、ビリーフがたんまりとあります。これらも言い換えれば、周囲の言葉や出来事をそのままコピペして、出来上がっているものです。
ということで、まずは自分が自分の思考、ストーリー、意味づけ、解釈、価値観にしっかり気づくこと。そして、そこからまず自由になって、一緒に目覚めへと歩む仲間を増やして行きたいですね。
FacebookAyuka Mizoguchiさん投稿記事
自分を見つめるほど楽になる? 自分を見つめるとは、自分を分析するとか違う見方に変えるとか、または自分が苦しい理由や原因探しをすることではまったくありません。
これらは、逆にやればやるほどくたびれるだけかも(笑)。
そうではなくて・・・、ということなどお話ししました。宜しかったらぜひ御覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=CwPULS6A9_E
Facebook石川 眞樹夫さん投稿記事
この宇宙において、自分の才能を生かさずにいること、そして正しい時に正しい場所にいないという実感を持ちながら生きること、それは、魂の苦痛を生みます。なぜなら、神聖なる存在、つまりあなたの本当のいのちの繋がりを感じられていないからです。
誰も好き好んでそうしているわけではないでしょう。それによって一番苦しんでいるのは自分だということもよくわかります。
しかし、そうあるのは、これまで自分が選択してきたことなのです。愛ではなく、記憶を選択してきたことが繰り返されてきたことによる物なのです。
そんな覚えはないと本気で思うほどに、わたしたちは記憶の上に記憶を塗りながら生きています。積み重なる判断に次ぐ判断、記憶が再生され続ける限り、わたしたちは自分自身のブループリントから離れていくでしょう。
何をしたらいいのかわからない。正しい方法がわからない。そういう言葉が発せられる度に、わたしたちはそれを手放す努力を絶え間なくしないといけないのです。
宇宙規模で体験されている「絶望」を、わたしたちは世界の端々で目にします。
遠く離れた国で起こった悲劇的な出来事に対してあなたが感じること、道でただ歩いていただけなのに見知らぬ人が自分にとても攻撃的に接してきた時にあなたが感じること、富と貧しさ、正しさと過ち、日々体験する様々なことの振れ幅があまりに大きくなっていることで、その間にあるつながりや流れを掴むことが困難になっています。
それでも、わたしたちは自分が体験したのであれば、自分の意志を使ってクリーニングし手放す努力を惜しまないことが必要です。
自分の感情、絶望、行き詰まりは、あなたの内なる子どもであるウニヒピリが癇癪を起こしていることの表れです。誰かが落ち着かせてあげないといけません。そこからどう戻ってくることができるのか、幼い子どもにはわからないのです。
「こんな暮らしは好きじゃない!」
「あの人もこの人もみんな大嫌い!」
あなたの内に今にも溢れだしそうなそんな声があるという事実に気づいたのなら、どうかそんな日々をただ乗り越えていこうとするのではなく、扉を開いて自分の内に話しかけましょう。
「こんなに重く痛々しい記憶を持っていたのね、教えてくれてありがとう。」
解決策よりも次のゴールよりも、最も必要なのは落ち着くきっかけです。それは安心と愛です。
自分ではコントロールすることができない不安定な足元にいるときに手を差し伸べてくれるような存在、それはあなたなのです。
どうか今、あなたがどんな状況であっても「ここは自分の居場所ではない!」と絶望して、崖から落ちないでください。崖から落ちそうな瞬間でも、そこから完璧にクリーニングをはじめることができます。あなたの求める営みや暮らしはクリーニングを続ける中でリズムの中に発見されていきます。
あなたが自身の内側に歩み寄ることでもう一度、善意や平和、心地よさを発見するでしょう。わたしが記憶を手放すというアクションを起こすその瞬間の中に見つけることができます。
平和
モミラニ・ラムストラム
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